いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その7

2008年08月03日 14時34分59秒 | 法と医療
もう首を突っ込むのはやめておこうと思ったのですが、迷走してきたようなので書いてみます。

先日、あとは医師たちが納得のいく道を選べばいいよ、ということを書いた(免責バトル)のですけれども、どうやら「お偉いさん(=各種医師会や学会等の偉い人)」たちの中でさえも色々とあるようなので、個々に自分の理解程度で意見を流し続けてもまとまりがつかないと思います。特に、「医療の苦境」みたいなことを言い出すと、果てしなく論点が広がっていくので、もっと政策決定の範囲を絞り込んで闘争もとい交渉にあたることを考える方がよろしいのではないかと思います。


やや本筋から離れますが、小倉弁護士のネット上での活動が活発化しているようですけれども、モトケン先生やNATROM氏その他医師の先生方は、「小倉弁護士の主張」する論点を撃破することに関わるのは止めておいた方が宜しいのではないかと、老婆心ながら申し上げたいと思います。小倉弁護士は自分の主張の「正しさ」だけを言いたいだけで、特に「医療訴訟問題を解決すること」とか「医療者たちの不安をどのように軽減するか」といった問題解決にはほぼ無関係です。相手をすればするほど時間の無駄、徒労に終わるだけではないかと思います。

・刑事免責を求める医師たちが存在する
はい、います。
以上。
で、終わりですね、この論点は。
小倉先生は免責とか何とかに託けて「血型チェック(クロスマッチ)をしないで、勘に頼って輸血しても免責すべし」という事例(あくまで私の理解の範囲での意訳です)を出して非難していると思いますけれども、その事例を免責すべしという主張を『誰が言ったのか』という問題があります。
「そんな極端なことは誰も言ってない」→その他大勢
「そう読める」→小倉先生

たとえこの論争に答えを出したとしても、一歩も前進が得られないのです。「そう読める」というなら、「ああそうですか、これは失礼」ということで放っておいて、医療者側が「どういう範囲を求めているのか」という具体的基準のようなものを、非医療者、法曹や行政の人間にも理解できる形できちんと出すことに精力を傾けるべきではないかと思います。なので、小倉先生の論点に相手をするだけ時間の無駄だろうと思います。


前置きが長くなってしまいました。
お節介と思いつつ、医師でもない私からの提案を書いていきます。

①刑法改正に拘泥するべきでない

まず、刑法にこだわるのはやめておいた方が宜しいのではないか、ということです。
刑法211条の法改正を目指せ、ということになれば、これはかなりハードルが高いものと思いますので、時間的な問題、実現可能性の問題、等々があると思います。国民の大多数からの理解が得られるのか、ということもあります。そもそもは、国民(患者)側にある「医療不信」のようなもの―理解不足もあると思いますけれども―、そういった不安や不満がある結果が現在なのです。そこをクリアできないまま、あたかも医療者だけを保護するかのような法改正は、あまり支持されないのではないかな、と思ったりします。いうなれば、多くの国民が「偽装ウナギなんじゃないか」という疑心を抱いているのに、ウナギは一律公定価格で全部国産と認定することにします、みたいに宣言しても、誰も納得しないんじゃないだろうか、というようなことです(例としてヘンかもしれませんけど)。


②医師法改正を優先するべき

例の討論会の話から感じたのですが、医療者たちが何を一番気にしているかというと、多分警察が介入してくること、ということです。警察事案となれば、流れ的には検察へ、そして裁判へということになります。これをどう考え、改善策を模索できるか、ということが重要です。
設置が検討されている第三者機関の委員会については「総論賛成」というのが医学界の大勢だろうと思いますが、何に引っ掛かるかというと「医師法21条」の警察への届出ということなのです。これが「警察介入を招くからダメだ」という一番のネックになっているのではないかと。なので、刑法改正なんかよりも、医師法改正を考える方がハードルは低く近道ではないかと思います。

問題の条文を見てみます。

○医師法 第二十一条
医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。

医療者たちが一番心配している部分の根本だろうと思います。
委員会に報告するのは異状死全部か、ということや、警察に異状死の全部を届出していたら結局警察介入を避けられないじゃないか、というようなことだろうと思います。

刑法211条がそのまま生きていたとしても、医師法21条の届出義務がなければ、警察介入ではなく委員会調査を優先させることは可能ではないかと思われます。前に提案したように、委員会調査の結果、どうしても刑事罰を避け難いというような事例は委員会から刑事告発は有り得るかもしれませんが、それは極めて稀というのが私の理解です。そうであるなら、刑法はこれまで通りに存在しても大きな問題とはなり得ず、警察に通告する権限が委員会に与えられるのですから、その部分に要求するべきことを盛り込めばいいだけです。
委員会業務の範囲や基準等は医療者がかなりの決定権限を持っている、ということです。つまり、「委員会の判断・決定」に影響を与えられる(現時点でのように)のは医療者自身ということなのですから、ここに注力すべきということです。委員会を作ってくれる、ということなのですから、これに賛成して、後は委員会の判断基準作成は「医療者の判断」なので、これを活用すればいいだけではないかと思えます。ここで止まることの意味が私にはあまり判りません。

警察への届出が問題だと考えるのであれば、方向性としては、
・異状死の基準を厳密に定義しなおす
・届出そのものを廃止する
などが考えられるでしょう。これについては後述します。


③死亡した場合のデータベース、届出先

医療者が一番心配しているのは、手術の結果、合併症で死亡した場合に全て異状死として届出しなければならない、みたいな風潮になってきていることです。福島の事件のようなことです。死亡原因の探求ということを考えれば、過失の有無には関係なく「データベース」がある方がよい、というのは多くが同意するでしょう。医療過誤やヒヤリ・ハット事例を集める、というのと似ています。ネット経由での定型的報告フォームがあるといいでしょう。どのような場合であっても、原則的には死亡診断書か検案書は作成されるのですから、これを基本に入力項目を設定すればいいだけでは。それとも、死亡診断書や検案書の統一フォームみたいなものにして、データベース上でも同一書式の項目入力にしておけばいいだけでは。こういう部分こそITの威力を活用するべきではないでしょうか。

届出義務を変えるとして、これまで異状死に該当するような例を届出する先を、警察ではなく、委員会&データベースとしておくこと、でいいのではないでしょうか。警察への届出は「例外的」なものとし、所謂犯罪性のあるような場合に義務化すればいいと思います。医療で考える「異状死」と、警察などが印象として持っている「異状死体」とでは大きく異なっていると思います。元々は「他殺死体」とか「不審死」とか、そういう事件性の疑われる死を対象としていたと思われ、法学的な世界での異状死の捉え方というのはそういったものであったろう、ということです。病院で手術したり救急処置中に死亡した患者について、異状死という捉え方はしていなかったであろう、ということです。この拡大してしまった範囲をもう一度定義しなおしましょう、ということを実現できれば、それでいいのではないかと思います。業務上過失致死罪の適用をなくせ、ということを求めるより、ずっと簡単ではないかと思います。


④医師法21条の改正例

再掲:
医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。

・但書を追加する場合
「但し、診療中の患者が死亡した場合には、この限りでない。」

委員会やデータベースへの届出は別な法律で設定可能でしょうから、医師法上では必ずしも義務化せずともよいかもしれません。診療中の患者以外については、異状死の定義は過去のものをおおよそ適用することになりますでしょうか。

・条文自体を変える場合
どうしても「異状死」の定義について、法律上である程度厳密に捉えないと不安が残る、ということであれば、異状死をなくせばいいと思います。つまりは、条文上では「異状」という用語を用いない、ということです。もっと平易な文を考えてみます。

「医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して犯罪又は犯罪のおそれがあると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。」

そもそも21条というのは、事件捜査の着手を妨げないというような意図であると思われ、犯罪や事件性が強く疑われるような場合には迅速に警察に知らせて下さいね、ということでしょう。確かに初動捜査は迅速性を旨とするでしょうから、医師が遅滞なく教えてくれないと警察が困るのですね。なので、医師の判断として犯罪かそのおそれがあるなら、警察に知らせましょう、ということでいいのでは。似たような条文はあります。

○会計検査院法 第33条 
会計検査院は、検査の結果国の会計事務を処理する職員に職務上の犯罪があると認めたときは、その事件を検察庁に通告しなければならない。

会計検査院法で「犯罪があると認めたとき」と用いられています。仮に通告ができなかったとしても「違法性」を問われず、国会答弁では会計検査院長が「捜査機関ではないので犯罪認定ができない」とはっきり述べていましたしね(参考記事)。犯罪を正確には覚知できない、ということがあっても、届出しなかった医師にその過失を問われることは基本的にはないと思います(もし問えるのなら、検査院の通告義務違反も同じく問えるはず)。

これで「異状死の警察への届出」という医療者たちの不安は解消できるのでは。


⑤診療中の死亡をどのように取り扱うか

診療中ということを素直に解釈すれば、病院死は全部ということになってしまうので、その全てを委員会に届出せよ、というのは実際の運用上どうなんだろう、ということがあります。なので、先に書いたように、データベースに死亡診断書の定型的入力だけやるというような簡単なものじゃないと難しいように思います。委員会は主として紛争例を取扱うので、全死亡例の原因解明が第一義というわけではないと思います(それは学問的研究としてやっていけばいいのでは)。

データベースへの入力を義務化するということであれば、医療法上の規定を置いて、管理者に報告義務を課すということになるでしょうか。各個人の医師が責任を負うものではなく、あくまで院長が負うということになるかと思います。医師法上の規定となれば、個々の医師全部に法的責任が発生しますが、医療法上で管理者に義務を負わせることで勤務医の方々に法的責任が及ぶことはなくなり、医師個人の責任軽減には繋がると思います。


⑥医療界内部の問題

現状で議論百出となるのは、医療界内部での意見の不一致とか理解不足とかが原因であると思われ、行政や議員の先生方、法曹界に責任があるわけではないでしょう。端的に言えば、内部分裂、みたいなもんだ、ということ。これでは、決まるものも決まりませんよ。

元々、法医学会が「良かれと思って」、異状死が未届であるとか死因究明が不十分だとか言い出して、法解釈の範囲を拡大していったのが発端ではないでしょうか。その後に医療過誤問題や医療不信が国民の間で高まっていったことや、法曹界でも「医療への厳しい目」や様々な目的を持った訴訟提起作戦などが出てきたことなどが相まって、現在の段階まできたのだろうと思います。

異状死を厳密に定義すると、これはできなくはないのですが、日常診療の中で守らねばならない、様々な面で縛られることが多い、というようなことで、警察への届出義務がなくせるわけではないということは留意しておくべきでしょう。

非常に参考になる資料を上げておきます。
議論に参加している全医療者たちが読んで考えてみるべきではないかと思います。

届出範囲等

異状死等について―日本学術会議の見解と提言



最後に、刑法211条であろうとその他民事裁判であろうと、過失を判断する基準というのは、「そもそも医療者の中」にあるのです。刑事さんや検察官や裁判官が「過失だ」といきなり認定するわけではありません。あくまで医療者の中に「これは過失ではないか」と言う人がいるからで、それは医療界内部の意見の対立に過ぎません。そのことは心に留めておくべきではないかと思います。

また、(ミスは)止むを得なかったんだ、と思える水準というのは、どういったものであるか、という問題があります。絶対基準は存在せず、主に医療者たちの中にあるコンセンサスに近いものであるはずです。医療者が患者に対して「過失ではなかった」と言い、患者に納得してくれ、と思う基準というのも、医療者の中にあるのです。医師自身の親とか家族が医療を受けて死亡したとして、「止むを得なかった、納得している」と思える水準が、多分医師自身が「過失ではなかった」と言える水準ではないでしょうか。自分の親や家族が同じ医療行為を受け全く同じ結果となった時、医師本人が「これは過失なんじゃないのか」と納得できないのであれば、それはその他大勢の患者さんにも「納得してくれ」と求められるような水準なのではない、ということです。



福島産科死亡事件の裁判・その5

2008年06月30日 20時01分59秒 | 法と医療
かなり間が空いてしまい、その間に裁判は最終弁論まで進んでいました。フォローができていなくて、申し訳ありません。


以前にも紹介しましたが、よくまとまっております。

第十四回公判について08516 - 周産期医療の崩壊をくい止める会


ご遺族の方々にとっては、悲しい結果であったことに違いはありません。また、本件で被告となっている医師が、同じように苦しみ悲しんでいると思います。患者さんが亡くなられて、責任を感じない医師はいませんでしょう。前にも少し触れたことがありますが、目の前で患者さんが亡くなるという重い職務について、裁判官やその他法曹が経験したことなどありますでしょうか?まず、殆どないと思います。

裁判の結果次第で、結果が悪ければ誰かが死んでしまう、というようなプレッシャーの中で、裁判をやっているでしょうか?立証を誤ったり、判決を誤ったりすれば誰かが亡くなるという状況で、果たして起訴や判決を出しているのですか、ということです。そういう厳しさが足りないのではないか、と思うこともあります。


関係ない話をしてしまいましたが、弁護側の最終弁論を拝読いたしました。

弁護団がどういった方々なのかは、全く知らないのですが、本件の弁護は率直に言って「よくぞここまで頑張ったな」と思いました。

過去に、検察側主張にこれほどまで理論的対決を挑んだことなどあったのだろうか。それくらい、頑張ったな、ということです。勿論、医療界の協力やアドバイスなどがなければここまではできなかったとは思うのですが、それでも、検察側主張を退けることや被告側主張を立論するなどの「法廷戦術」は、弁護団なくしてはできなかったでしょうから。多分、弁護団は専門家に近いくらいに「詳しく」なられたのではなかろうかと思います。

過去の例で見れば、論証すること・反証するべきこと、そういった部分が散漫になっていたり、恐らく「通訳」の問題なのだろうと思うのですけれども、医療側と弁護士との共通理解がここまではできていないことがあったりして、弁護が十分有効に機能していなかったり不採用となる場合があったのではないかな、と感じました。でも、本件最終弁論を見れば、どれほど弁護団が「細かい部分までしっかりと勉強したか」ということがよく判ります。同じ言語を用いて話せるようになるというのはとても大変なことなのですが、それを達成したことは立派だと思います。


本件はあらゆる意味において特別な裁判です。

患者さんの尊い命が失われたこと、これは事実です。救えないことがあるということが、医療の宿命でもあります。医療とは、そういう患者さんたちの尊い命のお陰で進歩・発展してきました。亡くなられた患者さんの命に報いる為にも、たった1人の医師にその責を帰することは避けなければならないと思います。1人の医師を罰することができたとしても、世の中の人々の役に立つようにはならないのです。

そうではなく、本件のお陰で医療や社会に進歩がもたらされることが、大切なことであり命に報いる唯一のことではないかと思います。
本件裁判を通じて、世の中の方々に産科医療のことばかりではなく、医療の実情や医師が直面している状況などがかなり多く伝わったのではないかと思います。結果的に、医療側と国民が「死」ということについて意見を交わすことになったのではないでしょうか。過去においては、医療側が「死」について触れる・述べることはタブーだったからではないかと思います。


判決まではまだ時間がかかるようですので、裁判記録を読んでいこうと思っています。



市立札幌病院事件10

2008年03月23日 19時10分49秒 | 法と医療
続きです。


5)共謀共同正犯に関する問題点

本件では被告が刑法60条の共同正犯であるとされ、1審で共謀共同正犯であるとの判示があった(本シリーズ8を参照)。被告が行為を行ったことは認定されていないことから、刑事責任を問われるのは、共同正犯の成立のみである。

共謀共同正犯 - Wikipedia

成立要件は次の3つ。
①共同の意思ないし正犯意思
②共謀の事実
③共謀に基づく実行行為があること

最高裁判例では、次のように判示されている。
『共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が、特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となって互に他人の行為を利用し、各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した事実が認められなければならない。』
『「共謀」については、厳格の証明によって立証されなければならない。』
(刑集12巻8号1718頁)

