いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

事故米は 他所ではふつう 食用米

2008年09月13日 17時06分13秒 | 社会全般
何かよく判らんけど、騒ぎになってるね、とは思う。
製品化されたものだと、汚染濃度は「危険だ」という水準には達していないことが殆どなのだろうと思うのだが、利用の仕方、安全性確保の為の手段やステップ、みたいな話はよく判らない。


一部公表された濃度水準だと「基準値を上回っていますね」ということは判るが、それがどの程度の毒性とか危険度のものなのか、というのは未だによく判らない。太田農水大臣の「物言い」が物議を醸しやすく、攻撃されやすいということはあるのかもしれないのが、発言の適否が取り沙汰されるので、事態をやや混乱させているのかもしれない。

「今のところ、健康被害を心配する状況という認識ではないです、被害の報告事例も皆無です」とか、「1人で大量に摂取を続けるというような特殊なことがなければ、重大な健康被害発生の心配は少ないようです」とか、「心配性の人たち」をある程度安心させる(沈静化させる)ようなメッセージを出すべきであろうと思う。



これとは別に、私自身もうっかりしていたというか、日本は「食べなければ大丈夫だ」と安易に安心していたところがあって、グサリと刺さったのが、finalventさんの次の言葉だった。


朝日社説 汚染米問題―農水省に任せておけぬ asahicom(朝日新聞社):社説 - finalventの日記

 この問題、識者は語ってない感じがする。事故米の危険性は、宗教的な汚れではなく、科学的に測定できるもので、その科学は制度にシステム的に反映されないといけない。
 あと余談になるし、言うと誤解されるかもしれないが、この農薬米をアジアの人々は食っているのかということを誰も指摘してないように思える。アジアの人が食っているのだから大丈夫と言いたいわけではけっしてないが、日本人が安全ならアジアの人は農薬米を食っていろみたいな無前提な発想はナショナリズムと同じなんじゃないのか。

=====


言われてみると、まさしくそうなんですよね。
これらの事故米はみんな他所からやってきているわけです。どの時点での汚染なのか、という問題はあるのかもしれませんが、これと同水準の汚染が外国の市場で流通している米にあるとすれば、これは日本だけの問題ではない、ということになりますね。一応、海外への呼びかけ、みたいな姿勢はやるべきではないかと思えますが、たとえそうしたとして「汚染されてるから手をつけるべきでない」と言われた国は、「じゃあ、何を食べろというのか」というような部分はあるかもしれない。食糧価格高騰で米不足への不満が高まったこともあるが、農薬に汚染されているからといって「食べないわけにはいかない」という事情があるだろうから。

そこが難しいところだと思う。
が、かつての日本の立場を思えば、欧米は「禁止農薬(薬剤)」みたいな基準を割りと厳密にして、それを率先して発表してきたことで「日本にも同じ水準の規制を」という動きを促してきた面はあったろう。なので、日本にできる働きかけは、どんな形でも良いのでやっていくべきだろう。



ミラクル「ビーフシチュー」

2008年09月12日 19時51分58秒 | 俺のそれ
本当に吹いた。


知らんかった - SY’s Blog

(以下引用)

東郷平八郎、イギリスで食ったビーフシチューがウマーだったので、部下に作らせようとする。
   ↓
しかしジジイ、具にジャガイモ、ニンジン、タマネギ、肉が入っていたことだけ告げて、部下にとって完全に未知の料理である、「びーふしちゅー」を作れと、イジメレベルの無茶な命令をする。
   ↓
しかし部下も「外国の料理」と言われてんのに、醤油とみりんで味付けするという開き直りをみせる。
   ↓
肉じゃが誕生


もはやミラクル

=====


なんて無謀なチャレンジを要求するんだ…
とは思った。

一応私の好みでは、おこちゃまなので、ホテルなんかで出されるビーフシチューよりも、ウチで食べる「クリームシチュー」の方が美味しいと感じてしまう(笑)。今まで、「我が家のクリームシチュー」より美味しいと思ったビーフシチューというのは、どこのホテルだろうと何だろうと皆無である。パイの皮をパリパリして食べるヤツとか、ああいうのでも同じ。


結局安い市販品の粉というか、「シチューの素」の味が好きになっているのかもしれない(笑)。

時々インスタントラーメンを無性に食べたくなるのと似てるかも。有名店のラーメンよりも、恋しくなるから。



芋焼酎って

2008年09月12日 12時56分06秒 | 社会全般
割と素朴な疑問があるんだけど。


焼酎「最大の危機」 事故米不正転売問題(産経新聞) - Yahooニュース

事故米の不正転売問題で、焼酎業界が揺れている。アサヒビールなど自主回収するメーカーでは億単位の被害が相次ぎ、小売店は「風評被害」も含めた焼酎全体の買い控え傾向を懸念。問題の全容が不透明なだけに、関係者からは「最大の危機だ」「どこまで飛び火するか分からない」と不安視する声も出ている。

=====


芋焼酎ってことで売ってたんですよね?アサヒビールの焼酎は。

芋から作ってるから「芋焼酎」って言うのかと思ったら、実は「米」から作っているんだね。そうすると、それは「米焼酎」と何が違うんだろう?

事故米が混ざってしまう可能性がある、ということは、芋焼酎を作るに当たり「芋が大半」だけど米も使う、ということなんだろうか?
それとも、芋からも作り、米からも作り、最終的にはブレンドとか?
要するに、混ぜもの、みたいなもんか?(笑)


単に事故米が発覚した、ということ以上に、芋焼酎は「実は米から」作ったりしているのだ、ということが明らかになってしまい、これはこれで「痛い」ということにならないのかな、と(笑)。

あくまで表示ルールの問題、ということだと思うけどさ。



「忠犬ハチ公になりたい」~by UFO石破

2008年09月12日 12時40分57秒 | 政治って?
チラッと聞いた。

昨日は渋谷で総裁選の演説があったようだが、中でもキモい石破さんは要注目!

