敗戦の結果をうけて、やっぱりこれではダメだったとか、戦犯探しとか醜聞探しが行われているようである。残念な話である。
何なら、セルジオ越後に監督をやらせればいいよ。さぞかし世界に通用するサッカーとやらを教えてくれることだろう。そして、よい結果が当然出るに違いない。本当か?(笑)
日本には、メッシもネイマールもミュラーもロッベンもファンぺルシーもイブラヒモビッチもいないんだ。
何というか、生粋のゴールハンターがいないんだよ。
少し前に将棋で喩えたけど、大駒系の人がいないということなんだ。龍や馬どころか飛車角がないのに、将棋に勝たねばならないのと同じなんだ。
ヘビー級のボクサーとまともに打ち合ったら、そりゃあ勝つのは難しいさ。足を使って、ヒットアンドアウェイを目指すしかないんだ。それは逃げではない。自分自身の特性を知った上での、勝つための戦略だ。相手を知り、自分を知ることで考える作戦なんだ。
ゲームでもいいよ。
呂布がいきなり増援として現れたら、これに対抗するのは極めて困難だ。普通の凡キャラでは能力差があり過ぎて、勝つもクソもない。圧倒的攻撃力だ。だから呂布の必殺の一撃を食らわないように細心の注意を払いつつ、弓矢攻撃とかで足止めしたり体力を少しずつ削ったり、自分の大将の本陣(サッカーで言えばゴールだな)から遠ざけるような工夫をしなけりゃならない。
野球だって、パワーヒッターの多いチームなら、ホームラン一発で得点が入る。けどパワーで劣るなら、小技(バント、盗塁、四球などだ)を絡めたり、ヒットの「繋ぐ野球」で得点しなければならないんだ。強打者揃いのチームなんて、そうそうできるわけない。投手力を軸として、守って競り勝つ野球というのは、身体的有利・不利がある中で考えられたものであろうと思う。
パスサッカーというのは、どうして存在するのか?
まず、呂布みたいな駒を持つ相手だとして、呂布はボールを持ってない時間は「ただ立っている」のと同じだからだ。ボールを持たれている時の呂布は呂布本来の攻撃力を発揮できる。しかし、ボールがこちらにある時間帯というのは、呂布であろうと張飛であろうと関羽であろうと、攻撃力はそこまで大したことがないのである。凡キャラに近づくのだ。勿論、防御力だってそれなりに凄いわけであるが、こちらの本陣を攻撃してくる場合の恐怖に比べれば、まだマシなのだ。
要するに、こうした攻撃力の飛び抜けた連中にその役割をさせないようにすることができる、というのが一番の効果なのだ。
そして、万一ボールを持たれてしまった場合、呂布の攻撃を止めるには、ザコキャラであろうと取り囲んで手数で上回るよりないのだ。そういうようなのとほぼ同じように感じる。
なので、パスによるボール保持はボスキャラ(大駒)系の活躍をできるだけ封じるという効果が期待できるのである。
それでも、一撃必殺の大駒になると、その数少ないチャンスをものにしてくるという力量がある。ここをいかに防ぐか、その攻防に勝負がかかってくる、ということになるわけである。ただ、そういう呂布みたいな駒は絶対数が少ないのだ。常に状態が万全とは限らないし。
そういうのを相手にした時に、いかに勝つ方法を見い出すか、というのが作戦や対策ということの意味だ。
今回の代表チームが陥った罠というのは、洗練されたパスサッカーを目指して実行しようとしたが、「こうしなければならない」という思いに囚われ過ぎてうまくいかなくなったように思う。
豆腐屋の父ちゃんが、「ウチの豆腐は絶対に国産大豆しか使わねえ、これは曲げない信念だぜ」と強い拘りを持っているとしよう。
けど、ある時仕入れが完全の止まって外国産大豆しかない場合、どうすべきか?母ちゃんは、「ここは柔軟に考えて、とりあえず国産大豆が入ってくるまでは外国産でもいいから使って作るべきなんじゃないのかい?」と父ちゃんに言ったとしよう。けど、頑固な父ちゃんは「オレの信念を曲げるわけにはいかん」といって、必ず「国産大豆で豆腐を作らねばならない、それがウチの豆腐なんだ」と意見を変えなかったとする。結果的に大豆が手に入らないので豆腐は作れず、本来の目的である「おいしい豆腐を作ってみんなに売り食べてもらう」ということが達成できなくなるわけである。結果的には、本末転倒ということになる。
ここで優先しなければならないことは何だろうか?