よって、検察はこれを厳格の証明によって立証するべきということである。判決においても、全体の整合性を欠くことは許されないことは当然である。

裁判官らが想定している内容を、具体的なストーリーを書くと次のようなことになるだろう。

《ある美容健康会社がある。社長は「血液サラサラ波動砲120%」というマシンを用いて違法な営業することを、美容主任らと共に計画。顧客に血液や病気の危険性を殊更に強調し、高血圧等持病の改善を誇張して伝えた上、顧客に対して治療を勧めた。美容主任ら指示を受けた従業員らは、右の「血液サラサラ波動砲120%」マシンを使い、顧客に対し微弱電流の通電や低周波振動を与えるなどを行った。》

さて、社長は従業員に対して毎回個別に行為の指示を行っておらず、社長自らには実行行為がない。こうした場合には、社長と美容主任らが「共謀」していたことが事実であれば、実行行為は従業員が行ったとしても共謀共同正犯が成立している、ということであろう。従業員らは実行行為を行ったものの、社長や美容主任の指示に逆らえなかったし、実行行為が違法行為であることの認識をしていなかった、ということもあるであろう。

ここで問題となるのが、
・マシンの効果の伝え方が医行為に該当するか?
・「血液サラサラ波動砲120%」マシンの使用は医行為に該当するか?
ということである。裁判所の判断として、
・診断行為や持病改善などのウソの治療効果を伝えることは、医行為にあたる
・当該マシンは「医学上の知識と技能を有しない者がみだりにこれを行なえば、生理上危険ある程度に達している」ので医行為にあたる
ということならば、美容健康会社の営業は法17条違反であり、社長と美容主任らは共謀共同正犯で刑事責任を負う、という筋なのであろう(従業員らは、実行行為が違法であり刑責の成立に差異を生じないが、従属的立場であり実質支配されていたので、起訴されないことはあるだろう)。

美容健康会社=救命センター、社長=被告人、美容主任=上級医、従業員=歯科医師、と置き換えてみれば、本件との対比が明確になるだろう。検察や裁判官の考える被告人はこの例での社長と同じであって、故に処罰されるべき人間である、という考え方に基づいているであろう。


裁判官のいう理屈に沿って考えてみる。
実行行為=歯科医師が行った医療行為
共謀の事実=カンファレンスや各種会議等、または個別に上級医への指示
ということである、と。被告人と上級医らは、共謀して実行行為を行わせたのであるから、共謀共同正犯が成立する、と。
②と③の部分については、裁判官のいう理屈でも結びつけることが可能かもしれない。では、①についてはどうであろうか。①の共同の意思ないし正犯意思が立証されたのであろうか。

歯科医師が行った医療行為についてみれば、
・歯科医療現場であれば違法行為と認定されない
・救急センターでの研修以前の麻酔科研修でほぼ同様の行為を実施していた
ということがある。
更に、1審判決でも
『医科と重なる領域の専門分野で相応の経験を積んでおり、本件各行為を実施するについて、医師の資格を持つ研修医と比較して能力的に劣るところはなかったと認められる』
と判示され、生命身体への危険や健康被害は認定されていない。

つまり、上級医や歯科医師らの意思とは、「歯科医療現場では違法と認定されず、事前に麻酔科研修でも実施していた類似行為の実行」ということであって、「医学上の知識と技能を有しない者がみだりにこれを行なえば、生理上危険ある行為の実行」ではない。
センターを実質支配していたとされる被告人が上級医らと謀議したとして、共同の意思となるのは「違法な業を歯科医師になさしむること」ではなく、あくまで「歯科医療現場では違法と認定されず、事前に麻酔科研修でも実施していた類似行為の実行」である。ここに、犯罪意思が明確に存在していたとは言い難い。

本件の共同正犯適用について、正犯意思が立証されたのは、どこまでなのであろうか?被告人と上級医が共同正犯でなければならない。更に、上級医らの指示を受けていた、実行行為者である歯科医師も、上級医とともに共同正犯でなければならない。判例によれば、
『右共謀が成立したというには、単なる意思の連絡又は共同犯行の認識があるだけでは足りず、特定の犯罪を志向する共同者の意思が指示、命令、提案等によって他の共同者の意思が特定の犯罪を行なうことを目的とした1個の共同意思と認められるまでに一体化するに至っていることを要するというべきである』(東高刑時報28巻6号72頁,判時886号104頁)
となっていることから、単なる意思連絡や認識にとどまらず、「特定の犯罪を行うことを目的とした1個の共同意思」と認められるまでの一体化を立証できなければならない。

歯科医師らには特定の犯罪意思が認められなかった、故に起訴されていないことには十分な理由がある、ということで実行行為者には処罰を求められていないのであろうが、上級医についても同様に特定の犯罪目的があったことは窺われず、単に研修歯科医師に指導を行っていたに過ぎない。上級医に特定の犯罪目的の意思がなく正犯意思がないとなれば、被告人と上級医との間でどのような或いはどうやって特定の犯罪を目的とした一体化した共同意思を持ちえたのか。謀議するには、被告人だけでは足りないのである。


6)本判決は論理としての整合性を欠く

本判決文はとても長く書かれており、弁護側の出した意見に応えようとした結果であるのかもしれないが、重要部分が理解しにくい印象を受けた。基本的な組み立てを私の理解の範囲で書けば次のようになる。

・研修歯科医師の実行行為は違法行為
・直接的には上級医が歯科医師と共謀して行わせた
・被告人と上級医とが共謀していたのであるから共同正犯
よって、被告人は有罪。

判決の多くの部分で、実行行為が違法であるか否かに割かれており、研修のあり方ということについても意見が述べられている。しかし、論理的矛盾が多く見られるものなので、裁判官の判断に疑問を抱かざるを得ない。共謀共同正犯の疑問は書いたので、元に戻るが実行行為の違法認定についてもう一度考える。

裁判官の理屈をみると、次のようになっている。
ア)医師は医行為を行える
イ)歯科医師が医行為を行うのは違法
ウ)ガイドラインの策定は判決に影響しない
エ)ガイドラインは行政指導のようなもの
オ)実行行為は全て医行為
カ)医業とは医行為を業として行うこと
なので、17条違反、という結論である。

ここで、矛盾点を挙げてみよう。

◇矛盾点1:

判決中では、一定の制限範囲内(例えば、ガイドラインに合致するような条件下)であれば、刑法35条の正当行為に該当する場合があるといえる、としているが、その理由とは何か?
現行法体系下では「歯科医師が医行為を行うことは違法」の論理であれば、刑法35条の法令で合法と判断される理由はないのは明白で、残りの正当業務であるなら、歯科医師が行っても合法となる医行為が存在しない限り当該業務(つまり業)を正当業務ということはできない。

◇矛盾点2:

1審判決では、具体的行為の危険性の有無や侵襲度(危険の程度)に関わらず違法、指導する医師の監督下で行っても違法、と判示されていたが、高裁判決では例えばガイドラインに沿うような要件を満たせば可能な場合もある、と違いが見られる。上記ウ)及びエ)から、ガイドラインの存在によって判断に違いを生ずる理由はなく法体系に変化もないはずである。イ)とカ)が成立するのであれば1審判決のごとく行為の危険性などには無関係に違法、という結論となるであろう。矛盾点1とほぼ同じであるが、「現行法体系」で裁判官の示した結論を得ることなどできない。

整合性のある法学的説明をつけてくれることを期待したいと思います。


7)私の個人的見解

医師法、歯科医師法、保健師助産師看護師法、薬剤師法、といった現行法体系を考えてみる。救急救命士法は、これらと異なり関係は希薄であると思う。何故なら、国民側からの選択権はない(消防士や警察官を選べないのと同じく個々の救急救命士を選べない)、業務内容を法令で定めることが基本である、ということがあるからである。救急救命士の業務とは、それ以上でもなければ、それ以下でもない。極めて具体的に定めることができるのである。
しかし、医師、歯科医師、看護師等は、個々の具体的行為について法令で定めることができない。もし実行した場合には、膨大な量となってしまう、分類が極めて複雑になってしまう、等といった不利益がある。更に、法令内容にない行為を行えなくなる為に、新たな治療法などに結びつかなくなるだろう。
なので、医師法や歯科医師法などで定められている業の規定というのは、そもそも「類似営業の禁止」ということが目的であって、次条の紛らわしい名称を用いることを禁じているのも同様であろう。ヤミ金が大手銀行や既存金融機関とよく似た名称で債務者を釣り上げようとしていたのと同じようなものである。大正時代から医療類似行為があって裁判で問題とされてきたのであり、医師ではないにも関わらず怪しげな療法などの施術を行っていた実態が昔からあったのである。

そういうことから、基本的には医療類似行為による健康被害や正当な医療を受ける機会喪失等から一般人を守るべく、業の規定がなされているのであって、個別具体的な医療行為の禁止規定を意味するものではないであろう。業の規定からだけでは細かい規定を定めることができないので、行政側が疑義を生じた行為については、適宜「行政解釈を与える」という対応を行ってきたものである。行政の通知・通達・ガイドライン等が法令ではないことはそのとおりであって、裁判所が言うところの「所謂行政指導」みたいなものであるが、実質的にはこの行政解釈が優先されて医療業務は行われてきたのである。現行法体系では、「行政解釈」すなわち通知等がなければ、業務範囲を定めることは困難であり、行政指導でしかない通知等によって実質的に法的拘束を受けてきたのである。現に本判決中においても、ガイドラインに沿うというような制限下であれば、違法ではないと考えられる場合はある、という具合に、「行政指導でしかないガイドライン」に拘束されているではありませんか(笑)。

これが現行法体系の実態である。

既に書いたが、本判決の理屈からは看護師の「静脈注射」が合法で、「内診行為」が違法と判断できる理由はない。看護師に内診行為を行わせたという事件を、検察が起訴する理由を説明できない。また、医師が抜歯可能とする行政解釈についても、現行法体系と相容れないということになるであろう。

本件被告人が起訴されたのはガイドライン策定前であって、確かに裁判官の目から見ればガイドラインから外れている、ということがあったにせよ、それは行政側の落ち度であって、研修指導をしていた医師にあるのではない。事実、当時既に全国の数十という施設において研修は行われており、どのような指導方法を取るべきか、どういった範囲までなら許されるか、といった細かい検討はどこの部分においてもなされてきておらず、端的にいえば「現場任せ」で医師側の善意にのみ基づいて研修が行われてきたのであろう。この研修のさせ方に問題があったとして、これに刑事責任を負わせることの意味が判らない。何故救急救命士の研修では、指導に当たった医師のみならず行為者である消防官とか研修依頼をした消防関係者たちが起訴されずに済んだのか?検察のロジックでは、全員共謀共同正犯ではないか(笑)。彼らを起訴してくれ、とか言ってるのではないですよ。しかし、総務省消防庁の管轄で、それなりの政治力が発揮されるだろうが、本件はそういうのもないただの個人だ、ということ。


最後にもう一つ。
裁判官には絶対的な権限があり、誰が何と言おうと「お前の意見は採用できない」と何の正当性もなく断る権利を持っている。たとえ裁判官の言う理屈が間違っていようとも、「採用できない、何故なら…」と語る権利を持っている。素人が見ても間違っていることが判る程度の理屈であっても、だ。
権利侵害などという言葉は、裁判を受ける側にとっては無意味である。受ける側に裁判官の拒否権などないからである。恐るべし。

「医行為とは、当該行為を行うにあたり、医師の医学的判断および技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼすおそれのある一切の行為」
文脈ではなく、この文言のみに依拠する判断しかできない人々の気が知れない。
ならば、裁判官は立法できるということか?
唯一、ポイントとなるのは「医師の」という部分だけであり、この一文を金科玉条のように扱い、これをもって違法の根拠となせるのであれば、もとから条文は不要である。


屁理屈を言うだけなら、私にでもできるよ。

これは明らかに、裁判事務心得の4条違反だ。

○裁判事務心得 第四条  
一裁判官ノ裁判シタル言渡ヲ以テ将来ニ例行スル一般ノ定規トスルコトヲ得ス

反論できる?
(笑)



市立札幌病院事件9

2008年03月22日 19時19分56秒 | 法と医療
初期の頃に書いていたシリーズですが、判例Watchさんのところで高裁判決が出ていたので、また書いてみたいと思います。

これまでの経過:(前の記事は5の記事中にリンクがあります)

市立札幌病院事件5

市立札幌病院事件6

市立札幌病院事件7

市立札幌病院事件8


私は元々法学とか判決には何らの興味もありませんでした。何となく「そういうもんかな」としか思ってませんでした。裁判員制度についても同様です(笑)。しかし、よくよく見ていくと、実は重要な問題が隠されていました。それは、行政側の姿勢(法の解釈、運用等)とか、検察官や裁判官の実態、弁護士の能力、といった日本の法制度を支える人々のことを知るきっかけとなりました。医療裁判への興味を持つに至ったのも、この事件を知ったからでした。実は、様々な判決をよく見てみるということがとても大切なのだ、ということを学びました。これまでにも書いたことがありますが、判決をよく検討するということは専門の人たちがやっている場合もありますが、必ずしも十分ではないということを知ったのです。

前置きが長くなりましたが、本判決について検討してみたいと思います。
判決文を読んだ率直な感想としては、「これが日本の司法なのか」ということでした。大きな落胆と司法への信頼性が揺らぐ思いがしました。この前、『それでもボクはやってない』という映画が放映されていたので観たのですが、この映画と同じく司法水準の信頼性に疑念を抱かざるを得ませんでした。


1)本判決における重大な疑義

判決文はこちら>平成15(う)179医師法違反被告事件
(いつも利用させていただき有難うございます>判例Watch殿)

①ガイドラインはいわば行政指導

まず、以下の記述について。

『医師法と歯科医師法によって医師と歯科医師の資格を厳格に峻別している現行の法体系がいわば行政指導ともいうべきガイドラインによって変容されることはあり得ず、ガイドラインが歯科医師に医行為を行う資格を与えたものでないことも当然であって、このことは、ガイドライン自体に「研修といえども医療行為を伴う場合には、法令を遵守しながら適切に実施する必要がある。特に歯科及び歯科口腔外科疾患以外の患者に対する行為では、慎重な取扱いを期すべきである。」と規定されていることからも明らかである。そうすると、本件各行為は、すでに認定・説示したとおり社会的相当性が認められず、違法性が阻却されないからガイドラインの策定によってこの結論が左右されることはない。』

なるほど、ガイドラインというのは行政指導のようなものであるので、法令ではないのであるから判断(判決)を変容するものでは有り得ず、医師法及び歯科医師法という法令から刑事責任を問うべきものである、という立場なのでありましょう。これは検察側主張でも同旨であったものと思います。通知、通達やガイドラインというのは「あくまで行政指導のようなものである」ということは、同意できるものです。そうであるなら、そもそも刑事責任を問う場合には、「行政解釈を基礎として立論できるものではない」ということを自ら肯定しているものと考えられます。すなわち検察は、医師法及び歯科医師法等法令の条文から本件被告人は「医師法17条違反」であることを立論できねばなりません。判決においても、それが明確に判示されて当然です。では、それが達成されていたかといえば、到底そのようには思われません(後述します)。

②救急救命士の業務に関する誤認

更に疑問なのは次の記述です。

『しかし、救急救命士は、救急救命士法、省令等によって一定の限度で薬剤を用いた静脈路確保のための輸液や気管挿管等の救急救命処置を行うことが認められており(同法43条、44条)、また、看護師についても保健師助産師看護師法等により医師の診療の補助ができるほか、医師の指示があれば医行為(救命救急医行為を含む)をすることが認められている(同法5条、37条)。このように救急救命士も看護師も一定の限度で医科の現場における救命救急医行為を行うことが法令によって許容されており、そのための法律上の資格を与えられているのであって、この点が医科の現場において、医行為を行う資格を持たない歯科医師と大きく異なる。したがって、一定の限度で、救急救命士が気管挿管を、看護師が静脈注射等を、それぞれ自ら行えるからといって、医科救命救急部門における歯科医師の研修行為をこれと同列に論じることはできない。』