「忠犬ハチ公になりたい」って、あーた、面白すぎですって(笑)。


なんといいますか、キモさを通り越えると、どことなく「お茶目」にさえ思えてくるのが石破さん。我が家では、赤丸急上昇。

思わず、笑ってしまえるから。
総理には向かないけど、「独特の間」とか、薄気味悪さとか、オタクっぽさとか、そういうギャップが面白いんだよ。発言もユニーク。



ドラマ『コード・ブルー』最終回

2008年09月12日 12時07分56秒 | 俺のそれ
うむむ、某所界隈で盛り上がっていたトリアージとか出てきてた(笑)。
道路を借りるとか、ヘリの着陸許可とか、消防・レスキュー関係の協力とか、撮影は凄く大変だったんじゃないかなと思う。

明らかに、資金は勝っていたんじゃないか?(笑)


一言で言うと、困難にチャレンジする若者像、みたいな雰囲気が出ていて、ドラマ全体としては良かったと思う。技術指導する人(医師やヘリの人?)が本格派で、演技・演出とかによく活かされていたのだろうと思う。そのことがドラマの仕上がりの良さを生み出していたのではないかな、と。少なくとも、監督、脚本、演出等の誰かが本物の現場を暫くの間、見学したのではないかな、と思う(違うかもしれんが)。1回や2回見た程度では、作れない気がする。肌で「臨場感」を掴まないと、ああいう仕上がりにはならないかもな、と。そういう意味では、かなり良いドラマとなっていた。


スピーディな展開でエピソードごとのテンポが良く、あと、「いつも決まった音楽」の使い方が良い。
湾岸ものとか、海猿ものとか、フジ系映画にかなり近い印象。よくありがちだが、出動シーンに流れる、胸の奥底からジーンと湧き上がるような音楽、みたいな感じ。あれが流れてくるのは「お決まり」なのだが(水戸黄門もそうだよ、笑)、そういうパターンは結構好きだ。
今度はひょっとすると「消防庁全面協力」を狙えるかもしれない(笑)。
海保、防衛省、と来たら、やはり次は消防庁か。


「Tomorrow」は、「医療を取り巻く問題」を数多く投げかけていたが(例えばリビングウィルと所謂植物状態の延命治療継続の対比―事務長さんの奥さんはベンチレータを外し、遠藤先生のお母さんは継続した)、どちらかというと「知って欲しい」という作り手側の姿勢が強く出ていたように思う。腹腔内出血で死にかけてまで仕事をした看護師(菅野)は、確かに頑張ってはいたが、もしもあんな看護師が実在したとすると「暑苦しい」というか大きなお世話っぽいだろうと思う(笑、ゴメンね、悪気はないけど)。あの「おしつけがましさ」が、ドラマ全体にも等しく滲んでいたように思えて、やや教訓っぽくなりすぎたかもしれない。
ああ、災害時とか誰か倒れたりとかする時の音楽はちょっとヘンだったというか、「緊急性」みたいなのを暗にお知らせしているのだろうと思うが、どうなんでしょ。

「コード・ブルー」の方は登場人物が分散している(若手)為に、ネチネチしたようなしつこさが薄かったと思う。
続編に期待。
最大の関心事は接着した柳葉の右腕がどうなっているか、というところでしょうか。


それと、最後もやっぱり、何が「もうぅぃっかい~」なのか判らずじまいだった。
しっかり確かめれば良かった…



最高裁判例変更と行政訴訟

2008年09月11日 18時54分51秒 | 法関係
「42年ぶり」ということのようで、私の歳と同じ(笑)だけ尊重されてきた最高裁判例が見直されたようです。偶然の一致に、何となく親近感を持ちますね。

区画整理事業判決の要旨 最高裁大法廷


判決文全文を読んでみました。
(ところで、PDF文書がgooブックマークではじかれてしまうようになったのは何故なのかな?Adobe Reader9に更新してからそうなってしまったのだが、理由が判らないんですよね。何とかならないのでしょうか?>gooの人?)

こんなに補足意見がついていることもあるのだな、と初めて知りました。

また、最高裁判例を変更するとなると、これは大変なことなのだな、と思いました。

Matimulog arret行政処分性を拡大する判例変更more

町村先生の出題は、難しくてよう判らんけど、一応答えてみる。

1:過去の最高裁判例を変更する場合には、大法廷と決まっているから?
2:「補足意見」は裁判官の個人的見解、「意見」は法廷としての見解?
3:やり直さない、一事不再理、不遡及原則。今後の判決には影響する
4:破棄自判→最高裁判例変更だったので自判?原審では過去判例に基づいて適法性のみしか判断されておらず中身については検討されていないので、スタートに差戻し

4は解答の意図が判り難いかもしれませんが、当方の言いたいのは、1、2審ともに「訴えそのものが不適法」という判決だったと思うので、最高裁はこれを「破棄」し「訴えそのものは適法」と判例変更(=自判)、その上で、「訴えそのものは適法」だとしても中身は「見てないので判らんから、最初からやってくれ」と。具体的に当該土地区画整理事業が正当かどうか、取り消すべき(それとも計画を変更せよ、とか?)かどうか、それを裁判でやって決めなさい、と。

答えを後日発表してくれるといいんだけどなー
私は学生さんじゃないから、本読んでまで答えを調べようとは思わんし(笑)



あるコメント

2008年09月10日 22時44分29秒 | 俺のそれ
医師の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか? - 元検弁護士のつぶやき

ちょっと以下のコメントを書きました。

=====


差し出がましいですが、失礼します。
ここ暫くは書き込むのを控えておりました。幾度かコメントを書いたものの、投稿直前に消しました。常連の方々がどうにか収拾をつけるかもしれない、と思い止まったからです。が、受忍限度(笑)を超えたので、やはり書くことにしました。あくまで個人的感想ですが。

ゴチャゴチャ書いている医師と思しき方々が「何を見ているか」というと、自分、自分の狭い周囲、字面、みたいな感じです。司法・マスコミ・警察などへの恨みつらみみたいな心情や「判ってくれない患者」たちへの苛立ちのようなものが判るだけで、残念ながら得られることが何らありません。前にも無駄な批判は程ほどにしとけ(超意訳ですが)とコメントに書きましたが、そのことの意味が未だに判っていないようです。
事件の担当弁護士のご意見が出ていましたので、是非お読み下さい。
http://obgy.typepad.jp/blog/2008/09/post-1341-32.html


