今日の読売朝刊に出ていたのだが、現在公取委が検討中の特殊指定解除について、新聞協会が反対の特別決議ということらしい。この問題については、先日当ブログの
コメント欄にも書かれておりました。国民にはあまり馴染みのなかった話題で、元々の仕組みをよく知っている人たちはあまりいないのではないかと思いますね。
私もコメントを頂くまでは知らなかったです。
(後半に追記してます)
新聞の「特殊指定」堅持を…新聞協会が特別決議 経済ニュース 経済・マネー YOMIURI ONLINE(読売新聞)
新聞とネットの対立?の頃とか、「フリーペーパー」の話が出てた頃のテーマに戻るのですけれども、もう一度、自分の考えを整理してみよう思う。
1)「新聞」というもの
その存在については、肯定的です。「そんなものの価値や意味などない」という方々は新聞を取らない(或いは購読しなければよい)ので、制度への賛否ということにはあまり関係がないと思われます。新聞を否定的に考える方々の存在や主張は、再販制度・特殊指定への理由とはならないでしょう(NHKの受信料のように、テレビ設置と同時に支払うことを強要されるものとは異なりますし)。個人の自由選択は認められていますね。
2)全国一律の料金設定
「自由でいいじゃないか」という新聞があるとして、仮にとある地方紙が経営努力によって一部70円を達成した、ということがあってもいいと思いますね。これは現在の制度でも可能でしょうし。こうした「低価格の新聞がいい」という人は、例えば全国一般紙を止めて、この低価格地方紙を購読すれば済むことではないかと思います。地域によってはこうした選択が出来ない、というある種の寡占(独占は少ないと思うんですけれど・・・実際のところは判りません)があるのかもしれませんが。
えーと、間違いだったらゴメンナサイ。例えば、ちょっと高い新聞は日経ですよね。一部140円だったと思います。普通の全国紙(読売・朝日・毎日)は120円ですよね?産経新聞だけが普通じゃない、という意味ではなくて(笑)、何故か産経新聞は値段が安く、一部100円なんですよね。私はずーっと知らなかったのですけれど(居住地が地方のためか、産経新聞は非常にマイナーで買う人も少ない)。スポーツ紙も値段の種類がいくつかあり、110円の地方系とか130円の全国系があったりしますね。
新聞の商品構成を考えると、価格には多少のバラツキがあり、経済紙・一般紙・地方紙・スポーツ紙のように種類も分かれているので、選択の余地はそれなりにあるのではと思います。特殊指定の問題というのが、あまりハッキリとは思いつかないのですが、新聞社によって新聞価格を固定されているのが問題だ、ということなのでしょうか。販売店が売価を決めるべき、ということなんでしょうか?うーむ、値下げ余地があるとしても、ここから更に20%削減とかって厳しい感じがしますけれども、出来たとしても20~30円くらいの違い、ってことでしょうか。であれば、敢えて安くする意味があんまり判りませんね。これに目くじら立てる人が多いとも思えず、もしもそうなら購読しない訳ですし。
私も学生の時には、貧乏でしたから新聞なんて取ってなかったですよ。図書館に行けば読めるし。なので、貧乏な人々はそれなりに対応しているだろうな、と思います。価格を一定に維持することが悪い、ということなんでしょうか?でも、仮に沖縄では新聞が離島価格になってしまうので200円もするけれど、東京であれば80円で済む、ってことになったら、これは非常に問題だと思いますね。そういう部分では、全国一律の価格ということには意味があると思いますね。
3)戸別配達
戸配の制度は特に悪い制度と思っていません。朝出かける前に家族が順に読むことが出来るし、朝に新聞を読む程度の時間的余裕を持って起床することにもつながるし(笑)。因みに我が家では、子どもが一番早く新聞を読みます。起きる時間とか、家を出る時間の関係上、そうなっています。たまに私が先に読んでいると、「取られた」とかって、変な言い方ですが新聞の「順番争奪戦」となります。なので、いかに新聞を先に読むかということは、家族内での朝の重要な儀式(笑)となっていますね。面白い記事があれば、「なになにが~なんだってー!」とか教えてくれるし。ですので、出勤前に読めるということは結構大切だと思います。あー、東京のような大都会では通勤時間が2時間以上かかるとかってことも多いから、出勤がもの凄く早いのでそれまでに新聞が配達されていないことがあるのかも。実態は知らないけど。
読売朝刊記事での論者の一人は山本一力氏だったが、昔の新聞配達をしていた時の経験について書いたおられた。非常に共感できるものであった。新聞奨学生をもって特別指定の正当性に直接結びつけることは出来ないが、私自身の経験というのが思い出された。以前にちょっと書いたと思うが(コメント欄だったかな)、私も1年未満の短期間であるが、新聞配達をしたことがある。実際にやってみたことがあれば、多分山本氏の書いていることがよく理解できるんじゃないかと思う。また、大学生の時には、新聞奨学生として住み込みで配達をしていた同級の学生がおり、尊敬の眼差しを送らずにはおれなかった。卒業まで続けるのだから、本当に大変なことだと思っていた。だが当人たちにとっては、大学に行けるのだから当然だ、というような感じであった。
新聞配達の凄いところは、これで大学に行ける、ということだ。親が貧乏でも、新聞奨学生になって大学へ通い、自力で頑張っている人たちは今でもきっといると思う。「機会が不平等だ」とか「所得格差だ」とか御託を並べる前に、自分で「道を切り開け」と言いたいね。新聞奨学生の姿を見たことがあれば、「頑張れば、親が貧乏でも大学へ行ける」と確信できるのではないか。親のせいにするな、彼らを見習え、と言ってあげたいですよ。新聞奨学生という制度は誰が考えたのかは知らないが、社会的には大切な制度だと思う。私の過去の記憶の中では、そういうものです。