これが日本の高裁レベルの判決なのだろうか。日本の裁判官というのは、複数で検討しているにも関わらず、こうした判決を書くものなのであろうか。これを重大な過失として刑事責任を負わされることなどないであろうから、こうした判決文を書くことが許されると考えているのかもしれない。

判決中で述べられている救急救命士業務を要約すると、次の通り。
一定限度で
・薬剤を用いた静脈路確保の為の輸液
・気管挿管等の救急救命処置
は認められる。根拠は救急救命士法43条、44条。

この問題については、かつて取り上げた>救急救命士の気管内挿管事件

裁判官に誤認があると思われます。救急救命士法は改正されたのであって、本件起訴時点では救急救命士は「気管挿管は違法行為」でした。輸液は可能でしたが、薬剤投与は違法でした。

気管挿管が認められたのは、本件裁判が問題となって以降です。

医政発第0323001号 救急救命士の気管内チューブによる気道確保の実施について

書かれている内容では、平成16年3月23日通知、平成16年厚生労働省告示第121号、平成16年7月1日から適用、ということになっており、本件起訴時点では違法行為であったのは明白です。厚生労働省告示においては気管内チューブは認められておらず、マスク類だけが許されていたに過ぎません。変更されたのは秋田の事件が報道されて以降のことです。

医政発第0310001号 救急救命士の薬剤(エピネフリン)投与の実施について

薬剤投与についても、平成17年3月10日厚生労働省令第26号、平成17年3月10日厚生労働省告示第65号、平成18年4月1日より施行、となっており、変更は後日なされたものです。

当初、救急救命士の許容されていた業務というのは限定的でした。起訴時点での法令を考えることなく、後日改変された条文をもって違法ではなかった、という判示を許されるのが日本の裁判所なのでしょうか。それとも本判決文を書いている時点で法改正によって合法となっていれば、過去に遡及して「合法」と判示する合理的理由を有しているのでありましょうか。
これについて法学上の説明が不可能であろうはずもなく、是非裁判所においてはその論理を提示されたい。説明なき場合には、日本の高裁判事のレベルというものがこの程度に過ぎないということの立証となりましょう。

③看護師の業務について

これについても疑義がある。
判決の如く、看護師には『医師の診療の補助ができるほか、医師の指示があれば医行為(救命救急医行為を含む)をすることが認められている』ということは肯定される。法37条は次のとおり。

○保健師助産師看護師法 第三十七条

保健師、助産師、看護師又は准看護師は、主治の医師又は歯科医師の指示があつた場合を除くほか、診療機械を使用し、医薬品を授与し、医薬品について指示をしその他医師又は歯科医師が行うのでなければ衛生上危害を生ずるおそれのある行為をしてはならない。ただし、臨時応急の手当をし、又は助産師がへその緒を切り、浣腸を施しその他助産師の業務に当然に付随する行為をする場合は、この限りでない。

本条文を読めば明らかなように、指示主体は「医師又は歯科医師」であって、両主体には法令上の差が存在しない。看護師が行える行為は「医師又は歯科医師」の行える行為を超えるものではなく、法的にそれが許容されていることを示す根拠は存在しない。裁判官には「看護師は行ってよいが、歯科医師は行えない」という業務が存在している、という勘違いか偏見が存在しているものと思われる。それは誤認であって、看護師は歯科医師の行える行為以上の行為を行うことが法的に許容されていると解する根拠はない。「臨時応急の手当」についても、歯科医師が法的に行えない行為について、看護師が行為を許容されていることを示すものではない。

更に、歯科医師は看護師に指示をするばかりではなく、看護師の行為についてこれを行うことは法的に許容されるものと解される。

○保健師助産師看護師法 第三十一条

看護師でない者は、第五条に規定する業をしてはならない。ただし、医師法 又は歯科医師法 (昭和二十三年法律第二百二号)の規定に基づいて行う場合は、この限りでない。

この条文にあるように、法5条には除外規定があるのであって、法5条及び37条をもって「看護師には可能な医行為であり、かつ、歯科医師には不可能な医行為」なる解釈を登場させるのは誤りと考えられる。

判決文を再掲する。
『このように救急救命士も看護師も一定の限度で医科の現場における救命救急医行為を行うことが法令によって許容されており、そのための法律上の資格を与えられているのであって、この点が医科の現場において、医行為を行う資格を持たない歯科医師と大きく異なる。』

基本的論点として、
◎歯科医師は、医科の現場において、医行為を行う資格を持たない
という事実を裁判官が法令から論証しているとは思われない。
このことを単なる既成事実として取り扱っているだけであり、どの条文からこの事実が導き出されているのかは不明なままである。

仮に、裁判官の説示を採用するとなれば、37条規定から看護師は医師の指示があれば「医行為」を行えるのであって、すると、過去に幾度も問題とされた内診行為は指示があれば合法であるとする結論となろう。裁判官の説示や条文だけからは、看護師の可能な医行為として「静脈注射」はよいが、「内診行為」や「気管内挿管」は不可とする、などという峻別を行うことは不可能である、ということだ。
あたかも37条から可能な医行為を規定できるかのように述べているだけで、「静脈注射」が可能である、などという解釈はどこからも導き出すことなどできない。これも同じく、仮説を単なる既成事実として扱っているだけに過ぎないのである。


2)医行為とは何か

裁判官は「医行為」という言葉に惑わされており、これは検察官においても同様であるが、「医行為」についての重大な誤認があるといわざるを得ない。
医行為は、「医療」行為全般に係るものであるが、医師法と歯科医師法における「医業」と「歯科医業」との峻別を行う為に生み出された定義ではない。意図的に解釈を拡大しているに過ぎない。

そもそもは、医療類似の行為について営業がなされており、それを医師の行う医療との峻別する為に生み出された概念である。現代風に言えば広義には「代替医療」ということになるであろう。最高裁判決(昭和30年5月24日)によれば、『患者に対し聴診、触診、指圧等を行ない、その方法がマッサージあん摩の類に似てこれと異なり、交感神経等を刺激してその興奮状態を調整するもので、医学上の知識と技能を有しない者がみだりにこれを行なえば、生理上危険ある程度に達しているとき』となっている。医師と歯科医師の行為についての峻別を意図してはおらず、営利目的の営業であってなおかつ「医学上の知識と技能を有しない者がみだりにこれを行なえば、生理上危険ある程度に達している」行為を禁止するべきという趣旨である。

本判決でも採用されている医行為の定義については参考記事でも幾度か取り上げた。
医業と歯科医業


3)医師が抜歯するのは合法か

もしも医師法によって医行為が定義されるとするなら、歯科医師法によって「歯科医行為」が定義されることになるだろう。すると、歯科医師法17条の「歯科医師以外は歯科医業をなしてはならない」ということから、医師であってもその行為を行うことは違法と解される。医師は歯科医師ではないからである。つまり抜歯は不可能ということになるだろう。
ところが、昭和24年厚生省医務局長通知(医発第61号)においては、
「医師法第17条の「医業」と歯科医師法第十七条の「歯科医業」との関係に関し若干疑義があるようであるが、抜歯、齲蝕の治療(充填の技術に属する行為を除く)歯肉疾患の治療、歯髄炎の治療等、所謂口腔外科に属する行為は、歯科医行為であると同時に医行為でもあり、従ってこれを業とすることは、医師法第17条に掲げる「医業」に該当するので、医師であれば、右の行為を当然なし得るものと解される」
とされていた。
この解釈は現在でも生きているだろう。これが許容される理由は次のようなものである。

医業の定義に倣えば、歯科医業とは「歯科医師の医学的判断及び技術をもってするのでなければ人体に危害を及ぼすおそれのある一切の行為」に該当するものと考えられ、歯科医師法17条から、一般にこれら行為は歯科医師以外には行うことができない、ということになろう。しかしながら、医師は歯科医業に関する医学的知識や技術を習得しているものと考えられるので行為の違法性はないということである。「人体に対する医療行為の一部」であることと、医師がそうした歯科に関する医学知識や技術等を習得している、という前提に立っていると考えられるのである。それら習得機会は医学教育の中にあるものであり、それ故「抜歯に必要な医学的判断及び技術」を有しているであろうことが推認されるので、医師が行う抜歯は禁止行為ではない、と考えられうるのだろう。

医師法及び歯科医師法の17条規定からは、医師が行う抜歯が医行為或いは医業と解する法的理由は窺われない。本来的な立法主旨を想像するに、17条規定とは「(営利目的のような)類似営業を禁止」する条文なのであって、医療全般の行為について医行為と歯科医行為を峻別する為に設けられたものではないと考えるのが相当である。たとえば、歯科医師であるにも関わらず、「治療法Xを実施すれば、肝臓がよくなります」といった類似行為による業(営業)を禁じるものである。
過去の「医行為」が判示された判例でも、歯科医師による行為が問われたのではなく、医師や歯科医師以外が行った営利目的の営業行為について、それが医行為に該当するか否かが問われたのみである。

本判決で示された理屈を用いて簡単に書けば、次のようになる。
要件1:医科の現場において
要件2:歯科医師が行う気管内挿管は違法
歯科医師は気管内挿管という行為を行えるが、あくまで歯科医業の中においてであって、要件1があれば違法という解釈なのであろう。

これは同様に
要件1´:歯科の現場において
要件2´:医師が行う抜歯は違法
ということが成立するだろう。
医師は本来「歯科医行為」を行う資格を有さないからである。また、「抜歯は医行為である」とする根拠規定は医師法及び歯科医師法には存在していない。
口腔外科の教授とかが医師免許のみ有する場合、こうした事例に該当することになるだろう。行政解釈で合法というのはあくまで行政指導の一部でしかないのであるから、本判決の解釈が優先される、と裁判官は主張することだろう。すなわち「歯科の現場において、医師が抜歯を行うことは違法」という解釈を成立させるだろう、ということ。


4)歯科医師には一定の医療行為を行うことが許容されている

少なくとも、歯科医師が行う歯科医業にある医療行為は違法ではない。例えば、歯科医師が行う静脈注射、採血、輸液、気管内挿管等、一般には医行為と認識されうる行為であっても、行為自体は歯科医業の一部に過ぎない。単に「歯科医師が行う医療行為」というだけである。また、看護師が「臨時応急の手当」の業務を法的に認められているからといって、歯科医師が行える行為の全て若しくは範囲を超える行為についてまで看護師が許容されているものではない。具体的には、看護師は気管内挿管はできないし、単独でエピネフリン投与も不可能である。歯科医師はこれら行為を行うことができる。

薬剤投与や調剤についても、歯科医師には薬剤師が医科で行う行為と同等の行為を許容されており、禁止行為を規定する条文は存在していない。指示主体としての歯科医師は、法令上では医師と同等である。

これらが法的に許容されている背景には、歯科医師が業務を遂行するに必要な「医学的知識や技術」を習得していることが前提としてあり、その根拠とは、歯科医学教育の中で「基礎的な医学」を習得している、ということである。医師が抜歯を法的に許容されるのと同じく、歯科医師には例えば看護師が行う「臨時応急の手当」と同等か若しくはそれ以上の行為ができるものとして考えられている。基礎医学や一般臨床医学の教授を受けるのはその為であると考えられる(たとえば内科学、外科学、脳外科学、産婦人科学、等々の臨床科目について習得する)。

歯科医師が禁止されるべきは、医師が行うべき医療行為を業としてなすことであって、歯科医師が実質的にそれと同じ医療行為を行ってはならない、とする法的根拠はない。どの程度までの医療行為を歯科医師が行うのか、ということは歯科医療と歯科医師に委ねられているのであって、たとえば歯科医師が帝王切開を実施するということは有り得ないが、異常高血圧症状が見られた患者に対して降圧剤を静注することが法的に禁止されることを意味するものではない。
後者の行為は、たとえ法37条規定があろうとも、看護師が単独で行うことを許されているとは解されない。

医師及び歯科医師については、これら薬剤師や看護師の業務を遂行することが法的に許容されており、その前提としては、当該「医学的知識や技術の習得」を課せられているからであり、ここでいう医学とは「歯科医学」と一般医科でいう「医学」を区分するものではなく、「広義の医学」(一般医学、歯学、薬理学等を含む)ということに他ならない。医師や歯科医師は「広義の医学」について体系的教育を受け知識や技術の習得を経たものである、ということから、薬剤師や看護師が行う行為については禁止行為とされていないと解するべきである。

こうした広義の医学全般について体系的教育を受けていない者が行う医療類似の行為について、これを峻別するべく定義された「医行為」という概念から、歯科医師の禁止行為について判断する根拠となす事自体に誤りがあるというべきである。


長くなったので、続きは次の記事で。



「もっとよく知って欲しい」と求めるだけではダメだと思う

2007年09月06日 17時40分45秒 | 法と医療
ちょっと過ぎてしまいましたが、気になるニュースなので。ボツネタさんのところでも取り上げられておりましたし。

Yahooニュース - 毎日新聞 - <医療事故>検事が現場学ぶ研修制度本格化

(一部引用)

 法務省刑事局などによると、検事の医療研修は05年6月に初めて東京医科歯科大であり、8人が参加。06年10月にも同大学で2回目が実施され、10人が参加している。今年は順天堂大学が加わり、2大学で計20人が手術部や外来診療現場を見学、輸血業務や薬剤業務の講義も受けた。医師らの症例検討会にも出席し、看護師、薬剤師も交えた座談会での意見交換会も行われた。
 参加者からは「実際に医療現場を見て、医師や看護師の立場が実感できてよかった」「捜査や公判でも生きる有意義な研修になった」との声が聞かれたという。一方、病院側も「捜査機関の医療への理解を深める機会」ととらえている。東京医科歯科大医学部付属病院の坂本徹病院長は「医療にかかわる捜査が机上の空論にならないよう、現場を実際に見て知ってほしい」と来年以降も積極的に協力していく姿勢。
 ある法務・検察幹部は「検察は、限られた時間と手段の中で取られた医療措置についてきちんと事件化にふさわしいかどうか見極められるようにしなければならない。研修を通して、医療現場の実情を少しでも知るべきだ」と話しており、来年以降も引き続き研修を実施するという。



実はこうした研修制度があることや、検事の方が実際に医療機関を訪れておられたことは存じませんでした。これは大変良い試みであると思います。是非とも、医療の実態というものを肌で感じてもらえるとよいかな、と思います。

よくカップルの関係などでもありがちかな、と思うのは、「私のことをよく知って欲しい」と相手に求めることです。ドラマなんかでも、「私のことなんて、ちっとも理解してくれてないじゃない」みたいに、彼氏を非難したりとか(笑)。こういう時、相手は自分のことをよく判っていない面があるのかもしれませんが、では自分が相手のことをよく知っているかと言えばやはりそうでもなくて、自分も理解不足ということはあるだろうな、と思うのです。パートナーとして互いのことを尊重し長く付き合おうと思ったら、相手にばかり理解を求めてもダメなんですよね。自分も相手のことをよく知ろうとしなくてはいけない。そういう互いの理解への努力があってはじめて、「ああ、そうなんだな」と伝わる部分ができてくるのだろうと思います。


医療側には、司法の人間はもっと医療のことを知れ、とか、検察も裁判官も勉強不足だ、というような非難がないわけではないでしょう。私自身も医者でもないくせに、余計なことをあれこれと書いてきたので同じなんですが。でも、そういうのをただ求めても、上に書いたような「私のことなんて全然判ってくれてないじゃない!」と彼氏を非難する彼女みたいなものなのです。自分自身も相手のことを理解するように、或いは彼氏に理解してもらえるように努力しなければ、結局は双方ともに理解が深まらないままに終わってしまうのではないでしょうか。相手側だけに責任を求めても、判り合えるようにはならないんじゃなかろうか、と。

