デンマンのブログ

デンマンが徒然につづったブログ

ブッダと物理学

2024-08-15 02:15:55 | 歴史四方山話


 

ブッダと物理学

 


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デンマンさん。。。 今日はお釈迦様と物理学のお話でござ~ますかァ~?


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いけませんかァ?

だってぇ~、お釈迦様と物理学が関係しているなんてぇちょっと考えられませんわァ~。。。

ところが、意外に関係しているのですよ。

どのように。。。?

ちょっと次の記事を読んでみてください。

 


偶然と必然のあいだ


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19世紀の科学者達の多くは、精密科学の領域で得られた豊富な、そして確実な成果によって裏づけられた力学的な世界観の上に立って、あらゆる細部にわたる決定論を避け難いものと結論した。
彼等にとっては「偶然」とは結局人間の無知に基づくものであった。

ある日の午後、私が道を歩いている時に、偶然旧友に出遭ったとする。
私がこれを偶然と感じるのは、彼等の考えによれば、私が旧友の最近の動静を知らなかったからである。
もしも超人的な能力を持った、いわゆるラプラスの魔物がいて、私と旧友の行動に目をつけていたとするならば、その日の朝から二人の出会いを予知し得たであろう。

それどころではない。
この魔物がこの世界の状態をもっと広く、もっと詳細に調べていたならば、何千年、何万年も前に二人の出会いを推定し得たであろう。

私どもの視野が狭く、知識が足りないために、思いがけない事件が起こるように感じるのである。
この意味において偶然はすべて主観的なものであるといわれる。

【昭和22(1947)年8月号】

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




65-66ページ
『「文藝春秋」で読む戦後70年』
【第1巻】終戦から高度成長期まで
編集人: 石橋俊澄
平成27(2015)年7月21日 発行
発行所: 株式会社 文藝春秋

『愛の偶然と必然』に掲載
(2016年3月28日)


 



あらっ。。。 また湯川秀樹博士を持ち出してきたのでござ~ますかァ~?



いけませんかァ~。。。

ちょっと くどいのではござ~ませんかァ~。。。? つい先日、4月16日にも次の記事を書いて湯川博士を持ち出してきたばかりじゃござ~ませんかァ!

 


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『ダンスとノーベル賞』

 



つまり、卑弥子さんは湯川博士の話に、もう うんざりしているのですか?



いいえ、そういうわけではござ~ませんわァ。。。 ただ、何度も何度も同じ記事を見せられると、ちょっとゲップが出てくるのですわァ~。。。

あのねぇ~、今日の話は面白いはずですよ。。。 卑弥子さんも話を聞いて絶対にがっかりしないはずです。

分かりましたわァ。。。 では、その面白い話をさっそく聞かせてくださいましなァ~。。。

じゃあ、まず次の小文を読んでみてください。

 


日本文化と仏教


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春と秋の「お彼岸」、「お盆」、年末年始にかけての2年参りなど、日本人の中にしっかりと根づいている慣習、あるいは「醍醐味」「億劫」など、日常生活に溶け込んでいる仏教用語に至るまで、広い意味での文化を論じるに当たっても、それぞれの次元において仏教を抜きに論じることは難しい。

それほど仏教は、日本文化一般に大きな影響を及ぼしている。

 (中略)

仏教との関わりということを考えた場合、(略) より限定された意味での文化を考えてみても論ずべきことは少なくない。

たとえば、学問の分野における仏教との関わりに照準するならば、いわゆる「仏教学」が所属する人文科学とはやや距離があると思われる自然科学の一分野・物理学をとりあげても、それは決して仏教と無縁ではない。

さしずめ日本で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士が、中間子論を発想するにあたり「科学がすべてであると思っている人は、科学者として未熟である」「素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた」と語っていることあたりから話を始めればよいであろうか。

あるいは、物とは異なる実体としての心の考え方、物の理(ことわり)とは別に心の理を学問的に探求するようになった心理学においても、深層の真理を明らめようとするユング派の精神分析者.河合隼雄が『ユング心理学と仏教』なる書物を著していることなどをあげておけば一応の説明となろうか。

このように、知的ないとなみによる物や心の真理の究明を主として行う諸科学においてさえも、仏教との関わりという観点から論ずべきことは少なくない。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




496-497ページ 『仏教の事典』
編集者: 末木文美士 下田正弘 堀内伸二
2014年6月25日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 朝倉書店


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この上の引用文のどこが面白いのでござ~ますか?



素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた」と湯川博士は、このように語っていたのですよ。

つまり、湯川博士は仏教から中間子論のインスピレーションを得たということでござますわねぇ~。。。?

そういうことですよ。。。 ちょっと面白いでしょう?

でも。。。、でも。。。、具体的に、仏教のどういうところからインスピレーションを得たのでござ~ますか?

ちょっと次の文章を読んでみてください。

 


永遠の釈迦を説く『大般涅槃経』

ここで説かれる釈迦は、この世においては80歳の生涯を送ったが、その死はあくまでも方便であり、実は法身(ほつしん)の釈迦が存在していると説く。
「常楽我浄(じょうらくがじょう)」とは、ふつう仏教ではこの世は無常で苦に満ちていると説くが、ここでは仏の教えはその世界を浄化し、救うのが本来の目的だと説く。
「悉有仏性(しつうぶっしょう)」とは、すべて生あるものは仏になる性質があるとし、だからこそだれしも安心して仏道に励むことができると説いている。

ここで問題になるのは、それならまったく仏となる可能性のない人でさえも成仏できるのかということである。
『大般涅槃経(だいはつねはんきょう)』はそうした人でさえも救われると説き、この説を天台宗ではさらに発展させて「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしつかいじょうぶつ)」を説き、自然界のすべての生物さえも成仏できるとし、『法華経』とともに重要視している。


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最近の生化学研究の成果によると、われわれの体内にあるDNAの遺伝子は、ほかの生物と構造が異なるだけで、素成は共通であると考えられようになり、「悉皆成仏」の説はその先駆(さきがけ)といってよかろう。
もしこれが事実だとすると、人間だけが霊長動物として特権を振りかざし、ほかの生物を支配する根拠が失われることになる。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




77 ページ
『お経の基本がわかる小事典』
著者: 松濤弘道
2004年11月1日 第1刷発行
発行所: PHP研究所


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われわれの体内にあるDNAの遺伝子は、ほかの生物と構造が異なるだけで、素成は共通であると考えられようになり、「悉皆成仏」の説はその先駆(さきがけ)だと言ってるのですよ。 つまり、「悉皆成仏(しつかいじょうぶつ)」という説は、自然界のすべての生物も成仏(じょうぶつ)できるということです。。。 それは、あたかも、人間ばかりではなく、自然界のすべての生物が共通の素成を持つDNAの遺伝子を持っている事実と同じようだ、と言ってるのですよ。



それが、湯川博士が受けたインスピレーションなのですか?

いや。。。 これは生化学者が受けたインスピレーションでしょうねぇ~。。。

だから、湯川博士は、どのようなインスピレーションを受けたのでござ~ますか?

