今年最後の日となりました。自分の実感は、凄くいい年でした。とても自分が幸せに過ごせているんだな、と心から思います。世の中では色んなことがあったのですが、思いもかけない出来事が沢山ありました。事故や災害も多かったです。聞くに堪えない酷い事件もありました。被害に遭われた方々、ご家族や関係者の皆様には、心からお見舞い申し上げます。
このような事故や災難に遭遇しなかったということも、特別な病気などもなく健康で過ごせることだけでも、有難いと思い感謝しております。幸せとは、そうした身近にあるものだと感じています。昔の「無病息災」ということには、それなりの意味が込められているんだな、と思います。
私個人的には、やはり総選挙と政治的変革が大きなものでした。自分がはるばる東京まで行って、国会議事堂や自民党本部を見たり出来たことも、貴重な体験でした。公募候補の面接を受けたから言う訳ではありませんが(笑)、選挙があったことが結果的には良かったと思っています。特別会計や昔で言うところの特殊法人などにもメスが入れられることとなり、役人達が作り上げてきた「錬金術システム」の取り壊し作業が多少なりとも進められていけそうです。もしも、今までの仕組みを霞ヶ関が本当に「ベストな選択」ということで作ったのだとしたら、余程愚かな選択をしたのだろうと思います。国民には選択をする為の正しい情報が与えられていなかったとしか思えないですね。
近年は情報公開が進められており、そのことが国民の政治的成熟に繋がる可能性はあると思います。少なくとも関心を持つことが、情報に接する機会は増加すると思います。ブログを書いていて思ったのですが、今年ほど行政の出している各種の情報に多くアクセスした経験はありませんでした。いつも調べて書いたりしてなかったのですけれども、何とか情報にアクセス出来れば、そこから色んなことが判ることもある、ということだと思います。そして、国民に広く知らせることが出来るように、誰かが何かの作業をしなければなりません。それは専門家の方々やマスメディアの方々や、或いは一般個人などでも多少は可能であると思います。
それと色々な人達が、リンク先にそうした行政側が公開している情報が選んだりすることも多い。多分、ネット上での情報公開が進められる以前であれば、そこまで容易に国民が元々の情報に接することも出来なかったであろうと思う。このことが政治や政策決定について何らかの影響を持つようになってきているかもしれない。例えば何かの審議会委員に選ばれていない学者達が会議には実際に参加できなくても、意見表明をネット上で行うことで、「公開された討議の場」という効果をもたらしている可能性もある。経済財政諮問会議の議事録にもそのような効果があると思う。国民がオブザーバーの1人となって会議に参加していることと同じような意味を持つと思います。耐震偽装事件でも示された「情報の非対称性」は、国民と政府や行政機関の間に大きな溝を生んできましたが、それは改善されつつあると思っています。
今後の試練は、とりあえず来年の総裁選にまつわるものであろうと思います。次の政治リーダーを選択する時に、「どのような将来像」を国民が期待しているのか、ということにも関係するでしょう。政治的な成熟過程の一つと思えば、国民にとっても重要な経験となるでしょう。
それから、観念的なことや道徳的なことでは物事が解決出来ない、ということもよく出てきます。精神論ではダメなんだ、ということは、そうだろうな、と思いますが、精神を伴わないことなんて現実にそんなにあるのだろうか、とも思ったりするのです。論理性とか合理性とか、そういう難しい考え方は必要でしょうけれども、私には理屈がどうこうとかより”根本的”に「善き人々」に期待したいという思いがあります。「善き人間」が多くなることを目指すことで、色々な問題が解決に向かうとするならば、やはりそちらを支持したいと思うのです。「犯罪は防げない」「偽造も防ぐのが難しい」「談合も防げない」・・・確かにそうなんですけれども、根本は人間教育に関わっているのではないのかな、と。犯罪を減らす為に、刑罰を重くしていくことで防ぐことよりも、本当は犯罪者とならないような倫理観醸成や教育によって発生率が減る方がいいと思っているのです。「奇麗事に過ぎない」という批判も判ります。傍から見ればバカかもしれないけれども、そういうことを信じて生きていきたいと願っているのです。
何だか変な方向に逸れてしまいましたが、今年一年有難うございました。
来年が皆様にとって良い年でありますように、祈念申し上げております。
