一時期“毒親”という単語が流行りました。
いや、現在進行形かな…
するとみんな、
「自分の親はどうだったのかな?」
とか、
「自分自身は親としてどうなのかな?」
とか、考えがちです。
こんな記事が目に留まりました。
短いけど、示唆に富んでいます。
■ 「毒親」は変わらない 大人になって出てくるトラウマ、どう対処する
(2024/6/30:朝日新聞)より一部抜粋(下線は私が引きました);
東京都内に暮らすきょうこさん(53)は、母から精神的暴力を受けてきた。親の暴言やネグレクトが「毒親」にあたると知ったのは、ほんの数年前だ。
「生まれてきたくなかった」毒親のトラウマでうつ病に、苦しむ53歳 高校を中退し、21歳で結婚したが、娘には障害があった。義父の介護もかさなり、30歳のとき、うつ病を発症した。夫との間もうまくいかなくなり、33歳で離婚。その2年後に再婚したが、夫は発達障害のグレーゾーンで、会話がかみ合わず孤独だった。
再婚から1年たつと、うつ病が悪化し、38歳のときに反復性うつ病と診断された。「もう死にたい」と自分を責め続けた。
母との連絡は断っていたが、東日本大震災の後、再びつながってしまった。ある日、母が突然、野菜とともに置き手紙を残していった。手紙にはきょうこさんの悪口が書き連ねてあり、「今日はこのぐらいにしとくわ」の一文で終わっていた。その瞬間、パニックを起こし、過去のつらい思い出がフラッシュバックとしてよみがえるようになった。
「母のことはもう、どうでもいいです」
いま、母とは一切の連絡を取っていない。
子が親から受けた虐待のトラウマは、後年になっても当事者を苦しめ続けることがある。精神科医の片田珠美さんは、その背景には親の満たされない承認欲求があると指摘する。
子どもを支配しようとする「毒親」は、自身が抱いている不全感を子どもによって「一発逆転」し、解消しようとしている場合が多いという。
一方で、親から虐げられた当事者の多くが、過去のつらい記憶を心の奥底にしまい込んでしまう。抑圧された感情は抑え込んでも出てきてしまうため、フラッシュバックの苦しさからうつ病を発症したり、薬物やギャンブル、あるいは買い物や過食・嘔吐(おうと)など、様々なものに依存したりすることもある。
ただ、「いくら自分を痛めつけてみても、子どもを支配してきた親が変わることはほとんどない」と片田さんは指摘する。心に抱えるトラウマと向き合うには、自分の中で抑圧してきた負の感情を見つめ、何らかのかたちで「言語化」することが重要だとアドバイスする。
また、負の連鎖は自分で断ち切るのだという自覚を持つことも大事だという。その上で、「親を許さなくてもよいのだ」と思うことが重要だと話す。
…私は医師を生業としていますが、
これは親が望んだ職業で、
高校時代の私はいわゆる“文系”に進み、
文化人類学を専攻したいと思っていました。
しかし成績がそこそこよかった私に対する親の期待は大きく、
そういう家系でもないのに「医者になれ!」という強い圧力をかけてきました。
私の両親は戦争を経験し、
自分の夢を戦争によって奪われた世代です。
両親も成績がよかったようですが、
兄弟が多く経済的な事情で大学へ進学することは叶わず、
就職・結婚に落ちつかざるを得なかったと思われます。
その期待を勉強嫌いだった姉の身代わりに、
私が一身に背負うことになりました。
私はそんなプレッシャーの中、
努力して結果を出し続けることで青春時代を生き抜きました。
苦しかったけど、結果が出るとうれしかった。
私はこの現象を“楽苦しい”と呼んでいます。
さて私は、文系に進みたかったけど、
「両親のガッカリする姿を見たくない」
という思いが勝り、
理系へ進み、何とか医学部に滑り込んだのでした。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、
大学受験の発表前に父親から、
「もし大学に落ちたら浪人は許さない、
蕎麦屋に丁稚奉公に出す」
と言われ、傷つきました。
今考えると、ひどいですよね。
まあ、昭和時代はこんな父親がたくさんいたのです。
医師になったことで、親の期待に応えた、
これで無罪放免、と私はホッとしました。
が、これで終わりではありませんでした。
その後も医師になったらなったで、
「博士号はどうなっているんだ」
とか、さらなる出世を期待されました。
まあ、その期待にも応えてしまいました。
父親が病に倒れた際、
そのタイミングで海外留学の話が舞い込みました。
入退院を繰り返す父親の状態を見て、
私は留学を諦めました。
父親は闘病生活を続け、
両親は経済的に自立できなくなったため、
妻と子どもを連れて実家に入りました。
それ以外の選択もできたのですが、
それ以外の選択をすることを、
私自身が許さなかったのでしょう。
妻は寝たきりになった私の父を介護し、
看取りました。
年月が経ち、
子どもたちは独立し、
現在は年老いた母親と一緒に住んでいます。
ただ、毒親的つぶやきは今でも続いており、
距離を取るようにしています。
以前、
「私の人生は両親に翻弄された」
「私が人生の選択をする度に自分の自由が失われていった」
と母親に話したことがあります。
母親の反応は、
「よくある話よねえ…」
と他人事でした。
ああ、この人に何を言ってもわかってもらえない、
彼女は変わらないんだと実感しました。
私の両親が毒親の定義に当てはまるのかどうか、よくわかりません。
私は両親に感謝、あるいは同情する一方で、
その期待が重くて重くてつらい生活を強いられた一面もあります。
それがときどき、フツフツと湧き上がり、悩まされます。
ただ、私と同世代はみな、同じような経験をしているようです。
以前、プチ同窓会で集まったとき、
「親の期待が大きくてプレッシャーだった」
という話が出ました。
「親を憎んでないが、恨んでる」
という微妙な結論に落ちつきましたが。
時々帰ってくる姉にも同じ話をしたことがあります。
彼女は東京で働いています。
「なるほど、でもその選択をしたのはあなた自身でしょう」
とのコメント。
自分の自由を奪った親と複雑な思いをして一緒に生活している私に、
「当たり前」
「自分が選択したこと」
の言葉しかないことに愕然としました。
そう、私の行動は家族にとって「長男だから当たり前」なのです。
私は自分の親家族に期待することを止め、
距離を置くことにしました。
そうすると、少し心が楽になります。
これは戦争を経験した日本の家族の病理かもしれません。