まさに未曾有(笑)の1年となった。私にとっても、世界にとっても。
2008年は、極めて特殊な年だ。
それは黒点が消えたり(笑)、17年ゼミが大繁殖したりした年だ、ということだ。珍しいことが起こる年というのは、人間の世界でも珍しいことが起こってしまうのかもしれない。そんな占星術師のようなことを言いたいわけではないが、中々面白いのでもう少し考えてみることにしよう。
17年ゼミが最後に目覚めたのは、1991年だった。この年には湾岸戦争が起こり、原油価格は高騰した。日本ではバブルの絶頂期を過ぎて、長い長い下り坂に入っていくことになった。日本経済は大きな転換点を迎えたのだった。その17年前の1974年はどうであったろうか。中東戦争のせいで原油価格高騰を招き、石油危機が訪れたのだった。所謂、オイルショックだ。「ニクソン・ショック」の張本人であったニクソン大統領は、例のウォーターゲート事件で辞任した。田中角栄も同じく辞任した年となった。ニクソン・ショックから立ち直りつつあった日本経済は、戦後の高度経済成長神話が遂に終わりを告げ、戦後初のマイナス成長へと転落していったのだった。列島改造ブームは田中角栄と共に消えていった。
更に17年前の1957年は、前年の経済白書で「もはや戦後ではない」と指摘されたように、復興需要(や朝鮮戦争特需)の経済成長力が枯渇しつつあり、神武景気が終わって後退局面となった年であった。また、岸内閣が誕生した年でもあった。前年のスエズ動乱のせいで、やはり原油価格が上がったのだった。米国の中東政策が「アイゼンハワー・ドクトリン」として示されたのだった。この17年前になると、そう、言わずと知れた1940年だ。真珠湾攻撃で日米開戦となってしまった。ここから17年遡ると1923年だが、関東大震災が起こった年だ。山本内閣は総辞職し、米国ではハーディング大統領が死亡してクーリッジが大統領になった。日本はこの後に軍国主義への道をひた走ることになっていった。またまた17年遡ると1906年、102年前だ。日本では日露戦争がようやく終わり、満州への足がかりを掴んだのだった。韓国総監府が作られた。
17年ゼミが目覚める年には、石油(や資源)にまつわる出来事が勃発しているように思える。偶然に過ぎないのに、興味深いことは確かだ。こうしてみると、2008年という年が転換点を迎えているとしても、振り返って見れば驚くには値しないことなのかもしれない。
幾度も取り上げて恐縮だが、2005年の記事を再掲しておく。
・05年6月>アメリカ凋落の日
米国という超大国に依存する世界というのは、長続きするとは考えられなかった、ということに他ならない。これは過去の歴史の中では不思議でも何でもないのだが、繁栄の中にある時にはそのことには気付けないものなのではないだろうか。好調な時期にこそ、いずれやってくるかもしれない危機に備えるということが必要なのかもしれない。生物も繁殖しすぎるとエサが枯渇してゆくので、いずれはエサ不足となって個体数は減少に転ずるというのに似ている。系のバランス、ということが重要なのではないかと思う。調節作用が厳しいものであればあるほど、過酷な結果をもたらすであろう。普通の生き物であれば、死ということになってしまう。だが、経済の死―すなわち経済破綻のようなことを、簡単には受け入れることはできない。もしそんなことが起こってしまえば、社会のシステム全体が壊れてしまう。だから、壊さないようなコントロールを考えることが必要なのだと思う。
・05年12月>来年の大胆予測
この記事の中で、住宅投資は限界を迎えるであろうことを予測したのだが、現実には06年にはまだそうした状況は明確にはなっていなかった。調整期間がもっと早くに訪れるであろうことを予想していたのに、後にずれ込んだのだった。だから予想はまるで当てにはならないのだが(笑)、いずれそういう局面を迎えるであろう、というのは誰しも考えていたはずだろう。にも関わらず、ここまで酷い状況となるまで放置してきたのは、楽観しすぎていた為なのかどうかは判らない。賢明な対処というのが難しい、ということなのだろうと思う。できそうなことは、「危険が目の前にある」ということを多くの人々に知らせて、注意を促すことなのかもしれない。渦中にある時には見え難いことを、もっと冷静な目で観察できる立場の人たちが、警告を発し続けることが求められるのかもしれない。それは公的機関にいる人々が率先してやらねばならないのではないだろうか。これが成功するなら、変化が緩やかになる可能性はあるが、たとえ「間違った考え」であろうとも、多くがそちらの情報や考え方に則って行動してしまえば、そちらが結果的には正しいということになってしまうのだけれども(例えば株式投資というのがそうだ)。