結局のところ、必要なのは「信頼を勝ち取る」ということなのです。それが誠実ということなのであり、文句を並べている連中は「自分以外の人たち」のことを考えて行動(コメント記入)していない、ということです。彼らがやっていることは、医療側への信頼を失わせ、医療人の言論の信用を貶める効果があるだけなのだ、という自覚が欠けているのです。裁判を乗り越えることで信頼を得られるところまで来たのだから、少なくともこちらの「話を聞いてくれる」という地点まで漕ぎ着けたのだから、ここで慢心せずに「誠実に」議論をしていきましょう、ということの意味が判っていないのです。簡単に言えば、「勝った、勝った」と我が手柄の如く言い募り、司法側(警察含む)やマスコミへの反撃を行っているだけなのです。その行為こそが、再び医療側の信頼を失わせてしまうものなのだ、という認識がない。

「法」というものをお考え下さい、というお願いをしたことがありますが、私から見ても「法」をナメているとしか思えません。私自身、法というものが何なのか、みたいな哲学的なことはよく知りません。しかし、私のような素人でも判ることはあります。無知蒙昧な素人衆が、いくら掲示板やコメント欄などで喚きたてようが、検察や裁判所をバッシングしようが、そんなものは屁でもありませんよ。そんなことで「法」は動かすことなどできません。最も難関の司法試験をダテには通っていませんよ。法の理論は、そんな簡単なものではないでしょう。法をナメた連中の為に、本件判決文を書いたわけではありません。
医療サイドを信じますよ、誠実さを信じた上で尊重するように配慮しますよ、という「譲歩」がようやく得られたというのに、ごく一部の人間が「その他大勢の努力してきたこと」をぶち壊そうとしているのと同じなのです。

これまで私は、素人のくせにモトケン先生やYUNYUN先生をはじめその他法曹の方々に議論のお付き合いをさせてしまったりしたことがあります。検察批判も、裁判所や判決への批判も書いてきました。最高裁判決にさえも、注文をつけたりしました(笑、恐縮です)。が、それは、理解をしてもらいたいと考えたからであり、長い時間をかけて説得を試みてきました。そのことに意味があったか、何かの効果があったか判りません。そうではあっても、これら批判には、根底に尊敬と信頼があってのことです。

私にとっての正義の象徴とは、大雑把に言うなら検察(検事)であり、司法なのです。判決を書く裁判官も当然含まれます。弱小個人に過ぎない私が、唯一(国家)権力と向き合う(対決する)ことが可能なのは、司法制度しかないのですから。なので、「法」すなわち司法に正統性を求めています。映画「ダークナイト」で正義の象徴となっていた検事が登場していましたが、そのことが痛いほどよく伝わってきました。

ですので、これまでの努力を無に帰するような言動を行うとか壊そうとしている人がいるなら、厳しく糾弾したいと思います。こう言ったの言わないの、どういう意図だのそうでないだの、そういうことの決着を付けた後(決着するかどうか判りませんけど)に、何を得たいのですか?「こういう言葉は不適切でした、申し訳ありませんでした」みたいに謝罪でもさせたいと?これでは某弁と何が違うのですか?
私には、こうした論争の意図も意義も判りません。個人のアイデンティティを守りたいだけなら、自分の領域でいくらでも好き勝手にやっていればいいことです。

「誠実にやっていくといいですよ」という字句を見たら、普通は「ええ、そうですね、信頼を得られるようにみんなで誠実にやっていきましょう」で、即終わりではないですか。何故、素直に反応できないのかが、全く判りません。反論することで、一体何を得たいのでしょう?「医療者は常に誠実にやっている」ということを証明したいとしても、反論すればそれが示せるとか相手を納得させられるとでも思っているのでしょうか?私の印象では逆効果でしなかなく、「オレが苦しんでいるから、お前も苦しめ」的な、荒んだ心性が顕れているようにしか思えません。「意を汲む」ということがまるで感じられず、コメントを返す相手以外の「その他大勢」がどのように見ているか・感じるか、ということへの配慮がなさ過ぎる、と思います。



拡大する医療過疎

2008年09月10日 20時06分37秒 | 社会保障問題
これがまさしく崩壊の一端か。

格差17倍、二次医療圏別「千人当たり医師数」(医療介護CBニュース) - Yahooニュース

「人口1000人当たり医師数は、二次医療圏別に見ると17倍の格差がある」―。日本医師会総合政策研究機構(日医総研、竹嶋康弘所長)はこのほど、「二次医療圏別に見た医師の偏在と不足」と題するワーキングペーパーを発表した。医師不足に関する基準の一つとされているOECD(経済協力開発機構)の「人口1000人当たり医師数」について、「大学医学部がある地域では人口1000 人当たり医師数が多くなる」「人口が減少している地方でも多く計算される」などと指摘している。

=====


不均等の一因としては、昔の医局支配の崩壊ということがあるのかもしれない。本人意思に反して地方の病院回りなどを半ば強制的に行われていたのが、個人の自由意志が優先されるようになれば、「誰も行きたがらない」場所ができてしまうのは当然なのかもしれない。

よくありがちであった医局批判は、機能していた人材派遣システムを崩壊させた。それを主導したのは、一体誰だったのか、ということを全ての人々が一度振り返ってみるといいかもしれない。


参考記事:

医療不審死の問題




もう1回チャンスをあげたら?ダメなのかな?