その質問に答える前に、次の文章を読んでみてください。

 


大乗仏教のはしり『大般若経』

般若というのは、梵語のプラジュニャーの俗語形「パンニャー」の音訳で、「完全なる知恵」ということである。
この知恵とはオーストリアの仏教学者ウィンテルニッツが述べているように、「一切を無と説き、すべての存在をただ“否”とするところの否定主義、すなわち空論の認識である」と定義することができよう。


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かつて哲学者の西田幾多郎氏は、この般若思想の影響を受けて一切の有を否定し、それによってかえって一切の有の根拠となるものを見いだす「絶対無」を説いた。

「大般若経」は実践的な大乗仏教の根本になる重要な般若思想を説いたものであるにもかかわらず、インドや中国で発展したその精緻な考え方はどういうわけか日本人の肌に合わず、かろうじてそのエッセンスを収めた短い『般若心経』のみがよく読まれるにとどまっている。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




93-94 ページ
『お経の基本がわかる小事典』
著者: 松濤弘道
2004年11月1日 第1刷発行
発行所: PHP研究所


 



般若思想の影響を受けて一切の有を否定し、それによってかえって一切の有の根拠となるものを見いだす「絶対無」を哲学者の西田幾多郎が説いたのですよ。。。 つまり、これは無からビッグバンで宇宙が生まれたことに通じると卑弥子さんも思いませんかァ~?

 


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上のビデオに出てくるおっさんも、宇宙というのは仏教の曼荼羅(まんだら)のような物だと言ってるのですよ。



要するに、湯川博士も仏教の般若思想と曼荼羅からインスピレーションをゲットした、とデンマンさんはおっしゃるのでござ~ますか?

僕は湯川博士から直接聞いたわけじゃないけれど、そういう事だと思うのですよ。

つまり、この事を言うためにわざわざお釈迦様を持ち出してきたのでござ~ますか?

いや、そればかりじゃないのですよ。。。 次の記事も読んでください。

 


湯川秀樹


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1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表。

1935年(昭和10年)、「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する。

すでに日中戦争中であった日本人学者は、海外からはなかなか評価されなかったがソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つ。


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米国のプリンストン高級科学研究所の前で語り合う
オッペンハイマー、湯川秀樹、朝永振一郎の日米3博士
(左から)=1949年11月撮影


この研究が評価され、1940年(昭和15年)に学士院恩賜賞を受賞。
1943年(昭和18年)には最年少で文化勲章受章。

さらに、1947年(昭和22年)にセシル・パウエル等が実際にπ中間子を発見したことで1949年(昭和24年)にノーベル物理学賞を受賞した。

これはアジア人としては作家のタゴールや物理学者のチャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目の受賞者だったが、日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた。

2000年に湯川のノーベル賞選考関連文書を調査した岡本拓司は、推薦状の大半が外国の推薦者から出されていた点などを挙げ、「ノーベル賞の歴史の中でもまれなほど、研究成果との関係が明瞭であるように思われる」と述べている。

戦後は非局所場理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には繋がらなかった。
一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が3分の1とか3分の2とか、そんな中途半端なものが存在する訳が無い」と否定的であった。

またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。
ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。

1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。

しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。

しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。

1956年(昭和31年)1月に、宮中歌会始に召人として臨み「春浅み藪かげの道おほかたは すきとほりつつ消えのこる雪」が詠んだ。
1970年(昭和45年)、京都大学を退官し、京都大学名誉教授となる。

晩年には生物学にも関心を抱き、特に生命現象における情報の役割に関心を抱いた。
また江戸時代後期の思想家三浦梅園への傾倒を深めた。
揮毫を頼まれると、しばしば『荘子』の「秋水」の最後の一句から「知魚樂」(魚ノ楽シミヲ知ル)と書した。

京都大学退官後の1975年(昭和50年)に前立腺癌を発症し手術を受ける。
手術により癌の進行は抑えたが、その後は自宅で療養を続けながら学術活動を行っていた。

米ソ両国の緊張激化を受け、第4回科学者京都会議の発起人の一人となって1981年(昭和56年)6月、15年ぶりに開催を実現する。
このときすでに健康状態が悪化しており、会議には車椅子姿で出席して核廃絶を訴えた。

3か月後の同年9月、肺炎に心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去する。満74歳。
墓所は京都市東山区の知恩院にある。

広島平和公園にある若葉の像の台座には、湯川による短歌「まがつびよ ふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」が刻まれている。




出典: 「湯川秀樹」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、湯川博士は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発したのですよ。



つまり、その当時の政治家が湯川博士の意見に耳を傾けていたら、あの福島第一原発の事故はなかったというのでござ~ますか?

そういうことですよ! マジで湯川博士はあの事故を予測していたのですよ。。。 だから、基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すと言ったのですよ。

要するに、現実として禍根が残ったわけでござ~ますか?

そういうことですよ!

 


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湯川博士は仏教から命の大切さをちゃんと感じ取っていたのですよ。。。 基礎研究を省略して原発建設を急いで事故を起こし 住民の命が危険にさらされることを心配したのですよ!



つまり。。。、つまり。。。、“おトイレのないような家を建てるな!”ということでござ~ますか?

その通りですよ。。。 放射性廃棄物をどうするのか? まだ、どこの国でもその処理をもてあましている! 原発建設に励むということは マジでトイレのない家を建てるようなものですよ。

要するに、この事を言うために、わざわざ湯川博士を持ち出してきたのでござ~ますか?

いや、そればかりじゃありません! 次の小文も読んでみてください。

 


日本で原発建設が始まったのは米国の意向


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日本で原子力開発が始まったのは、米国の意向を反映したものでした。
その理由は、第五福竜丸の被爆によって日本人が、急速に半原子力、反米に動くのを阻止することでした。 (略)

日本に原子力発電所を作る動きは1950年代に確立しています。
日本の経済はまだ高度成長が始まる前の段階で、石油が自由に手に入る時代です。
なのに1955年12月に原子力基本法が成立し、翌年1月に原子力委員会が設立され、原子力発電への流れが本格化します。
いったいそれはなぜだったのでしょう。

それは米国の意向を反映したものでした。
1950年代、原子力開発に積極的に関与した人物に中曽根康弘氏と正力松太郎氏がいます。
二人とも米国と強い結びつきを持っています。
CIAは正力氏にポダムというコードネームを与えて利用しようとしていました。

 (中略)

第五福竜丸がビキニ環礁水爆実験で被爆します。
これを契機に、杉並区の女性が開始した原水爆実験反対の署名運動はまたたくまに3000万人の賛同を得、運動は燎原の火のごとく全国に広がった。 (略)
ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くようになり、日米双方ともに日夜対策に苦慮する日々がつづいた。

 (中略)

(正力氏の)読売新聞が中心になって、日本国内に原子力平和利用の動きが展開されていきます。
正力松太郎氏はその後入閣し、初代の原子力委員会委員長になります。 (略)
湯川秀樹、石川一郎、藤岡由夫、有沢広巳が委員となります。

こうして、正力松太郎がしかけた原子力発電所への道は大成功を収めます。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




174-177ページ 『戦後史の正体』
著者: 孫崎 享
2012年8月20日 初版第2刷発行
発行所: 株式会社 創元社


 



あらっ。。。 原発にはアメリカのCIAも絡(から)んでいたのでござ~ますわねぇ~。。。



そういうことですよ。。。 CIAは日本の政治やメディアや科学の分野にまで深くかかわっているのですよ。




初出: 2016年4月19日



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ですってぇ~。。。
CIAがそれほどまでに日本の政治やメディアや科学の分野にまで深くかかわっているのでしょうか?

あなたは、どう思いますか?

たまには、あなた自身で調べてみてください。

まず、「日本とCIA」と入れてGOOGLEで検索してみてくださいねぇ~。

驚くべき事実を発見できると思いますわ。

CIAは戦後日本で、いろいろな事件に関わりを持ってきました。

田中角栄のロッキード事件。
竹下登が内閣総辞職することになったリクルート事件。
橋本龍太郎が派閥会長を辞任することになった日歯連事件。
小沢一郎が強制起訴を食らった西松建設事件と陸山会事件。

どれにもCIAの関与がウワサされています。

あなた自身で調べてくださいまし。。。

ところで、話は変わりますけれど、
実は、あたくしは毎日ジムに通って女の魅力を鍛えたのでござ~ますわ。

ええっ。。。 どんな女の魅力かってぇ~。。。?