「国産大豆で作る豆腐」という自らの強い信念か?
それとも、「豆腐を売り続けること」だろうか?
勿論、国産大豆が手に入る時には、それでいいんだ。だが、今は手に入らない、という状況なのである。これをどう考えるか、ということになる。
ある局面を凌ぐ、凌ぎ切る、というのは、多分どんな仕事であろうと経験するものなのではないだろうか。切羽詰まった状況とか、壁にぶち当たって困難な状況とか、でもそれを乗り切らねばならないというミッションが与えられているのだ。そういう時、どう対処するか、ということなのである。サッカーもきっと同じではないかな、と。
つまり、自分で「今は、○○が手に入らない、or○○ができない状況なんだ」という自覚と判断ができるか、それに適切な対処ができるか、ということである。普通は監督がそういう作業をするべきであると思うが、試合中には選手が考えて行動しなければならないのである。
雨でフィールドの環境はどう変わるのだろう?
少し柔らかくなり、重馬場みたいな感じになるのだろうか?(競馬はやってないから全然知らないが、高速走行系の馬と体重の重い筋力系の馬とでは成績に違いが出るのでは?得意不得意が分かれるのでは?)
泥は靴に着き易かったか?
筋力や突進力がある方が有利な状況ではなかったか?
そういうことを判断できるかどうか、だ。
靴の泥は足を重くするし、疲労を蓄積させてゆくかもしれない。柔らかい地面は、砂浜で走るのがキツイのと同じ効果をもたらすかもしれない。雨が降ったフィールド環境はぼくには分からないが、選手のコンディションは厳しくなることが予想されても不思議ではない。
そうした状況変化に対応し適切な行動が選択できるかどうか、そういう能力が必要とされるのである。圧倒的な能力が発揮できる大駒系の選手が揃えられるチームならば、いちいち細かいことを考えずとも突破できるだろう。
そうではないなら、工夫するしかないのだ。
センタリングやシュートにしても、そう。
ハイボールがダメなら、バウンドするボールを何故送らない?
ショートバウンドのシュートや、シュート気味の低く速いボールをなぜ蹴り込まない?
守り難いボール、捌くのが難しいボールを送ることが、相手のミスを誘い易くなるはずなのだ。ヘディングで跳ね返されてしまうなら、低く早いボールを出すとか、ニアで触るボールを出すとか、そういう工夫が必要。岡崎のシュートはニアで触れるボール、の効果だったはずだろう。
オレが決めなくては、オレが何とかしなければ、などとあまりに強く意識することによって、かえってプレーに精彩を欠いてしまっていなかったか?
小さな局面ではオレが何とかする、という気持ちは必要。それは呂布と対峙した時に怖れず対処できるかどうか、みたいなことだ。オレが頑張るよりないわけで。でも、もっと大きな局面で考えることが必要な時、味方の配置や展開具合を正確に判断して、「オレが」ではなくて味方に有効なボールを送ることの方が重要。
大久保は「オレが」と強く意識してシュートを狙いに行ったりしていたものと思うが、結果的にはノーゴール、ノーアシストだったし、決定的チャンスを生んだ場面も殆どなかった。
予選敗退の責任については、本田が一番批判されるかもしれないが、1点取ったしアシストも決めてるので、チーム内では最大貢献だったと言えよう。本田のせいだ、とかいう単純な話ではないだろう。本田がボールを奪われなければ、というのはただのタラレバだし、打たれたピッチャーに「なんであんなとこ投げたんだ」と責めてもしょうがないのと同じさ。失投がない投手なんて、この世に存在しないし。味方がエラーした後の対処が大事なんだよ。その為のチームじゃないか。
信長は桶狭間で本陣を仕留めたわけだが、まさしくカウンターが見事に決まった、というようなものだ。相手が圧倒的に支配(兵士数が多い)していても、延長Vゴール方式みたいな場面ならたったワンチャンスで勝敗が決するのと同じ。作戦が当たれば相手が優勢であっても、弱小側が勝てることもあるということ。しかし、そんな戦上手な信長だって、全戦無敗だったわけではない。敗走したことだってあるじゃないか。そういうようなものだ。戦況に適合しているか、相手の士気や強さはどうなのか、それらに勝敗は左右されることもある、ということさ。単に作戦能力や指揮能力の問題とも限らない、ということ。運も勿論あるんだよ。