なので、検察側がこうして「理解しようと努めてくれている」ということについては、素直に感謝をもって受け止めるべきではないでしょうか。医療側からは、これと似たような司法側への研修を行ったりしているかというと、多分何もないんじゃないのかな、と思うのです。前にもチラッと書いたけれど(言語が違えば、理解は困難になると思う)、理解は一方通行では成立しないだろうな、と。医療側も、検察や裁判所という司法側のことを、もっと知る努力をした方がよいのではないかと思います。私もブログに書くまでは、基本的なこともよく知らなかったし、医療裁判に関わる問題点とかについても殆ど判りませんでした。でも、判決文をよく読んでみると、大変重要なことが書かれているのです。他にも、報道から窺い知れる検察側の態度とか考え方みたいな部分についても、勉強になることはいくつもあるでしょう。裁判の傍聴記事なども大変有り難いですし、勉強になると思います。医療裁判ばかりではなく色々な裁判例も含めて、「どういうふうになっているか」「何が書かれているか」「どんなことが問題になるのか」というようなことを医療側の誰かが理解して、医療側の人間が理解可能な説明が必要になってくる、というようなことです。それを医者の中の誰かがやっていくことが、司法にどういった説明をしたら判ってもらえるか、ということの解決に繋がるんじゃないのかな、と。少なくとも、検察側は「理解しようと取り組んでいる」のですから。何もやらずに相手の理解不足をなじるよりは、手掛かりもあるし、将来の見込みもあると思います。


なんだか偉そうなことを書いてしまいましたが、私は医者でも法曹でもなく、どちらでもないという立場だから好きなことを書けるのかもしれません。当事者にとってはもっと大変なのだ、ということもあるかもしれません。でも、医療側と司法側とが、反目しあったり相手側を非難だけしていても、問題解決は遠のくだけだと思うのです。「自分のことを知ってもらう」とは、あくまで相互理解ということなのであり、彼氏彼女であっても夫婦であっても、相手のことをよく知ろうとすることなんだろうな、と思うのです。




不戦敗宣言はまだ早いのでは・3

2007年07月05日 13時06分25秒 | 法と医療
通知とか技官関連の背後関係は知らなかったのですが、論点としては既に見てきたことかな、と思いました。

はてなブックマーク - 天漢日乗 産科崩壊 「看護師利権」がお産の場で母子を危険にさらし、産科崩壊を促進 看護師と助産師さえいれば産科は成立するのか「内診問題の真相」 産科を閉じたオーク産婦


問題の厚生労働省通知を「ひっくり返す」ことができない限り、「内診行為問題」は前進できないでありましょう。特に、官僚の性質というのは「一度出したら、死んでも引っ込めない」という傾向があるので(勿論これは大袈裟な冗談ですが、笑)、一度出された通知は一般国民側から変更・訂正等をさせることができません。これは戦う以外にはないのです。では、誰が鈴を付けに行くか?という問題はありますけれども。

参考記事:
不戦敗宣言はまだ早いのでは

不戦敗宣言はまだ早いのでは・2

上記記事で書いたように、通知についての抗告訴訟を提起して、誰かが徹底抗戦を行わないとなりません。当然ながら、私には何もできません。原告になれる要件からは完全に外れているからです。なので、「誰か、前に出て戦え」ということを申し上げることになってしまうので、無責任極まりないと思いますけれども、ご容赦下さい。でも、「何もせずに座して死を受け入れるのか」ということを考えるのであれば、「通知が絶対」ということである限り、前進はないでしょう。仮に敗訴して覆せなかったとしても、通知がそのまま残るだけですから、今と状況は変わりません。裁判ということになれば、時間とお金と労力とその他モロモロを多大に消費することになってしまいますから、負けて元々だと安易には言えないのは確かなのですけれども…。

もう一度原告たり得る要件を書いてみますけれども、
・通知が出されて以降に行政指導を受けた(恐らく行政からの文書受取だけでも可と思います)
・内診行為問題を理由に産科を縮小・廃止等の実質的不利益を蒙った(今後相当の確度で蒙る虞でも可?)
という医療機関・医師であれば、訴訟提起できるであろうと思います。

通常の行政指導は訴訟対象とはならないのですが、内診行為問題の通知に関しては対象たり得ると思いますので、このまま何も変えられないのであれば、立ち上がって戦う道を選択するしか方法はないと思います。特に、多くの国民から「見えない所で」戦うなら、権力サイドが有利になるだけで弱小無力の人々は勝てません。もし私が権力サイドであれば、反抗的分子は「分断して個別撃破」するに決まっています。行政指導でも監査でも立入検査でも、個別に医療機関を狙い撃ちにできますからね。ですので、できるだけ衆人環視の元で戦うべきであると思います。その意味においても、訴訟提起はマスメディアの注目を集めることができますし、多くの国民に問題点を知ってもらうのに有利です。昨今の医療崩壊問題についてはマスメディアがよく取り上げてくれるようになってきていますから、きちんと伝える努力をすれば「通知変更」への圧力は高まる可能性はあります。AEDもサクションも、緩和されるようになりました。


それと、参考記事の中で取り上げた裁判例では、分娩監視は通知に違反しない旨判決で述べられており、看護師の診療補助業務であると認定されていますので、条文の解釈論で挑んでも勝てる可能性はあると思います。私のようなド素人が「勝てるかもしれない」とか言っても何の足しにもならないことは承知しておりますが、諦めることなく何らかの行動するしか突破口は見出せないと思います。学会のお偉いさんたちや、医師会が当てにできないのであれば、「現場の声」を直接ぶつける以外にないでありましょう。政治的な駆け引きの場では、「政治的に強い者が勝つ」ということになってしまうでしょう。


戦いを挑める同士を募って、行政権力に立ち向かって下さい。
私には遠巻きに応援してあげることしかできないのですけれども。


ちょっと追加。

前に自宅出産の話について書いたことがあって、これも関連しているかもしれないなと思ったので。

サンバの幻想?



遂に提訴…奈良の妊婦死亡事件

2007年05月23日 21時43分28秒 | 法と医療
以前からネット上でも話題になっていた件ですが、提訴となったようです。

Yahooニュース - 読売新聞 - 脳内出血の妊婦が転院断られ死亡、遺族が担当医ら賠償提訴

(記事より一部引用)

奈良県大淀町の町立大淀病院で昨年8月、妊婦が出産時に脳内出血で意識不明となり、相次いで転院拒否された末、搬送先の病院で死亡した問題で、遺族が23日、「脳検査も治療もせず放置した」として、担当医と大淀町を相手に損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こした。この問題を巡っては、県警が担当医らを事情聴取するなど業務上過失致死容疑で捜査しており、刑事・民事の両面で真相解明が進むことになった。


これにも書いた(続・奈良の妊婦死亡事件について)が、報道による影響があったと思われるが、どうだろうか。

遺族の「納得できない」という気持ちは判るが、これを「納得させる」ということはとても難しいのであろうな、とは思う。解決の糸口を法廷という場に求めるのは、現状の制度では止むを得ないのかもしれない。



骨セメント使用時の心停止例

2007年05月23日 00時32分40秒 | 法と医療
前に記事に書いた論点(裁判における検証レベル)であるが、実際の心停止例が報告されていたので記しておく。

偶然発見した資料がコレ> 医療機器不具合等報告

報告数が多いのですけれども、この391~393番に「骨セメント」という項目がありました。全例とも製品の不具合はなかったのですが、「健康被害状況」という項目を見ると次のようになっていた(例数も記す)。

391 血圧低下、徐脈、心肺停止― 国内1例
392 死亡―国内3例
393 心停止―国内3例

この発生時期がいつなのか不明で、これまでの全累積が記載されているのかも分らないが、過去の報告にはあったということは言えるであろう。合計7例で「心停止」に陥っており、前の記事に示した東京高裁の逆転判決は甚だ疑問であると思われる。心停止を生じるのは、「麻酔薬の最小量となっていなかったこと」などということではなく、他の原因によっても生じ得る(特別な疾病や薬物使用がなくても起こる)のであって、こうした論点を無視して過失認定を行ってしまうという現在の医療裁判システムは「システム上の重大な欠陥」を抱えていると言わざるを得ない。


一応、透析用のダブル・ルーメンカテーテルについて「血管穿通」とか「挿入血管からの出血」といった報告例がないか見たのだが、発見できなかった。出血原因として「カテーテルによる」という原因特定が困難である(例えば手技的要因とかと明確に区別するのが難しいから?)とか、大した被害などがなくて報告がなされないから、といったことがあるのかもしれない。仮に、血管穿通があったとしても、見えない場所に出血するので、偶然画像診断などで発見されたりしない限り気付かれないまま過ぎるかもしれない。少量出血くらいであれば、血腫が形成されても自然に吸収されてしまうからであろうか。



本当に血尿だったのか~4

2007年05月21日 18時15分11秒 | 法と医療
僻地外科医先生からコメントを頂戴しまして、長くなるので記事にしました。

続々・本当に血尿であったのか


コメント頂き有難うございます。僻地外科医先生のご指摘は勉強になります。
ただ、若干の疑問点がございます。

①透析用Wルーメンカテーテルについて:

先生の想定では、血液吸着の為に挿入されたであろうWルーメンの存在を前提とされておられるのであろうと思います。これは事実なのでございましょうか?先生の仰る説明を総合しますと、右大腿静脈(?)に挿入されていた透析用Wルーメンの「カテ先で血管壁を穿通しピンホール大の損傷があった」ということかと思います(同側同部位でなければ、CT像の血腫形成の説明にならないと思いますので)。
仮定として、血液吸着前に挿入されたとされる透析用カテの穿刺を「穿刺1」とし、判決文にもあった午後4時45分頃の中心静脈カテ挿入の為の穿刺を「穿刺2」とします。

a)判決文には穿刺1のことについて一度も記述がない
b)鑑定の記述(「右橈骨静脈にルート確保」の記述は見られた)からも判決で触れられてない
c)穿刺1でブラッドアクセスがあったなら、同側同一血管にCVを入れる意味とは何か(想定し難いのでは)
d)穿刺2の血管損傷の有無について検討され、判決や鑑定で穿刺1を全く問題としないのは疑問
e)ピンホール大の穴が痙攣発作で形成され、10ml/分程度の出血が継続すれば、CT像で約1000ml程度分の血腫が確認できうるのでは
f)判決文(P16)で「カテーテル留置後血尿ないし血腫が生じるまでの間に、痙攣が起きたことを認めるに足りる証拠もない」として被告側主張を退けていることから、もし穿刺1の留置があったのであれば被告側主張は検討され判決中で述べられるはずでは

これら疑問点があるので否定的なのではないかと思えましたが、透析用カテが入っていたという別な情報があるのであれば、判決しか読んでないので私には判りません。少なくとも血管穿刺について、穿刺1の「ミスがあったのか、なかったのか」ということを一度も述べないというのは不自然です。そもそも最初の穿刺時に問題があれば、穿刺2のみで問題の有無を検討したとして「過失がなかった」という結論が出ても、本来的に過失検討の意味がないからです。もし穿刺1が行われていたとすれば、必ずその検討はなされなければならずであり、それが判決文中に一度も記述がない、などということはないのではないかと思えます。


②CT像の血腫について:

これは先生のご指摘のように、若干ながら見られていました。判決文にあったのを見落としておりました。判決文中のP14のH意見書(H医師によるもの)から、次のように書かれておりました。
『膀胱周囲の後腹膜付近に新しい出血に一致する血管外の造影剤の溜まりがあることからすれば、出血部位は上記部位であったと考えられること』

カテ周囲の血腫様の像については解釈が分かれるものの、仮に穿刺2での血管損傷があったにせよ(試験穿刺を行っているなら確実にピンホールより大きな穴(22Gくらい?)が開くのではないかと思います…)、そこからの出血よりも後腹膜の出血の方が主原因であるということを主張するのは可能であるように思われます。


③テオフィリンのPDE阻害作用について:

この記述は誤りを含むものでした。PDE阻害作用は、非特異的作用であるようです。またPDEのタイプは11種発見されていた、ということのようです。

Q4-2 PhosphodiesterasePDE阻害作用とAdenosine拮抗作用

FPJ : Vol. 126 (2005) , No. 2 121-127

論点としては有り得ると思いますが、ペーパー上でのことですので、どう評価されるかは判りません。
アデノシン拮抗作用がどう捉えられるか、というのも、何とも言えないです(血中濃度が高くでも凝集抑制作用はさほどでもないのでは、と言われる可能性はあるかもしれません)。


④現象の説明として

後腹膜血腫については
・外傷がなくても原因不明に起こること
・出血源は不明である場合が多いこと
・出血傾向ではなくても起こること
以上から、カテ挿入に伴う血管損傷の有無には無関係に(後腹膜腔に)「出血し得る」でしょう(H医師の意見書とも整合的です)。
即ち、剖検時の血腫の存在はこれで説明可能(CT像でカテ周囲の血腫は血管損傷であったかもしれませんが)、
というのが私の立場です。
これに、凝固異常の存在(活性炭の影響、テオフィリン中毒?…等々)があれば(ヘパリンも5時10分頃に5000Uをbolusで入れるようですし)、「なお一層止血困難な後腹膜出血」となるのは不思議ではない、ということです。出血を助長する要因が存在したので、大量出血となったのであろうな、と。それがなければ、途中で出血の勢いは弱まっていた可能性はあったのではないかな、と。

血尿については、中心静脈穿刺や腹腔内出血の存在とは無関係に、ミオグロビン尿で説明できます。たとえ横紋筋融解症ではなかったとしても、痙攣後ですので有り得なくはないのでは、と。血管損傷で漏れた血液が”膀胱内に戻って”尿中に出る、という想定よりも説得的です。実際、痙攣を起こすまでは「血尿」は認められていませんでした。
原因薬物はテオフィリンか他薬剤なのかは不明ですが、テオフィリン中毒による痙攣に備えて多分ジアゼパムを痙攣発作前から入れていたと思われます。判決文中P4の争点2において、原告側主張(カテ挿入前に薬を入れておけ)に対して被告側は『挿入以前に相当量の抗痙攣薬が投与されていた』と述べており、午後4時20分より前までに使用されていたのであろうと思われます。そしてP11では、『午後7時頃から全身性の痙攣が見られたが、セルシンの投与により改善した。』と述べられているので、多分、この時以前にもセルシン(ジアゼパム)を使っていたのではないかな、と推測しています(ミダゾラムのような別なベンゾジアゼピン系かもしれませんが)。これも横紋筋融解症(それとも悪性症候群?)のリスクとなっているのであれば、原因薬物を特定できないにせよ、現象の説明としては採用可能であると思います。



続々・本当に血尿であったのか

2007年05月19日 18時36分55秒 | 法と医療
続・本当に血尿だったのかの記事にコメントを頂戴いたしましたので、記事に書いてみました。


僻地外科医先生

わざわざご回答下さり有難うございます。
いくつか確認させて頂ければと思いますが、ご無理なさらずともよろしいです。


>「血液凝固障害がある場合」にはわずかな静脈損傷から大量出血をきたすことがあります。例えば、ワーファリン(血液凝固阻害剤)内服中に、ごく軽い腹部打撲から巨大な後腹膜血腫をきたした事例が報告されています。

私の記事中には、外傷・出血傾向等の出血をきたす積極的な要因がないものであっても「後腹膜血腫」を生じるという症例の報告を挙げております。何もなくても生じるのであれば、(軽度であっても)外傷があること、ワーファリンを服用していること、という要因があれば尚更血腫を生じるリスクは高まると考えるのは自然です。ご指摘の血腫を生じた症例では、出血はどうなったのでしょうか?やはり止血せずに、開腹手術を行って血管縫合等を行ったのでございましょうか?それとも、出血に気付くことなく、血腫は短時間で増大して出血性ショックで死亡に至ったのでありましょうか?ワーファリンを服用していたのであれば、休薬して日数が少し経過しないと下手に開腹もできなでしょうから、血管損傷部を見つけ出して止血するのは難しいようにも思えます。そうであれば、出るのが自然に収まる(弱まる)のを待つしかなさそうにも思えます。

血管壁破綻(本件争点の損傷も含め)によって出血があること、出血傾向であれば自然止血困難で血腫を生じる可能性はあること、それは当然でありましょうが、非常に短時間の間に出血量が2000以上も出るということは想定し難い、ということを申し上げています。血腫が増大していくに従い、圧迫効果は出てくる可能性はあるので、ジワジワ出るのはあっても「ジャージャー」出るというのはどうなのかな、ということです。

午後6時過ぎに撮影されたCT像に、それほどの大きな血腫が映っていたのでしょうか?もしそうであれば、「出血」として気付けたはずであると思うのですがいかがでしょうか。その僅か40分後には血圧降下が起こっており、この40分程度の間にそれこそ大量に出血したことになるのではないでしょうか?