2008年09月09日 21時18分27秒 | 社会全般
例のロシア人力士だけど。

はてなブックマーク - asahicom(朝日新聞社):元若ノ鵬、会見で「すみません」4回 相撲に未練も - 社会

確かに大麻はマズかったとは思うけど、反省して二度とやらないということなら、復帰の道は残してあげた方がいいのではないかと思うが。

昔、日本の芸能人が軒並み大麻で捕まったことがあったと思うが、あれも、後日芸能界に復帰してきた人たちは結構いたでしょ?
陽水とかナオコとかヤスコとか…あと思い出せないけど、これと同じく、力士も許してあげてもいいんじゃないかと思う。

本格的に覚醒剤とかヤバい麻薬とか、そういうのではなかったんだし。謹慎期間を取って、その後に再チャレンジさせてあげてもいいんじゃないかな、と。
馴れない異国の地で若いうちから頑張ってきたのに、ここで挫折させるというのは勿体無いというか、可哀想かな、と。

まあ、どうしても厳罰で臨む、ということで、決して過ちを赦さないということなら、仕方がないんだけどさ。相撲協会の方針とかあると思うし…。



洪水対策のこと

2008年09月09日 20時45分30秒 | 社会全般
大都会は色々と大変だわね。

超大型台風で荒川決壊なら死者最悪3500人…防災会議試算 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

(一部引用)

被災者数が最も多いのは埼玉県川口市の荒川左岸が決壊した場合で、さいたま市緑区で浸水が最大6メートルになる。ポンプ場が稼働しないと24時間後には116万人が影響を受け、1週間たっても浸水は続くとの試算になった。

 同会議は、今年3月に死者が最悪3800人に上るとの試算を公表した利根川流域についても、カトリーナを上回る台風だと、埼玉県北川辺町や群馬県板倉町などで計1万8000人に上るとした。

=====


災害対策にも、百年に1度か、2百年に1度みたいな想定レベルというのがあるみたいですね。

それがまるで理解できない人たちはいるみたいですけど(笑)。

理解を超えた騎士団・2


過剰な対策とかを求める人々に対して、ヤレヤレだの、ヒステリックな感情論だの、どちらかといえば見下したかのような意見を言うような連中に限って……

散々非難しているくせに、それとソックリなことをやるのは何故なのか、謎だ。



病識がないので、余計にタチが悪い(笑)




結局、何回?

2008年09月09日 16時47分31秒 | 俺のそれ
最近気になっていた謎というのがあった。


「もうぅぃっかい~、もうぅぃっかぁ~い~、もうぅぃっかい~、もうぅぃっかぁ~い~」


例のドラマ「コード・ブルー」の主題歌に出てくる歌詞なのだが、何かを「もう一回」ということらしい(詳しく知らない)。
で、ウチの子にこう言ってあげた。

「で、結局、何回なんだよ?何回やれば気が済むんですか?判る?」(笑)

ウチの子は、ノーコメント。
我が家ではしばらくの間、謎のままであった。

だって、将棋をもう一回勝負してね、とか言う場合、「もう一回」と頼むでしょ?
で、1回やると、更に「もう一回」と頼まれたら?
これを延々と繰り返すことになるわけだ。

だから、この歌詞の「もうぅぃっかい」というのは、恐るべき「繰り返し」を求めているのではなかろうか、と。

ちょっとした恐怖を感じたわけだ(←ウソ)。


先日車を運転していたら、ラジオからこの曲が流れてくるではないか!
で、わたくし、この回数をカウントさせていただきました。

答えは、……言いたくない(笑)。
教えない。

だって、誰も聞きたくないでしょ?
ウチの子ですら、何の興味も示さなかったんだよ?
かなり、うざい?
ごめん。


無駄にイジケたりしましたが、書いておきます。

わたくしのカウントした数は多分「12回」ではなかったかと思います。
つまり、月1回くらい?(なんじゃそりゃ)

で、何を「もう一回」と言っているのかは、未だに謎のままでございます。
頭と耳が悪いので、歌詞で何と言っているのか、思い出せないんですね(笑)。
年を取ると、繰り返しフレーズの部分しか思い出せなくなるものでございます。



ドラマ『Tomorrow』の最終回

2008年09月08日 21時14分05秒 | 俺のそれ
思った通りの展開。

何てベタなんだーー!
とは思う。

が、しかし、ちょっと「昔」っぽさがあったのと、菅ちゃんが健気に署名集めをしたので、同情を誘う。


それにしても、商店街のオヤジたちの掌返しの早さといったら!
調子良すぎ。観光開発事業に賛同していたのに、病院に一晩いただけで既に反対派に早変わり。
だけど、世の中の現実に一番近いのかもしれない。
遠藤先生の給料払えるのか問題は、とても気になったんですが、どうなんでしょうか(笑)。理想だけでは、お母さんの医療費を払えないんじゃないかと心配してしまいます。


あと、何てタイミング良く遠藤先生が登場するんだ!
その他看護師たちも、まるで舞台のソデから「ハイ、出番です」みたいに登場してくるわざとらしさがあるけど、そういうベタな臭さがいい。


最後の最後に重大な真相が明らかにされた。

院長は、実は次の就職先が「医療安全センター」の所長になる予定だったらしい。って、これはどうでもいいんだけど。イマドキの話題っぽい名称だったもんで。

じゃなくて、手伝いに院長がオペ室に入ってきた(術者はいるが、麻酔管理ができる人がいなくて困っていた場面)途端に、看護師が言ったのだった。

「ところで院長、できるんですか?」

酷いー!
というか、普通泣くよね、そんなこと言われたら(笑)。
看護師が面と向かって、そこまで言うわけねー!

それはとりあえずとして、院長は少しハニカミながらこう言った。

「オレはこう見えても、昔は『救命救急の鬼』と言われた男だぞ…」

そうだったのか!
かなーり、ウソっぽい設定だけど、最終回だからヨシとしよう。
(記憶を頼りに書いているので、実際の台詞通りではないかも。大体は合っていると思うけど)

鬼と呼ばれた男の割りには、これまで何らの貢献もなかったのがちょっと疑問ではある(笑)。けど、ドサクサっぽい最終回だから、許す。


傾向として、この街でお祭りみたいな行事があると、大規模災害っぽく「火災」「爆発事故」「突風」などに見舞われてしまうようだ(笑)。危険な街だな。まあいいんじゃないか?


ふざけたことばかり書いたけど、病院存続か閉鎖か、という問題は、ドラマの話ではなく現実の問題なのだ。他にも医療の抱えている問題について多くの人々の提起したという点においては、このドラマは良かったんじゃないかと思う。
が、あまり人気は出なかった、っぽい?