今回の経済危機を通じて、いくつかの教訓を得られたであろう。
それは、バランスシート上で信用部分をあまりに大きくし過ぎると、ある時点で突如信用崩壊を招く危険性がある、ということだろう。
・07年8月>信用と財政再建を考えてみる
記事中で書いたように、貯金箱という「幻想」部分のようなものが急に信じられなくなってしまえば、金融危機を招いたようなことになってしまうのだ。欧米金融機関はこの貯金箱部分をあまりに大きくしてきてしまい、みんなが一斉に貯金箱を信じなくなってしまったのだ。
・07年6月>今度はGRIPSかよ~貸金業の話
この記事の中では、次のように指摘した。
『これまでの貸金市場というのは、まさしくそういう消滅過程に入っていたかもしれないのだ。目先の利益に飛びついてしまえばマーケットの消滅危機があるにも関わらず、貸し手が審査を厳格化してデフォルト率をより低減させるという調節メカニズムがうまく機能しなくなってしまったということだ。しかも超過利潤があるのであれば、ヤミ金の新規参入が相次いだことは正しいし、そういう「悪い貸し手」がマーケットメカニズムを狂わせたと考えられなくもない。適正価格が政治家や官僚には決められないにせよ、市場規律を取り戻す為の措置を取ることで一定の成果が期待できるのであれば、規制することは意味があると思う。長期的にはマーケット全体にプラスに作用する可能性はある。毎年新規参入者を上回る貸倒が発生していけば、いずれマーケットは消滅するだろう。』
私がいくら指摘しても、あまり意味はない。効果もない。
経済ナントカみたいな連中というのは、信じようとはしなかったのだが。
『目先の利益に飛びついてしまえばマーケットの消滅危機があるにも関わらず、貸し手が審査を厳格化してデフォルト率をより低減させるという調節メカニズムがうまく機能しなくなってしまったということだ。』
この消滅危機に直面したのが、金融商品のいくつかだった。「審査を厳格化してデフォルト率を低減させる調節メカニズム」は、機能不全に陥ったのだ、ということ。サブプライムローンも、その他金融派生商品も、大体似たようなものだ。だから市場規律を取り戻す為には規制は意味があり、それが必要なのだと言ったにも関わらず、それを認めようとはしない経済学者だの経済評論家だの国会議員だの元官僚だのが、悉く反対を述べていた。そういう人々の肩書きや言い草には、いい加減辟易させられた。彼らのウソを暴くことはできたが、その為に世界経済の払った犠牲としては余りに大きかった。日本の経済ナントカだの、著名人だの知識人だのという連中の言うことは、あまり信じない方がいい。
・06年9月>消費者金融における個人の負債について
この記事の中で、『債券価格が適正なシグナルとなっていない』、『バランスシート評価が不適切』、『債券発行額に比べ過少な自己資本』、『ULが過大な投機的取引の横行』と問題点を指摘したが、これは米国のサブプライム・モーゲージについても当てはまりそうな部分はあるかもしれない。そして価格暴落を招いてしまった。
・07年8月>サブプライムに怯える世界市場
この記事では次のように書いた。
『債券に買い手が付かなくなる臨界点のようなものがあるが、それは通常判らないだろう。サブプライム・ローン関連の債券は、価格が下落していくとしても、本来全損ということにはならないはずなのだ。けれど、みんなが不安に思って買い手が付かなくなれば、価格が暴落してしまう。価格というシグナルは、ある水準の利回りまでは機能しているが、臨界点を超えると価格が付かなくなってしまうことによって機能を失うということなのか。』
大体想像していた通りだったでしょう?(笑)
要するに、経済ナントカの類というのは「素人以下」でしかないのだ、ということが判明しただけ。
専門家という看板を降ろせ、と言ってあげたいですよ。日本には役立たずな学者モドキだの知識人モドキだのが氾濫し、ニセ言説の大バーゲンを行ってきたのだ。それは、ニセ言説をばら撒くコストが小さい為だ。しっぺ返しの代償が大きいなら、言説のコストが高くなるから、慎重にならざるを得ないだろう。ところが、胡散臭い言説の多くは「占い」の類と大差ないので、参入が容易で大したしっぺ返しも食らうことがない。そんな連中が一体何をもたらしてきたか?
