先月、isologueで映画「それでもボクはやってない」を取り上げていたが、最近裁判所の出す判決というものが大変気になる。磯崎氏の
>『選挙に行ったときに、最高裁判所裁判官の国民審査もちゃんとやったほうがいいよ』と言うのと同じくらい人には勧めづらい
というコメントはグサッと痛かった(笑)。実際コレ→法と正義10書いてしまったしね。
参考記事:裁判における検証レベル
まず裁判所側に求めることを簡単に挙げてみる。これらは、あまり難しい要求ではないハズで、他の法学関係者たちも望んでいよう。
・原則的に判決文は全て全文公開(個人名等はXとかYとかでいいと思うけど)
・検索システム構築(キーワード検索、データベース化)
・判事同士による専門分野の検討・研究などの公開
近頃の医療に関する裁判のニュースが出てるのを見ると、「理屈」として「普通にオカシイんじゃないか」と思えるものが目につくわけです。単なる専門外の素人の頭で考えても、「ヘンじゃないのか?」と思うような「理屈」を判決で用いているように思えます。これを修正していくには、私のようなド素人が言っても効果がありませんので、できれば専門家同士の中で「実際どうなんだ?」というのを真剣に考えて頂きたいですね。
判決文が公開されると、困ることというのがあるのでしょうか?判例集を販売している業者たちの仕事は無くなったりしますから、特定業者たちは困るとか言うのかもしれませんけどね。それって、天下り先とかなのでしょうか?その権益を守りたいとか?違うのであれば、e-japan構想?に従って、裁判所の電子化を推進した方がいいですね。判決が公開されていないことで、法学専門家の目に触れずに過ぎてしまって、適切に評価を受けない、ということもあるかもしれず、そうなるとレベルダウンが起こっても、あまり見咎められない、ということは有り得るかもしれません。そういうのを防ぐという意味でも、公開を進めた方がいいと思えます。
とても厳しい言い方になると思いますが、ご容赦願います。
ある判決に対して、「これは考え方がオカシイ」とか、そういった法学研究などが行われて、法務省なんかに提言されたりするようなシステムというのがあるのでしょうか?裁判官たちは、誰の、どういった評価を受けるのでしょうか?判決内容に関して、どういった品質管理(という言葉が適切かどうか判りませんが、とりあえず)の手段を持っていて、どういったフィードバックシステムを持っていますか?前に、上級審があるから、3審制だから、というようなことを書いたのですけれども、基本的には修正なく「一発で同じ解答」が得られている方が、労力とか時間などの節約になるのですよ。それと類似の紛争なども、「裁判にならないで」ある程度解決に繋がっていくかもしれない。でも、「合法」「違法」の判断があっちへ行ったりこっちへ行ったりすると、結局「裁判をやってみなけりゃ判らない」みたいな状況を生じやすくなったりはしないのでしょうか?有名な検察官のお言葉を借りれば、まるで「一か八か」みたいなもんじゃないですか。そういうことで果たしていいのでしょうか?
