港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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『10月13日』その1

2019-10-12 22:25:13 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆イヴ・モンタン Yves Montand (1921.10.13~1991.11.09)



「世界の恋人」といわれ、映画やシャンソンなどで活躍したフランスの俳優・歌手です。
貧しい農民の子としてイタリアのミラノに近いモンスンマーノに生まれました。父親が共産主義支持者であったため台頭した
ムッソリーニのファシスト政権から追放同然で1923年にフランスのマルセイユに移住してフランス国籍を得ました。
11歳で学校をやめて様々な職業を転々とし、1937年の夏からマルグリット・フランチェッリから歌のレッスンを受けながら
マルセイユのミュージック・ホールでシャンソンを唄いはじめて歌手として認められるようになりました。
1944年にパリに出てボビノ座やムーランルージュで唄っていた時にエディット・ピアフに認められ大きく躍進するチャンスを
得て、1945年2月にはエトワール劇場で成功のきざしを掴みました。
1945年にはピアフ主演の "Étoilesanslumière" (光のない星)の端役として映画デビューし、同年のマルセル・カルネ監督が
ジャン・ギャバンとマレーネ・ディートリッヒで撮る予定だった映画『夜の門』で、二人のスターが降りたためにモンタンに
主役が回ってきました。映画自体は興行的に失敗に終わり、フランス国内ではモンタン自身の評価も芳しくなかったようです。
しかし、当時は流行らなかったこの映画の主題歌を持ち歌として唄い続けているうちにようやく認められ、シャンソンの
名曲としてまた世界のスタンダード・ナンバーとして広く親しまれるようになり、駆け出しであった彼をシャンソン界の帝王、
はたまた世界の恋人へとのし上げることになりました。
その後は、歌手活動と同時に本格的に俳優業に取り組み、1953年のアンリ・ジョルジュ・クルーゾ監督の『恐怖の報酬』で
演技開眼し、『サレムの魔女』や『掟』は高い評価を得たようです。
歌手、俳優として国際的にも長期に渡って活動していましたが、1992年の『愛を探す旅人たち』が遺作となりました。

【主要出演作品】
1946年『夜の門』 Les Portes de la nuit

1953年『恐怖の報酬』Le Salaire de la peur【YOUTUBEより】

1954年『ナポレオン』Napoléon
1955年『悪の決算』Les héros sont fatigués

1955年『夜のマルグリット』Marguerite de la nuit
1957年『サレムの魔女』Les Sorcières de Salem
1957年『青い大きな海』La grande strada azzurra
1958年『すずらん祭』Premier mai

1959年『掟』La legge【YOUTUBEより】

1960年『恋をしましょう』Let's Make Love

1961年『さよならをもう一度』Goodbye Again

1962年『青い目の蝶々さん』My Geisha

1966年『戦争は終った』La guerre est finie【YOUTUBEより】

1966年『パリは燃えているか』Paris brûle-t-il?

1966年『グラン・プリ』Grand Prix
1967年『パリのめぐり逢い』Vivre pour vivre【YOUTUBEより】

1969年『グラン・プリ』Le diable par la queue
1969年『Z』Z

【主要歌唱曲】
『枯葉』Les Feuilles Mortes【YOUTUBEより】

『セ・シ・ボン』C'est Si Bon【YOUTUBEより】

『闘うジョー』Battling Joe 視聴
『バラ色の人生』La Vie en Rose 視聴
『詩人の魂』L'Âme de Poètes【YOUTUBEより】

『巴里の空の下』Sous le CIEL de Paris 視聴
『可哀そうなジャン』La Goualante Du Pauvre Jean【YOUTUBEより】

『巴里祭』A Paris,Dans Chaque Faubourg 視聴
『巴里野郎』Paris Canaille 視聴


『10月13日』その2

2019-10-12 20:12:19 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ナナ・ムスクーリ Nana Mouskouri (1934.10.13~ )



ギリシャ出身でレコード売上げ枚数が世界で最も多いといわれ、真の世界の歌姫と呼ばれたオールラウンドの歌手です。
映画館の映写技師と案内係の両親の元にクレタ島で生まれました。3歳の頃に家族でアテネへ移りましたが、やがて大戦が
始まりギリシャはナチスに占領されてしまいました。戦後を迎え12歳から歌唱のレッスンを受けていましたが、1950年に
アテネ音楽学校に入学しピアノ科と和声科で学びオペラとクラシックに励みました。1957年にアルバイトでジャズを歌い始め
ナイトクラブやラジオにも出演するようになりましたが、ジャズ禁止という音楽学校の校則に違反したため退学処分にされて
しまいました。しかし、その歌唱力が作曲家マノス・ハジダキスに認められ、1958年にはハジダキス指導の下でシングル盤を
"Kapou Iparchi Agapi Mou" をリリース、これが国内チャートでNo.1となり国内でトップ歌手の仲間入りを果たしました。
1962年にジョルジュ・ブラッサンスとオランピア劇場で共演し翌年には生活の拠点をパリへ移し、その後も欧州各国、米国
などでもアルバムをリリースし、世界各国をツアーするなど活動の場を広げていましたが、2004年にベルリンで行われた
70歳記念コンサートで引退を宣言しました。

