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『5月6日』

2019-05-05 18:54:54 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆オーソン・ウエルズ Orson Welles (1915.5.06~1985.10.10)



奇才と呼ばれ、『市民ケーン』により映画史において高く評価された映画監督・俳優です。
発明家の父、芸術に造詣の深いピアニストの母のもとにウィスコンシン州キノウシャで生まれました。
子供の頃から絵画や演劇に興味を持ち、素人演劇なども経験していたようです。1931年にトッド・スクールを卒業すると、
亡くなった父親の遺産でアイルランドにスケッチ旅行に出かけ、舞台の経験もありませんでしたがダブリンのゲート劇場で
強引に劇場主に売り込んで脇役としてデビュー、さらにそこで演出も手掛けるようになりました。
1934年にはアメリカに戻ってCBSのラジオドラマのディレクター兼俳優となり、1938年にH.G.ウェルズのSF『宇宙戦争』の
ラジオ劇を放送することになりました。その冒頭で「臨時ニュースを申し上げます」と切り出し、火星人が地球を侵略する
様子を迫真の演技で実況したため、多くのリスナーが本当に火星人がやってきたと信じて、警察や放送局に問い合わせが
殺到、電話線がパンクするなどのパニック状態に陥りました。
この若き奇才に目を付けたRKO社が映画の制作を打診し、ウェルズは制作、監督、脚本などに一切口出ししないという異例の
条件で『市民ケーン』の制作に取り組みます。物語は時間的配列を無視して自由な展開で、移動カメラとディープフォーカス
などの画期的な撮影手法、さらに造形美に満ちた画面構成により、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストを模した人物の
社会的罪悪と心の空洞を追求した野心作でしたが、ハースト系の新聞による全面攻撃を受け、紙面で酷評されたり公開妨害を
受けるなどで興行的には大失敗に終わりました。(日本では1966年6月にATGによって漸く日の目を見ることになります。)
この結果、監督としてのウェルズは完全に締め出され、活路を見出すためにヨーロッパに渡り数本の作品を監督していますが
これらの作品も殆ど日本で上映されておりません。
一時的に帰国して1958年に、アメリカ-メキシコ国境の町に起こった爆殺事件にからまる両国の捜査刑事の対立と不穏な警察 
内部の腐敗を描いた『黒い罠』を監督していますが、あまり良い評価は得ていないようです。
さらに、1962年にはフランス資本によってフランツ・カフカの不条理小説『審判』を監督しましたが、往年の冴えも影を潜め
鋭さに欠けた作品に終わりました。
また、俳優としては『第三の男』や『わが命つきるとも』などで重厚な存在感を示していますが、残念ながらハリウッドでは
殆どが傍役に甘んじる結果となってしまいました。

【主要監督・出演作品】
1941年『市民ケーン』Citizen Kane 監督・出演

1948年『マクベス』 Macbeth 監督・出演
1952年『オセロ』 The Tragedy of Othello 監督・出演
1958年『黒い罠』  Touch of Evil  監督・出演

1962年『審判』  The Trial  監督・出演


【主要出演作品】
1943年『ジェーン・エア』 Jane Eyre 
1949年『第三の男』The Third Man

1954年『ナポレオン』Napoleon 
1956年『白鯨』Moby Dick
1958年『長く熱い夜』 The Long Hot Summer 
1963年『予期せぬ出来事』 The V.I.P.S 
1965年『パリは燃えているか』Paris brûle-t-il?

1966年『わが命つきるとも』 A Man for All Seasons 

1966年『007 カジノ・ロワイヤル』 Casino Royale
1967年『ジブラルタルの追想』 A Sailor from Gibraltar 


☆ルドルフ・ヴァレンチノ Rudolph Valentino (1895.5.06~1926.8.23)