>>そうであるなら、裁判所が考えた「血管損傷→腹腔内出血→膀胱に入る→血尿」というおよそ非現実的な想定は採用できないでしょう。
 判決文のどこにも上のような想定は書かれていないと思いますが・・・。

これはご指摘のように書いておりませんでした。失礼致しました。
後腹膜腔の出血(カテ挿入で血管損傷させたからだ、というのが裁判所のご意見)とは別な出血原因がないのであれば「後腹膜腔に血液が溜まる→腹腔・膀胱内に見られた出血→尿と一緒に出た」ということを間接的に認めるものだと解釈致しました。判決文中「P19のオ」の辺りに書いてある内容を考えておりました。ただ、裁判所は膀胱内等の出血原因が”他にあったとしても”、「少なくとも後腹膜腔に生じた出血は血管損傷によるものであったと認められる」としていて、他の出血については「余り問題にはしない」ということなのかもしれません。

両側血腫についてはご教示の通りかもしれませんが、やや疑問は残っております(笑)。鑑定ではCT画像について、カテ留置のことでどのように見えるとか色々と判決に出ておりますが、そこで「大きな血腫形成」が問題に上がってきていないことを考えると、恐らく「殆ど映っていなかった」としか思えないのです。正中を越えて左側にも大量に貯留する程、突っついた(?)血管壁から出血があったというのは、どうなんでしょうか、と疑問に思う所以です。ただ、本格的な凝固異常の状態というのがどんなことになるのか、想像もできませんので…



3)の後段というのが、何処なのかちょっとよく判らなかったのですが、被告側がDICを否定していたことでしょうか?判決文のP7の争点5の部分で、被告(病院)側主張でDICではなかった旨述べていたと思います。
その前となれば、テオフィリンのPDE阻害作用は薬理学的にはほぼ肯定的と思いましたが…



後腹膜腔の大量出血についてですが、確かに剖検での所見でもここに血液貯留が見られたことは確かであり、この出血原因が「血管損傷であったか否か」ということで、僻地外科医先生も「血管損傷」については肯定、ただし「痙攣時にカテ先で損傷」という判決とは別な原因を想定しておられる、ということですよね(被告側も同じような主張をしています)。
ここが、やや疑問なのです。挿入したカテ先で、若年男性の割と太い血管が破れるものなのでしょうか?DM持ちの年寄りのようなボロボロの血管とかでもないのに、というのが引っ掛かります。カテは体動があっても長期間留置に耐えられるように加工されているでしょうし、それほど簡単に血管壁を突き抜けるのであれば、痙攣だけではなくて、似たような状況―例えばバッキングとか―では毎回危ない、ってことになりませんでしょうか?
6時過ぎのCT像で右側骨盤内に血腫の存在を認めているのであれば、4時45分過ぎ~CT撮影時までに痙攣発作がはっきりと生じている必要がありますが、それは認められません(裁判所認定のごとく、留置したカテ先が血管壁を破るという可能性は少ないのではないかな、と)。もしも特別な血管病変を持たない若年者において、中心静脈留置のカテーテルが血管壁を突き破り出血を生じた例というものがあるのであれば、それは製品としてよほどの欠陥品であるとかの問題になるのではないでしょうか?そういう報告例は複数見られているのでしょうか?

この「カテ先で血管壁を突き破った」という前提を支持する限り、裁判所の言い分の方が有利に思えます。記事の参考文献の記載にもありましたように、後腹膜腔への出血(後腹膜血腫)は外傷や顕著な血管損傷等出血源が明らかではなくとも、そもそも起こってしまうもの、と考えられるのですから、カテの挿入の有無には無関係に生じうるものである、ということは言うことができると思います。

本来無関係な出来事が偶然にも同じ時期に起こってしまうと、それらは何かの関連性を有しているかのようにも見えるのですが、そうとも限らないことは多々あるでしょう。変な喩えですが、町田の立て籠もり事件と長久手町の事件は近い時期に起こっていますけれども、両者には関連性は全くないにも関わらず、例えば「町田で警官射殺に失敗したので、その仇討ちの為に長久手の犯人が犯行に及んだ」「町田の犯人が長久手の犯人に銃を横流ししていた」などというストーリーを考えてしまう、ということです。

本当にカテ挿入で損傷した血管からジャージャー出ていたのであれば、解剖した時の肉眼的所見からも「比較的大きな血管に破綻(損傷)部分があって、そこからの大量出血があった」ということを確認できそうに思えます。ところが、そうではなかった。原因不明に起こる後腹膜血腫のできる様と、とてもよく似ているように思えるのです。もしそうであれば、出血源をマクロ的に確認・同定することは困難である、という特徴も一致しているので、現象として理解でき得るのです。左側にまで広範囲に広がるほどの出血点だったのであれば、かなりの勢いで出続けることになり、そうであるなら肉眼的にもかなりハッキリした血管壁の損傷があるはずではないか、と。


何れにせよ、私のような専門外の人間では限界がございます(笑)。申し上げたいのは、反論する(病院)側の主張が裁判所の考え方を覆せるに足る論拠を持つことが必要なのではないかと思います。
ご面倒にも関わらず細かく教えて頂き、有難うございました。




続・本当に血尿だったのか

2007年05月17日 18時33分23秒 | 法と医療
ここのところ記事に書くよりも、コメントの方を多く書いてしまいました。

元検弁護士のつぶやき 司法と医療の相互理解とはなにか?commentscomments

続きを書こうと思いますが、また長くなりそうなので(これまでにも十分長く書いてしまっていますが)、記事にしてみます。
以前に記事(本当に血尿だったのか)に書いた時にはニュースだけしかなかったのですが、今は判決文が紹介されていることを知り、読んでみました。

平成15年(ワ)第202号 損害賠償請求事件

改めて感想を述べれば、亡くなられた患者の方はまだ若く残念であったと思われますが、これを救命するのは極めて困難であったのではないかと思います。いくつか論点を分けて述べたいと思います。


1)中心静脈カテーテルの穿刺

裁判でも争点となっていたが、私の意見では「主要な論点、原因とは思われない」というものです。前から記事に書いてたのと同じです。血管損傷があったとして、それが「生命の危機を及ぼす重大な出血」を招きえたか、といいますと、否であろうと思われるのです。静脈性の出血で、大きな外傷でもないのに相当量の出血がある、ということ自体が想定として困難です。裁判所の認定のように、仮に血管損傷があって腹腔内に出血したにせよ、それが尿中に出るという整合的な理由は見当たりません。裁判所は「否定する有力な学説等意見がないのであれば、否定しきれない」=腹腔内の出血は膀胱などを通って尿に出たんだと肯定、という態度を取っています。これを直ちに責めることはできないのかもしれませんが、現実には考え難いでありましょう。


2)剖検の結果

重要なのは剖検における所見でした。判決文にあるのは次のように書かれていました(P11)。
『小骨盤腔内並びに両側腎下極に至る後腹膜腔内出血、小骨盤腔から腹腔内への血液の波及、膀胱壁全層の彌漫性出血等を認めたが、血管壁破綻を思わす所見は認められず、Dの直接死因につき、テオフィリン中毒による急性左室不全並びに出血性ショックと推定されるが、血液凝固能低下に基づく出血とテオフィリンとの直接の因果関係については、明快な結論がえられていないなどと報告』

ここで、もう少し絞って見ていくこととします。

○所見1:血管壁の破綻についての所見は認められなかった
大量出血の原因と裁判所が認定しているのは、そもそも血管損傷があったが故に出血を来たした、ということであろう。しかしながら、解剖所見ではそういう所見がなく、従って血管損傷とそれに続発する血管壁破綻性の出血というものは解剖の上からは根拠がない。

○所見2:膀胱壁全層の彌漫性出血
この解釈は私のような個人では難しいのですが、裁判所が認めるような「血管損傷→腹腔内出血→膀胱に入る→血尿」というものは考えられないでありましょう。私の意見としては、起こりえる要因としていくつか考えられると思います。恐らく尿量を見るので尿道にはバルーンカテーテルが挿入されていて(要するにおしっこの溜まる袋が膀胱とダイレクトに繋げられているということ)、それがあったが故に「血尿」がバッグに溜まるのを目視できたのでしょう。
ですので、要因としては、尿道カテーテルが入れられていたこと、判決文で膀胱洗浄を行った旨被告側主張があること、というのが考えられるのではないでしょうか。膀胱内面の微小な出血点が多数あった、ということなのではないかと思いますので、これは上記2つの要因によっても惹起されうるのではないのかな、ということです。しかも、患者は痙攣発作を2度起こしているので、かなり強力な腹圧がかかったであろうと推測され、これも膀胱内に強圧がかけられた大きな要因なのではないかと思えるのです(きっとこれが第一番の原因なのではないかと)。
そうであるなら、裁判所が考えた「血管損傷→腹腔内出血→膀胱に入る→血尿」というおよそ非現実的な想定は採用できないでしょう。

○所見3:両側腎下極に至る後腹膜腔内出血
最大のポイントはここであろうと思いました。何が一番気になったかと言えば、「両側腎下極」という部分です。
何故「両側」であったのか?
これは、血管損傷とは必ずしも一致しない重要な所見であると思われました。
中心静脈穿刺を行ったのは右側であって、出血があるとすれば「右側」ということになります。ところが「両側」の腎臓周囲に見られているのです。判決文中にあったカテ挿入後のCT画像なのですが、撮影時間が午後6時頃ですので、その時点で血腫がどのように映っていたのか判りませんが、その時点で片側だけであったのか両側であったのかが気になります。たとえ、カテ挿入で小さな血腫が右側に形成されたにせよ、その後左側にも血腫が形成されるとなれば、右側の出血点だけではかなり困難なのではないでしょうか。
(ところで重量は測定していなかったのでしょうか?推定される出血量が書かれていないので判らないんですよね)

更に、後腹膜腔内出血についてですが、これには原因不明の出血を生じ血腫が形成されている例は複数あります。
原因不明の後腹膜血腫

これをお読み下さるようお願い致しますが、通常こうした特発性後腹膜血腫はできるのが片側です。非観血的治療法も有り得るようですので、手術適用とばかりとは限りません。出血源が不明であることも特徴的であり、手術や解剖所見でも発見できないと報告されています。また、外傷などで後腹膜血腫の形成となるような場合、タンポナーゼ様となって自然止血する例は少なくないでしょう(それ故非手術症例がある)。
事件の患者の場合には、血腫の形成は両側に及んでいるので、血管損傷(外傷などでも同じ原理です)で出血したのが原因とも言えないのではないかと考えました。それか体幹中心付近にある出血源で、出血範囲が両側方向に広がっていった、という場合でしょうか。それ以外でも、例えば両側性の特発性腎出血のような特別な状態であった、とか、腎臓周辺に見られる血腫については、カテ挿入に伴う血管損傷とは別物である可能性はあるだろうと思います。


3)テオフィリン中毒と出血

裁判ではテオフィリン中毒であったことは測定された血中濃度から認定されており(原告側主張は中毒なんかじゃない、検査数値が間違っている、という主張をしていたが、データを計測ミスと言い切るのであれば、全ての場合に通用してしまう。「はい、15キロオーバーで速度違反」とか言われたら「測定した機械のミスだ、その数字はウソだ」とか)、これはほぼ間違いないでしょう。裁判所の主な言い分としては、『テオフィリン中毒により、出血、血液凝固異常等を生じ、出血性ショックを発症し得るとの医学的知見が存在しないこと』を剖検した医師の意見を参考に採用している。

○凝固系の異常の可能性はある:
テオフィリンの薬理作用としては、普通は喘息治療薬としての効果が有名であるが、一応強心薬としての作用も有していると考えられている。この作用機序については、完全に明らかとなってはいないが、主にフォスフォジエステラーゼ(PDE)阻害作用によるものであると考えられている。シルデナフィル(商品名では有名となった「バイアグラ」)は同じくPDE阻害剤であるが、PDE-Ⅴ選択的阻害作用を有している。PDEにはサブタイプがⅠ~Ⅴまで(発見されて)あり、その5番目のタイプだけに効くのがシルデナフィルで、テオフィリンは恐らくPDE-Ⅲの阻害作用を有しているといわれる。
同じくPDE-Ⅲ阻害作用を有する強心薬にはアムリノンなどがあり、このタイプの薬剤は抗血小板凝集作用を有していると考えられる。ただし、この作用としてはそれほど強いものであるとは考えられていない(代表的なアスピリンやワーファリンなどの方が出血傾向は強いであろう)。一般的には通常量での凝固系への作用を考えたり研究されたりはしているだろうが、致死量の場合にこうした凝固系への作用の強さがどうなのかという研究はできないだろう。なので、実際に凝固系への影響がどうであったかを評価することは難しいのであるが、可能性としてはテオフィリン濃度が上昇するに従いPDE-Ⅲ阻害作用も強まる方向になる(逆はないだろう)のであり、結果としては出血傾向が助長され得ると考えられる。

DICであったかどうかは不明ではあるが、被告側主張としては「DICではなかった」としており、これは血小板数や血中フィブリノーゲンが98であったことから否定的立場を取っている。厚生労働省の診断基準でも、DICスコアが基準には到達していたとも言えないかもしれない(全ての検査結果が揃っていた訳ではないので、一概にはいえないかもしれないが)。


4)横紋筋融解症と血尿

これも重要な論点なのですが、確認できる手段はないので、あくまで推測の域を出ません。
膀胱壁の彌慢性出血程度であるなら、多少色が付く程度ではないかと思われ、それが本当の意味での「血尿」であったとも思えないのである。裁判所はこれを「血液+尿」という考え方に立ち、出血性ショックで死亡したのであれば「どこかで血が出てないとおかしい」、即ち「出血は尿と一緒に出ていたじゃないか」というストーリーなのであろうな、と思えました。

しかし、私の意見としては、今でも血尿ではなく「ミオグロビン尿」だったのではないかな、というのは変わりません。
尿の色、代謝性アシドーシス、痙攣があったこと、使用されている薬剤、などの状況証拠からは、それが最も整合的説明となると思えるからです。テオフィリンが横紋筋融解症のトリガーとなっていたか、疑問の余地は残されているのは確かである。これまで取り上げてこなかったもので、判決文を読むと気になったがありました。

判決文によれば、午後4時20分頃と40分頃に痙攣発作が発生していた。事前に抗痙攣薬を入れていたかもしれないし、発作後から何か使用したのかもしれない。これは中身が書かれていなかったので何とも言えないが、可能性だけ述べておきます。
通常、痙攣に対しては、ジアゼパムのようなベンゾジアゼピン系薬剤とか、抗てんかん薬のような薬剤を用いるのではないかと思ったのです。こうした薬剤は横紋筋融解症ではなくても、所謂「悪性症候群」のような病態を生じることがあります(コメント欄でも教えて頂きました)。つまり、危険性のあった薬剤を考えてみると、「テオフィリン」(勿論致死量に達するほどの量だ)、「抗痙攣薬」(ベンゾジアゼピン系?)、それとも両方かもしれませんが、有り得ない話ではないのです。具体的な症例として、次のものがありました。