“ヴィーナスのえくぼ”でござ~ますわよう!

うふふふふふ。。。

あなたは信じられないでしょう?

じゃあ、ここでお見せしますわねぇ~。。。


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どうでござ~ますかァ?

この魅力によって あたくしの人気が出てきたのだと思うのですわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?

どうしてよう?

ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?

あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。

信じてくださいましなァ~。。。

戦後のノーベル賞のお話も、大変興味深いですけれど、

日本の古代にも いろいろな面白いお話がござ~ますわァ。

だから、あなたのために平安史、古代史の記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいまし。
では。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


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ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



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『ハレンチ@日本』

『ハレンチde日本』

『永遠の愛を探して』

『永遠の愛よね』

『yapoo家畜便器污』

『電脳海豚』

『死に誘われて』

『愛と心の構造なのね』

『愛の心が広まる』

『いとしき言霊』




軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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海の文明人

2024-08-06 01:24:15 | 歴史四方山話


 

海の文明人

 


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ケイトー。。。どういうわけで 海の文明人 を取り上げるのォ~?


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実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次のドキュメンタリーを観たのですよ。。。海の古代文明人が出てくるのです。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』




ナンマトル


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ナンマトル(Nan Madol)は、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称であり、その考古遺跡の規模はオセアニア最大とさえ言われる。

人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃からだが、ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1000年頃から建設が本格化し、盛期を迎えた1200年頃から1500年(または1600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられていった。

人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、その景観は「太平洋のヴェニス」、「南海(南洋)のヴェニス」、「ミクロネシアのアンコールワット」などとも呼ばれる。

人工島の上に築かれた巨石記念物群は王や祭司者の住居のほか、墓所、儀式の場、工房など様々な役割をもっており、その大きさも様々である。
巨石記念物群は数トンから数十トンにもなる玄武岩柱を積み上げたもので、どのような技術を使ったのかは解明されていない。

レラ遺跡などのミクロネシア連邦の他の遺跡、さらには広くポリネシア等の遺跡との関連性についても研究が進められているが、明らかになっている点は限られる。
なお、超古代文明論ではムー帝国の首都の遺跡などとされることもあるが、考古学的な検証からは否定されている。

調査・保存などについて日本を含む国際的な協力も受けて、2016年には、UNESCOの世界遺産リストに登録されたが、マングローブの繁茂などといった遺跡保存への脅威から、危機遺産リストにも登録された。

日本ではナン・マドール、ナン・マタール、ナン・マトール等、複数の表記がなされる。

 

学術的検証


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人工島の建設開始は西暦500年頃のことだが、そのときの背景などは未解明である。
急拡大は西暦1000年頃からだったと考えられており、それが同時にシャウテレウル朝の成立期と考えられている。
その頃から1200年頃が首長制の確立期で、その首長制のもとでの儀式は、1200年から1300年頃に始められたと考えられている。

ナンマトルの遺跡群を構成する石材は、サイズによって差があるが5トン(メトリックトン)から25トンほどとも言われ、最も重いものでは推計90トンにもなる。
その石切り場は、遺跡から2 kmに位置するマトレニーム湾、十数 km 離れたチェムェン島の反対側などが挙がっており、21世紀に入ってからは、蛍光X線元素分析法を利用して産地やその変遷を特定する試みなども行われ始めている。

しかしながら、それらの場所から巨石をどう運んだのかについては、カヌーに吊り下げて運んだという説などがあるものの、詳しい方法は確定しておらず、運んだ巨石を人工島で積み上げていった手法も不明である。

少なくとも、彼らは金属器を持たず、水準器、滑車、車輪のいずれも利用していなかったらしい

シャウテレウル朝が最盛時に支配していた人口は、25,000人ほどであったと見積もられている。
そのうちのエリート層や司祭者がナンマトルに居住し、それがナンマトルの主要な機能であったが、人工島は農業生産力に乏しいため、食料はポンペイ島からの貢納に依存していた。

その貢納や、労役が過大になっていったことが、シャウテレウル朝の終焉に結びついたと推測されている。
シャウテレウル朝の終焉、すなわちイショケレケルの到来がいつなのかは、細かく絞り込まれてはいないが、1500年から1600年ごろのことであったと考えられており、巨石記念物群の建設もその頃に終息している。

シャウテレウル朝の滅亡後も、マトレニームの初期のナーンマルキはナンマトルに居住していたらしい。
しかし、19世紀にヨーロッパ人が本格的に到来した頃には、居住地としては使われなくなっていた。

口承では、7代目のナーンマルキの時に、台風に被災したことがきっかけで居住地を移したとされ、それは18世紀初頭の頃と考えられている。
もっとも、より現実的な理由として、ナンマトルでの居住が外部からの貢納を前提とするのに対し、シャウテレウル朝と違ってポンペイ全土を支配できなかったマトレニームのナーンマルキは、生活に十分な貢納を維持できなかったとする推測もある。




出典: 「ナンマトル」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



ミクロネシアの小さな島に巨石を積み上げて人工の島を作った古代文明人がいたのねぇ~。。。私がハイスクールに通っていた頃には、そう云う古代文明人がいたことなど学ばなかったわ。。。



僕も上のドキュメンタリーを見て初めて知ったのですよ。。。

。。。で、ケイトーは、何か気になったことがあったのォ~?

あのねぇ~、ナンマトルの遺跡群を構成する石材は、サイズによって差があるが5トン(メトリックトン)から25トンほどとも言われ、最も重いものでは推計90トンにもなる、というのですよ。。。しかも、巨石をどう運んだのかについては、カヌーに吊り下げて運んだという説などがあるものの、詳しい方法は確定しておらず、運んだ巨石を人工島で積み上げていった手法も不明なのですよ。。。

。。。で、ケイトーは、どう思うわけぇ~? どのように巨石を運んだのか? どのように巨石を積み上げたのか? その手法を突き止めたのォ~?

この地球上には、説明のつかない巨石文化の遺跡がたくさんあるのですよ。。。エジプトのギザのピラミッドもその一つです。。。また、オリャンタイタンボとイースター島の遺跡である砦の石組みは高度な技術を持つ古代文明人を想定しない限り不可能な構造物なのですよ。。。

 


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現代人が最新の技術を使っても、この構造物と同じ石組みを作るのはほとんど困難だということが専門家からも指摘されている。。。なぜなら、インカ文明というのは文字を持たない、車輪を持たない文明なのですよ。。。つまり、この石組みに見られるような高度な技術を持つのであれば、当然、文字を持ち、車輪を利用することができたに違いないと歴史研究家が考えるのも当然です。



つまり、インカ帝国の砦の遺跡だと言われているオリャンタイタンボの石組みは、インカ文明よりずっと前の文明の遺物だというわけぇ~?

そうです。。。インカ帝国は、古代の文明の遺跡を利用して砦を作ったわけです。。。

インカ帝国よりもずっと以前に、それほど素晴らしい技術を持つ文明が存在していた、とケイトーは考えるわけぇ~?

そうです。。。アンデス文明は約9,500年前(紀元前7500年)頃までに始まったと考えられているのですよ。。。

ずい分前から人が住んでいたのですわねぇ~。。。

いや。。。ヒトが住み始めたのはもっと前からですよ。。。南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、1万4000年前という年代測定値を示す遺跡が見られる。。。

あらっ。。。そんな前から人が住んでいたのォ~?

確実なのはクローヴィス文化に並行する1万1000年前の基部が魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である、と言われているのです。。。でも、僕は、もっと前から文明は存在していたと思うのですよ。。。

あらっ。。。それはどういうわけぇ~?