昔っぽさ、というのは、田舎の病院ならば他科の医師同士が協力するしかなかった、血液が足りず「●型の人はいませんか~?」みたいに一般人に供血をお願いする(ウイルス検査も照射もなしに輸血だから、かなり…)、みたいな。多分、現代だと「何故検査もせずに輸血したんだ」とか「専門医がいないのに何故手術したんだ」とか、大問題にされると思う。


ま、「コード・ブルー」の最終回との比較になっちゃうね、多分。
関係ないけど、制作にかかってる金が、どう見てもフジ系は多いが、TBS系の方はかなり少ないとしか思えんのだが、どうなんだろう。



権威喪失の時代?

2008年09月08日 12時29分44秒 | 俺のそれ
こういう感覚を抱くのはよく判る気がする。

はてなブックマーク - そして誰も「専門家」を信用しなくなった - インターネットください


専門家と呼ばれる人々が、必ずしも「正しいこと」を言うわけではない、ということだと思う。当てになるかどうかは、場合によると思う。


随分前にそうしたことを感じたので、記事に書いた>
「反専門家主義」が顕在化したブログ世界


このコメント欄で、小倉秀夫氏の指摘がこれだった。
(以下引用)

>残念ですが (小倉秀夫)  2005-07-27 02:09:35

 残念ながら、専門家の嘘を見抜くところまでは言っていないように思います。現在できているのは、専門家の意見が気に入らない場合に、嘘だと決めてかかって集団で嘘だということにしてしまって納得してしまうことくらいでしょう(人権擁護法案騒動などその典型ですね。)。
 「周囲の人々は洗脳にかかったままだが、自分は○○のおかげで洗脳が解けた」というのは一般的には非常に危険な状況なのですが、ネット上にはこの種の言説があちらこちらに見受けられます。
=====

で、次のように答えた。

>そうですね、完全に見抜くのは容易ではないですね。ただ、「権威」への疑念は確かに存在しそうで、日米関係なくトフラーが書いているのと同じような印象を持ちます。
あちこちに「フィルターのない言葉」(ドグマさんの記述された)が存在するというのは、私自身を含めてそうだと感じます。


今の感想を言うとすれば、やはり「専門家はウソを言うことがある」と思っている。記事でいくつか書いてきたと思うが、弁護士が「憲法違反だ」と言う事例―「貸金業法」関連で違憲だとする主張、「医療安全調査委」法案関連で各種行政手続が違憲だという主張や医師法21条が違憲ではないかという主張など―が横行しているのを見るに、「信頼に足る言説」というのはかなり怪しくなり、専門家だから必ずしも正しいということではないのだな、ということです。

参考記事:

大衆は何に対峙しているのか(追記後)

大学教授は信頼すべき有識者と本当に言えるか

「現代日本教養論」を読む


じゃあ、結局どうすればいいのさ、というところに行き着くわけだけれども、基本的原則としては、
・専門家をある程度信頼するしかない(自分が全部をやるのは無駄が多い)
が、それでは引っ掛かってしまうこともあるので、
・自分に疑問が生じるならば、考えたり調べたりしてみる
・他の対立意見や何らかの指摘があれば、立ち戻って考える
・自分は何を信じ選択するか、の基盤となるものを強化する
みたいなことでしょうか。

実際、そのようなことを実行できるかどうかは、判らないんですけれども。基盤強化って言っても、本読むとか、そういう何らかの努力をしたとして、正しいものだけをうまく取捨選択できるのかは判らない。エコ商品や健康関連グッズなどに引っ掛かってしまうかもしれない。なので、多少はしょうがないんじゃないかな、とも思う。まんまと嵌っている場合もあるかもしれないが、後々気付くとか、実質的に大きな被害を被らなければ、それでいいんじゃないでしょうか。どこかの段階で、自分を納得させるしかなさそうですし。

以前に、私は自分の感覚を信じている、ということを書いたことがあるが、それは今でも変わっていません。


<寄り道:
中には「以前から言っていること」を知らずに何でも判断している人がいるようだ。パソオタ?なのか何なのか知らんが、いい気になってるのが笑えた。
また喩えですまないが。
前から「××のHDDなんていらない」と言っているのに、それを単に知らないのだな。暫く後に書いた別な記事で「パソコン改造費用高すぎじゃね?無駄にぼったくられているんじゃないの?」と疑問を呈すると、妥当な価格とか他の人の改造費用とかそういう参考(比較)になるものを何一つ知らないクセに「費用は妥当」とか即座に結論を下す「結論ありき野郎」もいたな、『はてな』に(笑)。
で、以前からの主張である「××のHDDなんていらない」と記事本文ではなくコメントに書いたら、
「改造費用に疑問を呈しつつ、実は反対したいだけ。「××のHDDなんていらない」という真の主張を隠蔽する為に、改造費用にあれこれと言っているのだ」
みたいな解説まで付けて、自分だけは何かを看破したつもりになっているんだな。抱腹絶倒。前からはっきり書いてあることなのに、見破るも裏を読むも何もないだろ。ごくろうさん、としか言いようがない。
こういう色メガネ野郎というのはいるんだな、と思った。中身を考えないからだろうね。「誰が言ったか」の「誰」の部分にかなりのバイアスでもあるからか?これと似たようなことは前にもあって、「指摘している語句は、以前から書いてることに過ぎないよ」と示唆してるのに、また同じことをやっているのだな。学習効果がないのか?要するに、何でもいいから批判したいだけ。「中身」ではなく、「誰」の部分だけしか批判できないんじゃないの?(笑)所詮その程度、ってことなんだろう。>


できれば、専門家同士の中で「まがいもの」をある程度排除できるようにしてもらうとか、間違いを修正していってもらうとか、そういうことをやってもらい、一般人は専門家をある程度信頼して受け入れるといいのでは。信頼ゼロだと、いつまで経っても「信じないぜ」ということから抜けられないし、どちらにしてもほどほどに、としか言いようがないかな。



福島地裁判決と医師法21条違反の考察

2008年09月07日 15時20分37秒 | 法と医療
大野病院事件で、医師法21条違反には該当しない旨判示されたが、これについて過去の最高裁判例をもって「判例に反する」といった意見が散見されないわけではない。そこで、医師法21条違反について、若干考えてみたい。

