いよいよTEPCOさんも本性を現しましたか。
>asahi.com(朝日新聞社):東電、賠償免責の見解 「巨大な天変地異に該当」 - 社会
本音を言えば、払うつもりなどない、”国”が主導してきたんだから、お前らに責任があるだろう、ということかと。
要するに、内部分裂みたいなもんですか。
お白州に引き出された途端に、手下の越後屋が「お代官さまがやれと言うからやっただけでございます、わたしは何ら悪うございません」と申し開きをするようなものか。お代官さま=行政(国、政治家、官僚等々)ということで、これまでの悪行の原因・責任はお代官さまにある、と罪のなすりつけ合いをするようなものでは。
免責事由を考慮する場合、予見可能性というのが関わってくるかもしれない。
そうすると、東電が恥ずかしげもなく主張するように、「想定外だった、予見できなかった」ということが妥当かどうか、ということを検討することになろうが、「予見できた」と主張する側の根拠はいくつも挙げることができうる(続々・Fukushimaは人災か~隠蔽される福島第一原発の疑惑)。根拠となる文書(論文や成書等)や、国会質疑という証拠を提示することができるのである。
東電側は、これを覆せるだけの根拠を提示すればいいだけだ。東電側が愚かであれば、東電のお偉いさんとか経団連会長とか全銀協の偉い人とか経済同友会の偉い人なんかが、『口で言うだけ』で正当化できると言うつもりなのかもしれんが。それを根拠と呼ぶには、かなりの勇気がいることだろう(笑)。
予見可能性があったにも関わらず、その対策を実施してこなかったとすれば、それは東電の過失というのとほぼ同等だ。
過失が存在するのに、免責主張とはこれ如何に。
法の趣旨を、当方の素人感覚的私見として述べるなら、賠償起因が過失を問えない『異常に巨大な天災地変』ということであって、何らの落ち度や過失がなくとも戦争等の社会的動乱や天災地変に起因する原子炉事故であるなら、賠償責任を免れる、ということなのではないか。今回の福島原発の事故をみるに、本当に何らの落ち度も過失も存在しなかったかといえば、そうとは言えないのではないか。何故かと言えば、予見可能であったことが推測されるからである。
また、東電主張が国の指導(安全基準の妥当性、基準遵守要求の度合い等)にも問題があったんじゃないか、ということがあるかもしれない。たとえそうである(その言い分を一部認容した)としても、賠償責任を逃れることの理由とするには、根拠に乏しいと言わざるを得ない。
例えば交通事故があって加害者の過失で賠償責任を負うとして、その加害当事者が「警察の取締(指導)がぬるかったからだ、もっと厳しく指導してくれたら事故を起こさずに済んだかもしれない、法定速度に問題があったからだ、もっと速度基準が厳しければよかったんだ、だから、警察が賠償責任を半分負うべきだ」といった主張をするのは、困難なのではないか?(笑)
いずれにせよ、東電の戦う姿勢、というものだけは、よく判りましたわ。
トコトン、争ったらいいんじゃないか?
経済界を総動員して、いつでも”国”という、都合のよい相手を叩けばいい、ということなのだろうから。
”国”とは、実体のない、顔を持たない(カオナシだ)、責任主体の見えない、非常に曖昧で抽象的な存在なのである。だからこそ、大変都合がいい、ということである。政治家も官僚も、誰も責任を問われないから、だ。多くの場合に、そうした責任所在を誤魔化してこれたからだ。
>asahi.com(朝日新聞社):東電、賠償免責の見解 「巨大な天変地異に該当」 - 社会
本音を言えば、払うつもりなどない、”国”が主導してきたんだから、お前らに責任があるだろう、ということかと。
要するに、内部分裂みたいなもんですか。
お白州に引き出された途端に、手下の越後屋が「お代官さまがやれと言うからやっただけでございます、わたしは何ら悪うございません」と申し開きをするようなものか。お代官さま=行政(国、政治家、官僚等々)ということで、これまでの悪行の原因・責任はお代官さまにある、と罪のなすりつけ合いをするようなものでは。
免責事由を考慮する場合、予見可能性というのが関わってくるかもしれない。
そうすると、東電が恥ずかしげもなく主張するように、「想定外だった、予見できなかった」ということが妥当かどうか、ということを検討することになろうが、「予見できた」と主張する側の根拠はいくつも挙げることができうる(続々・Fukushimaは人災か~隠蔽される福島第一原発の疑惑)。根拠となる文書(論文や成書等)や、国会質疑という証拠を提示することができるのである。
東電側は、これを覆せるだけの根拠を提示すればいいだけだ。東電側が愚かであれば、東電のお偉いさんとか経団連会長とか全銀協の偉い人とか経済同友会の偉い人なんかが、『口で言うだけ』で正当化できると言うつもりなのかもしれんが。それを根拠と呼ぶには、かなりの勇気がいることだろう(笑)。
予見可能性があったにも関わらず、その対策を実施してこなかったとすれば、それは東電の過失というのとほぼ同等だ。
過失が存在するのに、免責主張とはこれ如何に。
法の趣旨を、当方の素人感覚的私見として述べるなら、賠償起因が過失を問えない『異常に巨大な天災地変』ということであって、何らの落ち度や過失がなくとも戦争等の社会的動乱や天災地変に起因する原子炉事故であるなら、賠償責任を免れる、ということなのではないか。今回の福島原発の事故をみるに、本当に何らの落ち度も過失も存在しなかったかといえば、そうとは言えないのではないか。何故かと言えば、予見可能であったことが推測されるからである。
また、東電主張が国の指導(安全基準の妥当性、基準遵守要求の度合い等)にも問題があったんじゃないか、ということがあるかもしれない。たとえそうである(その言い分を一部認容した)としても、賠償責任を逃れることの理由とするには、根拠に乏しいと言わざるを得ない。
例えば交通事故があって加害者の過失で賠償責任を負うとして、その加害当事者が「警察の取締(指導)がぬるかったからだ、もっと厳しく指導してくれたら事故を起こさずに済んだかもしれない、法定速度に問題があったからだ、もっと速度基準が厳しければよかったんだ、だから、警察が賠償責任を半分負うべきだ」といった主張をするのは、困難なのではないか?(笑)
いずれにせよ、東電の戦う姿勢、というものだけは、よく判りましたわ。
トコトン、争ったらいいんじゃないか?
経済界を総動員して、いつでも”国”という、都合のよい相手を叩けばいい、ということなのだろうから。
”国”とは、実体のない、顔を持たない(カオナシだ)、責任主体の見えない、非常に曖昧で抽象的な存在なのである。だからこそ、大変都合がいい、ということである。政治家も官僚も、誰も責任を問われないから、だ。多くの場合に、そうした責任所在を誤魔化してこれたからだ。