横紋筋融解症・肺出血症例
この中で症例2では肺出血を生じており、剖検でも死亡原因として推定されています。本件とは条件が異なるので、一概には言えないですが、有り得ない話ではないということはご理解頂けるのではないかと思います。
つまり、横紋筋融解症もしくは悪性症候群の可能性が考えられ、テオフィリンや抗痙攣薬の使用や痙攣発作の影響ではないかということです。


5)なぜ死亡に至ったのか

顕著な症状の変化は、午後6時40分頃の血圧低下でした。恐らくこの頃から、ほぼ出血が「止まらなくなっていた」という状況に陥ったのではないのかな、と。それまでは、テオフィリン中毒と凝固系の軽度異常でどうにか持ちこたえていた(血液吸着などが功を奏したのかもしれません)のですが、時間経過と伴に全身状態の条件悪化が進んでしまったのであろうな、ということです。決定的となったのは、痙攣発作が起こったことだったのではないかと思われます。これを境に「後腹膜腔への出血」原因が発現、横紋筋融解症(もしくは悪性症候群?)の明らかな発現、となっていったのではなかろうか、ということです。
この両者の発現により、いよいよ血液凝固系の異常が顕著となって、(血圧が落ちた)6時40分頃から本格的に出始めたので血圧降下に至ったのではないでしょうか。そうであれば、撮影したCTにも両側性の血腫を疑わせる像は、その時点では映っていなかった可能性はあります。
(原告側主張では6時40分の時点で出血量が2000はあったはず、と述べているのだが、この根拠が全くわからないのです。まさか血尿の量をカウントしてバッグ一杯になっていたから2000とか言ってるのかも、と勝手に推測してしまいました。これは血液の量ではなくて尿量だろうと思いますので。)
出血は初めのうちは後腹膜腔(後には肺にも出血したでしょう)で起こっているので、そこに多分貯留していったのではないのかな、と。治療を行っている側にすれば、外傷のようにドバドバ出てるのがハッキリ判ればいいのですが(原因も対処も決まっているので)、全く見えない場所に大量に出血していて、同時に元々の中毒と横紋筋融解症のような病状も同時進行で起こっているとするならば、「何が原因なのか」ということを大変見え難くしていたのではないのかな、と思えるのです。

結局の所、争点となっていた「カテーテルによる血管損傷の有無」というのは、殆ど関係がないとしか思えません。そうではなくて、後腹膜腔への出血を予測・診断できたのか、原因を特定可能であったのか、治療法の選択として他の取りえる方法があったのか、ということではないかな、と。いずれも、「困難であった」としか思えないのです。
家族などにとっては、「血液吸着」とかのワケのわからん治療をやるまでは何もしない方が生きていた、とか、余計な治療をされたから死んだんだという見方ができてしまうのは判ります(時間経過に沿って医療行為を書いていくと、あたかも医療側が何かしたので、その結果何か悪くなったように見えてしまいます)。しかし、全部の薬物が青酸カリのように「飲んだ→ううっ苦しい→目の前で死んだ」みたいにはならないのですから。割と時間が経ってから死亡する例だって少なくないでしょう。そうは言っても、遺族にそれを理解せよと求めるのも難しいのは確かでしょう。



裁判所は独自の医学理論を確立する機関なのか(ちょっと追加)

2007年05月09日 23時55分41秒 | 法と医療
このような判決存在自体に疑問に思うのだが、裁判所は「完璧な治療法」を予言することができるという見本である。

医学部にも色々と法学的に検討している人たち(法医学者?)もいるであろうはずなのに、何故か判決文に対する批判というのは行わず、主に「判例からわかること・言えること」というのを要約しているだけなのであろうか?何を研究しているのか、とは思う。判決文に対して「それは間違っているのではないか」という意見表明を、ハッキリと行わないからこうした判決が生み出されるのだろうか?


平成14年(ワ)第543号 損害賠償請求事件(千葉地裁判決)

是非とも原文をお読み頂きたいのですが、事件について大まかに言いますと次のようなものです。

ある患者が過去に異型狭心症と診断され、精査の結果、「冠攣縮性狭心症」(以下、VSAと略)と診断された。その後に被告医師の病院に失神発作で入院して、「ミリスロール」(一般名では、ニトログリセリンのこと)点滴等の処置を受け病状が改善したので退院となった。
更に約20日後に具合が悪くなり救急搬送されてきた。この時にはミリスロールの点滴は行わず、他の薬剤を使用した。病状が少し落ち着いてきていたと思われたその数時間後に、発作を生じて心肺停止となって死亡した。

この事件での争点としては、「ミリスロールの点滴を行わなかったこと」が過失と認定されていることである。被告側主張としては、患者がミリスロールの点滴を嫌がっていたこともあって、別な投与法にしていたということである。被告側の行った治療を見ると、次のようになっていた。

・ミリステープ(ニトログリセリンです)2枚貼付
・シグマート(硝酸誘導体で狭心症の治療薬)内服
・ヘルベッサー(カルシウム拮抗薬)内服
・発作時にはミオコールスプレー(噴霧式のニトログリセリンのこと)を2回まで使用可

この処置により午後には症状が消失し、家族が病室に来た時には「(病気・発作が)軽かったのかな」と答えている。
その数時間後の夕方トイレに行った時に発作を生じて倒れ、発見した看護師がミオコールスプレー1回使用したが改善せず、その後もう一度使用するも改善されなかった。医師が駆けつけてニトロペン(ニトログリセリンの錠剤)1錠を舌下投与したが、血圧・脈拍低下し意識消失となった。プロタノールやボスミン静注、心マッサージするも回復せず死亡した。


裁判所の判断は鑑定を見て行われているのだが、その理屈(適用の仕方?)は自己にとって都合の良い解釈の仕方であり、極めていい加減な印象を受けるのである。「ミリスロールの点滴をしていれば、発作を防ぎえた可能性が高い」とする結論を出しており、3つのうち2つの鑑定でそうとは述べられていないのに、である。裁判官にとって都合のよい部分だけを恣意的に取り出してきているかのようである。

論点として、

①冠攣縮(冠スパスム)を予防する為に、効果が高いとされるヘルベッサー(判決中では有効率90.2%となっている)が投与されていた

②ミリステープとシグマート併用でニトログリセリン及び硝酸誘導体は通常量が使われていた

③VSAがあれば心肺停止に陥る可能性があり、中にはICD(植え込み型除細動器)植え込みが行われる症例がある

というものが考えられる。


①について:

VSAの予防としては、a)ミリスロール点滴静注と、b)カルシウム拮抗薬内服との比較検討の結果、「aを選択せず、bを選択したことは誤り」か、「bを行うか否かに関わらず、aをしなかったことが誤り」ということを立証せねばならないのではないか。裁判官の理屈は「併用療法が行われていることがある」ということだけをもって、「aをしなかったことが誤り」として過失認定している。そうであるなら、「異型狭心症」に対する処置としては、「ニトログリセリン点滴静注」という絶対的治療法を確立するものではありませんか。他の薬剤を併用するか否かはほぼ無関係ということである。これが正当な判断と言えようか?
冠スパスムに対してファーストチョイスは「カルシウム拮抗薬」であり、本件患者においてもスパスム予防には適していたと考えてよいはずである。にも関わらず、この選択を上回る治療法としてaを絶対的要件にしているのである。


②について:

ニトログリセリンの使用についてであるが、点滴静注という投与方法ではなく経皮的投与法を行っていたのであるから、「ニトログリセリン」自体は確実に投与されていたのである。裁判官が大好きな「併用療法」として現実に行っていたのである。にも関わらず、「点滴静注」が絶対で、経皮的投与はダメだということを認定しているのである。そうであるなら、点滴が絶対でテープがダメなことを立証する必要があるだろう。点滴の方が調節性や投与の確実性は有利であるけれども、テープ使用によってニトログリセリンは常用量が体内に取り込まれていたことは普通に予想できるのであるから、「使用量がもっと多くなければならなかった」ということを論証するべきであろう。テープが不利な点は、貼ってから時間が経過しないと血中濃度が上がってこないことがあるが、発作時にはスプレーや舌下錠でも増量可能であるので、そういう対応がなされることは普通に見られる。点滴しておけば、これら増量が必要な時には即投与できるという利点があるので有利に違いないが、発作を防ぐことから考えるならばこれを過失といえないのではないか。更に、発作予防に関して「ニトログリセリン点滴静注」と、「テープ使用+硝酸誘導体(+カルシウム拮抗薬)」との比較で、前者をやってさえおけば防げた、ということを立証する必要がある。そんなことが果たしてできるのだろうか?無理だとしか思えないのだが。

実際に、夕方倒れた時にはニトログリセリンがスプレー2回、舌下錠1回が使用されており、タイムラグはあるものの薬剤効果はあるのであり、これが点滴によって投与されたとしても薬物としての効果自体にはあまり違いはないはずである。従って、点滴でニトログリセリンを投与したとしても、スパスムが起こることを防げなかった可能性はあるだろう。


③について:

若年者においてもVSAの発生は見られ、心肺停止状態で搬送されてくる例はいくつも存在する。心停止に至るのはスパスムの結果、致死的不整脈の発生があることが考えられるのではないか。それ故、ICDの植え込みが行われる症例がある(薬物療法のみの場合も勿論ある)のである。スパスムを完全に予防できないとか、致死的不整脈発生を防げないといったことがあるので、「ニトログリセリンの点滴静注」さえやっていれば約70%の確率で防げる、などということはないのではないかと思うが。心配停止状態で救命できるかどうかは、その時になってみなければ判らないだろう。本件の場合には、それができなかった、ということであって、ニトロさえたくさん入れておけば起こらない、というようなものではないだろう。
参考までに、原告側は「ニトログリセリンを使いすぎてる」という主旨の主張を展開してさえいたのに、これ以上点滴で入れていたならば何と言ったであろうか?

因みに、以前取り上げた裁判(裁判における検証レベル)では、通常の使用量の範囲内であったにも関わらず、「必要最小量になっていなかったのが心停止の原因」であり過失認定されているのである(笑)。別々な裁判官の判断だから、違うことを言うのは仕方のないことなのであるが、片方は「必要最小量でなかったことが過失」で、別な方は「点滴をして、もっとたくさん入れておけば防げた」というわけですね。これほど正反対のことを言うのはなぜなのか疑問である。

通常のニトロ使用量であったら、それでは足りないんだ、もっと入れていれば発作は起こらなかったんだ、と都合よく法的判断を下すわけですね。それならば、裁判官同士で教えてあげればいいのではありませんか?この人における「ニトロの必要最小量は~mg/h(それとも○○γとかかな?)であるから、それ以上使うな」とか。それを超えるならば「必要最小量にしてなかったので過失」認定ですけどね。でも発作予防には「もっと多く使え」と。裁判とは、後から理屈を考えるので、何とでもいえるのかもしれませんね。


こうして見れば、裁判所の判断というのは、全くの独自の理屈を展開しているのであって、専門的知見に基づくものとは到底言うことはできない。だが、一般人がこれをいくら非難したとしても、変えようがないのである。裁判官の判断だからである。法学関係の専門家が判決の問題点について指摘しない限り、他の人々にはどうすることもできないのである。



医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その6

2007年05月04日 03時02分05秒 | 法と医療
これまでの続きです。

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その2

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その3

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その4

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その5



5)医調委における審判

患者・遺族側、医療側、行政機関等から「調査申立」があれば調査開始となる。あらゆる証拠に基づいて、事実認定と過失責任の判断を行う。最終的には「事故調査報告書」として厚生労働大臣に提出することとする。この事故調査報告書の確定前には、当事者の意見を述べる機会を与えなければならないものとする。ここで双方から医調委に対して反論等があれば出されることになる。この意見を必ずしも参考としたり反映する必要はなく、医調委は独自の判断で「事故調査報告書」を出すものとする。この段階で、医調委の決定に従うとするならば、この結果に基づいてこれ以後の処分等を進めていく。

しかし、事故調査報告書の内容について同意できない、ということも考えられる。それは患者・遺族側かもしれないし、医療側かもしれないが、要するに「納得いかない」と考えるならば、審判請求を行う。これは独禁法の審判と同じようなものを考えている。呼び名とか制度として別な形が望ましければ、違う形式としてもよい。取りあえず今は審判の形を取るものとして話を進める。事故調の場合には、審判という手続はないので、事故原因や事実関係の認定などに異論や係争がある場合には、どのように解決するのかちょっとよく判らない。例として、患者側は「そのような説明を聞いてなかった」と言い、医療側は「説明した」と主張するような場合には、水掛け論的になるので事実関係の認定は難しくなる。他にも、患者側が「輸血したのは~をした後だった」と主張し、医療側が「いや、~する前だった」というような食い違いなどがあるというようなこともあるかもしれない。過失責任の判断において、これら事実が重要な論点であれば、その事実関係の係争は残される可能性はある。

そこで、不服であると考えるならば審判請求を行って、審判を行うものとする。これは実質的には裁判と同じようなものである。形式的には公取委の行っている審判と同様でよいのではないかと考えている。ここで事実認定や過失責任について確定することとし、「審決」が出される。判決みたいなものである。基本的には以後の裁判においても、審判での事実認定は拘束されるものとする。この審決に対してどうしても不服であるとするならば、以後は裁判での係争となる。これも公取委の手続と同じである。

ここまでの流れをまとめると、
①調査し、調査報告書案(仮称)ができあがる
②この報告書案に対して意見を述べさせる
③提出するべく報告書をまとめる
不服がなければ、以後の処分等に入っていく。
④不服であれば審判請求が出される
⑤審判の結果「審決」が出される
不服がなければ、以後の処分等に入っていく。
⑥不服であれば訴訟提起となる

⑥以降の裁判は高裁からスタート(つまり2審から)となります。被告は医療機関側とかではなくて、医調委となります。行政事件訴訟法に規定される抗告訴訟ということになります。上述したように事実認定は拘束され、立証責任は原告側が負うこととします。

大半は③又は⑤の段階で同意が得られることになると思われ、その時点で「事故調査報告書」は確定し、厚生労働大臣に提出されるものとします。この調査報告に基づき、刑事・民事・行政責任の範囲を決めていくことになります。


6)刑事告発

この条件としては、
①看過し難い重大な過失がある
②犯罪性がある
③社会的に重大と考えられる医療倫理違反
のいずれかに該当するものであるとします。

医調委の告発なしに、主たる違反類型の刑事処罰はできないものとします。この点が重要で、医調委が「刑事罰をもって臨むのが相当」という判断がなければ刑事罰を与えることはない、ということが基本になるのです。ここでは社会的背景や患者や医療機関の置かれている状況などといった「価値判断」も含まれることになるので、法解釈の適否という不毛な現状からは脱却できるであろうと思われます。


7)民事上の責任

「事故調査報告書」に基づき過失が確定しますので、大きく2つに区分されます。「過失あり」と「過失なし」です。「過失あり」の場合は損害賠償請求が可能となりますので、後は賠償額の問題になります。「過失なし」については、「無過失保障対象」か「何もなし」(以後、「却下」と呼ぶことにする)のいずれかに区分されることになります。まとめると、

①過失あり―賠償
②過失なし
 ア:無過失保障対象―賠償
 イ:却下―賠償なし

となります。
ここでのポイントとしては、②のアであり、過失がなくとも保障するべき対象が存在する、ということです。これは概要の部分でも触れましたが、医療行為に伴って生じる合併症で被害を受けてしまうものを対象とします。具体的には、福島での事件のような、「想定外の大量出血」といったものです。1万例に1例とか数例程度でしか発生しないような、稀な医源性の合併症によって引き起こされるものも含まれます。