どうりで日本の経済学の世界がダメなわけだ。
今後の世界はどうなっていくだろうか?
多分、変化はあるが、世界全体の枠組みでは大きくは変わらないだろう。
危機の焦点は、再び中東に集まりつつあるかもしれない。アラブ世界の安定化はここ数十年で改善されては来たものの、「超・指導者」のような、カリスマの高い指導者はあまり思い浮かばない。そうなると、個々の国々がバラバラに行動しようとして、混迷は深まるであろう。共通利害に対して行動できなくなっていくからだ。どちらかといえば米国寄りの産油国と、その他のアラブ諸国では利害も行動も異なってくるかもしれない。イスラエル周辺を巡る紛争は今後も続くであろうが、イスラムというだけでは共通軸とはなり得ないだろう。その分だけ、イスラエルとの紛争が深刻なものに発展する危険性を孕んでいると思う。
アフガン問題は続くであろうが、早期解決は難しいと思われる。経済停滞が長引けば、EUとて続けることが困難になっていくだろう。テロに武力で対抗するよりも、例えば麻薬の撲滅に関する取組みや取締強化、資金源を元から絶つという視点で資金移動の監視やマネーロンダリング対策、これら各国の国内対策でも成果は期待できうるのではないかと思われる。もっと優先順位が高いのは、インドとパキスタンの問題であろう。これに関しては、日本がどちらとも「利害の共有」を進める以外にはないのではないかと思う。インドには主に民間主体で経済協力(投資促進)、パキスタンには政府主体で共同事業推進、ということになろうか。パキスタンの民衆が「失うと困るな」と思えるような利益を日本と共有することが必要。多くの東南アジア諸国では、投資と共に人的交流を深めてきたからこそ、今の経済成長がもたらされたと思う。そのような手法を地道に続けるよりないのでは。
米国はある意味「チャレンジャー」の側に回ることになるだろう。
オバマ大統領の手腕がまず問われることになる。出足で躓けば、期待が大きかった分だけ失望も大きくなるであろう。そうなると、世界の混乱を押さえ込めるパワーというのが米国以外のどこにも見当たらなくなる、ということになってしまい、気体の分子運動が活発になるが如くに混乱の度合いが強まることになるだろう。末期のブッシュ政権のような雰囲気、というようなことだろうか。
ただ言えることは、『ロッキー』シリーズではないけれども、一度敗北してチャレンジャーとなった米国は、かなりしぶとい強さを持つかもしれない、ということだ。強い危機感によって、本気でチャレンジしてくる米国は侮れない力を発揮するかもしれない。これこそまさしく、「腐っても鯛」だろう。昔は戦争という危機で空母や戦闘機や戦車やジープや輸送トラックを大規模量産したが、今後の世界ではもっと別な何かを生み出さねばならない。その対象が何になるのか、ということが今後の課題となろう。ITでは頭打ち、金融もへばった。今度は何か?環境?エネルギー?何だろう?
