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言論の法規制に反対する~2

2014年10月05日 17時27分26秒 | 法関係
続きです。

ヘイトスピーチに関する法的な規制をすべき、という意見は、そう突飛なものであるとは思っていません。人権擁護に関する法律の制定を要望するということは、前からあったものです。今回の話が出るずっと以前の05年頃から、人権擁護法案について記事に反対意見を書いたりしたので、むしろ懐かしく思います。


法的規制の考え方とか法の主旨としては、人権擁護法もヘイトスピーチ規制もほぼ近いように思えるので、理解はできます。しかし、法規制をするべきか、ということになると、立法による規制はすべきでない、というのが拙ブログの見解です。この基本的考え方は、人権擁護法案の頃と同じです。



参考:

08年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/a4b29ea643b15e79465e36e66028394c

08年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/da2ed47dbb44c2a1d23208b11a266b60



最も主要な反対理由としては、運用する側である行政庁を信用できない、ということになりますでしょうか。法の解釈・運用の権限は、行政庁にあります。彼らは、多くの場合、そう滅多に酷いことはやってこないであろう、とは思いますけれども、それはいつ何どき豹変するか判らないものです。滅多にないことでも、たまにはあるという印象です。


適用次第では、規制を強化することだってできてしまいます。
最近だって、辺野古沖での規制権限発動においては、刑事特別法適用だと海保が言ってたわけでしょう?それを合法だ、当然の規制だと賛同していた普通の人々は大勢いたんですよ。
陸山会事件においても、検事の捏造調書は違法を問われず、秘書だった石川元衆議員は虚偽記載の政治資金規正法違反で立件有罪となったわけです。何故検事の虚偽記載は無罪で、石川元議員は有罪なのであろうか?
それは、法の運用側に決定権があるから、です。検察及び裁判所は、司法権を悪用することも平気でやってくる、ということなのです。間違って書いたとしても、形式的に虚偽記載だとこじつけることができるなら、「有罪にできる」ということです。


従って、規制権限・法の運用権限を持つ権力側の胸一つで、やりようによってはいくらでも犯罪とできる、ということです。鑑定結果をジャーナリストに見せれば秘密漏示罪にだってできてしまうんですよ。鑑定とは医業である、というトンデモ論だって、いくらでも生み出せるんですから。


故に、法があれば、狙い撃ちをする意図があるなら、いかようにだって立件・有罪とできる可能性はあるのです。



そうであるのに、ヘイトスピーチについての法的規制であれば悪用されない、などとは到底思えないわけです。むしろ、それを口実として、いくらでも規制強化が可能であるという危機感を持つべきでは。


或いは、かつての日本での検閲みたいなのと似た状況を生む可能性だってある。非国民の名の下に、行き過ぎた「自主規制」「自己検閲」といったような風潮があったものと思われ、そういうのが復活しないとも限らないでしょう。監視社会っぽい炎上騒動は、現代においても起こっています。不届き者を徹底的に叩くことが行われた。
言論の法規制を認めることになれば、権力側に検閲の口実を与えかねないのではないか、という不安がある。それとも、自主検閲と称した、ネットでの炎上に類する攻撃が横行するかもしれない。日本では、そういう傾向があるやもしれません。



言論の自由を規制するのなら、その弊害や危険性についての吟味が必要であることは誰しも認めることでしょう。それが本当に必要不可欠なのか、法規制の実施については慎重であるべきでしょう。


現実に法規制が実施された例があります。鳥取県の条例でした。


鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例

>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E4%BE%B5%E5%AE%B3%E6%95%91%E6%B8%88%E6%8E%A8%E9%80%B2%E5%8F%8A%E3%81%B3%E6%89%8B%E7%B6%9A%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E4%BE%8B


多数の批判や、弁護士会からの意見などもあり、結局は廃止されることになったということです。他に解決できる代替手段などがあるのであればそれを考えるべきであるし、本来的には言論には言論で対抗するのが筋であると思うし、反対者の存在や間違った意見の存在も容認するべきなのが、望ましい社会ということなのではないか、ということであろう。


デモ隊が差別的デモを実行しようと道路使用許可が申請されているのであれば、警察が「こういう差別的発言を繰り返すようなら、二度と使用許可は認めない」と拒否すれば現実には実行不可能とすることができるでしょう。著しい人権侵害は、強行規範で禁止される行為であり、道路使用許可はそうした違法行為を実施させる為ではない、ということで、警察の不許可は合法的処分であると説明できるのでは。



一応補足しておきますが、拙ブログでは、辺野古沖の埋立工事を停止させるには、国に対抗する手段としての立法措置を行うべき、と主張しました。

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7366ef7a2b743fa6d860d3014bf45c98


これは、規制対象が多くの一般人ではないこと、国の横暴というべき基地建設強行に対抗する手段とすること、近年の環境・生物多様性・景観保護という行政側の義務化と住民利益保護の判例の流れがあること、などから、立法措置が妥当なものであると思います。

人権擁護も環境保護も条例制定で変わりがないじゃないか、というふうに考える方がおられるかもしれませんが、規制対象と広範に及ぶものかどうか、国民の基本的権利にどの程度関わることか、という点で言いますと、沖縄県での保護条例は比較的限定的なものであると考えています。



言論の法規制に反対する

2014年10月05日 12時51分27秒 | 俺のそれ
ヘイトスピーチに関連して、リアルでもネットでも色々と勃発しているようです。
当方の率直な意見としては、在特会のデモもカウンターとか称される集団も、本質的には同一であるとしか見えません。いずれも、許されるべきでない言辞や行動があるということです。




反差別を掲げている野間易通氏(kdxn)が『艦これ』をdisったら「めっちゃ炎上」したそうで、「キモオタへの基礎教育の重要性をひしひしと感じる」だそうです

>http://togetter.com/li/652340


きゃっつ(Kats)@grayengineer 氏のコメントが簡潔かつ明瞭に本質を言っていると思う。


結局、「オレの叩きは差別ではない、オマエの叩きは差別」という結論にするために都合のいい前提条件を選定しているだけのことであって、結論ありきだからまったく意味がない。そこには哲学も思想もなく、ただイデオロギーへの盲信があるのみ

言い換えるなら、自分を「正義の味方」(=暴力でだれかを傷つけたり殺しても許される特権的存在)にしてくれる変身ベルトを求めているだけなんだろうねと。つまり幼稚ってこと



最近目にしたものは、一層醜悪なものだった。
確かに国連から勧告を受けるレベル。



政治運動における「死ね」について(「安倍死ね」の論理2)

>http://togetter.com/li/723783


差別的なデモや発言はやめさせるべき、という意見は、恐らく社会の多数派を占めるだろう。酷いデモの様子を見て「共感できる」という人たちは、かなり少ないであろう。

だが、特定団体の差別行為を攻撃するのは正義だ、だから「われら正義の隊」を批判する者は許さん、みたいなのを見ると、気味が悪い。到底賛同したいなどとは思えなくなる。むしろ遠くに距離を置きたい、というのが普通の感覚では。一緒に「差別に反対です」などと表明する気にはなれない。



そうした大多数を占める普通の人々の反応を想定した意見に対し、狂犬的に噛みつく姿が。



小田嶋隆と野間易通のやりとり

>http://togetter.com/li/724293

小田嶋隆@tako_ashi
行動しないマジョリティーを軽蔑→主張に共通する部分があっても路線の異なるメンバーを排除→セクト化→カルト化→テロ化



ホント、そういう感じしか受けない。
たとえ同じ意見を持つとしても、彼らと同じ主張していると表明することが憚られるような存在である場合、見方を変えれば「テロ化」と同じ効果を有するかも。
「差別に反対だよ」という意見の集団があるとして、この範囲内にいる人々に対する”テロ行為”とほぼ同じような効果をもたらす、ということ。集団内に最初は100人いたのに、彼らが運動を頑張り反批判とやらで襲撃を繰り返すことで集団内の人数を確実に減らし、50人、30人と減ってゆく、ということである。


でも、この路線で来たら、「オレらはこれで成功したんだ」という認識を抱いているのかもしれない。ある種の自負?ということか。twitterの持つ性質によるのかな。相手かまわず喧嘩を売れる、ということかもね。まさしく狂犬が圧倒的に有利(笑)。



「自分が好きでやっている」「言いたいことを言っているだけ」「自分の考えに反する者たちの意見は批判されるべき」といったような傾向を備えているように見える。常に「オレの意見が正しい」という基準以外は、特に読みとることができない。自分が提示する意見についての根拠を提示することが、ほぼ皆無に等しいからなのかもしれない。だから理由なく意見を言い放しにしているようにしか見えないのだろう。


そうか、これは演劇のセリフのようなものなのか。台詞の中身には、何がしかの意味が込められているのかもしれないが、「ああ、君は間違っている」という台詞には何らの説得力がない、というものだ。

そういう時、普通の人なら「何故間違っていると考えたのですか?」と確認しようとする。けれども、理由を説明するのではなく、「おお、君はどうして馬鹿なんだい?間違いに気付かないほど愚かなのだね」と台詞を続けたりするから、演劇じみているだけで論拠が不明確なままなのだな。



例えば、「法規制すべきか」という論点に対して、ほぼ無意味な台詞だけが延々と続けられるというのに等しい。これでは議論が深まることもない。不毛なやり取りが続くだけということになる。



ただ、「差別はダメだよ」という意見を掲げる以上、こうした不毛なツイートを大量に排出し続ける存在に対してでさえ、存在を否定することはできないのは確か。だから、解決方法としては、近づかない、接触を断つ、ということくらいしか防御手段はないのかもしれない。見ないようにする、とか。



かつての自称リフレ派の一派が徹底糾弾をしていた姿を思い出す。批判する側もされる側も、毒々しさという点においては似たり寄ったりであったから。モンスター化してゆくというのは、拙ブログでも同じであった。ぼくもミイラになってしまったみたい。


話が大きく逸れてしまったが、デモや言論に関する法規制については、別に書いてみたい。