新聞の価格競争とは本来独立のことだから、値段が下がればその分だけ「別に奨学金制度にすればよい」という意見もあるのかもしれないが、本当に下がった分から従来通りの奨学金は確保されるだろうか?見ず知らずの他人の為に、学資を出してあげよう、なんて人達がそれほど多いだろうか?悲しい現実だけど、多分凄く少ないと思うよ。もしも、新聞代が安くなったとして、その分を「見ず知らずの他人への奨学金原資」に回すよりも、「わが子の塾代」をアップするとか「別な英会話教室代」に回すとか、そういう方が圧倒的に多いと思うね。となれば、奨学制度そのものが消失するだけに終わり、代替措置なんてできないだろう。その時の理由も、「日本育英会等の奨学金を利用すればよい」とかって言われるだけかもしれない。ちょっと違うんだよね、奨学制度の根本が。
4)新聞社の役割
これは色々と言われているので、専門家のご意見を見ていただければと思いますが、それ以外の部分について考えてみることにします。
第一に新聞に対する信頼性が低下したのではないか、ということがあるかと思います。朝日新聞のNHK問題報道などで見られたようなことですね。言論の質そのものが凋落した、ということです。昔は論壇の主流は新聞人が占めていたのではないか、という印象がありますが、大体みんな小粒になってきたかのような感じがします。昔の有力な(新聞人の)人物というのもよく知らないのですけれども。
文章そのもの、書かれる内容には、何がしかの「哲学」「思想」というものが根底にあって、そういう人間の背景というか記者自身の人生がそこには詰まっていたかもしれない。昔であれば情報取得には限界があったりして、本や新聞でしか情報を取り入れられなかったであろうから、その影響力はかなりあっただろう。新聞の言論は時代の思想を映し出し、社会の底流を形作っていたのではないだろうか。その使命を担っていたのが、新聞人であったのだろう。
しかし、時代の変遷とともに言論の担い手は移っていった。情報源も多様化した。特にテレビを中心とする映像メディアや今のようなネットの比重が高まった。記者そのものの変化もあったろう。言葉は悪いが、「サラリーマン記者化」が進展したのではなかろうか。言論人の最も強い形は、「自分の看板」でものを書くということではないかと思っている。だが、組織に依存し、新聞社の看板で書くということを優先して、そういう記事を積み上げてきてしまった面があるのではないだろうか。そういう意味では、新聞人自体が小粒になってしまったと言えるのかもしれない(笑)。腕一本で勝負する、というような―新聞だから、ペン一本と言うべきか―職人的な、「新聞人」が若い世代から誕生してこなければならないだろう。
今、若手新聞人の中で、論壇にドーンと波紋を投げかけるような言論リーダーは果たして存在するのだろうか?私にはちょっと思い浮かばないのだが、はっきり言えば「年寄り」の書く戯言に対して「物申す」という姿勢の、若手新聞人は誰がいるだろうか?そういうワクワク感がないのかもしれない。よく言えば、スマートになって、仕事を淡々とこなしていく、ということなのかもしれないが、泥臭くてもアクが強くてもいいから、「次はどんな記事を書くのだろう」という期待を持たせるような新聞人を生み出せる「新聞業界」じゃないと、段々つまらなくなるのではないかと思う。誰が書いても同じような記事、似たような言説、埋没した個性、紙面を飾るには弱い印象の「書き手」だ。単なる「ライターさん」ということでなく、自分の看板で書く「言論の担い手」という新聞人が必要なのではないか。
偉そうなことを書いてしまったが、本当の所はよく判らない。例えばナベツネは個人的には嫌いなタイプだが、強い個性がある。言ってることも、ハハーン、と思える。「ナベツネらしいね」と思える面がある、ということだ。彼の「戦争だけは絶対に許してはならない。今のような時代だからこそ、それを後世に伝えなければならない義務が我々(戦争体験世代)にはある」という言説には、かなりの説得力がある。身をもって体験したからこそ言えることもある。その思いは、彼個人の言葉として表現されている。新聞人としては、やはり見るべき部分はあると思うのだ(何度も言うが、私はナベツネのことは好きじゃありませんけど)。
それと、テレビなども同じなのだが、運営状況というのが非常に不透明な部分があったりすることも多く、広告主(スポンサー)との関係とかによって言論の中身が変わってしまっては、公器だの公正な議論だの大義名分を出してきても胡散臭いだけになってしまいます。「ジャーナリズム論」を語る前に、まずやるべきことを行動で示すことも必要だろう。社会に向けて、ある程度の情報公開や説明責任を果たすことも必要だろう。更に、時に非難の対象となる「高すぎる報酬」などということも、是正可能な部分は改善努力が必要となるだろう(これがあることで、既得権を守ろうとしているだけ、というような誤解の原因となる)。
5)フリーライド
「新聞なんかいらない」という主張には、一部「そうなのか」と思える部分もあるが、「ネットで十分」であるとなれば、新聞(通信)社の取材成果をタダで利用することになりますね。私も各紙を取っているわけでもないのに、ネット上にある記事をタダで利用させてもらっています。この辺の問題をどうするか、というのは、難しいですね。取材は誰がするか、ということも関係してきます。
新聞は不要とか言いつつも、否定派の主張には新聞記事の引用などが少なからず見受けられます。なんだ、利用しているんじゃないか、とちょっと思います。極端な想定をすれば、定期購読している人達が、これらフリーライダーの利用分も支払っていることになってしまいます。今後別なビジネスモデルが登場するかもしれないですけれども。