条文を確認しておく。
○医師法 第二十一条
医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。

ポイントだけ書くと、
(a)検案して
(b)異状がある
(c)と認めた時は届出義務がある
ということである。(c)に関しては、特に論争はないだろう。問題となるのは、(a)と(b)である。
個々に考えてみる。

ア)近時における最高裁判例

平成15(あ)1560(平成16年4月13日判決)では、次のように判示されている。

=====
医師法21条にいう死体の「検案」とは、医師が死因等を判定するために死体の外表を検査することをいい、当該死体が自己の診療していた患者のものであるか否かを問わないと解するのが相当であり、これと同旨の原判断は正当として是認できる。
(中略)
本届出義務は、警察官が犯罪捜査の端緒を得ることを容易にするほか、場合によっては、警察官が緊急に被害の拡大防止措置を講ずるなどして社会防衛を図ることを可能にするという役割をも担った行政手続上の義務と解される。そして、異状死体は、人の死亡を伴う重い犯罪にかかわる可能性があるものであるから、上記いずれの役割においても本件届出義務の公益上の必要性は高いというべきである。
(中略)
本件届出義務は、医師が、死体を検案して死因等に異状があると認めたときは、そのことを警察署に届け出るものであって、これにより、届出人と死体とのかかわり等、犯罪行為を構成する事項の供述までも強制されるものではない。
(中略)
以上によれば、死体を検案して異状を認めた医師は、自己がその死因等につき診療行為における業務上過失致死等の罪責を問われるおそれがある場合にも、本件届出義務を負うとすることは、憲法38条1項に違反するものではないと解するのが相当である。このように解すべきことは、当裁判所大法廷の判例(昭和27年(あ)第4223号同31年7月18日判決・刑集10巻7号1173頁、昭和29年(あ)第2777号同31年12月26日判決・刑集10巻12号1769頁、昭和35年(あ)第636号同37年5月2日判決・刑集16巻5号495頁、昭和44年(あ)第734号同47年11月22日判決・刑集26巻9号554頁)の趣旨に徴して明らかである。
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平たく表現すると、次のようなことである。
①「検案」とは、医師が死因等を判定するために死体の外表を検査すること
②検案対象となる死体は、自己の診察していた患者か否かを問わない
③届出義務は、犯罪捜査の端緒を得ることを容易にする
④同、緊急に被害拡大防止措置を講ずるなどして社会防衛を図ることを可能にする役割を担う
⑤届出義務の公益性は高い
⑥届出義務は犯罪行為を構成する事項の供述までも強制されるものではない
⑦自己が業務上過失致死等の罪責を問われるおそれがある場合にも本件届出義務を負う
⑧届出義務は憲法38条1項に違反するものではない

過去の判例から明らかである、ということを最高裁は指摘しているので、よく用いられがちな「憲法38条1項違反」という主張をする場合には、判例をよく検討してからにした方がよい、ということはあるだろう。「憲法違反だ」と安易に主張する傾向があるのではないか、という指摘をしたことがあるが、案外と当たっているのかもしれない、と最近思いつつある。

それから、古い学説や判例は(新しいものではないので)当てにはならない、とか思っているのかよく判らないんですが、古いことに文句を言う法曹?の人もいるみたいですけど、最高裁でも古い判例を蔑ろにしたりはしていない、ということをご確認下さればと思います。判決文は一部分とかだけではなく、できるだけ全文を読んで判断することが必要ではないかと思います。部分的「切り取り」だけですと誤解や理解が不十分であることもあるので、評釈っぽいものやダイジェストだけを頼るのは注意が必要かと思います。

話が逸れましたが、本判決の意義としては、当然に「憲法違反ではない」と判示したことはありますけれども、①~④の再確認を行ったということにあるかと思います。すなわち、判決当時の時点における司法の考え方が判る、ということです。
ここで重要な指摘をしておくと、最高裁判例では「検案」についての定義を示してはいるものの、「異状」については何らの定義を示していない、ということがあります。上記(a)については判例通りということですが、(b)については何一つ述べていません。届出義務の目的や当該行政手続の義務が違憲ではないということも明らかにされていますが、(c)が肯定されただけです。


イ)診療中か否かの論点

前項の最高裁判例で②が示されたので、これについては答えが出ています。すなわち、「『検案対象』は診療中か否かを問わない」ということです。ただ、このことが「届出義務は(死んだ人が)診療中か否かを問わない」ということを自動的に決するものではありません。


ここで、「検案」や「診療中か否か」については、医師法20条も関係しているのです。これを見てみます。

○医師法 第二十条
医師は、自ら診察しないで治療をし、若しくは診断書若しくは処方せんを交付し、自ら出産に立ち会わないで出生証明書若しくは死産証書を交付し、又は自ら検案をしないで検案書を交付してはならない。但し、診療中の患者が受診後二十四時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については、この限りでない。

「診療中の患者」という用語が本条文で登場しているのですが、これが判り難くなっているかもしれません。

まず、初歩的原則としては、死亡診断書か死体検案書を交付する、ということで、診療中の人なら死亡診断書、診療中ではない人なら死体検案書、ということになります。20条の但書部分についての解釈は、局長通知が出されています。

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厚生省医務局長通知(昭和24年4月14日 医発第385号)

医師法第20条但書に関する件

標記の件に関し若干誤解の向きもあるようであるが、左記の通り解すべきものであるので、御諒承の上貴管内の医師に対し周知徹底方特に御配慮願いたい。

     記

1 死亡診断書は、診療中の患者が死亡した場合に交付されるものであるから、苟しくもその者が診療中の患者であった場合は、死亡の際に立ち会っていなかった場合でもこれを交付することができる。但し、この場合においては法第二十条の本文の規定により、原則として死亡後改めて診察をしなければならない。
 法第二十条但書は、右の原則に対する例外として、診療中の患者が受診後二四時間以内に死亡した場合に限り、改めて死後診察しなくても死亡診断書を交付し得ることを認めたものである。