従って、②のイ以外では賠償額の問題に収束できますので、これ以後には事実関係の係争はなく、交渉は比較的容易になるのではないかと思われます。手続としては、裁判所における示談とかADRのような仕組みを用いることとし、そこで賠償額の決定を行うものとします。予め医調委が「参考となる賠償額」を提示(報告?)することにしても良いかもしれません。その賠償額では不服である場合には、損害賠償請求訴訟の取扱いとし、通常の裁判と同じく行いますが、ここでも「事実認定の拘束」を受けるものとして、それを争うことはできないものとします。単純に賠償額のみ争う、ということです。これであれば、裁判は簡潔に済むことになるであろうと思います。この可能性は少ないのではないかと考えています(多くの遺族は額を不服として医療裁判を行っていることは少ないように思われるので)。

無過失保障において問題となってくるのではないかと思うのは、薬剤の重篤な副作用の取扱いについてでしょうか。発生頻度にもよりますけれども、副作用について完全にゼロにはできないとして、誰がどの程度まで責任を負うべきなのか、ということが問題になってくるからです。医療行為に起因するものであれば、医療従事者の賠償責任保険で、ということで対処可能でありましょうが、薬剤そのものに起因している場合には投薬した医師等に直接の原因があるわけではありません。そであるなら製薬会社が賠償責任を負うべきということも考えられ、すると別に保険を整備すべし、ということになるのかどうか、それとも同じ保険制度にしておいて、製薬会社に保険料負担を求めるべき、ということにするべきなのかどうか、ここら辺はよく検討が必要になるのではないかと思います。保険制度全体の制度設計について、よく検討し見直しを図るべきなのかもしれません。「賠償責任保険制度」の設計という論点については、医療の問題とは少し離れますので、専門家の方々に考えて頂ければと思います。


8)行政への対応

医調委の大切な役割としては、行政施策への働きかけができることがあります。従来の裁判であれば、当事者間の解決に繋がるとしても、行政施策の変更というのは殆どが期待できませんでした。それを改めよう、ということです。医調委の対応について、論点ごとに述べてみます。

①注意(警告)
事故調査の申立がなくても、調査研究(前述した2)の⑥)によって医療事故を発生させる危険性があると考えられ、医療機関において注意するべきであると認める時には、注意(警告と呼ぶのか?)を行うことができる。厚生労働省は医療機関に対して、この注意(警告)を通知・指導する。医療事故を未然に防ぐことを目的としたものであり、紛争削減に資するものである。

②勧告
事故調査報告書に基づいて、当該医師及び医療機関に対して適切に対処することを求める勧告を厚生労働省に行う。勧告内容としては、ア行政指導を求める場合、イ改善命令を求める場合が考えられる。アに該当するのは、無過失保障の対象となったものや過失内容が軽微であって、改善命令を求めるには至らない場合とする。これら以外で過失が認められたものについては、イの改善命令を出し再発防止策を求めるものとする。この場合についても、「~をしなさい」と行政機関側から命令するものと、「改善しなさい、よってその改善策を策定し提出しなさい」というものと分けた方がよいかもしれない。厳しいものは、例えば「別な専門医が着任するまで心臓外科手術患者の受け入れを停止しなさい」といった具体的命令が有り得るのではないかと考える。過失があまり大きくないならば、「~手術の実施環境を改善しなさい、その改善策を自分たちで策定して出しなさい」という命令で対処する、といった具合だ。

③建議
事故調査報告書で行政施策上影響の大きいものが原因となっていることが明らかとなった場合に、厚生労働大臣に対して建議するものとする。例えば、奈良県で「たらい回し」と報じられた事件のようなものであろうか。産科医療の救急搬送体制を都道府県が整備するべきである、といったことを求めるものである。或いは、○○の確率を低減する為に、「~ができる医療従事者を増やす施策を講じるべきである」ということを求めたりする、ということになろう。

この他、行政処分に関する意見(勧告?)を出すことが考えられる。医師個人に対しては、医道審議会への意見(勧告)を出す必要があるが、医道審議会の処分決定は年に1回とかなので対応が遅く問題があるかもしれない。医師個人への処分は、医師免許取消、医業停止があるが、これでは不十分であると考える。医業停止期間をもっと短くしてもいいので、医師の研修を義務付けて事故再発防止とすることの方が重視されるべきではないかと思われる。事故調査報告書が確定し医調委からの意見が出されたならば、処分決定を迅速に行い、比較的短期間(概ね3ヶ月以内?)の医業停止と同じくらいの研修期間を課すことにするべきである。研修は指定医療機関において行うものとする(事前に選定しておく。大体は大学病院とか大きな市中病院などで、実態的には研修医の研修機関とほぼ同じであろうか)。免許取消とか医業停止期間が長期に及ぶもの(大体1年以上?)は年に1回の決定でもよいかもしれないが、それ以下の処分については適宜決定を出すように変えるべきである。

医療機関に対する行政処分については、重いものであると保険医療機関の取消、病院の各種指定取消ということはあるが、必ずしも両罰的に(医師個人が処分を受けても医療機関にも責任があったと言えるかどうかは別問題の場合もあるので)処分をするべきものとは言えないだろう。事故原因の調査結果に応じて適切に処分決定がなされるべきである。基本的には、改善命令で対応することが多くなるであろう。


以上、制度について考えてみたが、専門的見地からの検討が必要であるし、もっと詳しい方々が検討するのが望ましい。
ただ、現状のままで放置しておくとか、不満を募らせていっても解決への道はほど遠く、何らかの「形」として提案できるようにする方が議論は進むであろうし、意見を受け入れられやすいのではないかと思う。その点だけ考えて、自分なりの考え方を書いてみた。

つぎはぎで書いたので、文体がオカシイ(いつもか、笑)のですが、どうぞご容赦下さい。



医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その5

2007年05月03日 22時22分08秒 | 法と医療
これまで、問題点について見てきたので、これからは制度設計について考えていくことにする。

1)概略

本シリーズで書いてきたように、医療側、患者・遺族側、司法側、行政側のそれぞれがバラバラになっており、これらを繋ぐ役割が存在していないことが問題の中心であると思う。そこで、これらを連結できる組織を整備することとする。この組織は委員会設置法で設置可能なものを考えている。米国の破産裁判所や日本の海難審判庁のような組織を作るよりも、委員会形式の方が設置が容易なのではないかと思う(現実にどうなのかは判らないが)。大雑把な組織の性格をいうと、公正取引委員会(以下、「公取委」と呼ぶ)や航空・鉄道事故調査委員会(以下、「事故調」と呼ぶ)を参考例としたものを想定している。

この委員会において、医療に関する民事訴訟の全てを処理することは想定しておらず、基本的には従来の民事訴訟は残される。定義は難しいのであるが、「医学の介入しない(介入するべきではない?)範囲」についての問題・係争は、通常の民事訴訟で処理されるということである。例えば、美容形成手術をした結果、患者が「術前に想定していたよりも美しい顔にならなかった、どうしてくれる、損害賠償せよ」というような主張をするような場合であろうか。

新たに設置する委員会の名称であるが、「医療事故調査委員会」とか「医事問題調査委員会」とか、適切な名称を考えて頂ければいいのではないかと思う。取りあえず、この委員会の名称を今後は『医調委』と呼ぶことにする。

医調委は患者・遺族、医師・医療機関又は行政機関の申立(申請?請求?、正確な呼び方は専門の方々に考えてもらいたい)があれば、調査を開始するものとする。医調委の調査によって事故原因の究明を行い、過失・責任等についての判定を行う。調査結果に基づき、「刑事告発」すべきと判断されれば、刑事処罰の対象として取り扱われる。それ以外においては、刑事処罰を受けないものとする。

医調委の調査結果から、過失認定、無過失保障、何もなし、の区分を行うこととする。過失があれば損害賠償請求の対象とするのは当然として、責められるべき重大な過失のない場合であっても「医療行為」に起因する合併症で被害を受けた場合には保障対象とする。このいずれかに該当する場合には、それ以後事実関係の係争は行わず、賠償(保障)額は示談(ADRのような制度?)か、その額が不服であれば損害賠償請求訴訟とする。過失責任がなく、また医療行為に起因した被害もない、「何もなし」である場合(呼び方として「却下」「棄却」とか似たような用語があるかもしれませんので正しく決めて下さればと)には、申立者には金銭は支払われないが、通常の民事裁判のような「裁判費用」が発生することはない(勿論、医調委で扱うべき事案に該当せず、ということもあるので、その時は通常の民事事件として裁判をやってくれ、ということになる)。

行政機関に対しては、調査結果に基づいて勧告・建議を出せることとし、必要な施策を講じることを求めることができるものとする。これを受けた行政機関(厚生労働省・厚生労働大臣)は、通知・通達を出したり、当該医師・医療機関に対して行政指導を行うことや改善命令(再発防止策の提出など)を出すものとする(都道府県・保健所等、下級機関でもよいだろう)。医道審議会に対しては、医師免許取消、医業停止、医業停止+指定する研修機関での再研修義務付け等、勧告できるものとする。

以上のように、刑事・民事・行政責任について、医調委で総括的に対応していくことで、これまでよりも専門的な判断が可能になり、行政施策上において「変えていける」可能性は高まるであろう。事故再発防止という観点からも、刑事・民事訴訟に頼ってきたことに比べれば望ましいのではないかと思う。科学的立場からの原因究明、再発防止、行政施策、被害者の保障・救済、これらを一体的に行えるようになること、これが重要であると考える。


以下からは各論的に述べていくこととする。

2)医調委の目的・役割

主として2つを考えている。1つは従来から存在してきた医療事故に関する紛争である(無過失であっても取りあえず事故と呼ぶことにする)。もう1つは、医療行為についての違法性の有無の判定である。参考までに、事故調の条文(設置法)を見てみると、次のように規定されている。

(所掌事務)
第三条  委員会の所掌事務は、次のとおりとする。
一  航空事故の原因を究明するための調査を行うこと。
二  航空事故に伴い発生した被害の原因を究明するための調査を行うこと。
三  航空事故の兆候について航空事故を防止する観点から必要な調査を行うこと。
四  鉄道事故の原因を究明するための調査を行うこと。
五  鉄道事故に伴い発生した被害の原因を究明するための調査を行うこと。
六  鉄道事故の兆候について鉄道事故を防止する観点から必要な調査を行うこと。
七  前各号の調査の結果に基づき、航空事故及び鉄道事故の防止並びにこれらの事故が発生した場合における被害の軽減のため講ずべき施策について勧告すること。
八  航空事故及び鉄道事故の防止並びにこれらの事故が発生した場合における被害の軽減のため講ずべき施策について建議すること。
九  前各号に掲げる事務を行うため必要な調査及び研究を行うこと。

これを土台として考えると、
①医療事故の原因究明
②医療事故に伴い発生した被害の原因究明
③再発防止
④施策の勧告
⑤施策の建議
⑥調査研究
ということになろうか。

これに加えて、事故調にない役割として、「⑦医療行為の違法性の有無の判定」を必須としておきたい(これはある種の「法令適用事前確認手続」(ノーアクションレター)にも該当するかもしれない)。これまでは厚生労働省の疑義解釈によって「通知」の形(通達もあるかも)で法令解釈が出されていたが、このレベルに問題があると思われるからである。厚労省の回答は実務とかけ離れているとか、実態にそぐわないとか、色々と問題が多すぎるからである。「内診行為問題」などがその1例である。従って、疑義については厚労省が受けるが、医調委に意見を求めることとし、医調委が「看護師は~をやってよい」という具合に判断を下してそれを厚労省に伝え、最終的にはその意見を元に厚労省が回答する、ということにするべきである。個別具体的な医療行為の違法性を判定するのは、専門性と豊富な臨床経験が必須であり、それがなければ適切に判断することはできない。

以前、看護師の内診行為問題で医師が起訴された刑事事件があった(参考記事)が、この事件では「保健師助産師看護師法第30条違反」ということで起訴された。「助産師以外は内診行為を行うことが違法である」とする解釈を出した厚労省の通知に基づくものと考えられた。個別の医療行為について、同法30条規定や医師法第17条規定に反するか否かといったことは、警察や検察には判定できないのである。本来的には、例えば詐欺事件とかニセ医者事件のような「無資格営業」という線引きの明瞭なものについて適用するのであると思う。


3)医調委の調査権限

公取委や事故調などに定型的に見られる権限を附与することでよいと考える。大まかに書くと、
①関係人や参考人の意見・報告の聴取
②鑑定人(外部専門家)の鑑定
③証拠類全ての保管権
④立入調査権
となっている。条文の表現方法には若干の違いはあるものの、大体共通した調査権限である。

①は事件の直接的関係者や病院管理者等、同地域の医療従事者等、想定では範囲に制限はほぼないと思う。委員会が必要と考えれば意見を聴くことはいくらでも可能である。公取委では警察のような取調ということではなく、任意の意見聴取という形が多いようであるので、実際の運用上でも任意の聴取ということになるであろう。正当事由なき拒否等があれば、罰則規定の適用は必要(形式的には条文中に罰則規定を盛り込む必要はあるということ)であろうが、通常の医療従事者では考え難いであろう。参考人としては、同僚医師とか近隣病院の同じ分野の医師といったことも考えられるであろう。「検査」、「質問」規定は必要であるなら入れておくべきだろう。

②の鑑定人であるが、これまでの裁判における鑑定人と意味合い的には似ているだろう。ただし、選任は医調委に委ねられるのでこれまでよりも運用は容易になる。専門分野の学者、臨床医、学会等に意見を求めることが可能であると思う。裁判での鑑定人は大学教授などであったりすることが多いだろうが、必ずしも「臨床経験が豊富」とは限らないので、一般臨床家からの意見を求め難い面があったかもしれない。所謂「教科書的意見」や「実践的ではない意見」というものが出されてしまうことも多々あった、ということである。そういうことの改善は期待できるようになるであろう。

③はこれも当然のもので、証拠保全とか提出と同じ意味合いである。医調委で必要と認める証拠類は全て預かり、調査終了まではその保管権を持つことになるであろう。「~の提出を命じ、~と留め置くことができる」とか何とかの条文で規定されるものである。事故調での規定では保全措置や立入禁止措置なども含まれている(事故現場などの大きい範囲が調査対象となる為だろう)が、現実に必要な範囲で条文に規定すればよいであろう。

④についてもありがちな規定であるが、立入調査において「何をどこまで調査できるのか」ということは細かい規定を見たことはないので、関係している範囲において制限はないと考えるのだろう。それであれば、①で触れた「検査できる」という規定はあまり意味はないかもしれないな、と思うのだが、別に規定されている法律は複数あったはず。法律の用語としては、厳密に規定されているのかもしれない。

他には、事故調で見られる「委託」という規定であるが、これはあった方が良いと思う。設置法では次のように書かれている。

(調査等の委託)
第十五条の二  委員会は、事故等調査を行うため必要があると認めるときは、調査又は研究の実施に関する事務の一部を、独立行政法人(独立行政法人通則法 (平成十一年法律第百三号)第二条第一項 に規定する独立行政法人をいう。第十八条において同じ。)、民法 (明治二十九年法律第八十九号)第三十四条 の規定により設立された法人、事業者その他の民間の団体又は学識経験を有する者に委託することができる。
2  前項の規定により事務の委託を受けた者若しくはその役員若しくは職員又はこれらの職にあつた者は、当該委託事務に関して知り得た秘密を漏らしてはならない。
3  第一項の規定により事務の委託を受けた者又はその役員若しくは職員であつて当該委託事務に従事するものは、刑法 (明治四十年法律第四十五号)その他の罰則の適用については、法令により公務に従事する職員とみなす。