ちょっと次の小文を読んでみてください。。。

 





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デンマンさんもサントリーニ島が あの伝説の “アトランティス”だと考えているのですか?



いや。。。 無理にサントリーニ島と あの伝説の“アトランティス”を結びつける必要はないのですよ。 “アトランティス”は実際にあったと僕は思うのです。 でも それは、伝説のように大西洋の沖にあったのではなくて、地中海の底に 今でも遺跡として横たわっていると、僕は考えているのです。 つまり、地中海が干上がったことは何度かあった、と僕は仮定しているのですよ。 その何度目かに、高度に発達した文明が地中海の底近くにあった。

 


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地中海の底にあった“アトランティス”

 



ところが、やがて氷河が溶け出して大西洋の水位が上がって、閉まっていたジブラルタル海峡の上を乗り越えて海水が滝のように流れ込んだ。

 


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大洪水となって“アトランティス”の住民を押し流してゆく。

 


(noah01.jpg)

 



そして、現在、“アトランティス”の遺跡は地中海の底にある。

 



(atlantis2.jpg+cleoani.gif)

 



この生き残った人たちの子孫が、あるグループはマルタ島に残って巨石文明を、他のグループはクレタ島に残ってミノア文明を、また エジプトに渡った人たちはピラミッドを作ったのですよ。 僕は、そう考えたのです。 これが僕の“マルタ島のロマン”ですよ。




『マルタ島のロマンだ』より
(2016年9月17日)


 



つまり、アトランティスで生き残った人たちの子孫が、あるグループはマルタ島に残って巨石文明を、他のグループはクレタ島に残ってミノア文明を、また エジプトに渡った人たちはピラミッドを作った。 また、あるグループは南米に渡ってオリャンタイタンボの石組みを作ったとケイトーは考えるのォ~?



そうです。。。

同様に、ナンマトルの巨石の遺跡もアトランティスで生き残った人たちの子孫が地中海から避難してナンマトルに渡ったというわけぇ~?

そうです。。。

でも。。。、でも。。。、その当時に、地中海からナンマトルや南米に航海することができたのかしら?

信じられませんかァ~? じゃあ、次のクリップを見てください。。。

 


(nanmadon80.jpg)



 



あのねぇ~、ナンマトルの遺跡には、カレドニアで見つかる遺跡とすっかり同じものがあるのです。。。上のクリップを見れば、その遺跡を見ることができます。。。つまり、古代人は、カレドニアからナンマトルまで航海できたのですよ。。。



古代人の航海技術は現在の我々には想像がつかないくらい優れていたわけぇ~?

そうです。。。だから、地中海からナンマトルに航海するのも問題はないのですよ。。。事実、南米に渡った最古の人類も、東南アジアから船に乗って渡ったという歴史研究家もいるほどです。。。

要するに、古代でも、地中海からナンマトルや南米に渡るだけの航海技術があった、とケイトーは思うわけぇ~?

そうです。。。

でも、ちょっと信じられないわねぇ~。。。

いづれ、それを証明する考古学者が出てきますよ。。。

ちなみに、高度な技術を持つという古代文明人は、90トンもある巨石をどうやって運び、どうやって積み上げたわけぇ~?

反重力(anti-gravity)を使ったのですよ。。。

 



反重力


(antig10.jpg)

 

反重力(英: anti-gravity)は、物質・物体に加わる重力を無効にしたり、調節したりする、とされる架空の技術である。
現実の物理学では一般に不可能と考えられてきたもので、多くはSF作品に宇宙航行の基礎技術として登場する。

一般相対性理論では重力は時空の幾何学的な歪みとして解釈される。
歪みのない平坦な時空は重力が存在しない時空であり、そこを基準とすると重力は時空の収縮を示す。

しかし、数学的には時空が膨張するような解を想定することも可能であり、物理学的にはそれを反重力(負の圧力)とみなすことが出来る
十分遠方から反重力場を観測すると重力場の時とは逆に、平坦な宇宙よりも空間が膨張し時間が加速しているように見える。

このような作用を生み出すエネルギーは負のエネルギー(直感的には負の質量と思ってよい)であり、有名なものとしてはワームホールの話題において登場するエキゾチック物質がある。

そのようなSFに近いものではなく多少現実味のある例としては、宇宙の膨張に関わる宇宙定数や真空のエネルギー(ダークエネルギー)が挙げられる。

いずれにせよこれらが示唆する「斥力として作用する重力場」は上手にとれば通常の重力場が作る時空の歪みをキャンセルすることが可能であり、事実上の反重力(厳密には「万有斥力」)として作用する。
これが現代物理学がおぼろげに描く「反重力」である。

また、現在も証拠の真贋を含めて議論が続いている現象として、ハチソン効果がある。

一方、SF作品に登場する反重力の設定は上記のみならず非常に多くの形態がある。

最も有名なタイプは磁力の反発からイメージされたもので、「反重力場」は単純に重力場に反発する場として設定される。

 


(antig11.jpg)




出典: 「反重力」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、アトランティスで生き残った人たちの子孫は、反重力を利用して巨石を持ち上げることができたわけぇ~?



僕は、そう思います。。。最も有名なタイプは磁力の反発からイメージされたもので、「反重力場」は単純に重力場に反発する場として設定されると書いてあるけれど、シルヴィーも磁石を使うと、引き付けるだけじゃなくて、逆に浮かせることもできるのを見たことがあるでしょう?

確かに、磁石に反発して遠のくこともあるわよねぇ~。。。でも、90トンもある巨石を磁石を使って浮き上がらせたとして、その磁石も90トンぐらいの大きさになるんじゃないのォ~?

だから、やがて優秀な科学者が登場して、小さな磁石でも巨石を浮かび上がらせることができることを証明してみせますよ。。。

ケイトーがやってみてよゥ。。。

今夜の夢の中でやってみます。。。(微笑)




初出: 2021年11月2日



(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。

あなたは、デンマンさんが説明したように、90トンもある巨石を磁石を使って浮き上がらせることができたと思いますか?

ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、もっと楽しいことを話せよ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

では、シルヴィーさんが出てくる面白い記事のことでも。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


(sylvie500.jpg)




(sunwind2.gif)

『サイバー戦争』

『エロくて、ごめんね』

『モバイル社会とガラケー』

『元老のアメリカ』

『ケネディ家の呪い』

『欧米を敵に回す』

『ソフィアからこんにちわ』

『ドイツが原爆をロンドンに』

『いまだに謎』

『さらば大前研一』


(superm3.jpg)

『空飛ぶスパイ』

『愛情はふる星@ベトナム』

『ヒラリーと塩野七生』

『ケネディ夫人@インドネシア』

『究極の大前研一批判本』

『フェルメールの謎』

『女に文句を言う女』

『あなたの祖国』

『宮沢りえ@韓国』

『正しい戦争』

『ゴールデンシャワー』

『死刑廃止』


(mh370a.jpg)

『かまびすしい』

『今、新たな戦前』

『クレオパトラ@アラビア』

『政府は嘘をつく』

『犬と人間と戦争』

『未来予測』

『知られざる悲劇』

『量子活動家』

『アンネの運命』

『10次元の世界』

『ポーランドの犬』


(jump009.jpg)

『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


(banana82e.jpg)

『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』

『2000年前の光通信』

『習近平皇帝』

『プーチンの復讐』

『ペンタゴン・ペーパー』

『南米の富士山』

『ダンケルク』

『無実の罪』

『殺人光線』

『ロッキード事件すごい』

『注目の悲劇』

『核戦争』

『1910年の飛行レース』

『エンペラー習近平』

『暗殺@GOO』

『テロとの戦い』

『マリアのミイラ』

『パナマ文書』

『南京事件』

『古代文明人』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


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ィ~ハァ~♪~!