2 診療中の患者であっても、それが他の全然別個の原因例えば交通事故等により死亡した場合は、死体検案書を交付すべきである。

3 死体検案書は、診療中の患者以外の者が死亡した場合に、死後その死体を検案して交付されるものである。

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少し整理しますと、「診療中の患者」とは外来か入院かを問わず、医師から見て診療を行っている途上の患者ということになります。心臓疾患があって外来通院しており投薬していた、とか、そういう関係です。以前に足を骨折して治療したけど、その後診療していない患者が死亡したなら「診療中の患者」ではないので、死亡診断書交付はできず検案書ということです。

◎「診療中の患者」以外の者→死体検案書

20条と通知から、「診療中の患者」であっても場合分けがあることになります。
(便宜的に診療中の「中」を取って名称を付けています)
・中-1:受診後24時間以内→死亡診断書
・中-2:受診後24時間以上経過→死亡診断書
・中-3:全然別個の原因→死体検案書

中-1の場合には、20条規定の「自ら診察(検案)しないで、診断書(検案書)を交付してはならない」の例外的措置として、但書の診察し(立ち会ってい)なくても死亡診断書を交付していいですよ、ということを認めているのです。24時間以上経過している場合には、中-2に該当するので「死後診察」を行って死亡診断書を交付しなければならない、ということになります。中-3の場合には、時間経過には無関係に検案をして、死体検案書を交付しなければなりません。

したがって、死体検案書を交付する場合というのは、「診療中の患者」以外の者と、「診療中の患者」であっても全然別個の原因により死亡した者の2通りあることになります。これは最高裁判例の②に矛盾せず、「診療中の患者」か否かという点では、「検案」はどちらも有り得るということになります。


ウ)「検案」と「異状」

前述ア)のように、「検案」についての定義や届出義務の意義・目的を考慮すれば、医師法21条の届出義務は死亡診断書を交付した場合に適用されているとは考え難い。「検案」が適用されているのは、「診療中の患者」以外の者か中-3の場合であり、届出するのは犯罪捜査か社会防衛の目的に合致しているようなものである。例えば手術中に合併症で死亡した場合が、緊急に社会防衛すべしという場合に該当するとは考え難いのである。最高裁判例においても、そのような指摘がなされたわけではない。

次に、「異状」または「異状がある」ということの定義についてであるが、法学的な定義や判例からは明確になっていない。そうであるが故に、この本文下段に挙げたような日本学術会議の見解と提言が出されているのである。

この大変不明瞭なものを、ある個人が正確に識別できなかったとして、そのことをもって刑事責任を問われてしかるべきである、ということは言えないだろう。少なくとも、罪刑法定主義には反しているのではないかと私には思われた。

再掲すれば、医師法21条というのは、死体を
(a)検案して
(b)異状がある
と認めた場合にのみ届出義務があるのであって、診療中の患者を「検案する」のは中-3の場合であり、なおかつ「異状がある」という要件が満たされなければならないのである。

大野病院事件では、「癒着胎盤」という医学的状態に付随的に生じ得る「止血困難」(大量出血)ということであり、このことから「全然別個の死亡原因」であったと判断できるのであろうか?福島地裁は、一連の医学的状態(疾病、病態等)ということを認めたのであり、「診療中の患者」かつ「妊娠~癒着胎盤~止血困難」という一連の医学的状態にあった、ということで別個の死因ではない、という立場を取るものであろう。また、「異状がある」ということについても、「癒着胎盤」という医学的状態であれば「止血困難(大量出血)」は同様のケースが複数例ある、すなわち「普通に近い状態=ままあること」なのであって、「異状」(=普通とは違う状態)ではない、という判断をしたものと思われる。これは極めて妥当な判断であったと思う。

変な例かもしれないが、「空腹」状態であれば「足がふらつく」ことは有り得るので、異状とは言わないであろう。そうではなくて、空腹でもなければその他特別の理由もなく「足がふらつく」のは異状かもしれず、そうであるなら届け出てね、ということだ。

この届出義務違反であるが、「異状がある」と認める状態を完璧に見極められない(判断できない)からといって刑事罰を与えるということになれば、例えば「検察(警察その他行政機関とか)に通告しなければならない」というような通告(通報)義務のある条文に違反している事例は、全例義務違反で刑事罰を与えることが可能であろう。以前に例示したような会計検査院の検察への通告義務違反は、明らかに刑事罰を与えるべきということになるだろう。よく談合事件とか裏金事件とかが明るみに出たりするが、こういうのも「事後的に」何故検査で発見できなかったのか、ということを問うことができ、発見できなかった職員(公務員)は全員刑事責任を負わせて処罰可能ということになる。そういう法の運用の仕方も、有り得る、ということではないかと思う。
が、福島地裁はそうした運用の仕方を肯定したわけではなかった、ということであろうと思う。


医師法21条の立法趣旨や判例から見て、検案というのは刑法(それとも法学?)上の判断を医師に求められるものではなく、あくまで医学上の状態を判断することが求められているのである。精神鑑定で被告人の刑事責任能力というようなことが問題となったりすることはあるが、あれも同じで「医学上の状態」を記述することが必要なだけであり、刑法(法学)上でいう「責任能力」の判断というのは、裁判所が行うべきものである、ということだ。最高裁判決では、医師という専門家の出す鑑定意見を尊重するように、という方向性が示されていたと思うが、医学的に見た場合の「能力」と法学上の「能力」というのは、必ずしも同一ではない。それと同じだ、ということ。よって、医師が「検案」した結果「異状がある」と判断するのは医学上の基準においての話であり、そこに法学的基準を持ち込まれて「異状がある」状態を正確に判別できなかったことをもって刑事責任を追及されるというのは、精神鑑定で医師が完璧に法学上の「責任能力」について判定できなければ刑事罰を負わされる、というのと同じようなものである。


長々と書いてしまったが、福島地裁判決は過去の最高裁判例、医師法条文や医務局長通知との不整合がある、ということにはならないであろう。



「過失」論議と「医学的準則」の意味について

2008年09月06日 17時21分31秒 | 法と医療
一部法曹とか某○弁護士あたりに、過失論について疑義が生じているかのようです。今後、専門家による検討がなされていくものと思います。