夜更かしで体調を崩されたりせぬように、ご注意下さいませ。
私も御とそを飲みすぎないように(笑)、自重したいと思います。
でも、飲んじゃうと思いますけれども。ビールもね。
このような事故や災難に遭遇しなかったということも、特別な病気などもなく健康で過ごせることだけでも、有難いと思い感謝しております。幸せとは、そうした身近にあるものだと感じています。昔の「無病息災」ということには、それなりの意味が込められているんだな、と思います。
私個人的には、やはり総選挙と政治的変革が大きなものでした。自分がはるばる東京まで行って、国会議事堂や自民党本部を見たり出来たことも、貴重な体験でした。公募候補の面接を受けたから言う訳ではありませんが(笑)、選挙があったことが結果的には良かったと思っています。特別会計や昔で言うところの特殊法人などにもメスが入れられることとなり、役人達が作り上げてきた「錬金術システム」の取り壊し作業が多少なりとも進められていけそうです。もしも、今までの仕組みを霞ヶ関が本当に「ベストな選択」ということで作ったのだとしたら、余程愚かな選択をしたのだろうと思います。国民には選択をする為の正しい情報が与えられていなかったとしか思えないですね。
近年は情報公開が進められており、そのことが国民の政治的成熟に繋がる可能性はあると思います。少なくとも関心を持つことが、情報に接する機会は増加すると思います。ブログを書いていて思ったのですが、今年ほど行政の出している各種の情報に多くアクセスした経験はありませんでした。いつも調べて書いたりしてなかったのですけれども、何とか情報にアクセス出来れば、そこから色んなことが判ることもある、ということだと思います。そして、国民に広く知らせることが出来るように、誰かが何かの作業をしなければなりません。それは専門家の方々やマスメディアの方々や、或いは一般個人などでも多少は可能であると思います。
それと色々な人達が、リンク先にそうした行政側が公開している情報が選んだりすることも多い。多分、ネット上での情報公開が進められる以前であれば、そこまで容易に国民が元々の情報に接することも出来なかったであろうと思う。このことが政治や政策決定について何らかの影響を持つようになってきているかもしれない。例えば何かの審議会委員に選ばれていない学者達が会議には実際に参加できなくても、意見表明をネット上で行うことで、「公開された討議の場」という効果をもたらしている可能性もある。経済財政諮問会議の議事録にもそのような効果があると思う。国民がオブザーバーの1人となって会議に参加していることと同じような意味を持つと思います。耐震偽装事件でも示された「情報の非対称性」は、国民と政府や行政機関の間に大きな溝を生んできましたが、それは改善されつつあると思っています。
今後の試練は、とりあえず来年の総裁選にまつわるものであろうと思います。次の政治リーダーを選択する時に、「どのような将来像」を国民が期待しているのか、ということにも関係するでしょう。政治的な成熟過程の一つと思えば、国民にとっても重要な経験となるでしょう。
それから、観念的なことや道徳的なことでは物事が解決出来ない、ということもよく出てきます。精神論ではダメなんだ、ということは、そうだろうな、と思いますが、精神を伴わないことなんて現実にそんなにあるのだろうか、とも思ったりするのです。論理性とか合理性とか、そういう難しい考え方は必要でしょうけれども、私には理屈がどうこうとかより”根本的”に「善き人々」に期待したいという思いがあります。「善き人間」が多くなることを目指すことで、色々な問題が解決に向かうとするならば、やはりそちらを支持したいと思うのです。「犯罪は防げない」「偽造も防ぐのが難しい」「談合も防げない」・・・確かにそうなんですけれども、根本は人間教育に関わっているのではないのかな、と。犯罪を減らす為に、刑罰を重くしていくことで防ぐことよりも、本当は犯罪者とならないような倫理観醸成や教育によって発生率が減る方がいいと思っているのです。「奇麗事に過ぎない」という批判も判ります。傍から見ればバカかもしれないけれども、そういうことを信じて生きていきたいと願っているのです。
何だか変な方向に逸れてしまいましたが、今年一年有難うございました。
来年が皆様にとって良い年でありますように、祈念申し上げております。
夜更かしで体調を崩されたりせぬように、ご注意下さいませ。
私も御とそを飲みすぎないように(笑)、自重したいと思います。
でも、飲んじゃうと思いますけれども。ビールもね。