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証拠隠し

2024-08-05 01:49:05 | 歴史四方山話


 

証拠隠し

 


(kakusu10.jpg)


(kakusu12.jpg)


(kakusu11.jpg)


(junko05.gif)




(junko11.jpg)

デンマンさん。。。、なにか悪い事をして告訴される前に証拠を隠したのですかァ〜?


(kato3.gif)

ジュンコさんは、僕が何か告訴されるような悪い事をしたと思いますかァ〜?

デンマンさんは、あの愚かな神武君のようなネット犯罪を犯すような愚かな事をしないと思いますわ。。。。

 


(jinmu91.jpg)


『セクハラ止めない神武君』


 



僕は、この愚かな神武君のように4年前に亡くなったメグさんに、未練がましく、ストーカーになってセクハラコメントや嫌がらせのコメントを書いたりしません。。。神武君のやっていることは明らかにネット犯罪ですよ。。。



デンマンさんがネット犯罪をしでかしていないなら、どういうわけで証拠隠しというようなタイトルを付けたのですかァ〜?

ちょっと次のリストを見てください。。。

 


(liv24-07-24.jpg)


『拡大する』

『消された真実』


 



これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で7月20日のアクセス者の記録です。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目してください。。。



あらっ。。。 7月24日の午後4時51分に ピンタレストからやって来て 消された真実 を読んだネット市民がいたのですわねぇ〜。。。

実は、南アフリカのダーバン市に住んでいるキャッシー・エドモンド(Cathy Edmond)さんが読んだのです。。。

 


(ip17063.jpg)


『拡大する』


 


(durban10.jpg)



 



名前を聞いたことがありませんけれど、ダーバン市は けっこう大きな都市なのですわねぇ〜。。。



ヨハネスブルグに次いで人口で2番目に大きな都市で、322万人が住んでいるのです。。。 ズールー族が多く、英語よりもズールー語が話されている。。。またインドから移住してきた人や、その子孫が多く、約80万人ほどが住んでいる。。。古くから高級リゾート地としても知られており、海沿いには大型のリゾートホテルが立ち並んでいるのですよ。。。このためスポーツ施設やインフラが整っており、毎年のようにラグビーや水泳などスポーツの世界選手権や、国連の各機関が開催する国際会議の開催地として選ばれているのです。。。2010年にはFIFAワールドカップの会場の一つになったほどですよ。。。

キャッシーさんは、この街で何をしているのですか?

南アフリカ大学でジャーナリズムを勉強しているのです。。。将来は報道関係の仕事につくつもりなのですよ。。。

 


(univsafrica.jpg)



 



キャッシーさんは、ピンタレストのどのページからやって来たのですか?



キャッシーさんの足取りを再現したので次の動画を見てください。。。

 


(tw24-08-02a.jpg)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



 



キャッシーさんは日本語が読めるのですか?



お父さんが大使館の書記官をしていたので、小学校から中学校時代を東京で過ごしたのですよ。。。だから、日本語はペラペラです。。。

でも、どうして2.26事件などに興味を持ったのですかァ〜?

キャッシーさんが大学で専攻しているジャーナリズムの本命は真実を伝えることですよ。。。その真実が2.26事件では消されたという事実に、興味をを引かれたわけです。。。

 





2.26事件は大事件だったのですわねぇ~。。。



この事件が起きたので、庶民も政治家も財界人も軍人に対して率直な意見を言うことができなくなってしまったと言われているのですよ。。。

つまり、軍人に反抗するような事を言ったら殺されるかも知れないと思って、怖くて面と軍人に向かってモノが言えなくなってしまったのですかァ~?

そういうことです。。。この事件を境にして、日本はますます軍国主義に傾いていったというのです。。。

。。。で、消された真実というのは。。。?

上の説明にも書いてあるけれど、二・二六事件の首謀者の一人であり事件後 死刑になった磯部浅一は、事件前に真崎甚三郎・大将を幾度か訪ねている。。。資金協力を要請すると、当時の500円を出してくれると言った。。。(現在の価値にすれば5千万円ほど)。。。そういうわけで磯部はこれらの反応から、(真崎大将を含めた)陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断したのですよ。。。

つまり、真崎大将は青年将校たちの考えや行動に理解を示していたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。事件の資金協力に応じたのだから、事件に無関係じゃないのですよ。。。ところが事件後の裁判では真崎大将は無罪だった。。。

つまり、その裁判で真実が消されたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。上のクリップでは、次のシーンが出てくる。。。

 


(226jiken13b.jpg)

 



昭和63年に、2.26事件の軍法会議の主席検察官の匂坂春平(さきさかしゅんぺい)の膨大な裁判資料(匂坂メモ)が見つかった。。。この資料に基づいて「消された真実」を追求したのがNHKが昭和63年に放映した「NHK特集 二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」の番組です。。。これまでの定説を覆すような真実が発見されたのです。。。それまで、軍法会議の資料は極秘とされて、ひた隠しに隠されてきたのですよ。。。



その定説を覆す真実とはどのよなものなのですか?

あのねぇ~、この裁判自体がおかしい! 1審のみで、弁護士なし、非公開、即決。。。これでは、事件の首謀者19名を死刑にして、なるべく早くこの事件を片付けて、臭いものに蓋をしたいという考えが見え見えなのですよ。。。

つまり、犯人を青年将校だけにとどめ、陸軍上層部に影響が及ぶのを避けようとしたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。この番組には二・二六事件をライフワークにしている作家の澤地久枝さんが関わっており、彼女と秘書の二人で「匂坂メモ」を丸3ヶ月かけてデジタル化したのですよ。。。その一部が次の画像です。。。

 


(226jiken14b.jpg)

 



これを見ると、なんと被告として当時の陸軍大臣を含めて、錚々(そうそう)たる陸軍の上層部の大将、中将が主席検察官の匂坂春平により取り調べを受けているのですよ。。。



これは大変なことですねぇ~。。。

そうです。。。これほどまで事件を拡大して取り調べたなんて、僕はこれまでに聞いたことがありませんよ。。。前代未聞(ぜんだいみもん)! だから、陸軍のみならず、政府も一緒になって資料を極秘にしたのも頷(うなづ)けます。。。

。。。で、消された真実とは。。。?

 


(226jiken15.jpg)


(226jiken16.jpg)


(226jiken17.jpg)


(226jiken18.jpg)

 



あのねぇ~、宮中で軍事参議官の大将たちが集まって善後策を決定する前に、戒厳司令部の長官である香椎中将が「陸軍大臣より」というメモ程度のものを「陸軍大臣告示」という強制力のあるものに書き換えてしまったというのです。。。この文章を起案した者が山下泰文少将だというのですよ。。。つまり、山下少将、香椎中将、真崎大将は青年将校が昭和維新を起こすことを予測していた。。。これを利用して、真崎大将を首班とする軍事内閣を立ち上げようという陰謀を企てたのですよ。。。この陸軍大臣告示を発令することにより、一気に事を進めて、青年将校たちを戒厳警備隊に組み入れ、その後、昭和天皇の裁可を受けて真崎内閣を組閣するという予定だった。。。



なせ、そのように事が運ばなかったのですか?

昭和天皇の心の内が読めなかった。。。天皇は激怒していたのですよ。。。

 


(226jiken19.jpg)


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(226jiken21.jpg)

 



昭和天皇は昭和維新を起こそうという青年将校を反乱軍と断定して、即刻、討伐するようにと命じた。。。



それで反乱軍は天皇の怒りを知って下士官たちを原隊に返し、自分たちは大人しく検挙されたのですか?