とりあえず今は判らないが、何が生み出されるか、そのことに興味があるのである。
日本は、政治的混乱が継続するであろう。
先が見えない長きトンネルを歩み続けることになるかもしれない。多くの日本人にとっては、あまり危機意識はないのではないかとも思える。経済危機に見舞われて、失業だのリストラだのと不安が増大してきたことはあると思うが、それでも日々の食事をしたり電車に乗ったりネットを楽しんだり風呂に入れたりしている。意外と日々の生活を疑いもなく継続しているように思う。電燈のスイッチを入れると、明かりはつく。そこで、いつ何時つかなくなるかわからない、みたいな恐怖というものがない。それくらい日本の経済基盤とか生活は底堅さというものがあるのだろうと思う。だから、多くの人々は大袈裟には騒いだりしていない。失われる部分というものが、割と小さいからだろう。だから、政治に対しても寛容さを保っている。不満や支持率低下といった程度であれば、本格的危機にはつながらない。それだけ政治には期待していない、ということなのかもしれないし、「どこかで誰かがどうにかしているのだろう」というような暗黙の委任みたいなものがあるのかもしれない。それはそれでいいのかもしれない、と思ったりする。
旧体制が続いていてもそれなりに対応するということは、政治が分離分割されているというか、そこそこ分断されている、ということなのかもしれない。直接的に関わりが大きくなれば、もっと激しく糾弾などが起こってしまうかもしれないからだ。でも、怒りの沸点には到達しているわけではなく、「誰かが何とかしてくれ」と思っている程度なのかもしれない。そういうわけで、政治の世界の方で、国民の怒りがそこまで到達する前にどうにかしておいて欲しいと思う。衆院の任期が切れるのは確実なので、何かが起こるかもしれない。どんな結果をもたらすのか、ということまでは判らないのであるけれども。
今年以上に、政治の世界は紛糾することになるだろう。
ま、酷い年にはならないように願っています。
今年1年、ご愛読いただきまして有難うございました。
皆様、よい年をお迎え下さいませ。
2008年は、極めて特殊な年だ。
それは黒点が消えたり(笑)、17年ゼミが大繁殖したりした年だ、ということだ。珍しいことが起こる年というのは、人間の世界でも珍しいことが起こってしまうのかもしれない。そんな占星術師のようなことを言いたいわけではないが、中々面白いのでもう少し考えてみることにしよう。
17年ゼミが最後に目覚めたのは、1991年だった。この年には湾岸戦争が起こり、原油価格は高騰した。日本ではバブルの絶頂期を過ぎて、長い長い下り坂に入っていくことになった。日本経済は大きな転換点を迎えたのだった。その17年前の1974年はどうであったろうか。中東戦争のせいで原油価格高騰を招き、石油危機が訪れたのだった。所謂、オイルショックだ。「ニクソン・ショック」の張本人であったニクソン大統領は、例のウォーターゲート事件で辞任した。田中角栄も同じく辞任した年となった。ニクソン・ショックから立ち直りつつあった日本経済は、戦後の高度経済成長神話が遂に終わりを告げ、戦後初のマイナス成長へと転落していったのだった。列島改造ブームは田中角栄と共に消えていった。
更に17年前の1957年は、前年の経済白書で「もはや戦後ではない」と指摘されたように、復興需要(や朝鮮戦争特需)の経済成長力が枯渇しつつあり、神武景気が終わって後退局面となった年であった。また、岸内閣が誕生した年でもあった。前年のスエズ動乱のせいで、やはり原油価格が上がったのだった。米国の中東政策が「アイゼンハワー・ドクトリン」として示されたのだった。この17年前になると、そう、言わずと知れた1940年だ。真珠湾攻撃で日米開戦となってしまった。ここから17年遡ると1923年だが、関東大震災が起こった年だ。山本内閣は総辞職し、米国ではハーディング大統領が死亡してクーリッジが大統領になった。日本はこの後に軍国主義への道をひた走ることになっていった。またまた17年遡ると1906年、102年前だ。日本では日露戦争がようやく終わり、満州への足がかりを掴んだのだった。韓国総監府が作られた。