また、彼女はレコードの売り上げが世界で最も多い歌手の一人で、その総枚数は2億3000枚以上であるともいわれており、
歌姫と称される女性歌手は世界に数多くいるようですが、真の世界の歌姫とよばれるにふさわしいのはこのナナ・ムスクーリ
だといわれています。
しかし、日本ではどちらかと言えばかなりマイナーな存在で大ヒットもありませんでした。『ナポリに帰りて』が1962年の
春にラジオ大阪のベストテン番組『今週のヒットレコード』に登場し、二週連続で8位になり、続く『アテネの恋唄』が五週
連続でベストテン入りし『アテネの白いバラ』なども耳にしましたがいずれもヒットには至っておりません。当時の日本では
キング・レコード自体も洋楽に力を入れていたように思えず、歌唱力抜群の歌手ナナ・ムスクーリの存在自体もあまり知られて
いなかったことは淋しい限りで、その後ぷっつりとラジオで耳にすることはなくなり、1972年の『アメイジング・グレイス』
まで空白が続きました。

【主要歌唱曲】
『日曜はダメよ』Never on Sunday 視聴
『ナポリに帰りて』Retour a Napoli【YOUTUBEより】 

『アテネの恋唄』 Adios My Love 視聴
『アテネの白いバラ』Weiße Rosen aus Athen【YOUTUBEより】

『アマポーラ』Amapola 視聴
『ラ・パロマ』La paloma 視聴
『ラ・マラゲーニャ』La malagueña 視聴
『行かないで』Ne me quitte pas 視聴
『アメイジング・グレイス』Amazing grace【YOUTUBEより】



☆イヴ・アレグレ Yves Allegret (1905.10.13~1987.1.31)



1930年から長い下積みの末にノワール系の作品群で存在感を出したフランスの映画監督。
後の映画監督マルク・アレグレの弟としてパリに生まれました。中等教育を終えた後は映画館の経営に参加していましたが
1930年に兄と共に映画界に入り録音・編集の助手をつとめ、パウル・フェヨシやジャン・ルノワールなどの助監督をつとめ
ました。第二次大戦中はニースに逃れ、戦後の1945年に "La Boîte aux rêves" (夢の箱)でジャン・シューとの共同監督により
映画界に復帰しました。また、大戦後の社会的混乱と激しい変動によって急激に誇張されたリアリズムによる暗黒映画が
登場しました。その先達となったのが1948年の『デデという娼婦』で、これまでのフランス映画にはない冷酷無残なラスト
により、陰惨に乾いた暗黒を描き上げました。また、1953年には代表作となった『狂熱の孤独』を監督、ジャン・ポール・
サルトルの小説『チフス』を土台としてメキシコの僻地に蔓延する伝染病で絶望して世を捨てた男女の姿を実存主義的な
手法で描き上げたとして高い評価を受けました。
しかし、その後はこれといった作品もなく、また日本での公開も極端に減り、1970年代末ころまで監督として活動していた
ようですが全く情報もなくなってしまいました。

【主要監督作品】
1948年『デデという娼婦』 Dédée d'Anvers

1951年『奇蹟は一度しか起こらない』 Les miracles n'ont lieu qu'une fois

1952年『七つの大罪』 Les sept péchés capitaux
1953年『狂熱の孤独』 Les orgueilleux【YOUTUBEより】

1957年『目撃者』 Méfiez-vous, fillettes!
1960年『草原の脱走』 Chien de pique


☆ポール・サイモン Paul Simon (1941.10.13~ )



フォークロック・デュオ「サイモン&ガーファンクル」のメンバーとして活躍したミュージシャンです。
ニュージャージー州のニューアークに生まれ、1956年のハイスクール時代にアート・ガーファンクルと共にフォーク・デュオ
「トム&ジェリー」を結成し、レコード・デビューを果たしました。1963年には「サイモンとガーファンクル 」に改名して活動、
1965年にリリースした『サウンド・オブ・サイレンス』が翌年全米1位に輝き、一躍人気フォークロック・デュオとなりました。
二人の絶妙なハーモニーが受けてその後もヒットを飛ばし、1967年のマイク・ニコルズ監督の映画『卒業』で主題歌として
使われ、既存の『スカボロー・フェア』、映画のために書き下ろした『ミセス・ロビンソン』も大ヒットとなりました。
しかし、1970年の『明日に架ける橋』において二人は目指す音楽の違いから急速に仲が悪化して解散してしまいました。
1971年以降はソロ活動と同時に俳優、作家などのジャンルにも活動の場を求めました。

【主要歌唱曲】
1966年『サウンド・オブ・サイレンス』Sound Of Silence 全米1位【YOUTUBEより】

1966年『冬の散歩道』Hazy Shade Of Winter 全米13位 視聴
1968年『スカボロー・フェア』Scarborough Fair 全米11位【YOUTUBEより】

1968年『ミセス・ロビンソン』Mrs. Robinson 全米1位 視聴
1969年『ボクサー』Boxer 全米7位 視聴
1970年『明日に架ける橋』Bridge Over Troubled Water 全米1位 視聴
1970年『コンドルは飛んで行く』El Condor Pasa 全米18位 視聴