そういうことです。。。陸軍は天皇の勅許を得て、1審のみで、弁護士なし、非公開、即決の陸軍軍法会議を設置したのです。。。陸軍上層部の考えでは、自分たちの足元に火が及ぶ前に、事を穏便に片付けたいと思っていたけれど、主席検察官の匂坂春平は上層部の思惑とは全く別に、大将、中将と言えども被告人として取り調べることを厭(いと)わなかった。。。

それなのに、どういうわけで陸軍上層部の陰謀が暴(あば)けなかったのですか?

「匂坂メモ」には、香椎中将が「陸軍大臣告示」を捏造した事実を突き止めているのですよ。。。

それなのに、なぜ香椎中将や、山下少将、真崎大将を起訴できなかったのですか?

ちょっと次の図を見てください。。。

 


(226jiken22b.jpg)


(226jiken23b.jpg)

 



建前(たてまえ)は「司法の独立」なのですよ。。。でもねぇ~、実際には陸軍軍法会議は陸軍大臣が長官として、司法部も検察部も彼の権力の下にある。。。この時の長官が寺内寿一大将だったのです。。。



寺内大将も陸軍大臣になる前に 取り調べを受けたのでしょう?

そうです。。。だから主席検察官の匂坂春平を快く思っているわけがない
。。。しかも、翌年、昭和12年7月7日に日中戦争が勃発。。。

 


(226jiken24b.jpg)


(226jiken25b.jpg)


(226jiken26b.jpg)

 



もういい加減にしろ!ということで、取り調べは圧力がかかって取りやめ、寺内寿一大将は、北支那方面司令官として中国に出征。。。主席検察官の匂坂春平は満州に左遷させられてしまった。。。



まともに取り調べが進めば、陸軍の上層部は有罪判決が出たかもしれないのですわねぇ~。。。

そうですよ。。。そうなったら、陸軍は崩壊してしまったかもしれない。。。でもねぇ~、良識がある軍人も居たのですよ。。。と言うよりは、陸軍には、いわゆる皇道派と統制派の派閥争いがあった。。。だから、統制派の連中は、皇道派の陰謀を薄々気がついていた。。。この事件がきっかけで統制派は権力を握り、山下少将は満州に飛ばされ、その後中央に戻ってくることはなかった。。。香椎中将以上の皇道派の軍人たちは予備役にされて、中央から追われた。。。

要するに真崎大将を無罪になったのは、真実が消されたからなのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。




『消された真実』より
(2023年10月4日)


 



つまり、真実は、時の権力によって都合のよいように消されたり、変えられたりしてしまうということなのですよ。。。



キャッシーさんは、この事を知ってジャーナリズムの意義を改めて考え直したのですかァ〜?

そういうことです。。。権力にべったりじゃなく、あくまでも真実を掘り出して報道しなければならないと思ったそうです。。。

でも、デンマンさんは、そういう事までどうして知っているのですか?

キャッシーさんがメッセージで感想を書いて寄越したのですよ。。。

そのメッセージを公開すればよいではありませんか!

でも、キャッシーさんは公開しないでくれと書いている。

どうしてですかァ〜?

日本語の文章を書き慣れてないので、間違いがたくさんあるからだそうです。。。

キャッシーさんは日本語で書いてきたのですか?

そうです。。。せっかく日本語をゲットしたので、日本語を忘れたくないのだそうです。。。使わないと忘れてしまうので、機会があるごとに努めて日本語を使うようにしていると言うのです。。。見上げたものです。。。実は、僕も日本語を忘れないように、こうして日本語で記事を書いているのですよ。。。人生の半分以上を海外で暮らしてきましたから。。。

でも、デンマンさんの場合は日本語を忘れるどころか、日本語の書き過ぎではありませんかァ〜? 英語は大丈夫ですかァ〜?

僕はバンクーバーのランガラ・カレッジで、英語でコンピューター・サイエンスを教えたこともある。。。でもねぇ〜、僕の場合は、英語で文章を書くよりも、やっぱり日本語で文章を書く方が書きやすい。。。

じゃあ、英語をマスターするためにも英語で記事を書けばよいではありませんか?

だから、英語でも、記事を書いてます。。。もし僕の英語の記事を読みたければ、次のリンクをクリックして読んでみてください。。。

 


(top03.jpg)

The Vancouver Lookout




(top02b.jpg)


(top01b.jpg)

The Top of Vancouver

Revolving Restaurant




Roof of Vancouver

 



僕の英語の記事をもっと読んでみたい人は上の英語の記事の右のコラムに出てくる英語のタイトルは、すべて英語の記事です。。。



(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

ですってぇ~。。。

デンマンさんは、けっこう英語の記事を書いてます。。。

でも、誤字脱字もいくつか見かけます。。。

完ぺきな人はいませんから、誰でも間違いをします。。。

あなたも英語で記事を書いてみませんかァ〜?

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような激しい口調で、わたしに ご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

デンマンさんが立ち上げたピンタレストには 400以上のボード(カテゴリ)があります。。。

あなたが興味を持っているカテゴリがかならず見つかるはずです。。。

 


(bikini24-05-10.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

『ホームページ』


 

ぜひ覗いてみてください。

ええっ。。。「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」

あなたは、更に、そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。

じゃあ、ホログラムを使った面白い動画をお見せしますわァ~。。。

 



 

「面白いけれど、それだけじゃつまらん。他に何か面白いことを話せ!」

貴方が 更に そう言うのでしたら、ワンワンちゃんの面白い動画をお目にかけますわ。。。

ワンワンちゃんが人間の言葉をしゃべります!

 


(dog810.jpg)



 

ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたなは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?

わかりましたわァ。。。

では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。

日本の古代史にも、興味深い不思議な、面白いお話がありますわァ。

次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。


天智天皇は暗殺された

定慧出生の秘密

藤原鎌足と長男・定慧

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?



ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

興味のある方は次の記事も読んでみてくださいね。

 


(sunwind2.gif)



(sylvie500.jpg)

『後家殺し』

『奇想天外』

『下女のまめは納豆』

『オペラミニ』

『三角パンツ』

『サリーの快楽』

『ラーメン@ゲブゼ市』

『安心できない@病院』

『ブルマー姿@自転車』

『女性の性欲研究』

『頭のいい馬』


(miya08.jpg)

『トランプ@マラウイ』

『きれじ』

『コッペパン』

『くだらない話』

『大蛇が破裂』

『グルーヴ』

『タスマニアデビル』

『女と反戦』

『裸女に魅せられ』

『素敵な人を探して』

『カクセンケイ』

『博士の異常な愛情』


(teacher9.jpg)

『パレートの法則』

『こんにちわ@ブリュッセル』

『いないいないばあ』

『食べないご馳走』

『10分間に900件を越すアクセス』

『5分間に340件のアクセス』

『縦横社会』

『村上春樹を読む』

『パクリボット』

『露出狂時代』

『露出狂と反戦』

『オナラとサヴァン症候群』

『検疫の語源』

『共産党ウィルス』

『馬が合う』


(ken203h.jpg)

『オックスフォードの奇人』

『風馬牛』

『未亡人の苦悶』

『群青の石deロマン』

『露出で検索』

『テレポーテーション』

『露出狂』

『第6感』

『大邱の読者』

『無重力の性生活』

『パパは何でも知っている』

『音の力』

『ソフタ』

『くだらない』

『くだらない』

『アルゴー船』

『無重力』


(malata019c.jpg)

『集団行動』

『ブラック・ダリア猟奇事件』

『殺し屋火山の謎』

『彗星に着陸』

『日本の貧困親子』

『ホログラム』

『ホログラム』

『めでたい動物たち』

『初笑い@動物』

『桜屋敷』

『吉展ちゃん事件』

『三億円事件』

『奇抜な動物たち』

『ビックリ動物たち』

『あなたもビックリ』

『ビックリしてね』

『カフタンの仕立て屋』

『USEN @ 馬車道』

『記憶を変える』

『記憶売ります』

『ピンタレスト花盛り』

『余暇を楽しんでる?』

『人気記事を見て』

『鳥の脳味噌』

『七つの顔を持つ女』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


(hand.gif)




(spacer.gif+betty5de.gif)
(hiroy2.png+betty5d.gif)
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消された真実

2024-08-02 00:42:42 | 歴史四方山話


 

消された真実

 


(kennedy79.jpg)


(jfktime.jpg)


(jfk105.jpg)


(junko05.gif)




(junko11.jpg)

デンマンさん。。。、消された真実 というタイトルを書いてますけれど、いったいどの真実が消されたのですかァ~?


