小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

太宰治

2009-07-30 03:55:16 | 考察文
太宰治。奥野健男氏の太宰治文学評論は、何か気どっている所があって、嫌いである。氏によると、太宰治の文学は読む人によって「太宰治の文学は全肯定か全否定のどちらか」だそうだ。その発言からしておかしい。その人の全てが好きな人間というのも滅多にいなければ、その人の全てが嫌いな人間というのも滅多にいない。

私小説でも、「東京八景」などは、見事だと感じるし、「駆け込み訴え」もウーン、すごい、と唸らされた。

だが太宰で嫌いな所もある。彼は、第一回の芥川賞で候補に上がったが、選考委員の川端康成に、陰で、「親兄弟を喜ばすためにも受賞させて下さい」という切々とした手紙を送っている。これは、本当に嫌で卑怯な行為だ。誰だって、命がけで作品を書き、祈るように受賞を願っている。こんなのは文学賞に作品を投稿する人の当然のマナーである。そういうデリカシーのない行為は嫌いである。私は他人の不幸の上につかみとった自分の幸福など、何の価値もないと思っている。し、また、少なくとも私は、他人の幸福と自分の幸福との、限界の最終選択を迫られたら、私は、自分の幸福を捨て他人の幸福の選択をとる。

また太宰に限らず嫌いなのは、男はどんなに辛くても、自殺する時は、殉死者を出してはならない、と思っている。たとえ相手の合意があっても。男は、自殺がどんなに怖くても、死ぬ時は一人で死ぬ勇気と覚悟を持たねばならないと思っている。


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創作のデタラメ性

2009-07-30 02:37:54 | 考察文
これは小説より漫画で感じる事が多いのだが、小説でもドラマでも同じだが、創作の現実性について。

私も多少なりとも小説を書いていて、一生書くつもりだが、小説の現実性の矛盾を読者に感じさせないように、という事をすごく考えながら書いている。

小説や漫画というものは、そもそも現実性にはデタラメでいいのである。さらに言えばデタラメにすべきなのである。たとえば梶原一騎の、「巨人の星」など、現実的な矛盾点を、あげつらえば、100以上ある。だから、読めないかというと、そんな事は全くない。ストーリーのスムースな展開や、表現されている精神的な感動に、現実的な矛盾性など忘れさせてしまうからである。

手塚治のブラックジャックも、医学的にはデタラメなのが相当ある。しかし、それが不快になって読めないという事はない。むしろ、ストーリーに無理があるものの方が読めない。

小説や漫画は、現実性の矛盾をあげつらって読むものではない。しかし、書く方としては、読者の中には、「あっ。これ。矛盾してる」と思いながら読む人もいるので、結構、気を使う。

ある小説教室の先生もしてるベテランの作家が、「青酸カリは直撃死だから、断末魔の苦しむ様子や、死ぬ前に何か発言するのは、間違っている」と書いているが、私はそうは思わない。現実に忠実にして、飲んだ途端に死んだのでは、推理ドラマのストーリーがつくれなくなる。死ぬ直前に発言した一言から、難事件を解決する糸口を作る事ができるのである。

時代劇にしても、肩を一切りしただけでは、人間は死なない。

「家畜人ヤプー」を書いた身許不明の人は、学者だ、と書いてあったのを読んだことがあるが、それは絶対、違う。学者には小説は書けない。すごい教養がある人であることは間違いないが。あの驚くべき適切な上手い造語も学者では、とても思いつかないだろう。

谷崎潤一郎の「刺青」はもちろんのこと、芥川龍之介の「羅生門」にも矛盾はあるのである。「羅生門」の矛盾点に気づいている人がいるだろうか。



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エロティシズム

2009-07-30 01:42:34 | 考察文
もう七月も終わりである。海水浴場にせよ、プールにせよ、ビキニ姿の女にはエロティシズムがない。(少し恥ずかしがってる人は別だが)それに別に失望しているわけではない。やはりセクシーである。女が体を露出することに何の、ためらいも感じていないからである。海水浴場の開放感には、およそ精神的なエロティシズムは無い。あるとすれば、普段は見せてはならない女の肉体をビキニというきわどい物でかろうじて隠しているというセクシーな姿にある。さて海水浴場で、丸裸の女が一人いたとしよう。この場合、男は彼女にエロティシズムを感じるであろうか。まず感じまい。開放感ほどエロティシズムと無縁なものはない。さらに、生身の裸の女の肉体は、決して美しくはない。女の体を美しくセクシーに見せるために、ビキニは作られたのである。

ただビキニ姿の女がコンビニに入るとエロティックである。これも、そうあるべきではない、小さな禁を破っているからである。バタイユが言うように、禁を破る所にエロティシズムがあるのである。

海水浴場には、アメリカ人の女や男もいる。私は子供の頃から外人の女には全く何も感じない。まず背が高すぎる。青い目も美しいとは思わない。それに、アメリカ人は羞恥心がなく、むしろセクシーさを、ことさらアピールしているからだ。私は日本の女にしか惹かれない。日本の女は恥じらいというものを持っている。体格もちょうどいい。やはり、生物では同種の異性にしか惹かれないのと同じ理由だろう。少なくとも私にはそうである。アメリカ人の彼氏と一緒にいる女を見ると、非常に私にはやりきれなく辛い。日本人の純血は守るべきた。と私には感じる。私は日本人の黒い髪と黄色い肌と茶色の瞳に誇りを持っている。



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