
残酷な歳月(小説)
(二)
穂高から戻り、加奈子も二日ほど、ジュノの部屋で過ごして、あわただしく、ロスへ帰ってから!ジュノは「ただ仕事に追われる毎日だ」
一月が過ぎた頃、池袋のヒマラヤ杉医院で『心療内科医』としての診療中に、ジュノの元に、ひとりの老婦人が、運ばれてきた。
池袋警察のなじみの刑事、田山がついて来たが、老婦人を投げやりな態度で、いかにも、面倒そうに言った!
「どうも、不法滞在者の韓国人らしいのだが!」
かなり、危ない状態でね、警察に、通報があって、引き取りに行ったが、動けずに、口もきけないでさあ~と!
その、田山刑事のぞんざいな話しぶりが、ジュノには、いつもながら、すこし、嫌な気分になった。
池袋という街は、確かに、毎日が、雑多な事の繰り返し、似たような事で、田山刑事も、人間の優しさを持ち合わせていたとしても、日常の、このような、多くの出来事がぞんざいな言葉で、他人を傷つけてしまう事にも、心で気配りが出来るほどのゆとりさえない、日常を、ジュノも理解出来るが、ことさら、「どうも、韓国人」らしい、の一言が、ジュノの神経を逆なでする思いだった。
診察室のベットに寝かされている老婦人は、もう、自分では、体を動かす事さえも、不自由なほど、痩せ細り、いつ着替えたかも分からないほどの、季節はずれの夏の汚れた服装に、誰かが羽織ってあげたのか、ピンク色のショールを体に巻き付けるようにして、ベットに横たわっていた。
ジュノはまず、日本語で、言葉をかけてみる!
「お体の具合は、いかがですか?」
「どうしましたか、どこが、痛みますか?」
だが、なんの、反応もしない、そして、韓国語と英語で、同じ事を、尋ねても、やはり、何の反応もしない、ただ、この部屋のすこし、高い位置にある、明かり取りの為の天窓から、見えている、わずかに色づいた木々が風に揺れている姿を見ているのだろうか・・・
声をかけている、ジュノの方ではなく、微かに見えているようなゆれる木々から、眼を離そうとはしなかった。
田山刑事は、ジュノに、任せたとばかりに、さっさと消えていたが、どうも、最初に、警察に連れて行ったようで、その時の、調書のメモが、ジュノに渡されていた。
その中には、ある、古アパートの取り壊しが行われていた中のひと部屋に、このご婦人が、うずくまっていて、動けずにいるところを、田山刑事が、引き取りに行き、警察で、事情を聞こうとしても、何も話さず、今にも、倒れそうな状態に、困り果てて、ジュノのい
るヒマラヤ杉医院へ運んで来たと言う事のようであった。
このような事は、今までに、何度もあり、その度に、医療費は何処からも払って貰えず、この、小さな医院で、半ば置き去りになったまま、亡くなってしまうことも度々ある。
言わば、経営が成り立つほどの所ではないが、心あるひとたちの援助で、細々と続けている、医療施設だった。
だから、ジュノも、ほとんど、ひと助けのような気持ちから、続けている心療内科医としての良心からだった。
何度めかの呼びかけに、あの老婦人は、やっと顔を動かし、ジュノをしばらくみつめていたようだったが、言葉を話せるほど、元気はないとジュノは、その場を離れようとした時、消え入るような、微かな声で!
『ヒョンヌ』
確かに、そんな、ふうに、ジュノには、聞えた。
『ヒョンヌ』
この言葉!
ジュノには、ずーと昔、何処かで、幼かった頃なのか!
確かに、聞き覚えのある言葉だった。
『ヒョンヌ』
だが、ジュノは、その言葉が、何を意味する事なのかが、分からないいや、思い出せないと、言うべきなのだろう。
そんな、複雑な心境におちいって、混乱しているジュノに、追い討ちをかけるように、ジュノに一本の電話が、この小さな医院のデスクの電話が、ジュノを呼び出した。
ジュノの記憶の奥深く閉じ込めていた、あの声が電話の向こうから聞えた。
『大杉という者だが、私を覚えているか?』
と、忘れる事など出来ない、あの声がした。
幼かったあの頃
貴方は優しかった
いつもふたりで競い合った
暖かな背中を
消えかけた面影が
美しき人を傷つける
あの幼かった妹に
夢の中で手をつなぐ
今どこを彷徨うのか
凍えてはいないだろうか
(忘れえぬ声)
あの声を忘れない為に!
いや、忘れようと思い努力した事もある、その混乱する苦しみの中の記憶に、ジュノはどれほど自分を痛めつけ、もがいた事か!
