渡辺松男研究33(15年12月実施)
【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
274 堂内のうすらあかりに伏し目なる観音菩薩は男とぞいう
(レポート)
【鑑賞】くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
かげ うごかして かぜ わたる みゆ 『鹿鳴集』一九四〇年刊
会津八一の歌に奈良の法輪寺の十一面観音菩薩立像を詠んだこんな歌があった。この観音菩薩も男性なのだろうか。「観音のサンスクリット名は男性名詞である」という。が、観音に種々の変化身があるため、オリエント(イランを含む)母神信仰的要素がこれを通じて仏教に入り込み、〈准胝観音〉〈馬郎観音〉〈多羅尊観音〉などを生み出した」という。(世界大百科事典より)そもそもは男性だったということか。性別がどちらともつかないというのは却って今日的で興味深い。連作「全力蛇行」の最後に据えられたこの一首は、ここに観音菩薩という新たなる男性性が出現し、同志を得、おおいに意気を挙げている作者が表れているのではないだろうか。はるかなる自己の男性性への探求が一層深められる予感がした。(真帆)
(当日意見)
★作者は観音菩薩って女ばかりと思っていたのでしょうかねえ。男だったという発見をう
たっている。よく分かる歌だと思うんですけど。(藤本)
★どういうふうによくわかるんですか?わたし、あんまりよくわからないのですけど。観
音像ってわりとなよやかな女性的な肢体をしていますよね。それなのに男なんだって、
…それは分かりますが、その先です、分からないのは。何をいいたいのかな。(鹿取)
★彫り方で男性に彫っているか女性に彫っているか想像がつくじゃないですか。(藤本)
★彫り方によって観音様の性って変わるんですか?するとこの作者の前の像は男性的に彫
られていたんですか?それだったら、さっき藤本さんが男だったんだという発見とおっ
しゃったけど、発見するまでもない気がしますが。(鹿取)
★会津八一の歌なんかはとても女性的な観音様ですよね。伏し目がちな像を女性だ
と思っていらしたのに男性だったと。「ぞ」で強調していらっしゃいますから。
(曽我)
★では、角度を少し変えて、真帆さんが「はるかなる自己の男性性への探求が一層
深められる」と書いていらして卓見だと思うのですが、この一連、抹香鯨の射精
や求愛の為に声を張り上げて鳴く葦切とか、ふぐりが膨らむとか男性性に拘って
いますよね。その締めくくりに観音菩薩は男ぞと言っている訳だから、へええ、
男だったのかと驚いただけではないはずです。何か含みがあるはずなんです。
(鹿取)
★うすらあかりに伏し目だったから女性的にも見えたということでしょうかねえ。
(藤本)
★いや、さっきから私が聞いているのはその先です。男性性に拘っているこの一連
を統べているものは何でしょうね。(鹿取)
★渡辺さんの歌集を読んできて、自分という生、生きものがなぜか男に生まれてき
たということに対して、ずっと考え続けてきたけど、ここで観音様に遇って、あ
あここにも男がいるのかと。(真帆)
★自分の中の男性性の発見、たまたま自分が男なのはどういうことかと探求してき
た自分の前に、男である観音が現れたと。その新鮮さですか。(鹿取)
★男性という概念がひろがった。(真帆)
★いやあ、それは面白いですね。伏し目して女っぽいけど、実は男性なんだという
単純な発見ではなくて、もっと哲学的な発見。一連の最後に置いた歌で男性という
概念の領域を広げたわけね。(鹿取)
★話を聞いているとなるほどと思うけど、一人ではとてもそこまで考えられないわ。
(藤本)
★集まって話し合うって大切ですよね。何かもう死語みたいだけど、いわゆる「ア
ウフヘーベン」できる。他の人の話につられて自分で思ってもみなかった考えが
引き出されたりする。それがみんなでやる意義ですよね。(鹿取)
【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
274 堂内のうすらあかりに伏し目なる観音菩薩は男とぞいう
(レポート)
【鑑賞】くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
かげ うごかして かぜ わたる みゆ 『鹿鳴集』一九四〇年刊
会津八一の歌に奈良の法輪寺の十一面観音菩薩立像を詠んだこんな歌があった。この観音菩薩も男性なのだろうか。「観音のサンスクリット名は男性名詞である」という。が、観音に種々の変化身があるため、オリエント(イランを含む)母神信仰的要素がこれを通じて仏教に入り込み、〈准胝観音〉〈馬郎観音〉〈多羅尊観音〉などを生み出した」という。(世界大百科事典より)そもそもは男性だったということか。性別がどちらともつかないというのは却って今日的で興味深い。連作「全力蛇行」の最後に据えられたこの一首は、ここに観音菩薩という新たなる男性性が出現し、同志を得、おおいに意気を挙げている作者が表れているのではないだろうか。はるかなる自己の男性性への探求が一層深められる予感がした。(真帆)
(当日意見)
★作者は観音菩薩って女ばかりと思っていたのでしょうかねえ。男だったという発見をう
たっている。よく分かる歌だと思うんですけど。(藤本)
★どういうふうによくわかるんですか?わたし、あんまりよくわからないのですけど。観
音像ってわりとなよやかな女性的な肢体をしていますよね。それなのに男なんだって、
…それは分かりますが、その先です、分からないのは。何をいいたいのかな。(鹿取)
★彫り方で男性に彫っているか女性に彫っているか想像がつくじゃないですか。(藤本)
★彫り方によって観音様の性って変わるんですか?するとこの作者の前の像は男性的に彫
られていたんですか?それだったら、さっき藤本さんが男だったんだという発見とおっ
しゃったけど、発見するまでもない気がしますが。(鹿取)
★会津八一の歌なんかはとても女性的な観音様ですよね。伏し目がちな像を女性だ
と思っていらしたのに男性だったと。「ぞ」で強調していらっしゃいますから。
(曽我)
★では、角度を少し変えて、真帆さんが「はるかなる自己の男性性への探求が一層
深められる」と書いていらして卓見だと思うのですが、この一連、抹香鯨の射精
や求愛の為に声を張り上げて鳴く葦切とか、ふぐりが膨らむとか男性性に拘って
いますよね。その締めくくりに観音菩薩は男ぞと言っている訳だから、へええ、
男だったのかと驚いただけではないはずです。何か含みがあるはずなんです。
(鹿取)
★うすらあかりに伏し目だったから女性的にも見えたということでしょうかねえ。
(藤本)
★いや、さっきから私が聞いているのはその先です。男性性に拘っているこの一連
を統べているものは何でしょうね。(鹿取)
★渡辺さんの歌集を読んできて、自分という生、生きものがなぜか男に生まれてき
たということに対して、ずっと考え続けてきたけど、ここで観音様に遇って、あ
あここにも男がいるのかと。(真帆)
★自分の中の男性性の発見、たまたま自分が男なのはどういうことかと探求してき
た自分の前に、男である観音が現れたと。その新鮮さですか。(鹿取)
★男性という概念がひろがった。(真帆)
★いやあ、それは面白いですね。伏し目して女っぽいけど、実は男性なんだという
単純な発見ではなくて、もっと哲学的な発見。一連の最後に置いた歌で男性という
概念の領域を広げたわけね。(鹿取)
★話を聞いているとなるほどと思うけど、一人ではとてもそこまで考えられないわ。
(藤本)
★集まって話し合うって大切ですよね。何かもう死語みたいだけど、いわゆる「ア
ウフヘーベン」できる。他の人の話につられて自分で思ってもみなかった考えが
引き出されたりする。それがみんなでやる意義ですよね。(鹿取)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます