変なタイトルですみません。
色々な人の意見を見ているうちに、モヤモヤした感じがありまして(決して、「モヤモヤ病」=moya-moya-disease のことではないですよ。これは実在の病気ですので。笑)、それは自分の未来とか社会の行方とか、そういったことがとても気になったので。
はじめに、最近ネット上でも話題になっていたことと丁度符合している書評が読売新聞に載っていたので、それを取り上げてみたい。
11月19日付朝刊の「本のよみうり堂」から。
(まだ本そのものを読んでもいないのに、あれこれ書くのは気が引けるが・・・・ご容赦下さい)
一つは、ウイリアム・バーンスタイン著(徳川家広・訳)、『「豊かさ」の誕生』から。評者は第一生命相談役の櫻井氏。まず評者の記述を見てみよう。
経済の永続的成長には何が不可欠か。著者は私的所有権、科学的合理主義、近代的資本市場、敏速な通信・輸送手段の四制度の確立と、それ等の過不足ない組み合わせが必要だという。
(中略)
これは著者も認めている通り、フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』の経済版である。フクヤマは、自由主義的民主主義だけが人類の誇りであると、経済を殆ど考慮しない断定をしたが、順序が逆と著者はいう。どの国も民主主義は、経済成長が何十年か続いた後に開花している。
成長はいつまで続くか。勝ち組では、繁栄そのものが成長の阻害要因になる。生活水準上昇に伴い勤労意欲は低下、先進国の成長は長期的に二%に収斂していると著者は指摘する。
経済成長が果たして持続されるものなのだろうか、という疑問は自然に生じうるだろう。そして、将来の危惧は、櫻井氏の言葉を借りれば、「この先数十年に亘り、先進国では高齢化と若年層への教育コストの増大により現役世代の負担は増す。成長した経済が行政サーヴィスに喰い潰される新型縮小均衡に向かうのではないかと、著者は懸念を表明している。今や日本は、没落モデルの典型になりつつある。」と記されている。
日本人の中に芽生えつつある「没落モデルの典型」ということが、将来不安に繋がっているのだろうと思う。ただ、こうした「没落モデル」自体が本当に「不幸せ」なのかどうかは、多分誰にも判らないだろう。前にも書いたが、電気もなければ、テレビもネットもないような世界に生きていたとしても、「幸せだ」と感じることは可能であるからだ。現に、そうやって人類は生きてきたし、今もそれに類する生活をしていて「幸せ」に暮らしている人々が存在している。もしも人口増加が成長の証であり、それが本当に「経済成長」の大部分を支えるものであるとすれば、いずれ限界点はやってくると思う。地球というのは有限世界だからだ。
参考記事:
「円高シンドローム」に初めて触れる
幸せはどこにあるか
人口増加が成長の条件であれば、いつかは物理的に不可能になってくるのであり、その時を迎えると、人類全体が「巨大な没落モデル」と化し、不幸のどん底へ向かって人類全体が転げ落ちていく、ということになってしまうだろう。それこそ、世界の悲劇ではなかろうか。本当に人間はそこまで愚かなのだろうか?
超巨大生物が今の世界では殆ど見られないが(本当は深海の何処かに潜んでいるのかもしれないし、ネス湖に住んでるとか、ヒマラヤ山脈の奥地に生きているのかもしれないが・・・・笑)、これと似ていて、巨体を持つクジラはサンマの群れのようには海を泳いではいないし、ゾウの群れが陸上動物たちの世界を席巻したりもしていないのである。巨大化することが生存とか環境適応に有利とも限らない。それに、大きくならないからといって、進化が止まっているとも言えない。樹齢数千年の木が、まるで「ジャックと豆の木」みたいに地上数km?にも成長して、天空に届いているわけではない。つまり、「物理的に大きくなっていくこと」と、「進化していくこと」「成長していくこと」というのは、若干意味が違うのではないだろうか。それは人口増加が必須要件ではないのと同じように思える。経済成長だけ見れば、人口が増える方が単に「手っ取り早く」大きくなれる、ということに過ぎないのではないか。
細胞もそうだと思う。一つで「超巨大」な大きさ(普通のものに比べて、ということだが)を持つことがあっていいように思えるのだが、何故かそれ程巨大な細胞は滅多に存在しない。人間の細胞では、卵子がデカイくらいで、他はみんな小さい。細胞数が爆発的に多くなるからといって、組織(tissue)や器官(organ)の性能が良くなるとか機能的に向上する、ということではない。マウスの心臓が馬の心臓に比べて小さく細胞数が少ないとしても、進化の程度が劣っているということでもないだろう。進化自体は、必ずしも「細胞の数」に左右されるというものではないだろう。それに、脳の比較では大きさや細胞数が違うのは普通で、確かに脳細胞の数が少ない生物は多いが、一定以上に多くなることがその性能を確実にアップすることを意味するものではないはずだ。「数(の多さ)」以外にも、向上をもたらす何かがある、ということではなかろうか。チンパンジーよりも脳細胞数が多い大型動物はいるかもしれないが、チンパンジーの知能が劣っているということにはならないだろう。
