寂聴文学塾第三回は三島由紀夫です。
自衛隊員を前にして演説をした後、切腹で自死したことは有名ですね(TVでたまにその時の模様が放映されます)。
寂聴さんは三島氏とも親交がありました。
三島氏は寂聴さんの3歳年下でしたが、文壇デビューは早く、寂聴さんが小説を書き始めた頃はすでに大物でした。
はじまりは、文壇デビュー前の寂聴さん(当時は瀬戸内晴美さん)が出したファンレターだそうです。
意外にも返事が来て、そこには「ふつう読者からの手紙には返事は書きませんが、貴方の手紙はあまりにも面白いのでついつい返事を書いてしまいました」とありました。
それから、たわいのないやり取りが続きました。
三島氏にとって寂聴さんは気の置けない話ができる妹のような存在だったのかな(年上ですが)。
初めて実物に会ったとき、爛々と金色に輝く目とともに、やせて青白くて毛深いという印象が残っており、川端康成同様、“貧相”だったそうです。
三島氏もそれをコンプレックスに思っていて、あるときボディビルに目覚めたのでした。
筋肉質のすごい体つきになったら、声まで太くなったことに驚きました。
「ボディビル前後の“before, after”を目撃した私は貴重な人材ですよ」と聴衆の笑いを誘っていました。
「禁色」という小説を発表したとき、寂聴さんは衝撃を受けたそうです。
こんな作品を書いたら後が続かない、三島氏は死んでしまうのではないかと心配する手紙を書いたところ、三島氏自身も「これを書き上げて、もう死んでもいいと思った」と返信。
・・・この作品、読んでみたいですね。
三島氏は森鴎外のファンで、太宰治が嫌いでした。
実はこの文豪二人のお墓は、東京都三鷹市の禅林寺にあります。
当時、寂聴さんがこの近くに住んでいて、時々お墓にお参りすることを手紙に書くと、三島氏は「鴎外のお墓に私の分もお参りしてください、太宰のお墓にはお尻を向けて」と冗談めいた記述。
あるとき、三島氏と寂聴さんともう一人の文学者(名前は失念)を交えて源氏物語論を交わしたことがあるそうです。
三島氏は「やはり与謝野晶子が良い、谷崎潤一郎は古典の写しで読みにくい」との評価。
三島氏は右翼で天皇擁護派と思われがちですが、彼と親交のあった寂聴さんの印象は少し異なります。
彼の考えは、日本という国を憂う若者・青年将校に近かったとのこと。
寂聴さんの知り合いの旦那さんが自衛隊員で、自決の現場に居合わせました。その彼から後に聞いた話では当時の現場の雰囲気は「三島由紀夫は何をやっているんだ? 彼は気が狂ったのか?」というもので、彼の話に真剣に耳を傾ける自衛隊員はほとんどいなかったそうです。
三島氏が自決した後、寂聴さんは彼の弟さん(駐ポルトガル大使)に三島氏の話を聞く機会があったそうです。
三島家は由起夫氏の文学的才能を信じて家族みんなでサポートし、彼を誇りに思っていたことを知りました。また、ノーベル文学賞が川端康成に行ってしまったので、本人も家族もたいそう無念に思っていた、川端氏をある意味恨んでいたと聞かされました。
寂聴さんは驚きました。
文学界では三島氏は川端康成の弟子的存在と見なされていたので、そんな複雑な感情があるとは思ってもみなかったのです。
なにせ、三島夫婦の仲人は川端康成でしたから。
ノーベル文学賞を川端康成が受賞した際のエピソードは谷崎潤一郎のところでも出てきます。
このノーベル賞事件は、日本文学界に少なからず波乱をもたらしたようです。
「もし、ノーベル文学賞を三島由紀夫が受賞していたら、彼は若くして自決することは無かっただろうし、川端康成も晩年あのような死に方をしなかったのではなかろうか」と寂聴さんはつぶやきました。
<参考>
■ 「三島由紀夫 vs 東大全共闘」