17年ゼミが目覚める年には、石油(や資源)にまつわる出来事が勃発しているように思える。偶然に過ぎないのに、興味深いことは確かだ。こうしてみると、2008年という年が転換点を迎えているとしても、振り返って見れば驚くには値しないことなのかもしれない。
幾度も取り上げて恐縮だが、2005年の記事を再掲しておく。
・05年6月>アメリカ凋落の日
米国という超大国に依存する世界というのは、長続きするとは考えられなかった、ということに他ならない。これは過去の歴史の中では不思議でも何でもないのだが、繁栄の中にある時にはそのことには気付けないものなのではないだろうか。好調な時期にこそ、いずれやってくるかもしれない危機に備えるということが必要なのかもしれない。生物も繁殖しすぎるとエサが枯渇してゆくので、いずれはエサ不足となって個体数は減少に転ずるというのに似ている。系のバランス、ということが重要なのではないかと思う。調節作用が厳しいものであればあるほど、過酷な結果をもたらすであろう。普通の生き物であれば、死ということになってしまう。だが、経済の死―すなわち経済破綻のようなことを、簡単には受け入れることはできない。もしそんなことが起こってしまえば、社会のシステム全体が壊れてしまう。だから、壊さないようなコントロールを考えることが必要なのだと思う。
・05年12月>来年の大胆予測
この記事の中で、住宅投資は限界を迎えるであろうことを予測したのだが、現実には06年にはまだそうした状況は明確にはなっていなかった。調整期間がもっと早くに訪れるであろうことを予想していたのに、後にずれ込んだのだった。だから予想はまるで当てにはならないのだが(笑)、いずれそういう局面を迎えるであろう、というのは誰しも考えていたはずだろう。にも関わらず、ここまで酷い状況となるまで放置してきたのは、楽観しすぎていた為なのかどうかは判らない。賢明な対処というのが難しい、ということなのだろうと思う。できそうなことは、「危険が目の前にある」ということを多くの人々に知らせて、注意を促すことなのかもしれない。渦中にある時には見え難いことを、もっと冷静な目で観察できる立場の人たちが、警告を発し続けることが求められるのかもしれない。それは公的機関にいる人々が率先してやらねばならないのではないだろうか。これが成功するなら、変化が緩やかになる可能性はあるが、たとえ「間違った考え」であろうとも、多くがそちらの情報や考え方に則って行動してしまえば、そちらが結果的には正しいということになってしまうのだけれども(例えば株式投資というのがそうだ)。
今回の経済危機を通じて、いくつかの教訓を得られたであろう。
それは、バランスシート上で信用部分をあまりに大きくし過ぎると、ある時点で突如信用崩壊を招く危険性がある、ということだろう。
・07年8月>信用と財政再建を考えてみる
記事中で書いたように、貯金箱という「幻想」部分のようなものが急に信じられなくなってしまえば、金融危機を招いたようなことになってしまうのだ。欧米金融機関はこの貯金箱部分をあまりに大きくしてきてしまい、みんなが一斉に貯金箱を信じなくなってしまったのだ。
・07年6月>今度はGRIPSかよ~貸金業の話
この記事の中では、次のように指摘した。