(kato3.gif)

あのねぇ~、消された真実というのはたくさんあるのですよ。。。例えば、ケネディ大統領暗殺ですよ。。。

あらっ。。。ケネディ大統領の犯人がオズワルドの他にいて、その真犯人の事実が消されたのですかァ~?

そうです。。。

でも、そういう話は聞いたことがありませんわ。。。

知っている人は知っているのですよ。。。すでに僕が記事に書いたのでジュンコさんも読んでみてねぇ~。。。

 


(jfk102.jpg)


『JFK暗殺の証拠』


 



あらっ。。。政府がらみで真犯人に関わる真実を消したのですかァ~?



そうですよ。。。ケネディ大統領暗殺に政府の要人が関わっていたということが知れたら、アメリカ国内は騒然となるので、未だに重要書類は公開されてません。。。

でも、本当に政府の要人が関わっていたのですかァ~?

関わっていたのです。。。だからこそ、事件が起きたのは1963年だったけれど、証拠になるような重要な書類は2023年まで公開されななかった。。。なぜ、60年間も公開されなかったのか? オズワルドが犯人であるならば60年間も書類を非公開にする必要はないのですよ。。。当時の政府の要人が関わっていたからこそ、60年間も書類が未公開だった。。。でも、未だに重要な書類は極秘にされている。。。つまり、政府の要人が暗殺の裏で重要な役割を果たしていたからですよ。。。

。。。で、今日取り上げる消された真実 は別のアメリカの事件ですか?

いや。。。日本の事件です。。。たまたまYouTubeで「人間ドキュメント」のクリップを探していたら次のクリップに出くわしたのですよ。。。

 


(226jiken10b.jpg)


(226jiken11b.jpg)


『動画を見る』


 



あらっ。。。この事件でも真実が消されたのですかァ~?



そうなのです。。。この番組は1988(昭和63)年に放映されたのだから、見た人もかなりいると思います。。。

その消された真実というのは、どういうものだったのですか?

そもそも、二・二六事件というものはどういうものだったのか? ウィキペディアに書いてあることをまとめてみました。。。ジュンコさんも読んでみてねぇ~。。。

 



二・二六事件

 


(226nihon.jpg)

 

二・二六事件とは、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。

皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。

この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の広田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

昭和初期から、陸軍では統制派と皇道派の思想が対立し、また、海軍では艦隊派と条約派が対立していた。

統制派の中心人物であった永田鉄山らは、1926年(大正15年/昭和元年)には第1次若槻内閣下で、諸国の国家総動員法の研究を行っていた。

一方、その後の犬養内閣は、荒木貞夫陸軍大将兼陸軍大臣や教育総監真崎甚三郎陸軍大将、陸軍軍人兼貴族院議員の菊池武夫を中心とする、ソ連との対立を志向する皇道派を優遇した

皇道派の青年将校(20歳代の隊附の大尉、中尉、少尉達)のうちには、彼らが政治腐敗や農村困窮の要因と考えている元老重臣を殺害すれば天皇親政が実現し諸々の政治問題が解決すると考え、「昭和維新、尊皇斬奸」などの標語を掲げる者もあった。

しかし満州事変に続く犬養首相暗殺事件ののち、日本国は軍政に移行する。

斎藤内閣は青年将校らの運動を脅しが効く存在として暗に利用する一方、官僚的・立法的な手続により軍拡と総力戦を目指す統制派(ソ連攻撃を回避する南進政策)を優遇した。

行政においても、1934年には司法省がナチス法を喧伝しはじめ、帝国弁護士会がワシントン海軍軍縮条約脱退支持の声明を行い、陸軍大臣には統制派の林銑十郎陸軍大将が就任し、皇道派を排除しはじめた。

1935年7月、皇道派の重鎮である真崎が辞職勧告を受けるに至っては、陸軍省内で陸軍中佐相沢三郎による相沢事件が発生し、当時は陸軍軍務局長となっていた統制派主導者の永田鉄山が死亡した

斎藤内閣や林ら陸軍首脳らはこれに対し、皇道派将校が多く所属する第一師団の満州派遣を決定する。

皇道派の青年将校たちは、その満州派遣の前、1936年(昭和11年)2月26日未明、部下の下士官兵1483名を引き連れて決起した

決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕前・内大臣を襲撃、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。

元首相兼海軍軍人斎藤実は殺害されたが後継の岡田啓介首相は無傷であった。

将校らは、林銑十郎ら陸軍首脳を通じ、昭和天皇に昭和維新の実現を訴えたが、天皇は激怒してこれを拒否。
自ら近衛師団を率いて鎮圧するも辞さずとの意向を示す


これを受けて、事件勃発当初は青年将校たちに対し否定的でもなかった陸軍首脳部も、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧することを決定し、包囲して投降を呼びかけることとなった。

叛乱将校たちは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。

しかし彼らの考えが斟酌されることはなく広田内閣の陸軍大臣寺内寿一の下、一審制裁判により、事件の首謀者ならびに将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝らが銃殺刑に処された

これをもってクーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。

事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。算用数字で226事件、2・26事件とも書かれる。

 

青年将校の政治化

陸軍将校は、教育歴が陸軍士官学校(陸士)止まりの者と、陸軍大学校(陸大)へ進んだ者たちの間で人事上のコースが分けられていた。
陸大出身者は将校団の中のエリートのグループを作り、陸軍省、参謀本部、教育総監部の中央機関を中心に勤務する。

一方で、陸大を出ていない将校たちは慣例上、参謀への昇進の道を断たれており、主に実施部隊の隊付将校として勤務した。
エリートコースから外れたこれらの隊付将校の多くが、高度に政治化された若手グループ(しばしば「青年将校」と呼ばれるが、警察や憲兵隊からは「一部将校」と呼ばれる)を作るようになっていった。

隊付将校が政治的な思想を持つに至った背景の一つには、当時の農村漁村の窮状がある。
隊付将校は、徴兵によって農村漁村から入営してくる兵たちと直に接する立場であるがゆえに、兵たちの実家の農村漁村の窮状を知り憂国の念を抱いた

こうした農村漁村の窮状に対する憂国の念が、革命的な国家社会主義者北一輝の「君側の奸」思想の影響を受けていった。
北が著した『日本改造法案大綱』は「君側の奸」の思想の下、君側の奸を倒して天皇を中心とする国家改造案を示したものだが、この本は昭和維新を夢見る青年将校たちの聖典だった。

『日本改造法案大綱』の「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、上下一貫・左右一体を合言葉に、政治家と財閥系大企業との癒着をはじめとする政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破して、特権階級を排除した天皇政治の実現を図る必要性を声高に叫んでいた。

青年将校たちは、日本が直面する多くの問題は、日本が本来あるべき国体から外れた結果だと考えた(「国体」とは、おおよそ天皇と国家の関係のあり方を意味する)。
農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は、「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであり、それが日本を弱体化させていると考えた。