「やっと心の奥深く、閉じ込めていた、あの声!」
「二十六年の歳月、十歳の子供だった、あの時!」
突然の出来事と、二十六年の過ぎて行った日々がまるで、早回しする映像のように、幼かった日々とが折り重なるように、ぐるぐると、回りだしている。
あの声が、あの日に、あの場所の記憶がジュノの悲しみや怒りなのだろうか、思い出したくない気持ちとは、裏腹に現われて、身体中に響く声がする。
『十歳の寛之としてのジュノが、そこにはいた。』
ジュノは、あの声にばかり気を取られて、混乱したのか、何を話したのか、思い出せない!
だが、気がつくと、すでに電話は切れていた。
あの電話があった、数日が過ぎた日、突然、ソウルに住む父からの電話に、ジュノは、長い間、閉じ込めていた、疑問や不安が動き出す恐怖を感じて、全身を緊張させた。
「何かが動き出した」
「何かが起きている!」
「混乱と焦り、眼に見えない、恐怖感!」
「ジュノ自身を包み込んでしまいそうな、緊張感!」
何かにたとえようのない、ジュノの理性さえも奪ってしまいそうな、心の中で謀反をかきたてるものがいるような不安感であった。
「あす、母さんとそっちへ行くから、」
「会わせたい人がいるから」
と話した父の様子からも、ジュノは、何かを感じ取った。
「ジュノは両親の待つホテルへ急いだ・・・」
ジュノはアメリカの医大を卒業して、研修医としてのスタートは東京だった、なぜ!、東京を選んだかは、はっきりとした意識は無かったけれど、心の奥底に、自分は日本人だという、思いがあったのかもしれない。
東京で暮らすようになって、両親は、意識的なのか、ジュノの部屋には、よほどの事がないかぎり、来る事がない、今回も、ホテルに部屋を取っていた。
ジュノはホテルの部屋の前で、なぜか、今まで感じたことのない、緊張感で胸が締め付けられそうな思いになりながらも、いつもと変わらない、明るい笑顔をつくり、ドアを開けた。
「その、瞬間!」
あまりにも、年老いた両親の姿に、ジュノは、かける言葉も無く、愕然とした思いで両親のまえに立った。
確かに、二年もの間、仕事の忙しさを口実に、ソウルの家に帰らずジュノ自身にも気づかない、養父母を避けたいという気持ちが働いていたのだろうか、だが、どんな言い訳をしたところで、今の両親をほおって置いた事は事実だ。
ジュノは、申し訳ない気持ちで心が痛んだ。
部屋の奥に、すでに「会わせたい人」が来ていたようで、両親との挨拶もろくにせずに、なぜか、気まずい雰囲気で、ぎこちなく、父が
『大杉さんを知っているね!』
と、ジュノに紹介するでもなく、会わせて、父は、次の言葉を選ぶように話し出した。
二十六年前の事故の時、ジュノを助けたのは
『大杉さんなのだよ!』
岳沢のあの場所へ、誰よりも早く駆けつけて、ジュノを夜通し抱いて、必死で歩き、病院へ運んだ人は
『大杉さんなのだと!』
養父の言葉は、なぜか、伏し目がちに、苦しそうで、ジュノには、素直に受け止める事が出来なかった。
十歳の少年だったあの時の、突然の出来事!
わずかな意識の中の記憶、途切れがちに聞える「山靴」の音なのだろうか、ジュノが不確かな意識の中で真っ赤な景色がうごめく記憶の中を走る。
『暗闇の中で泣き叫ぶ自分の声が聴こえる』
養父は、私が生きて、助かった事は、奇跡だった!
大杉さんのとっさの判断と行動がジュノの命を救った!
大杉さんの必死でジュノを助けたい思いが奇跡を起こしたと言う!
養父の、その姿が何処となく、おどおどとしているように感じて見える。
そして、はっきりとした私としての意識や記憶があるのは!
『なぜか、日本ではなく!、ソウルでの生活だったのか!』
今の両親が私のそばにいる生活!
欺瞞な心を隠した、幸せな笑顔の私がいる生活!
だけど、私には、幼かった頃の『蒔枝寛之』の本当の笑顔の記憶がはっきりとある、消す事の出来ない、記憶がある!