『これまでの貸金市場というのは、まさしくそういう消滅過程に入っていたかもしれないのだ。目先の利益に飛びついてしまえばマーケットの消滅危機があるにも関わらず、貸し手が審査を厳格化してデフォルト率をより低減させるという調節メカニズムがうまく機能しなくなってしまったということだ。しかも超過利潤があるのであれば、ヤミ金の新規参入が相次いだことは正しいし、そういう「悪い貸し手」がマーケットメカニズムを狂わせたと考えられなくもない。適正価格が政治家や官僚には決められないにせよ、市場規律を取り戻す為の措置を取ることで一定の成果が期待できるのであれば、規制することは意味があると思う。長期的にはマーケット全体にプラスに作用する可能性はある。毎年新規参入者を上回る貸倒が発生していけば、いずれマーケットは消滅するだろう。』
私がいくら指摘しても、あまり意味はない。効果もない。
経済ナントカみたいな連中というのは、信じようとはしなかったのだが。
『目先の利益に飛びついてしまえばマーケットの消滅危機があるにも関わらず、貸し手が審査を厳格化してデフォルト率をより低減させるという調節メカニズムがうまく機能しなくなってしまったということだ。』
この消滅危機に直面したのが、金融商品のいくつかだった。「審査を厳格化してデフォルト率を低減させる調節メカニズム」は、機能不全に陥ったのだ、ということ。サブプライムローンも、その他金融派生商品も、大体似たようなものだ。だから市場規律を取り戻す為には規制は意味があり、それが必要なのだと言ったにも関わらず、それを認めようとはしない経済学者だの経済評論家だの国会議員だの元官僚だのが、悉く反対を述べていた。そういう人々の肩書きや言い草には、いい加減辟易させられた。彼らのウソを暴くことはできたが、その為に世界経済の払った犠牲としては余りに大きかった。日本の経済ナントカだの、著名人だの知識人だのという連中の言うことは、あまり信じない方がいい。
・06年9月>消費者金融における個人の負債について
この記事の中で、『債券価格が適正なシグナルとなっていない』、『バランスシート評価が不適切』、『債券発行額に比べ過少な自己資本』、『ULが過大な投機的取引の横行』と問題点を指摘したが、これは米国のサブプライム・モーゲージについても当てはまりそうな部分はあるかもしれない。そして価格暴落を招いてしまった。
・07年8月>サブプライムに怯える世界市場
この記事では次のように書いた。
『債券に買い手が付かなくなる臨界点のようなものがあるが、それは通常判らないだろう。サブプライム・ローン関連の債券は、価格が下落していくとしても、本来全損ということにはならないはずなのだ。けれど、みんなが不安に思って買い手が付かなくなれば、価格が暴落してしまう。価格というシグナルは、ある水準の利回りまでは機能しているが、臨界点を超えると価格が付かなくなってしまうことによって機能を失うということなのか。』
大体想像していた通りだったでしょう?(笑)
要するに、経済ナントカの類というのは「素人以下」でしかないのだ、ということが判明しただけ。
専門家という看板を降ろせ、と言ってあげたいですよ。日本には役立たずな学者モドキだの知識人モドキだのが氾濫し、ニセ言説の大バーゲンを行ってきたのだ。それは、ニセ言説をばら撒くコストが小さい為だ。しっぺ返しの代償が大きいなら、言説のコストが高くなるから、慎重にならざるを得ないだろう。ところが、胡散臭い言説の多くは「占い」の類と大差ないので、参入が容易で大したしっぺ返しも食らうことがない。そんな連中が一体何をもたらしてきたか?
どうりで日本の経済学の世界がダメなわけだ。
今後の世界はどうなっていくだろうか?