いずれにせよ、日本の代表がどうやって勝てる方法を見い出すのか、その活路をどう開くのか、研究するしかないんだよ。試行錯誤を重ねるには、まだ歴史が浅いということではないのかな。野球だって、通用するようになるには100年くらいかかる、ということなのさ。
何なら、セルジオ越後に監督をやらせればいいよ。さぞかし世界に通用するサッカーとやらを教えてくれることだろう。そして、よい結果が当然出るに違いない。本当か?(笑)
日本には、メッシもネイマールもミュラーもロッベンもファンぺルシーもイブラヒモビッチもいないんだ。
何というか、生粋のゴールハンターがいないんだよ。
少し前に将棋で喩えたけど、大駒系の人がいないということなんだ。龍や馬どころか飛車角がないのに、将棋に勝たねばならないのと同じなんだ。
ヘビー級のボクサーとまともに打ち合ったら、そりゃあ勝つのは難しいさ。足を使って、ヒットアンドアウェイを目指すしかないんだ。それは逃げではない。自分自身の特性を知った上での、勝つための戦略だ。相手を知り、自分を知ることで考える作戦なんだ。
ゲームでもいいよ。
呂布がいきなり増援として現れたら、これに対抗するのは極めて困難だ。普通の凡キャラでは能力差があり過ぎて、勝つもクソもない。圧倒的攻撃力だ。だから呂布の必殺の一撃を食らわないように細心の注意を払いつつ、弓矢攻撃とかで足止めしたり体力を少しずつ削ったり、自分の大将の本陣(サッカーで言えばゴールだな)から遠ざけるような工夫をしなけりゃならない。
野球だって、パワーヒッターの多いチームなら、ホームラン一発で得点が入る。けどパワーで劣るなら、小技(バント、盗塁、四球などだ)を絡めたり、ヒットの「繋ぐ野球」で得点しなければならないんだ。強打者揃いのチームなんて、そうそうできるわけない。投手力を軸として、守って競り勝つ野球というのは、身体的有利・不利がある中で考えられたものであろうと思う。
パスサッカーというのは、どうして存在するのか?
まず、呂布みたいな駒を持つ相手だとして、呂布はボールを持ってない時間は「ただ立っている」のと同じだからだ。ボールを持たれている時の呂布は呂布本来の攻撃力を発揮できる。しかし、ボールがこちらにある時間帯というのは、呂布であろうと張飛であろうと関羽であろうと、攻撃力はそこまで大したことがないのである。凡キャラに近づくのだ。勿論、防御力だってそれなりに凄いわけであるが、こちらの本陣を攻撃してくる場合の恐怖に比べれば、まだマシなのだ。
要するに、こうした攻撃力の飛び抜けた連中にその役割をさせないようにすることができる、というのが一番の効果なのだ。
そして、万一ボールを持たれてしまった場合、呂布の攻撃を止めるには、ザコキャラであろうと取り囲んで手数で上回るよりないのだ。そういうようなのとほぼ同じように感じる。
なので、パスによるボール保持はボスキャラ(大駒)系の活躍をできるだけ封じるという効果が期待できるのである。
それでも、一撃必殺の大駒になると、その数少ないチャンスをものにしてくるという力量がある。ここをいかに防ぐか、その攻防に勝負がかかってくる、ということになるわけである。ただ、そういう呂布みたいな駒は絶対数が少ないのだ。常に状態が万全とは限らないし。
そういうのを相手にした時に、いかに勝つ方法を見い出すか、というのが作戦や対策ということの意味だ。
今回の代表チームが陥った罠というのは、洗練されたパスサッカーを目指して実行しようとしたが、「こうしなければならない」という思いに囚われ過ぎてうまくいかなくなったように思う。
豆腐屋の父ちゃんが、「ウチの豆腐は絶対に国産大豆しか使わねえ、これは曲げない信念だぜ」と強い拘りを持っているとしよう。
けど、ある時仕入れが完全の止まって外国産大豆しかない場合、どうすべきか?母ちゃんは、「ここは柔軟に考えて、とりあえず国産大豆が入ってくるまでは外国産でもいいから使って作るべきなんじゃないのかい?」と父ちゃんに言ったとしよう。けど、頑固な父ちゃんは「オレの信念を曲げるわけにはいかん」といって、必ず「国産大豆で豆腐を作らねばならない、それがウチの豆腐なんだ」と意見を変えなかったとする。結果的に大豆が手に入らないので豆腐は作れず、本来の目的である「おいしい豆腐を作ってみんなに売り食べてもらう」ということが達成できなくなるわけである。結果的には、本末転倒ということになる。
ここで優先しなければならないことは何だろうか?
「国産大豆で作る豆腐」という自らの強い信念か?