私は何処から来たのですか
私の命を誰が奪おうとしたのですか
今はじまる運命は
もう誰にも換えられない
誰からも愛される
美しき人は心の奥に
秘めた確かなる記憶
あの山靴の音が
私の新たなる道しるべ
愛に満ちた輝きの歩み
(山靴の音)
あの日、私たち家族のあとを追いかけてきて、あの場所で、何故、
「大杉さんは、父を突き落としたのか!」
「あの、危険な、吊尾根の岩場から!」
私は一瞬、体が、何かに触れたような気がしたが、そのあとの事の記憶が曖昧だけれど、ただ、不思議な感覚でよみがえる。
「山靴の音」
なにかを、蹴りながら歩く靴の音か、それとも、ジュノ自身が岩に叩きつけられた時の音と、激しい耐え難い痛み!
耳の奥で、ゆっくりと、なが~く、ひきのばされた音!
「梵鐘の音のように聴こえる、不思議さと恐怖!」
そして、誰か、私を呼ぶ声が聴こえて、体中がくだけてしまうような、引きちぎられてしまうような耐え難い痛さに、泣きながら気がつくと、今の母が優しく声をかけてくる!
「もう大丈夫よ!」
「もう怖くないのよ!」
と言って、私の傍により添い、抱きしめてくれた。
そんな事を何度もくりかえして、私は知らず、知らずに「寛之」から「ジュノ」に換わって行った。
「幼き日の不確かな記憶!」
疑問と不安と恐怖が入り混じった、歪んだ記憶、あの頃、不思議な事に、ソウルの病院で、ジュノとしての確かな認識を持って行った。
最初は、十歳までの日々は、長い、なが~い、夢の中での事のように思いながら、ひとつ、ひとつの記憶をたどり、確信して、心の奥深くに、寛之としての『私』を閉じ込めて行った。
その悲しみと苦しみのすべてが、今、二十六年の歳月を、飛び越えるように、目の前にいる、この老人が
『大杉、その人だと言う!』
ジュノは、体のすべてが粉々にくずれて行くような、一瞬にして、
「自分が何処かへ飛び散ってしまうような、恐怖感を覚えた。」
どの位の時間が過ぎていたのだろうか、その場で、気を失っていたのだろうか、気がつくと、ジュノはひとり、養父母のいるホテルのベットで横になっていたのだ。
しばらくは、今、ジュノ自身がおかれている状況が理解出来なかった、ただ、ぼんやりとした気力が抜けたままで、暗い闇がジュノを包んでいたが、窓から差し込む、きらびやかな光、街あかりに、いつの間にか、長い時間が過ぎて、夜である事を感じた。
母が静かに部屋に入ってきた、すぐあとに父の姿がつづいた。
「驚かせて、ごめんなさい!」
母の、今までにみた事のない気丈な姿で、ジュノに語りかけた。
そして、父が静かに、低い声で
「あまりにも突然に起きてしまった事の!」
「すべてを話す時期が来たようだね!」
そう言いながらも、次の言葉は、途切れがちで、辛く苦しそうな父の姿が何を意味するのだろうか。
「ジュノを愛しているよ、いつまでも、変わらずにね!」
「私たちの大切な息子である事を忘れないでね!」
その事だけは、何があっても変わらない事だからね、と言って、また、言葉が途切れた。
『ジュノのパパが、亡くなったのは、事故だったのだよ!』
ジュノは、その時、とても、ひどい怪我で、とても、助かるとは思えなかったほど、怪我がひどい状態だった。
「本当に、貴方だけでも、生きていてくれた事!」
とても嬉しかったのよ、と、母がまるで、父を手助けするように、話して、ジュノを、又、抱きしめた。
確かに、ジュノには、父とほとんど、同時にあの岩場から落ちた事は記憶にある。
『落ちて行く瞬間と言った方が正しい!』
両親の話す事を待ちきれずに、ジュノは、まるで、問いただすように聞いた!
『ママはどうしたの!』
『樹里はなぜ、ここにいないの!』
立て続けにジュノは訊いた!
その時のジュノはまるで、幼児の寛之に戻ってしまったような気持ちになっていた。
心の奥深く閉じ込めていた、悲しみが、まるで、ジュノの体から、爆発するような感覚が襲ってくる!
抑えようの無い、激情する悲しみと怒りが!
理性ある、日頃のジュノの姿は、そこにはなかった。
父も母も、何を問われても、もはや話を続ける事が、あまりにも辛すぎて、しばらく、黙ったままだった。
重い、沈黙が続いたあとに、母が口を開いた!
『ママにはね、ジュノは、最近、お逢いしているのよ!』
田山刑事さんが、お連れした方が、
『ジュノと樹里ちゃんのママなの!』
樹里ちゃんは!と言って、母は、言葉を詰まらせて、思わず、すすり泣きして、すこし、落ちついたのか!
『樹里ちゃんは、今も行方が分からないままなのよ!』
と、母はやはり、今までに、ジュノに見せた事のない、気丈さを、取り戻して、話し続けた。
つづく