例えば、薬剤に関する事件があって、その因果関係を調査したりする場合に、「委託」することで調査時間短縮、専門性の高い調査などが期待できる。「タミフル騒動」のような場合に因果関係の特定をすることは大変であり、そういう場合には「厚労省研究班」とか「○○大学」とか当事者以外に依頼して調査の一部を担わせることも必要になるからである。委託の場合には、「誰が請け負ったか」「どのような内容であったか」ということは非公開とするべきで(不利益を受けないとも限らない、中には同業者たちの逆恨みとかあるかもしれないし)、守秘義務を求められることも当然である。完全匿名であるが故に、公平な結果は期待できるのではないかと思う。多くの事故調査を行う必要があるかもしれず、そうなれば医調委の組織内部だけでは手が回らなくなる可能性がある為、委託を利用できる部分は利用した方が迅速な処理に繋がるであろう。


4)医調委の構成メンバー

手続関係にもよる(後述する予定)のだが、大体公取委に近い構成を想定している(あまり大掛かりにならなくてもいいけど)。基本的には実務経験の豊富な医師、法曹界の人(弁護士、判事経験者)が必須である。行政との折衝とか、行政の法規に関連する部分があるので、それらにも精通している人は必要であろう。

医師は主として技術的なこと、実務上のキーポイントを判断するのに必要であり、事件の本質に迫れるのは医師のみであると考えるので、メンバーということになる。但し、委員に選任される人は「両院の同意を得て」という形になる為に、名誉職というかある種の飾り的な面があるのであれば、やはり学識経験者(普通はどこかの大学教授だろう)ということになるかもしれない。手足になって調査するのが「優れた医師」であるなら、調査報告書をまとめたり実質的に動く人が正しく判断できていれば大丈夫かもしれないが、やや心配は残るか。

法曹を入れるのは、「法的判断」を求められることが大半になるので必然となる。医師等学識経験者は技術的・自然科学的判断を担い、法的側面を支えるのはこれら法曹ということになる。個別の医療行為の適法性についての判断や、刑事告発する事例の選別など、法学的問題とは切り離せない役割を持つので、合議制(非公開とする)として「突っ込んだ意見交換」を徹底的に行って、結果を出す、ということである。過去の判例、通知、疑義解釈等、広い範囲について検討する(時には、過去の判断を破棄・覆す必要性が出てくるかもしれない)ことになるので、かなり大変であろうと思う。

行政処分や勧告・建議を出すことになるので、医療行政政策について意見を出す、つまり部分的には「政治に口を出す」ことになり、そこら辺の役割はやはり「行政専門の人」が必要になるだろう。ただ、事務局関係は必ず行政の人が付くことになるので、委員会の委員に行政専門だった人を置く必然性はないかもしれない。しかし、医調委の役割として刑事・民事・行政の全ての分野にまたがっていることは確かであるので、行政関連の役割が低くなるという訳ではない。


長くなったので、取りあえず。


医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その4

2007年05月01日 20時04分01秒 | 法と医療
説明の仕方が悪かったかな、と気になることがあって、もうちょっと書いて行きたいと思います。

参考:
裁判における検証レベル

Terror of jurisdiction ― 司法権力が医療崩壊を加速する

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

Terror of jurisdiction ~加古川事件について




加古川事件の「90%の確率で救命できた」というのと、「90%の確率で○○という技術が提供される」というのは違うのですよ。また例で考えてみたいと思います。

・降水確率90%

(正規の用語は定義を知りませんので、ご容赦下さい)
降水確率を単純に「ある日に雨が降る確率」ということにします。すると、「降水確率90%」であれば、バラツキはありますが、100日を取り出して調べると、雨が降る日は圧倒的に多くて90日くらいは実際に雨が降りますが、雨が降らない日は10日前後存在するわけです。降水確率90%であっても、です。こうした100日のグループを数多く調べてその平均を出していけば、そのグループの数が多くなればなるほどより90%丁度に近づいていくでしょう。

「降水確率90%」を対象となる日として、それが100日あるとします。対象日を、D1、D2、D3、…D100、と割り当てたとします。この時、「降水確率90%」という条件から、「どの日が雨が降らないか」ということを「事前に予測」することは困難です。仮に、D50は「雨が降るか降らないか」ということは(結果が出ているので)「事後的には判る」けれども、事前にどちらかを判定することはできません。もしも判定する要因が別に存在するとすれば、例えば「雲の量・面積」「気圧変動」「風速」「風向き」等の何らかの決定要因を見つけ出し、それに基づく条件を追加して、判定するということになります。でも、もしも、もっと別な要因が判っているとすれば、そもそも「降水確率」をもっと正確に決定できることになり、初めからその区分を用いておけばいいことになります。別な呼び名を割り当てて、それを「降水確率’」とすれば、新たな要因を加えた条件で判定すると、「降水確率’」は94%、とか、前の「降水確率」よりも精度が上がることになります。

加古川事件の裁判官は、「このD50という日は雨が降る」ということを事前に決定できるとしているものです。それが可能である、ということであれば、事前に決定できる要因について示し、立証するべきでありましょう。


・期待と結果は違う

期待水準はある程度規定することができると思いますが、結果について約束することは困難なことが多いのではないかと思います。

またカレー屋でスミマセンが、これが100軒あるとします。すると、「カツカレーが食べられる確率」というのは、客観的に判定できます。90軒でメニューに「カツカレー」がある場合、ある人がランダムにこの100軒を訪れるとすれば、「カツカレーが食べられる確率」は90%である、ということです。カレー屋に行く前に、「カツカレーが食べられるであろう」という期待として、90%の確率で期待できると言えます。

ところが、結果となると事前に約束することは難しい面があります。とあるカレー屋があって、非常に多くの客が来たとします。メニューは1つしかなく全く同一の「カレー」を食べた評価として、「美味しい」と答えた割合が90%、残り10%は「不味い」と答えたことが判っているとします。ある客が1人やってきて、そのカレーを食べた時何と答えるかを事前に決定できるでしょうか?「美味しいと答えるであろう」確率は90%でしょうけれども、「不味いと答えない」と何故判るのでしょうか。

判決としては、「カツカレーが食べられるように、メニューに入れるべき、作れる技術を有するべき」という水準を求めることは、可能であろうと思われます。社会的に「カレー屋ではカツカレーが食べられるべきである」という要請が強ければ(望ましければ)、それを判決に入れるかもしれない、ということは理解可能であるからです。しかし、問題となるのは、結果を約束する、というものなのです。裁判官の理屈では、90%の客が「美味しい」と答えているのだから、全ての客で「美味しい」と答えるはずで、「不味い」と答えた場合には過失と認定する、ということなのです。「美味しい」「不味い」を決定する要因というのは不確実であって、割合的には少ないけれども「不味い」との答えをゼロにはできず、それを少なくする努力はしているものの大変困難なのです。でも、裁判所はそれを「ゼロにできる」ということを主張しているのですよ。


・司法権力は結果を確実に決定できる特殊能力を持っている

ある疾病Sがあるとします。ある期間において、この疾病Sの死亡確率は10%であることが知られています。治療法としては、a1、a2、a3、…aN と色々あるものとします。どの治療法を行ったか(単独か、複数の組み合わせか)、或いは何も治療を受けていないか、規定できないけれども、死亡する確率は10%であるものとします。ここで、ある患者Pが疾病Sに罹患していて、他の死亡要因は皆無であるものとします。

この患者Pは死亡することは有り得ますか?
事前に「死亡しない」ということを決定できるでしょうか?
「疾病Sを有する人」1万人を集めて調べると、恐らく1000人前後の人が亡くなる、ということは事後的に判りますが、その1万人に含まれる特定の患者Pが事前に「どのような結果になるか」ということを確実に知ることは難しいのです。
しかし、加古川事件での裁判官の論理では、「死亡することは有り得ない」かつ「事前に決定できる」ということなのですよ。

治療法でa1を選択せず、a2を選択したので死亡した、とか、何らかの原因を特定できるのであれば、その論理を明らかにしてもらいたいですね。もし、本当にそれが可能であるならば、「完璧な治療法」を確立できるでしょう。すなわち、降水確率100%を事前に完全予測できる「何らかの理論」を発見したのと同じようなものではないかと。普通医療というのはそうした予測が極めて難しく要因が多くて複雑であるが故に、「何が原因なんだろうか、何を変えればいいのか」ということを探求しているのであって、そんなに簡単に結論が出るものであるなら誰も苦労はしないだろう。司法権力は特別な能力を有していて、Aさん、Bさん、Cさん、…それら全員について事前予測が可能なのだそうだ。それは本当に正しいと言えるだろうか?


・因果関係をどう考えるか

原因と結果が明瞭で必然的に起こるものであるなら、そもそもこうした疑義を生じたりはしない。それが明らかではないにも関わらず、裁判所の論理では「明らかである」と決定することに大きな問題があるのである。

いくつか例で考えてみよう。

○スイッチ入れる-風呂に水を注入-水が風呂から溢れた
風呂に水を入れていく時、溢れることが有り得るのだから、「溢れないように見張ってろ」とか「定量注入装置を付けとけ」とか「注意できないならスイッチを入れるな」と求めることができる。過失もはっきりしている。

○後ろを見ずに車がバックする-誰か轢く-死亡
ミラーを見ていれば気付いた、安全確認をしていれば防げた、というようことが明らかなのであれば、「ミラーを見なさい」「バックする前に後方確認せよ」ということを求めることができ、「見ていなかったのは過失」と認定できる。判り易い。

○青酸カリ投与-窒息-死亡
青酸カリを投与しなければ死亡しなかった、というのは必然で、「投与したことは過失」と認定できる。これも簡明である。「投与前に確認しなさい」とか「青酸カリの管理は厳重にやれ」とか求めることができる。

○筋弛緩薬投与-呼吸停止-死亡
これも必然的な結果であり、呼吸停止が起こるのだから「投与するなら呼吸させなさい」とか「呼吸させられないなら投与するな」ということを求めることになり、過失認定できる。

○錠剤Aを服用-下痢-脱水
この原因特定は難しいだろう。下痢となったので脱水、というのは一連の流れとして「相当の因果関係を持つ」ことは判るとしても、錠剤Aを服用した為に下痢となったかどうかは判らない。錠剤Aを服用した全員が同じ現象なのであれば、因果関係があると推定されるかもしれないが、1人だけ見ても、他の要因を否定できない限り、錠剤Aを原因と特定できない。錠剤Aはダイエット製品とか、普通の医薬品などがあったりするが、錠剤Aの作用(副作用)に関係なく、服用者が偶然カゼであったとか消化器系の疾患であったとか、別な理由があるかもしれない。そうであっても、裁判によっては「錠剤Aの副作用に下痢と書いてあるので、Aのせいだ」と認定されたりするかもしれない。他の要因を否定しきれていないにも関わらず、原因と決定してしまう、ということである。

錠剤Aの副作用として下痢の発生頻度が1%未満である時、「下痢の原因は何か」と考えるのではなく、「(副作用として書いてあるのだから)下痢の発生が予期できたのに、下痢を防げなかったので義務違反」という理屈を適用するのです。他の99%は「起こってないじゃないか」と。更には、「下痢を予防する薬を”内服しやすい環境”になっていなかったので義務違反」とかのかなり飛躍した理屈を持ち出されることさえあるのだ(万能な用語としての「義務」―際限なき義務化)。

○手術Bを実施-大量出血-死亡
出血というのは、多くの分野の手術において「合併症」として起こりえるものである。その程度の差はあれども、起こる。このある種の「副作用」発生をゼロにすることはできない。にも関わらず、司法の理屈では、「副作用の発生が知られているのだから、防げるはずだ」ということであり、極めて稀な「大量出血という重篤な合併症」について「起きることは許されない」ということである。

方法として、医療行為というのがcomplication発生を回避できないのであり、「薬の副作用発生」ということと意味合い的には同じである。大昔のように、外科的治療法が存在せず、「薬だけを使う」という医療であれば、副作用発生を回避できないのと同じである。治療法に名前を付けて治療法1、治療法2、…と割り当て、治療法1とは「薬物1を投与すること」、治療法2とは「薬物2を投与すること」、というようなものなら(中には「薬物xとyとzを複合して投与」というものもあるだろうが、治療として想定し得る全ての組み合わせを考えることは可能である)、「治療法1には合併症が発生する確率は~%」という具合になるのである。薬が「夢のような薬物」でない限り、良くないことは起こってしまうのである。ゼロにはできないのだ。「adverse event」が全くない「完璧な治療法」というものが存在しない限り、『「治療法N」におけるcomplicationの発生確率は0%』ということを達成できない。

内科的治療法においては、薬物の副作用等が存在することから「adverse event」を含むものである、ということが理解されるとして、外科系の治療法になった途端に「iatrogenic complicationは全て回避できる」という発想に繋がるのは何故なのかとは思う。治療法の割り当てを外科系も含めて「治療法n」まで果てしなく拡大していった時、取扱いとしては同じようになると思えるのだが。

薬を用いて重大な副作用が発生した時、「薬を用いなければ、副作用は発生しなかった」というのはその通りで、ならばその薬の重篤な副作用を全て未然に防げるかというと、それは難しいのである。例えばタミフル騒動みたいな場合に、「副作用があることは知られていたのに防げなかったのだから、事後的に処方した医師を刑事告訴する」ということですか?司法権力の考えることというのは、そういう発想しか持ちえないのです。「薬飲んだ→飛び降りた→飲まなければ死亡することはなかった=因果関係はあった=過失認定」ということですよ。「手術した→出血した→手術しなければ死ぬことはなかった」も同じなんですよ。


司法が求めることというのは、完璧な預言者であり、未来を正確に決定できる超能力者になれ、ということです。因果関係の推定も、原因探求も、根本的に間違った発想に基づいて行われており、それを是正させることはできません。裁判官権限はあまりにも強力であるからです。判決文についての詳細な検討が積み重ねられているならば、統一性も整合性もあるかもしれませんが、そういうことはあまり行われていませんし、法学関係・法曹関係の中で100人が同じものを判断したら「90%の確率でこうなる」というものではなさそうです。大体がバラバラです。つまり裁判はやってナンボの「でたとこ勝負」、ということで、その程度の「正確性でよい」というのを法曹界では「当然である」と考えている、ということでしょう。


・お詫び

最後に、お詫びしなければならないことがあります。加古川事件の記事の中で、次のように書いてしまいましたが、完全な誤りでした。どうもすみませんでした。
『第一に、日本全国で70分以内に転送可能かつPCI を即時実施可能な医療機関網が整備されているのか。大都市だけの特殊な事情で時間基準を語られても現実には実行不可能である。「○○分以内に治療を受けられれば助かった可能性」を語る時には、普遍性のある基準を適用するべきである。70分以上とか2時間以上行かないと無理だという地域もあるのなら、それらは「治療を受けられる権利、助かる権利があったにも関わらず、国や自治体がPCI を実施可能な医療機関を整備しておかなかったことは不法行為に該当する」ということなのか?』

この理由を述べておきます。
判例において、重要な指摘が存在しておりました。
「臨床医学の実践における医療水準は、全国一律に絶対的な基準として考えるべきものではなく、診療に当たった当該医師の専門分野、所属する診療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮して決せられるべきもの」
(最高裁平成四年(オ)第二〇〇号同七年六月九日第二小法廷判決)
ということでした。
即ち、①全国一律の絶対的基準で考えるべきものでない、②医師の専門分野、③所属診療機関の性格(一般開業の診療所か、基幹病院か、大学病院か、等ということであろう)、④所在地域の医療環境特性、⑤諸般の事情、によって医療水準を考える必要がある、ということです。従いまして、日本全国云々とか、普遍性のある基準とか、医療機関網未整備は不法行為とか、これらは全部出鱈目でありました。上記①~⑤に則って考慮すべきことであるので、加古川事件の場合であれば加古川事件の当該地域における「医療基準」が存在する、ということになります。その基準は「加古川の当該地域のみ」で通用するものであって、他の地域においては個別に考慮するべきことなので、1つの判例での「医療基準」を他に当てはめてみるというのは、殆ど意味をなさないかもしれません。他地域の医療従事者の方々が心配してもしょうがないということですね。でも、別な地域にある裁判所の裁判官が「重要な判例」として参照してしまうかもしれませんけど。