それとも、「豆腐を売り続けること」だろうか?
勿論、国産大豆が手に入る時には、それでいいんだ。だが、今は手に入らない、という状況なのである。これをどう考えるか、ということになる。
ある局面を凌ぐ、凌ぎ切る、というのは、多分どんな仕事であろうと経験するものなのではないだろうか。切羽詰まった状況とか、壁にぶち当たって困難な状況とか、でもそれを乗り切らねばならないというミッションが与えられているのだ。そういう時、どう対処するか、ということなのである。サッカーもきっと同じではないかな、と。
つまり、自分で「今は、○○が手に入らない、or○○ができない状況なんだ」という自覚と判断ができるか、それに適切な対処ができるか、ということである。普通は監督がそういう作業をするべきであると思うが、試合中には選手が考えて行動しなければならないのである。
雨でフィールドの環境はどう変わるのだろう?
少し柔らかくなり、重馬場みたいな感じになるのだろうか?(競馬はやってないから全然知らないが、高速走行系の馬と体重の重い筋力系の馬とでは成績に違いが出るのでは?得意不得意が分かれるのでは?)
泥は靴に着き易かったか?
筋力や突進力がある方が有利な状況ではなかったか?
そういうことを判断できるかどうか、だ。
靴の泥は足を重くするし、疲労を蓄積させてゆくかもしれない。柔らかい地面は、砂浜で走るのがキツイのと同じ効果をもたらすかもしれない。雨が降ったフィールド環境はぼくには分からないが、選手のコンディションは厳しくなることが予想されても不思議ではない。
そうした状況変化に対応し適切な行動が選択できるかどうか、そういう能力が必要とされるのである。圧倒的な能力が発揮できる大駒系の選手が揃えられるチームならば、いちいち細かいことを考えずとも突破できるだろう。
そうではないなら、工夫するしかないのだ。
センタリングやシュートにしても、そう。
ハイボールがダメなら、バウンドするボールを何故送らない?
ショートバウンドのシュートや、シュート気味の低く速いボールをなぜ蹴り込まない?
守り難いボール、捌くのが難しいボールを送ることが、相手のミスを誘い易くなるはずなのだ。ヘディングで跳ね返されてしまうなら、低く早いボールを出すとか、ニアで触るボールを出すとか、そういう工夫が必要。岡崎のシュートはニアで触れるボール、の効果だったはずだろう。
オレが決めなくては、オレが何とかしなければ、などとあまりに強く意識することによって、かえってプレーに精彩を欠いてしまっていなかったか?
小さな局面ではオレが何とかする、という気持ちは必要。それは呂布と対峙した時に怖れず対処できるかどうか、みたいなことだ。オレが頑張るよりないわけで。でも、もっと大きな局面で考えることが必要な時、味方の配置や展開具合を正確に判断して、「オレが」ではなくて味方に有効なボールを送ることの方が重要。
大久保は「オレが」と強く意識してシュートを狙いに行ったりしていたものと思うが、結果的にはノーゴール、ノーアシストだったし、決定的チャンスを生んだ場面も殆どなかった。
予選敗退の責任については、本田が一番批判されるかもしれないが、1点取ったしアシストも決めてるので、チーム内では最大貢献だったと言えよう。本田のせいだ、とかいう単純な話ではないだろう。本田がボールを奪われなければ、というのはただのタラレバだし、打たれたピッチャーに「なんであんなとこ投げたんだ」と責めてもしょうがないのと同じさ。失投がない投手なんて、この世に存在しないし。味方がエラーした後の対処が大事なんだよ。その為のチームじゃないか。
信長は桶狭間で本陣を仕留めたわけだが、まさしくカウンターが見事に決まった、というようなものだ。相手が圧倒的に支配(兵士数が多い)していても、延長Vゴール方式みたいな場面ならたったワンチャンスで勝敗が決するのと同じ。作戦が当たれば相手が優勢であっても、弱小側が勝てることもあるということ。しかし、そんな戦上手な信長だって、全戦無敗だったわけではない。敗走したことだってあるじゃないか。そういうようなものだ。戦況に適合しているか、相手の士気や強さはどうなのか、それらに勝敗は左右されることもある、ということさ。単に作戦能力や指揮能力の問題とも限らない、ということ。運も勿論あるんだよ。
いずれにせよ、日本の代表がどうやって勝てる方法を見い出すのか、その活路をどう開くのか、研究するしかないんだよ。試行錯誤を重ねるには、まだ歴史が浅いということではないのかな。野球だって、通用するようになるには100年くらいかかる、ということなのさ。