「成長」という時、「経済成長」と「人間の成長」という意味では異なっているかもしれないが、数が「成長の質」を決定付けるものとも言えないのではないか。それは経済成長であっても同じで、数量的(或いは数値的?)に大きくなることだけが有利ということでもないかもしれない。それは「成長」の定義問題であるかもしれないし、「進化」という側面を重視するかどうかであるかもしれないし、「成長の質」の評価軸がもっと違ったものになるかもしれない。
巨大な木が成長するスピードと「雨後のタケノコ」の成長スピードが、もしも同じ割合であったりすると、自然界は大変なことになってしまったかもしれない(笑)。ひょっとすると、過去にはそういう種があったのかもしれないが、それは絶滅してしまったのであろう。大きさがある程度に大きくなってしまえば、「環境」や「物理的要因」などによってスピードが鈍化しても不思議ではないように思える。経済成長もこれと似ていて、新興国のような場合には「急速に」成長を遂げていくが、ある程度の規模に達してしまえば、やはりプラトーに近づいていってしまうような気がするのである。これはあくまで感覚的なものに過ぎないのであるが、感覚的故に、バーンスタインの言うように「2%成長」に収斂していきそう、というのは、理解しやすい。ただ経済成長は、どの時点で「ある程度の大きさ」に達したのか、ということの何かの基準がある訳でもないし、他の例で見ることもできないので、誰にも判らないのであるが。もう既に「十分大きな木」になっているよ、とは誰から見ても判らないのである。
リスから見れば「君は十分大きな木さ」と言うかもしれないし、猿にとっては、「まだまだ大きい木はたくさんあるから、君はもっと大きくなれるはずさ」という評価かもしれないので、自分の大きさには気付けないのである。自分が松なのか、杉なのか、はたまたセコイヤなのか、決まっていないかもしれないからで、どこまで行けば「十分大きいよ」ということなのか決められないのである。なので、「まだ成長途上なのさ」と思っていても正解なのかどうかは不明であり、ひょっとすると「もう随分大きくなったから、これ以上はあまり大きくなれない」ということなのかもしれない。それは自分が決めるのではなく、環境などの周囲が決めることなのかもしれない。そして、別な方法か戦略に気付いてそれを選択するとすれば、もう成長は止めよう、と思うのかもしれない。この選択の結果は、長い長い時間が経たないと判定できず、正解かどうかは判らないであろう。それまでの長い時間経過の中では、評価の形が変わってしまっている可能性もある。
日本のお金は、単位も仕組みも時代と共に変化してきたし、現在の経済システム自体はまだ歴史が浅い。経済規模を評価する、という方法にしても、何かの指標を用いて世界の国々との比較などを行うようになっているが、それも時間経過はまだ短いと言えるだろう。今後50年後か100年後になった時、今の日本円という仕組みが続いているか、GDPという指標が用いられているか、アメリカドルは世界で使えるお金であるかどうか、誰も判らないであろう。その時点では、もっと違った評価方法が生まれている可能性は少なくないであろう。それらが今と違っていることそのものが、「成長」ということであるかもしれない。
テレビで『The Day after Tomorrow 』という映画を放映していて、初めて観たが結構面白い作品であった。先進国(特にアメリカ型)の浪費社会への警鐘とか、環境への配慮を真剣に考えるべきとか、色々な意味合いがあるとは思うが、最も印象深かったのは「それでも、人類は生き延びてきた」ということだった。人類の祖先が氷河期を乗り越えてきたんだ、ということが、我々に勇気を与えてくれる。そして、その当時の生存戦略の選択は、時間が長く経過しないと判らないということもだ。今まで生活してきた洞窟の中にこもって耐えて待つのか、逆に新天地を求めてそれまでの洞窟を捨てて不確実な土地を彷徨う方を選ぶのか、その時点では誰にも結果が判らないのである。映画の中では、主人公の高校生の息子は、父の教えた通りに耐えて待つことを選んだ。彼らと一緒にいた多くの人々はその場に「留まること」を諦めて、温かい土地を目指して進んでいったが全滅した。恐らくこれと似たような選択は、過去の歴史の中で星の数ほど行われ、みんなが同じ結論でなかったからこそ「誰か」が生き延びることができたはずだ。選択とは、そういうようなものではないか。