また喩え話で申し訳ありませんが、医療ではある程度の「治療法」みたいなものができてくるわけですが、それは同じ病気とか症例に関して過去の知識や経験があればそれを参考にして、いいものを「真似して」いくようなものなんですよね。でも、裁判というのはそういうことになっているんでしょうか?どうなんでしょう?でも、初めてのケースとか、そういうこともあるので、過去の裁判例があるとは限らないのは判るのですけれども(きっと医療でも多々あるだろう)、時には「オレ流」でやっていこうとする裁判官も「いないではない」ようですよね?「全ての判決文が短い」とか(笑)。他にも、その種の裁判を一度も「やったことがない」のに、「オレの流儀でやってみる」という裁判官も沢山いるんですよね?その腕の評価はどうなっているんでしょうか?言ってみれば、裁判長というのが「執刀医」で、他2名の裁判官は「助手1号2号」みたいなもんなんですよね。手術を行う医師たちと同じようなものなんですよ。医療であれば、「やったこともないのにやってはいけない」とか、「経験症例数を事前に説明しておくべき」とかそういうことを判決なんかで言われるわけですが、裁判官は毎回原告被告等に「私は医療訴訟事件は初めてですので」とか事前説明をしたりはしませんよね?(笑)「術中の心停止事件に関しては、一度も裁判を担当した経験はありません」とか、宣言したりはしませんね。こういう時、医療であると「指導する医師がいなかったという体制に不備があり、過失と認定」みたいなことになってしまうわけですが、裁判官はそういう体制が完備されているのでしょうか?「やったこともない」のに、知識も能力も十分担保されている、ということを示せますか?判決に関しての「検証・点検機構」というのは、どのようになっているのでしょうか、という問題でもありますね。基本的には、「間違ってもよい」「一か八かやってもよい」というのが、現状の裁判所のシステムなんですよ。おまけに「過去の事件」から学べることや、積み上げ効果(要するにフィードバックだな)が本来活用されるべきなのに、必ずしもそうとも言えませんよね。
裁判長になるまでに、裁判例は何例くらい経験するものなのでしょうか?今までに「心臓手術を2例だけやっています」という医師に、「是非執刀医をお願いします」とか言う人はかなり少ないと思われますが、裁判官の場合だと「裁判しちゃいますから」ということでいいんですよね、きっと。「裁判官は常に正しい」という前提なんでしょうね。もしその前提であるならば、品質管理は厳格に行われるべきではないでしょうか。それには、法学の(場合によっては、特定分野の人も交えた上で)専門家同士で評価を繰り返すことだろう、と思いますね。現在の判決というのが、そうした評価を潜り抜けてきているとも思えないのです。判決文は裁判官の研究論文みたいな側面もあると思うのですけど、言ってみれば「書きっぱなし」「出しっぱなし」ということで、本当にその研究成果でいいのか、正しいのか、ということが検討されていないのです。
このような品質管理状況で、裁判所の判決というのが信頼性を高められるものなのでしょうか?
>『選挙に行ったときに、最高裁判所裁判官の国民審査もちゃんとやったほうがいいよ』と言うのと同じくらい人には勧めづらい
というコメントはグサッと痛かった(笑)。実際コレ→法と正義10書いてしまったしね。
参考記事:裁判における検証レベル
まず裁判所側に求めることを簡単に挙げてみる。これらは、あまり難しい要求ではないハズで、他の法学関係者たちも望んでいよう。
・原則的に判決文は全て全文公開(個人名等はXとかYとかでいいと思うけど)
・検索システム構築(キーワード検索、データベース化)
・判事同士による専門分野の検討・研究などの公開
近頃の医療に関する裁判のニュースが出てるのを見ると、「理屈」として「普通にオカシイんじゃないか」と思えるものが目につくわけです。単なる専門外の素人の頭で考えても、「ヘンじゃないのか?」と思うような「理屈」を判決で用いているように思えます。これを修正していくには、私のようなド素人が言っても効果がありませんので、できれば専門家同士の中で「実際どうなんだ?」というのを真剣に考えて頂きたいですね。
判決文が公開されると、困ることというのがあるのでしょうか?判例集を販売している業者たちの仕事は無くなったりしますから、特定業者たちは困るとか言うのかもしれませんけどね。それって、天下り先とかなのでしょうか?その権益を守りたいとか?違うのであれば、e-japan構想?に従って、裁判所の電子化を推進した方がいいですね。判決が公開されていないことで、法学専門家の目に触れずに過ぎてしまって、適切に評価を受けない、ということもあるかもしれず、そうなるとレベルダウンが起こっても、あまり見咎められない、ということは有り得るかもしれません。そういうのを防ぐという意味でも、公開を進めた方がいいと思えます。
とても厳しい言い方になると思いますが、ご容赦願います。
ある判決に対して、「これは考え方がオカシイ」とか、そういった法学研究などが行われて、法務省なんかに提言されたりするようなシステムというのがあるのでしょうか?裁判官たちは、誰の、どういった評価を受けるのでしょうか?判決内容に関して、どういった品質管理(という言葉が適切かどうか判りませんが、とりあえず)の手段を持っていて、どういったフィードバックシステムを持っていますか?前に、上級審があるから、3審制だから、というようなことを書いたのですけれども、基本的には修正なく「一発で同じ解答」が得られている方が、労力とか時間などの節約になるのですよ。それと類似の紛争なども、「裁判にならないで」ある程度解決に繋がっていくかもしれない。でも、「合法」「違法」の判断があっちへ行ったりこっちへ行ったりすると、結局「裁判をやってみなけりゃ判らない」みたいな状況を生じやすくなったりはしないのでしょうか?有名な検察官のお言葉を借りれば、まるで「一か八か」みたいなもんじゃないですか。そういうことで果たしていいのでしょうか?
