大森食堂は、津波で何もなくなった南三陸町志津川の大森地区の山を背負った場所に立っていた。昨年の夏マスターが安曇野、松本で震災の語り部として招かれ、その時私がギターを少し弾かせてもらった縁があったので機会さえあれば是非訪ねようと思っていたのだ。10メートルほど山を登ったところには民家が残っているが、一階には津波に襲われた痕跡がある。
今回の三陸の旅は突然始まる。出発前々日に震災後南三陸でずっとボランティア活動を続ける友人民さんが突然仕事場に訪ねてくれた。
「ちーくん、石巻でライブやんない?」
その一言で突然今回の旅は動き始めた。ずっと思っていたけどなかなかその機会がなくて、いや、びびって二の足を踏んで東北へ向かわなかった私の頭のなかでパチンと何かがはじけたのだ。
仕事を終えた朝、雪降る中を長野道から北陸道、磐越道を一気に走って東北道に入る。途中磐梯山PAで喜多方ラーメンを食べただけで、600㎞を走りきった。誰かが待っていてくれるのはうれしいものだ。石巻で民さんと合流し、先ず石巻全体を見渡せる高台へ向かった。途中車から見える町は一見普通に見える。だが、ところどころ虫食い状態で家がない空き地も多く、そこはみんな津波で家を壊されたところなのだそうだ。
高台からは石巻全体が見渡せた。港を中心に東側は、住宅地だったのだろうか、一面が何もない更地の状態だ。コンクリートの建物以外は全てなくなっているのだ。言葉が出ない。
高台をおり、ライブ会場「千人風呂」に向かう。そこは、震災当時ボランティアにより公衆浴場が運営されていた場所の傍らにある。元々が布団屋さんで一階店舗は広く、そこにステージと客席がある。詰めれば百人ぐらいは入れそうな会場だ。丁寧に手入れされたギターが何本もあり、ここの運営を任されている熊さんとギター談義に花が咲く。アップライトピアノや音響機器もそろっている。ここも、一階天井まで水に浸かったそうだ。
熊さんによると、震災後町から人が消えてしまったのだそうだ。だから、ここでイベントを開いて、人に帰って来てもらいたいのだそうだ。あそこ行けば誰かがいて何かやってる、そんな場所にしたいのだそうだ。ライブは無料、出演者ももちろんノーギャラ。みんなの心意気で運営されているのだ。気合いが入る。
打ち合わせを終え南三陸へ、コンビニもみんなプレハブで営業している。辺りはすっかり暗いのでよくわからないが、ヘッドライトに照らされる町であったであろう場所には何もない更地しか見えない。おまけにやたら埃っぽい。地元の商店で、地元産のひらめ、びんちょうまぐろの刺身や、ホタテの煮付け、煮魚と酒を買い込んで、ボランティアセンターのあるベイサイドアリーナへ向かう。
ここはもともと高台にある体育館だが、その周辺に、役場、診療所、ボランティアセンターが集結している。ボランティアセンターは超大型テントだ。ボランティアの人達は、この周辺の駐車場で車の中にな寝たり、テントで生活をしているわけだ。
ボランティアリーダーの長田さんを交えていろんな話を聞かせてもらった。ボランティアの数が減っているが、やるべき事はまだまだあるということ。ここ南三陸は個人のボランティアをまだ受け入れているので、是非来てもらいたいとのこと。朝、ボランティアセンターに来てくれれば、そのまま活動させてもらえるとのこと。報道では解らない現場のいろんな問題があるんだなあと感じた。
翌朝、民さんと北へ向かう。54号線はリアス式海岸沿いに細かい半島を登ったり下ったりしながら北へ延びている。高いとことは何もなかったようなのどかな風景だが、下って小さな入り江にはいると突然何もなくなると言った事の繰り返し。高台には仮設住宅もある。周辺の山も塩を被ったところの杉は枯れてしまい、全て伐採されていた。津波到達警戒ポイントの標識が入り江の入るとき出るときには必ずある。
気仙沼に入ると右側に打ち上げられた貨物船が見えたので行ってみた。有名な奴だ。辺りには何もない。基礎だけが残る更地の一角にそれはあった。思ったよりかなりでかい。何とも信じがたい光景だ。