■ 「大義のために死す」
自衛隊員を前にして演説をした後、切腹で自死したことは有名ですね(TVでたまにその時の模様が放映されます)。
寂聴さんは三島氏とも親交がありました。
三島氏は寂聴さんの3歳年下でしたが、文壇デビューは早く、寂聴さんが小説を書き始めた頃はすでに大物でした。
はじまりは、文壇デビュー前の寂聴さん(当時は瀬戸内晴美さん)が出したファンレターだそうです。
意外にも返事が来て、そこには「ふつう読者からの手紙には返事は書きませんが、貴方の手紙はあまりにも面白いのでついつい返事を書いてしまいました」とありました。
それから、たわいのないやり取りが続きました。
三島氏にとって寂聴さんは気の置けない話ができる妹のような存在だったのかな(年上ですが)。
初めて実物に会ったとき、爛々と金色に輝く目とともに、やせて青白くて毛深いという印象が残っており、川端康成同様、“貧相”だったそうです。
三島氏もそれをコンプレックスに思っていて、あるときボディビルに目覚めたのでした。
筋肉質のすごい体つきになったら、声まで太くなったことに驚きました。
「ボディビル前後の“before, after”を目撃した私は貴重な人材ですよ」と聴衆の笑いを誘っていました。
「禁色」という小説を発表したとき、寂聴さんは衝撃を受けたそうです。
こんな作品を書いたら後が続かない、三島氏は死んでしまうのではないかと心配する手紙を書いたところ、三島氏自身も「これを書き上げて、もう死んでもいいと思った」と返信。
・・・この作品、読んでみたいですね。
三島氏は森鴎外のファンで、太宰治が嫌いでした。
実はこの文豪二人のお墓は、東京都三鷹市の禅林寺にあります。
当時、寂聴さんがこの近くに住んでいて、時々お墓にお参りすることを手紙に書くと、三島氏は「鴎外のお墓に私の分もお参りしてください、太宰のお墓にはお尻を向けて」と冗談めいた記述。
あるとき、三島氏と寂聴さんともう一人の文学者(名前は失念)を交えて源氏物語論を交わしたことがあるそうです。
三島氏は「やはり与謝野晶子が良い、谷崎潤一郎は古典の写しで読みにくい」との評価。
三島氏は右翼で天皇擁護派と思われがちですが、彼と親交のあった寂聴さんの印象は少し異なります。
彼の考えは、日本という国を憂う若者・青年将校に近かったとのこと。
寂聴さんの知り合いの旦那さんが自衛隊員で、自決の現場に居合わせました。その彼から後に聞いた話では当時の現場の雰囲気は「三島由紀夫は何をやっているんだ? 彼は気が狂ったのか?」というもので、彼の話に真剣に耳を傾ける自衛隊員はほとんどいなかったそうです。
三島氏が自決した後、寂聴さんは彼の弟さん(駐ポルトガル大使)に三島氏の話を聞く機会があったそうです。
三島家は由起夫氏の文学的才能を信じて家族みんなでサポートし、彼を誇りに思っていたことを知りました。また、ノーベル文学賞が川端康成に行ってしまったので、本人も家族もたいそう無念に思っていた、川端氏をある意味恨んでいたと聞かされました。
寂聴さんは驚きました。
文学界では三島氏は川端康成の弟子的存在と見なされていたので、そんな複雑な感情があるとは思ってもみなかったのです。
なにせ、三島夫婦の仲人は川端康成でしたから。
ノーベル文学賞を川端康成が受賞した際のエピソードは谷崎潤一郎のところでも出てきます。
このノーベル賞事件は、日本文学界に少なからず波乱をもたらしたようです。
「もし、ノーベル文学賞を三島由紀夫が受賞していたら、彼は若くして自決することは無かっただろうし、川端康成も晩年あのような死に方をしなかったのではなかろうか」と寂聴さんはつぶやきました。
<参考>
■ 「三島由紀夫 vs 東大全共闘」
■ 「大義のために死す」