かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 111

2020-10-10 21:15:21 | 短歌の鑑賞
    渡辺松男研究12【愁嘆声】(14年2月)まとめ
       『寒気氾濫』(1997年)44頁~
       参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
        レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
 

111 公園のじゃまものもなく伸び果てしぶざまなる木を見て帰るなり  

      (意見)
 公園にゆったり場を与えられて立つ木は、じゃまものもなく、傍若無人に伸びていてぶざまだ。だから見るには見るが、心をおかず帰るということだろう。人間社会の共存のことをかさねず味わいたい。林や森は文字もさることながらおのずから美しい。作者には慣れ親しんだ林の樹々がいつも胸中にある。(慧子)

      (意見)
 公園は、公共の場であるから、通常それなりの体裁を整えているところが多い。ところが本歌の公園は、「じゃまものもなく」というところから、遊具などの設備もあまりなく、利用者も少ない、閑散とした公園がイメージされる。手入れもされず、アンバランスに伸び放題に伸びた「ぶざまなる」木は、公園全体の象徴のように思えるだけでなく、自由気ままに育った若者の姿のようにも思えてくる。(鈴木)

      (発言)
 ★鈴木さんと私は全く逆ですね。(慧子)
 ★でも、結句の解釈は同じですね。好きな木なら何時間でもいっしょにいられるんだけど。私は
  書いてあるとおりに受け取りました。ぶざまなる木なので一瞥して帰るところはおふたりと同
  じです。あと、公園は整っていようが荒れ果てていようが、そもそも人工的なので作者として
  は嫌なんじゃないかなあ。若者とのアナロジーはないように思います。(鹿取)

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