また喩え話で申し訳ありませんが、医療ではある程度の「治療法」みたいなものができてくるわけですが、それは同じ病気とか症例に関して過去の知識や経験があればそれを参考にして、いいものを「真似して」いくようなものなんですよね。でも、裁判というのはそういうことになっているんでしょうか?どうなんでしょう?でも、初めてのケースとか、そういうこともあるので、過去の裁判例があるとは限らないのは判るのですけれども(きっと医療でも多々あるだろう)、時には「オレ流」でやっていこうとする裁判官も「いないではない」ようですよね?「全ての判決文が短い」とか(笑)。他にも、その種の裁判を一度も「やったことがない」のに、「オレの流儀でやってみる」という裁判官も沢山いるんですよね?その腕の評価はどうなっているんでしょうか?言ってみれば、裁判長というのが「執刀医」で、他2名の裁判官は「助手1号2号」みたいなもんなんですよね。手術を行う医師たちと同じようなものなんですよ。医療であれば、「やったこともないのにやってはいけない」とか、「経験症例数を事前に説明しておくべき」とかそういうことを判決なんかで言われるわけですが、裁判官は毎回原告被告等に「私は医療訴訟事件は初めてですので」とか事前説明をしたりはしませんよね?(笑)「術中の心停止事件に関しては、一度も裁判を担当した経験はありません」とか、宣言したりはしませんね。こういう時、医療であると「指導する医師がいなかったという体制に不備があり、過失と認定」みたいなことになってしまうわけですが、裁判官はそういう体制が完備されているのでしょうか?「やったこともない」のに、知識も能力も十分担保されている、ということを示せますか?判決に関しての「検証・点検機構」というのは、どのようになっているのでしょうか、という問題でもありますね。基本的には、「間違ってもよい」「一か八かやってもよい」というのが、現状の裁判所のシステムなんですよ。おまけに「過去の事件」から学べることや、積み上げ効果(要するにフィードバックだな)が本来活用されるべきなのに、必ずしもそうとも言えませんよね。
裁判長になるまでに、裁判例は何例くらい経験するものなのでしょうか?今までに「心臓手術を2例だけやっています」という医師に、「是非執刀医をお願いします」とか言う人はかなり少ないと思われますが、裁判官の場合だと「裁判しちゃいますから」ということでいいんですよね、きっと。「裁判官は常に正しい」という前提なんでしょうね。もしその前提であるならば、品質管理は厳格に行われるべきではないでしょうか。それには、法学の(場合によっては、特定分野の人も交えた上で)専門家同士で評価を繰り返すことだろう、と思いますね。現在の判決というのが、そうした評価を潜り抜けてきているとも思えないのです。判決文は裁判官の研究論文みたいな側面もあると思うのですけど、言ってみれば「書きっぱなし」「出しっぱなし」ということで、本当にその研究成果でいいのか、正しいのか、ということが検討されていないのです。
このような品質管理状況で、裁判所の判決というのが信頼性を高められるものなのでしょうか?