小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

宮崎勤

2009-07-18 02:59:37 | 考察文
宮崎がつかまって、オタクという言葉というか概念が広まった時、内向的な私も当然、何回かオタクだの、幼女を何人殺した、だのと言われた。私は別に何とも思っていない、どころか、かえって嬉しくさえあった。なぜなら、彼らは、内向性=オタク、という短絡的な幼稚な人間認識しか出来ず(本当である。彼らは、あきれるほど単細胞である)私の思考力や人間認識の能力の方がはるかに彼らより上であるという優越感にひたれたからである。まず根本から間違っている。宮崎勤は内向的な性格でも、むしろ例外的である。彼は他人をオタクと呼んだ。オタクという呼び方は何であろう。オタクという呼び方は、自分と他人をしっかり区別している言い方である。自分と他人との関係に境界線をつくって人間関係のけじめを作っているのである。よくいえば、それは独立不羈である。そして、それが大人の人間関係の基本であり、またそうでなくてはならないのである。そこで、一般に内向的な人間を考えてみると。これは内向的な性格の池見酉次郎先生も告白して書いているし、また私も痛いほど痛感している事なのだが。内向的人間は、上下関係の人間関係になり安いのである。つまり目上の人にべったり甘えたり、年下の人を我が子のように可愛がる、垂直的な人間関係になり安いのである。狭く深い人間関係になり安いのである。内向的人間は一対一の人間関係になりやすいのである。それに較べ、成人した大人の人間関係は水平的である。広く浅く、である。悪女の深情けはあまりない。そして自分と他人との区別はちゃんとつける。だから他人をオタクと呼ぶ事も多いのである。それに較べ内向性は、べったりした人間関係になってしまうので、また自分と他人との区別もきっぱりとつける独立不羈の精神に欠けるので、他人をオタクとは呼びにくいのである。つまりオタクこそが成人した大人の人間関係であり、内向性はそういう成熟した大人の人間関係がつくれないのである。だから世間の人間こそがオタクであり、そして、それこそが大人としての良い、あるべき人間関係であるのである。私もそういう立派なオタク人間になりたいとつくづく思う。これは、何らイヤミでも何でもない。私が真の内向的だと思う人は、池見裕酉次郎先生、本田信一さん、自殺した漫画家の山田花子さん、などであるが、みな、そういう人間関係である。集団が苦手で、気の合う人との一対一の深い人間関係を好むのである。もちろん全ての内向性がそうではなく、内向的にも色々あって一概には言えないが、傾向として内向性は集団が苦手で、気の合う人との一対一の深い人間関係になってしまいやすいのである。

ちなみに、Whikipediaを見たら、宮崎勤は、他人をオタクという呼び方はしていなかったらしい。ではオタクとは何なのか。彼のものすごいビデオ収集から、一つのことに、はまってしまう人間をオタクと呼ぶらしい。しかし、それなら、学者や、一つのことに一意専心、励んでいる人間はどんな分野でもオタクということになる。彼らが、変な人間なのか。むしろ人間として最も立派な人間ではないか。目的ももたず、プラプラしてる、根が明るいだけの根無し草人間の方が立派だというのか。まあ、宮崎の場合は、中途半端だった。目的を持って、とことん何かに打ち込む根気がなかった。そういうのをオタクというのだろう。しかし、言葉というものは、使われているうちに、そのはじめの意味が変わってしまって、今では、一意専心、一人で黙々と自分の目的に励んでいる素晴らしい人間も、オタクと言うようになってしまっているようだ。

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