多分、変化はあるが、世界全体の枠組みでは大きくは変わらないだろう。
危機の焦点は、再び中東に集まりつつあるかもしれない。アラブ世界の安定化はここ数十年で改善されては来たものの、「超・指導者」のような、カリスマの高い指導者はあまり思い浮かばない。そうなると、個々の国々がバラバラに行動しようとして、混迷は深まるであろう。共通利害に対して行動できなくなっていくからだ。どちらかといえば米国寄りの産油国と、その他のアラブ諸国では利害も行動も異なってくるかもしれない。イスラエル周辺を巡る紛争は今後も続くであろうが、イスラムというだけでは共通軸とはなり得ないだろう。その分だけ、イスラエルとの紛争が深刻なものに発展する危険性を孕んでいると思う。
アフガン問題は続くであろうが、早期解決は難しいと思われる。経済停滞が長引けば、EUとて続けることが困難になっていくだろう。テロに武力で対抗するよりも、例えば麻薬の撲滅に関する取組みや取締強化、資金源を元から絶つという視点で資金移動の監視やマネーロンダリング対策、これら各国の国内対策でも成果は期待できうるのではないかと思われる。もっと優先順位が高いのは、インドとパキスタンの問題であろう。これに関しては、日本がどちらとも「利害の共有」を進める以外にはないのではないかと思う。インドには主に民間主体で経済協力(投資促進)、パキスタンには政府主体で共同事業推進、ということになろうか。パキスタンの民衆が「失うと困るな」と思えるような利益を日本と共有することが必要。多くの東南アジア諸国では、投資と共に人的交流を深めてきたからこそ、今の経済成長がもたらされたと思う。そのような手法を地道に続けるよりないのでは。
米国はある意味「チャレンジャー」の側に回ることになるだろう。
オバマ大統領の手腕がまず問われることになる。出足で躓けば、期待が大きかった分だけ失望も大きくなるであろう。そうなると、世界の混乱を押さえ込めるパワーというのが米国以外のどこにも見当たらなくなる、ということになってしまい、気体の分子運動が活発になるが如くに混乱の度合いが強まることになるだろう。末期のブッシュ政権のような雰囲気、というようなことだろうか。
ただ言えることは、『ロッキー』シリーズではないけれども、一度敗北してチャレンジャーとなった米国は、かなりしぶとい強さを持つかもしれない、ということだ。強い危機感によって、本気でチャレンジしてくる米国は侮れない力を発揮するかもしれない。これこそまさしく、「腐っても鯛」だろう。昔は戦争という危機で空母や戦闘機や戦車やジープや輸送トラックを大規模量産したが、今後の世界ではもっと別な何かを生み出さねばならない。その対象が何になるのか、ということが今後の課題となろう。ITでは頭打ち、金融もへばった。今度は何か?環境?エネルギー?何だろう?
とりあえず今は判らないが、何が生み出されるか、そのことに興味があるのである。
日本は、政治的混乱が継続するであろう。
先が見えない長きトンネルを歩み続けることになるかもしれない。多くの日本人にとっては、あまり危機意識はないのではないかとも思える。経済危機に見舞われて、失業だのリストラだのと不安が増大してきたことはあると思うが、それでも日々の食事をしたり電車に乗ったりネットを楽しんだり風呂に入れたりしている。意外と日々の生活を疑いもなく継続しているように思う。電燈のスイッチを入れると、明かりはつく。そこで、いつ何時つかなくなるかわからない、みたいな恐怖というものがない。それくらい日本の経済基盤とか生活は底堅さというものがあるのだろうと思う。だから、多くの人々は大袈裟には騒いだりしていない。失われる部分というものが、割と小さいからだろう。だから、政治に対しても寛容さを保っている。不満や支持率低下といった程度であれば、本格的危機にはつながらない。それだけ政治には期待していない、ということなのかもしれないし、「どこかで誰かがどうにかしているのだろう」というような暗黙の委任みたいなものがあるのかもしれない。それはそれでいいのかもしれない、と思ったりする。
旧体制が続いていてもそれなりに対応するということは、政治が分離分割されているというか、そこそこ分断されている、ということなのかもしれない。直接的に関わりが大きくなれば、もっと激しく糾弾などが起こってしまうかもしれないからだ。でも、怒りの沸点には到達しているわけではなく、「誰かが何とかしてくれ」と思っている程度なのかもしれない。そういうわけで、政治の世界の方で、国民の怒りがそこまで到達する前にどうにかしておいて欲しいと思う。衆院の任期が切れるのは確実なので、何かが起こるかもしれない。どんな結果をもたらすのか、ということまでは判らないのであるけれども。
今年以上に、政治の世界は紛糾することになるだろう。
ま、酷い年にはならないように願っています。
今年1年、ご愛読いただきまして有難うございました。
皆様、よい年をお迎え下さいませ。