書評のもう一つは、L・マーフィ/T・ネーゲル著(伊藤恭彦・訳)、『税と正義』で、評者は川出東大教授である。
先のバーンスタインの四条件のうちの一つ、「私的所有権」に関する話である。評者が指摘する通り、原題に『The Myth of Ownership Taxes and Justice』とあるように、『所有の神話』というのが根本にあるということだ。記事には、次のように示されていた。
所有権とは社会的な慣習であって、個人の不可侵の自然的権利のようなものではない、という法哲学的な議論が控えている。こうした抽象度の高い議論に支えられつつ、それが課税ベース(消費税か所得税か)や累進性や相続といった具体的な税制改革上の争点へと巧みに展開されていく。資本主義経済の創造力をそぐことなく、それが生み出す深刻で巨大な経済的・社会的不平等を何としても是正していこうという、社会正義に賭ける著者二人の情熱が伝わってくる。
「所有権は社会的慣習のようなものであって自然的権利のようなものでない」というのは、余りに非日常的過ぎて、私のような凡人にはちょっと理解しがたい。多数の個人が政府という権力機構の存在を認め(生み出している、ということでもあるか?)、政府という権力があることで効力が発揮される法体系によって、初めて個人の所有権というのは認められうる、ということか。何となく、そうだったのか、と思うが、ピンとこない。法体系とは、そもそも「権力」の存在下でしか意味がない、ということなのか?漠然と、ああそうなのか、と思うしか私にはできないのであるけれども。
一番納得いかない(全く無関係ないが、この「納得できない」という表現は、無限に使える反論として法案審議なんかの時にもよく用いられ、いつまで経っても何を言っても「納得いかない」と言うことができてしまう最終兵器的表現である。禁じ手にすべきかも。笑)と思えたのは、川出教授が要約していた次の記述であった。
「本人が正当な所有権を主張できるのは、課税前ではなく、課税後の、すなわち政府の施策に必要な分を戻した後の所得に対してだけなのだ。」
衝撃を受けた。知らなかった・・・・。課税前所得は「オレのもの」ではないのだ。たった今、自分の手元に入ってきた収入は、一部に「政府からの預かり金」として私の下に置かれているに過ぎない、ということであろう。そうだったのか・・・・・。
でも、「自分は多額の税金を払っているんだから、云々~納税者として政府には色々と文句を言いつける権利がある」とか何とかをよく耳にするように思うが、そうなると、それに対して最強の反論が可能かもしれない。
「あなたが納税したと思っているそのお金は、初めからあなたのものなんかではありません。政府という権力機構及びそれに基づく法体系の使用料について”未払い”であったために、事後的に返してもらっているだけです。つまり、あなたが税金を納めたのではありません。政府があなたに預けておいた使用料を”正当に”返還してもらっているのです」
どうだろうか。このようなことを言われたら、詭弁だ、とか文句を言いたくなるが、実際、政府(行政)や法体系のサービス使用料として払っている金額というのは、普通の人だと大した額ではないかもしれない。それでも、警察権力で守ってもらうのは、貧乏人だからといって極端に「安く」なったりはしないだろう(要人などはちょっと多くかかっていると思うが)。きっと、そういうようなことなのだろう、と読みもせず納得したことにする。
こうして見ると、現在の社会体制(?と呼ぶのが正しいのかどうかは判らないが)を基本的に支えているのは、経済的繁栄=経済成長であり、元々その恩恵を受けて誕生した自由主義的民主主義があり、これらを制御する法体系(当然権力に裏付けられた)があるが、社会的慣習も経済活動や法体系の中に(例えば所有権)そっと埋め込まれている、ということなのだろう。
経済活動や経済成長自体が今の社会体制の礎を築き上げてきた、と言えるし、今後もそうであり続けるかもしれない。ただ、時間の経過によって、社会体制が変わらなかったことなどあまりなく、今と同じような世界が将来も続いているかどうかは不明だ。法体系にしても、根本的な権力機構に変化があれば当然変わってくるかもしれない。
遠い未来よりも、やはり近未来が気になるし、もう少し成長ということについて考えていこうと思うので、ヘンなシリーズにしてみました。
いずれ「こころ」にも触れる時が来ると思いますので、乞う期待!
(誰も期待してないと知っていますYO!)