サイレント時代にエキゾチックな風貌で多くの女性ファンを虜にして一瞬の輝きを放った俳優です。
良家の子息として南イタリアのカステッラネータで生まれました。ジェノヴァで農学を学びましたが18歳の時に一家の金を
使い込み逃げるようにしてニューヨークに渡りました。そこでダンス・ホールやクラブで女性と踊りながら日銭を稼いで
いましたが実質的にはジゴロな生活でした。しかし窃盗と恐喝容疑で警察に睨まれたことからサンフランシスコに逃げ出し、
そこでもジゴロ生活を続けていましたが、仲間の勧めでハリウッドに行き色事師の悪役にありつきました。そんな彼に目を
つけたのがMGMの女流脚本家のジューン・マジスで、彼女の尽力で1921年の『黙示録の四騎士』の主役に大抜擢され、
人妻と恋に堕ちるエキゾチックなアルゼンチン青年を演じて映画は記録破りの大ヒット、一夜にして人気スターとなりました。
その後もアラビアの酋長、スペインの闘牛士、フランス宮廷の理髪師、ロシア貴族などエキゾチックな役柄をこなして女性
ファンを熱狂させました。
しかし、1926年の『熱砂の舞』撮影直後に受けた胃潰瘍の手術の経過がおもわしくなく、病院を取り巻く女性ファンの祈りも
虚しく31歳の若さでこの世を去ってしまいました。

【主要出演作品】
1919年『可愛い小悪魔』The Delicious Little Devil
1921年『黙示録の四騎士』The Four Horsemen of the Apocalypse

1921年『椿姫』Cammile

1921年『シーク』The Sheik

1922年『海のモーラン』Moran of the Lady Letty
1922年『血と砂』Blood and Sand

1925年『荒鷲』The Eagle
1926年『熱砂の舞』The Son of the Sheik



☆エットレ・マンニ Ettore Manni (1927.5.06~1979.7.27)



ブロンドでハンサムを売り物として数多くの史劇を主演したイタリアの俳優です。
ローマに生まれ、幼少期の詳細は不明ですが、大学で法学博士号をとりました。その在学中にガールフレンドがたまたま彼の
写真を映画会社に送ったことが人生の転機となり、早速ルイジ・コメンチーニ監督の目にとまって映画界に迎えられ、1952年に
同監督の "La tratta delle bianche"(白人女の人身売買=日本未公開)の端役としてデビューを果たしました。ちなみに、この
作品はエレオノラ・ロッシ・ドラーゴや若き日のソフィア・ローレンも出演しておりイタリアではヒット作品だったそうです。
それ以後はその風貌から数多くの史劇を主演し、生涯での本数も80本を超えるイタリアの売れっ子俳優となりましたが、意外
にも日本での公開は少く知名度も低かったようです。ただ、1966年のトニー・リチャードソン監督の『マドモアゼル』では
強烈な印象を残してくれました。

【主要出演作品】
1953年『ユリシーズ』Ulisse
1955年『女ともだち』Le Amiche
1959年『クレオパトラ』Le Legioni Di Cleopatra
1961年『ローマの奴隷市場』Revolt of the Slaves

1963年『可愛い悪女』La Pupa
1963年『アトランティス征服』Ercole Alla Conquista Di Atlantide
1964年『シーザーの黄金』Oro Per I Cesari
1966年『マドモアゼル』Mademoiselle

1968年『砂漠の戦場エル・アラメン』La Battaglia Di El Alamein


☆カーメン・キャヴァレロ Carmen Cavallaro (1913.5.06~1989.10.12)



「ピアノの詩人」と称された人気の高いアメリカのピアニスト・楽団指揮者です。
イタリア系移民の子としてニューヨークに生まれ、クラシックの演奏家を目指していましたが、途中でポピュラーに転向し
1933年からアル・カヴェリンのジャズバンドなどを遍歴、1939年セントルイスで自らのバンドを結成しデッカ・レコードと
契約して本格的に活動を開始しました。1945年の『ショパンのポロネーズ』が米国で3位を記録して世に認められ、さらに
1956年の映画『愛情物語』の主題歌でショパンの『ノクターン第2番』をアレンジした『トゥ・ラブ・アゲイン』が大ヒット
しました。
細かい装飾音も交えた華麗で叙情的な演奏方法は「キャヴァレロ・タッチ」と呼ばれ、独創的なスタイルで成功を収めました。

↓はカーメン・キャヴァレロの『ショパンのポロネーズ』 【YOUTUBEより】


↓はカーメン・キャヴァレロの『トゥ・ラブ・アゲイン』 【YOUTUBEより】



【ご命日】

★マレーネ・ディートリッヒ Marlene Dietrich (1901.12.27~1992.5.06)



世界映画史に燦然と名を残す唯一無二の大女優。
主な出演作品として『嘆きの天使』『モロッコ』『間諜X27』『上海特急』『鎧なき騎士』『情婦』などがある。