私の素人的理解で申し訳ないが、また書いてみます。

過失論というのは、平たく表現すれば、
◎注意を払っておけば、どういう結果を生じるかを予見でき、~を回避できたはず
→なのに、その注意を怠っていたので、こういう結果を生じたのだから、注意義務違反


また簡単な例で考えてみます。

a)後ろを見ずに車をバックしたら
b)後ろに人がいることに気付くことができず
c)人を轢いてしまった

この場合、「後ろを見ずに車をバックしたらどうなるか」ということが事前に想定でき、通常人であれば容易にその危険性について認識できたものと考えられます。b)の「後ろに人がいることに気付けなかった」ことの理由が、「後ろを見ていなかったから」ということであり、それが「普通はできない」レベルの注意ではない、ということです。誰でもできる水準の注意だ、ということです。で、「後ろさえ見ていれば、まず間違いなく轢くことにはならなかった」という結果が予想されるので、結果を回避できたであろう、という理屈でありましょう。

A)後ろを見て車をバックすれば
B)後ろに人がいることに気付くことができ
C)人を轢くことは(まず)ない

ということです。
「後ろを見ない」という選択によって、「後ろに人がいる→轢く」という結果を生じる危険性について、予見できるか否か、ということが重要です。そんな結果を招来するとは「事前には誰も想定できない、判らない」ということであれば、「予見不可能であった」ということになります。しかし、普通の人であれば「誰でも判るよ」ということであるので、=予見可能性はあった、と判断されるでしょう。

この例というのは、予見さえできていれば「相当程度の確からしさ(ほぼ全部に近いくらい)で結果を回避できた」という、結果回避可能性との関連性が高いことがらです。これが最初に書いたことの意味であり、注意を払って(=後ろを見る)おけば、轢くのを回避できたはず、ということです。なのに、後ろを見るという注意を怠っていたので義務違反、という理屈だろうと思います。


今度は医療ではどうなのか、ということ考えてみます。

例えば「膏肓」(笑)に病変があり、これを適切に処置できなかったので死亡した、とします。
過去の知見からは、
ア)膏肓の病変が診断できた例がある
イ)膏肓の病変に対して処置Xを行って助かった例がある
ということが判っているとします。

すると、診断が可能であったかどうか、処置Xを行うのが必然であったかどうか、ということが問題となるでしょう。
有能な医師であれば診断し得た、同じく、有能な医師であれば処置Xを行い得た、ということであれば、予見可能性も回避可能性もあった、という立論は可能でしょう。現実に、「回避している例」が存在しているからです。
しかし、上記例で見た如くに「通常人であれば」という水準と同程度に行い得る事柄であるかどうか、ということが問題なのです。8割か9割方の場合に「後ろを見てバックするよ」ということが言えるのであって、逆に言うと「殆ど皆がそういう注意をして行為をやっている=結果を回避している」のに、それを怠っていた(=後ろを見ないでバック)のだから注意義務違反ですね、ということに他ならないのです。
医療であっても同じように考え、8割か9割方の人(この場合では医師)が、「後ろを見てバックするよ」というのと同程度の水準のことができていなければならない、ということです。「膏肓の病変」について診断できる、処置Xを行える、というのが、(その分野の)圧倒的大多数の医師(他の例でいう通常人に該当)にできないような水準であるなら、それを「医学的準則」とすることはできず、そういう義務を課すことはできない、ということです。

車の事故の例で言えば、「ラリードライバーは回避できたよ」とか「F1レーサーなら回避しているよ」といった通常人でない水準の人が行い得た行為を、一般の人たちに適用してしまうとなれば、多くが義務違反を問われることになってしまう、というのと同じようなものです。「4輪ドリフトができていれば回避できた」とか判決で言われてしまったら、そんなご無体な…、と誰しも思うはずでしょう。


予見可能性とか(結果)回避可能性というのは、通常人に可能かどうか、という水準であるべきであり、通常人というのは建築士なら建築士全般、航空機パイロットなら同業パイロット全般、そういう人たちに通用しているレベルでなければならない、ということでしょう。もっと平たく言うと、「他の皆なら当然にわかるはずだよ、だからこうしている(=求められる水準)ので回避できるよ」ということです。泥濘の上に建築物を建てれば、後で大きく傾くだろう、ということは建築士ならば誰でも判る(予見できる)よ、それなのに泥濘の上に何らの対策もせず建てたのは義務違反、とか、そういうのと同じようなものだ、ということです。

これまでの裁判例では、「通常人であれば」という前提があまりにも当たり前すぎて、そのことの検証を省いて適用されてきていたことが多かったのではないかと思いますが、医療における刑法上の過失を考える上では「通常人」に相当する基準というのが、福島地裁判決で判示された「医学的準則」ということになるかと思います。


ところで、コンニャクゼリーの和解が成立したとのことらしいですが、あれも「過失」を詭弁的に適用すれば、「こういう結果になるかもね」と怖れていた通りになってしまった、ということではないかと思います。

参考:コンニャクゼリーの問題と裁判を考えてみる

この中で触れましたが、「予見できたハズ」というのは、「他の食品と比較してどうか」ということが問題になると思うのですが、所謂「超人的」水準でならば「防げるはずだ」ということになり、この論理が通用することになれば、殆ど「全ての食品」で窒息死した場合には過失を問える、ということになるかと思います。

レンタカーの判決(コレ→レンタカー会社の賠償責任)みたいなのもそうですし、本件和解もそうですけれども、共通するのは(乱暴な表現で書くと)「会社は金を持っているんだから払えるはずなので、遺族が可哀想だから払ってやれ」みたいなことです。

コンニャクゼリーで死亡した人よりもモチで死亡した人の方が圧倒的に多いことや、モチを除外したとしても、その他食品で死亡するか、異物の誤嚥で死亡することは起こり得るのです。その危険性は回避できないとしか思えないのですが、何故かコンニャクゼリーだけは回避可能だ、ということなのでしょう、きっと。

10年前にコンニャクゼリーが消滅していれば死ななかった、とか言うのは、10年前に危険な浴槽が消えていれば死ななかった、とか、10年前にモチが消えていれば死ななかった、といった言い分を認めろということになってしまうのかもしれません。