毎日新聞の「理系白書」という記事があるそうだが(私は読んだことはないが)、その記者たちが書いているブログ(
理系白書ブログ)がある。そこでの記事に非常に不届きな記事(5/26)があったので、とりあえず紹介したい。
以下に一部を引用します。
文系の科学力
私たちが自問していることをいくつかあげると、
・科学を知らなくちゃいけない、というのはなんでか。知らなくても便利に暮らせればいいのではないか。動機付けを持たず、科学技術の恩恵で「もうおなかいっぱい」という人に、さらに教えなくてはいけないことってなにか。
・文系の理系音痴を言うのと同じく、理系の「専門馬鹿」(他の専門分野に疎い、無関心)は問題ではないか。
・理系、理系といい続けることが、すでに時代遅れではないか。
・文系、理系にこだわっているのはばかばかしいと思っていても、大学をはじめとする日本社会が、文系理系に分けたがっているのに、どうやったら変革できるのか。
理系の社会力
「理系は報われているか」
そして新しい問題。
「理系人の社会リテラシーは十分か」
文系が科学の素養を身に着けると同時に、理系が経済学の素養を身に着ける、というのなら、結局はこういう問題意識になる。
「文系、理系と分けることがナンセンスではないか。どうやったらなくせるか」
こんなことを公然と書き綴っている記者たちの顔が見たいものである。このような提起の仕方は、非常に不愉快であるし、何の社会的意義も感じられない。一体全体、自分達を「なにさま」(ガ島通信さん風に言えば、笑)のつもりでいるのだろうか。最も気になったところについてもう一度引用してみたい。
『文系の理系音痴を言うのと同じく、理系の「専門馬鹿」(他の専門分野に疎い、無関心)は問題ではないか。』
『理系人の社会リテラシーは十分か』
これを読んで誰しも感じることは、文系は専門馬鹿がおらず、社会リテラシー(記者たちはそういう言葉を用いているので、そのまま使うことにします。何なんだ、この言葉は)が備わっているが、理系は専門馬鹿がいて社会リテラシーが不十分である、ということである。この人達は何が言いたいのだろうか?
やはりこれがマスゴミ呼ばわりされる人達の正体なのだろうか。
社会リテラシーって何だろうか?メディア・リテラシーの社会版、ってこと?そう解釈するとして、記者諸君に「お前の社会を読み解く力は十分なのかい?」という問いを投げかけられて、理系だろうが文系だろうが、そんなこと個人が生きていく上で関係ない問題だろう?全くの個人的資質の話だろう?文系にはそれが十分であって、理系には不十分である、などという感想を持つこと自体に全く社会的意義がない。元来「専門馬鹿」という言い方は、文系とか理系に無関係に、頭脳明晰で優秀な学者さんなのに、研究に没頭しているから、一般常識や一般人が普通に知っているようなことを案外知らないというようなことを指すのではないか?そんなの文系研究者にだって同じように存在するだろう?裁判官だってそういう部分があるから、裁判員制度の導入をした方がいい、という面があるんでしょ?別に理系の研究者だから、専門馬鹿になる訳ではないだろう?哲学研究者は、社会を読み解く力が一般人よりもはるかに優れているのか?或いは、理系研究者よりも社会リテラシーとやらに優れているという調査でもしたのか?法学者はどうなのだ?宗教学者は?経済学者は?数学者とは大きく違うのか?
記者諸君は自分達が文系出身者だから、自分達は「社会リテラシー」とやらが十分備わっているという全くの勘違いか思い込みだか、思い上がりをしているんだろう。そうでなければ、記者さんの中に、暴言を吐いて社会全体から集中的に批判を浴びたり、他人の記事を盗用したりするような人達は存在しないだろう。これは他人の研究論文を盗作するようなものだろう?こういう文系出身者が殆どのマスメディアの記者さん達は、「社会リテラシー」が一般人や理系研究者達よりも十分備わっているとでも言う?ひどく尊大ですね。
多くの真摯な研究者に対する冒涜である。理系研究者への差別であり、偏見である。社会的な能力の高い人達はたくさんいるだろうし、そんなの文系・理系に無関係である。社会学に精通している研究者は、教育学、宗教学、言語学、哲学に一様に精通しているのか?矢原先生が「
専門馬鹿がなぜ悪い?」と書いているのは、学問とか研究はそんなに簡単なものではなく、奥深さや探求の困難さをよく知っているからだ。そんなのは、他の文系分野であっても同じようなものだろう。そんなに簡単に文系分野が習得でき、いくつもの分野の第一人者になれるのなら、誰も苦労などしないぞ。理系研究者だって、物理学者が生物分野の一般人向けの読み物や記事を書いていることもあるし、自分の専門を超えて書いているものはたくさんある。歴史学や哲学に非常に詳しい理系研究者だってたくさんいる。それを知らないのは、記者諸君が不勉強であり無知であっただけだ。寺田寅彦の読み物だってたくさんあるだろう?国語の教科書に出てくるくらいですから。異分野について、理系研究者が多く語らないのは、学問というか自然や知の奥行きに驚嘆したり畏怖(畏敬かな?分からんけど)したりするから、軽々に表現することをしないからなんじゃないか?
文系と理系という区分はその意味が薄れていることは確かであり、経済学だって数学であったり物理学であったりするし、物理学は哲学だったりするし、心理学や教育学は認知科学や脳科学であったりするし、生物学だって社会学だったり考古学であったりする。旧来の区分では収まりきらない分野というのが増えているんだとは思う。だが大学の内部的な分類がそうなっており、それに基づいて予算や運営が決まるから、文系・理系が残されているんだろうと思う。教育のカリキュラムとかもそうなんだろうと思う。
理系の問題というのは、日本の中枢部分が(主に官僚組織ということですね)文系の牙城となっており(よく知らないですが、一般的に言えば東大法学部ということでしょうか)、そこでの政治力の差が大きいと思うのですけどね。もしも、理系分野の出身者が同じくらいの政治力を持つなら事態は改善されるかもしれないと思いますが。そういう政治的・政策的問題が一番の問題であると思う。現実には現場の人しかわからないだろうから、私にはよく判らないですが。
「理系白書ブログ」の物言いは、記者諸君が主張するところの「社会リテラシー」が非常に乏しいという印象は否めず、文系出身の記者諸君が少しばかり理系分野についてかじってみたら、「理系研究者って問題があるよね」と判ったような気になり、元々の偏見を書いているだけだろう。全くもって失礼である。