気仙沼港周辺はコンクリートの建物が多いので、まだ町の体を残しているが、壊されたシャッターが錆び付き痛々しい。
さらに車を北へ走らせ陸前高田へ。ここに着いて唖然とした。ここは気仙川の河口に広がる町だが、広大な町のあとには何もない。若干の瓦礫は残るが、見渡す限り何もないのだ。海際には堤防もなく、地盤沈下の為か、あちこちに水が浸水している。かろうじて残った五階建てアパートには、4階まで水が押し寄せた痕跡が明らかだ。
所々ダンプや重機が動いてはいるが人が見あたらない。この町に暮らした人達は今いったいどこで暮らしているのだろう?やりきれない思いになる。それぞれの町に暮らす人々にとって、故郷は自己のアイデンティティーそのものだったりする。しかし今それが失われ、帰る事は許されず、これからのことも何も決まっていない状態なのだ。多くの方が亡くなって、ちりぢりばらばらの空の元で慣れない土地での暮らしを続けているのだ。
南三陸に向け、折り返す事にする。更地の片付けのため、ダンプカーが出たり入ったりするものだから道路はどろどろ。トンネル内はもうもうたる土煙で視界が悪い。この日は冬型の気圧配置が強く、北上山地を越えてきた雪雲が千切れてゲリラ雪を降らせるものだから、私の車はいつの間にかラリーカーの様に土まみれになってしまった。
志津川と言えば、防災センターの電波塔にしがみついて何人かが助かったあの場所だ。津波が襲ってくると言うのに最後まで防災スピーカーで住民に避難を呼びかけ続けた若い女性職員のいたあの場所だ。
ここも町には何も残っていない。津波に呑まれた志津川病院もいまは取り壊されて瓦礫の山となっていた。そこに防災センターは鉄骨だけの姿で建っている。献花台が供えられ線香の香りが立ちこめる場所だ。父親の墓参りにも行かない私だが、思わず線香に火をつけ手を合わせた。
腹も減ったので、念願の大森食堂へご挨拶に伺った。大森食堂はそんな更地にたった一軒だけポツンと建っていた。もちろんプレハブだが、外見からしてマスターの心意気を感じる店だ。
中はいるとまだ昼少し前だったのでお客さんは一人だけで、マスターと、奥さんと娘さんがいらっしゃった。
私の顔を見て、俄に思い出せなかったのだと思うが名乗ると「いやあ、ありがとう。来てくれたの!」といって手を差し伸べてくれた。大きくて分厚い手のぬくもりがそこにはあった。安曇野に来たときは、震災を語りながら、涙を流し、黙りこくってしまうような状態だったが、少し元気になったように感じた。やはり故郷で商売を続けここで暮らすことが元気のもとなのだなあ。とにかく満面の笑みで、みんな良くしゃべる。私も負けじと口を挟む。ああ、賑やか。気の遠くなるような問題を抱えていても、深い悲しみがそこに横たわっていても、今はとりあえず賑やかにしゃべる。
名物ホルモン丼を頂く。ホルモンを甘辛く炒めて丼に盛ったものだが、味付けはパンチが効いていて実に私好みだ。昨日のカレイの煮付けも甘辛くて旨かった。
「また来ますよ」と再会を約束して店をでた。
千切れた雪雲が依然激しいゲリラ雪を降らせる中、風呂に入るため北上川河口近くの山の中にある追分温泉に行った。よく手入れされた木造の宿だ。玄関前にはトヨタS8、ダットサンフェアレディー、ルパン三世が乗っているような黒塗りフォードなどクラシックカーが野ざらしで置かれている。しかしそれはみんな、ナンバー付きで実動車のようだ。東北の人はおおらかだなあ。
入浴料はなんと300円。しかもシャンプー、リンス、石けんつきだ。ロビーには古いモーリスのギターが二台もあって、これもとても手入れされた良い状態。飾り戸棚にはマーチンやら、ギルドやらギター好きの私はすっかりやられてしまった。ミュージシャンの皆さん、ここに泊まりに来ましょうよ。きっと楽しい夜になる。
民さんをボランティアセンターまで送るために再び南三陸まで行ってから塩蔵わかめ、タコちゃんTシャツ、酒盗、震災の写真集などを購入して夕方から東北道をひたすら南下した。失意の中にいる大切な友人二人に会うために。
石巻には沢山の音楽好きな友達が居るので宣伝しますね☆
いやあ、すごかった、あっちは。