彼らの考えでは、その解決策は70年前の明治維新をモデルにした「昭和維新」を行う事であった。
すなわち青年将校たちが決起して「君側の奸」を倒すことで、再び天皇を中心とする政治に立ち返らせる。

その後、天皇陛下が、西洋的な考え方と、人々を搾取する特権階層を一掃し、国家の繁栄を回復させるだろうという考え方である。
これらの信念は当時の国粋主義者たち、特に北一輝の政治思想の影響を強く受けていた。

緩やかにつながった青年将校グループは大小さまざまであったが、東京圏の将校たちを中心に正式な会員が約100名ほどいたと推定されている。
その非公式のリーダーは西田税であった。

元陸軍少尉で北一輝の門弟であった西田は、1920年代後半から急増した民間の国粋主義的な団体の著名なメンバーとなっていった。
彼は軍内の派閥を「国体原理派」と呼んだ。1931年(昭和6年)の三月事件と十月事件に続いて、当時の政治的テロの大部分に少なくともある程度は関与したが、陸軍と海軍のメンバーは分裂し、民間の国粋主義者たちとの関係を清算した。

皇道派と国体原理派の関係の正確な性質は複雑である。
この二派は同じグループとされたり、より大きなグループを構成する2つのグループとして扱われることも多い。

しかし、当時のメンバーたちの証言や書き残されたものによると、この二派は現実に別個のグループであって、それらが互恵的な同盟関係にあったことが分かる。
皇道派は国体原理派を隠蔽しつつ、彼らにアクセスを提供する見返りとして、急進的な将校たちを抑えるための手段として国体原理派を利用していた。

 

磯部と陸軍幹部の接触

二・二六事件の蹶起の前年から、磯部浅一らは軍上層部の反応を探るべく、数々の幹部に接触している。
「十月ごろから内務大臣と総理大臣、または林前陸相か渡辺教育総監のいずれかを二人、自分ひとりで倒そうと思っていた」と磯部は事件後憲兵の尋問に答えている。

1935年(昭和10年)9月、磯部が川島義之陸軍大臣を訪問した際、川島は「現状を改造せねばいけない。改造には細部の案など初めは不必要だ。三つぐらいの根本方針をもって進めばよい、国体明徴はその最も重要なる一つだ」と語った

1935年12月14日、磯部は小川三郎大尉を連れて、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問した。

山下奉文少将は「アア、何か起こったほうが早いよ」と言い、真崎甚三郎大将は「このままでおいたら血を見る。
しかし俺がそれを言うと真崎が扇動していると言われる」と語った


1936年(昭和11年)1月5日、磯部は川島陸軍大臣を官邸に訪問し、約3時間話した。
「青年将校が種々国情を憂いている」と磯部が言うと、「青年将校の気持ちはよく判る」と川島は答えた。

「何とかしてもらわねばならぬ」と磯部が追及しても、具体性のない川島の応答に対し、「そのようなことを言っていると今膝元から剣を持って起つものが出てしまう」と言うが、「そうかなあ、しかし我々の立場も汲んでくれ」と答えた。

1936年1月23日、磯部が浪人森伝とともに川島陸軍大臣と面会した際には渡辺教育総監に将校の不満が高まっており「このままでは必ず事がおこります」と伝えた。
川島は格別の反応を見せなかったが、帰りにニコニコしながら一升瓶を手渡し「この酒は名前がいい。『雄叫(おたけび)』というのだ。一本あげよう。自重してやりたまえ。」と告げた。

1936年1月28日、磯部が真崎大将の元を訪れて、「統帥権問題に関して決死的な努力をしたい。相沢公判も始まることだから、閣下もご努力いただきたい。ついては、金がいるのですが都合していただきたい」と資金協力を要請すると、真崎は政治浪人森伝を通じての500円の提供を約束した

磯部はこれらの反応から、陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断した

 

その後の展開

26日、荒木貞夫大将に会った石原莞爾大佐は「ばか!お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と面と向かって罵倒し、これに対して「なにを無礼な!上官に向かってばかとは軍規上、許せん!」と、えらいけんまくで言い返す荒木に対して石原は「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ」とくってかかり、両者は一蝕即発の事態になったが、その場にいた安井藤治東京警備参謀長の取り成しで事なきを得ている。

午前9時、川島陸相が天皇に拝謁し、反乱軍の「蹶起趣意書」を読み上げて状況を説明した。
事件が発生して恐懼に堪えないとかしこまる川島に対し、天皇は「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧」せよと命じた。
この時点で昭和天皇が反乱軍の意向をまったく汲んでいないことがあらためて明瞭になった。

午後に清浦奎吾元総理大臣が参内。「軍内より首班を選び処理せしむべく、またかくなりしは朕が不徳と致すところとのご沙汰を発せらるることを言上」するが、天皇は「ご機嫌麗しからざりし」だったという(真崎甚三郎日記)。磯部の遺書には「清浦が26日参内せんとしたるも湯浅、一木に阻止された」とある。

正午半過ぎ、前述の荒木・真崎・林のほか、阿部信行・植田謙吉・寺内寿一・西義一・朝香宮鳩彦王・梨本宮守正王・東久邇宮稔彦王といった軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。

一、蹶起󠄁ノ趣旨ニ就テハ天聽ニ達󠄁セラレアリ
二、諸󠄀子ノ眞意󠄁ハ國體顯現ノ至情󠄁ニ基クモノト認󠄁ム
三、國體ノ眞姿󠄁顯現ノ現況(弊󠄁風ヲモ含ム)ニ就テハ恐󠄁懼ニ堪ヘズ
四、各軍事參議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進󠄁スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

この告示は山下奉文少将によって陸相官邸に集まった香田・野中・津島・村中の将校と磯部浅一らに伝えられたが、意図が不明瞭であったため将校等には政府の意図がわからなかった。

しかしその直後、軍事課長村上啓作大佐が「蹶起趣意書」をもとにして「維新大詔案」が作成中であると伝えたため、将校らは自分たちの蹶起の意志が認められたものと理解した

27日夜、石原莞爾が磯部と村中を呼んで、「真崎の言うことを聞くな、もう幕引きにしろ、我々が昭和維新をしてやる」と言った。

正午、山下奉文少将が奉勅命令が出るのは時間の問題であると反乱部隊に告げた。

これをうけて、栗原中尉が反乱部隊将校の自決と下士官兵の帰営、自決の場に勅使を派遣してもらうことを提案した。

川島陸相と山下少将の仲介により、本庄侍従武官長から奏上を受けた昭和天皇は「自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」と非常な不満を示して叱責した。

しかしこの後もしばらくは軍上層部の調停工作は続いた

奉勅命令を知った反乱部隊兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、反乱部隊将校に対して抗議や説得の声を上げた。
午後11時、「戒作命十四号」が発令され反乱部隊を「叛乱部隊」とはっきり指定し、「断乎武力ヲ以テ当面ノ治安ヲ恢復セントス」と武力鎮圧の命令が下った

 

真崎の事件関与

事件の黒幕と疑われた真崎甚三郎大将(前教育総監。皇道派)は、1937年(昭和12年)1月25日に反乱幇助で軍法会議に起訴されたが、否認した。

論告求刑は反乱者を利する罪で禁錮13年であったが、9月25日に無罪判決が下る

しかし、反乱軍に同情的な行動を取っていたことは確かであり、26日午前9時半に陸相官邸を訪れた際には磯部浅一に「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる。」と声を掛けたとされ、また川島陸相に反乱軍の蹶起趣意書を天皇に上奏するよう働きかけている。

このことから真崎大将の関与を指摘する主張もある

一方、当時真崎大将の護衛であった金子桂憲兵伍長(少尉候補者第21期、昭和19年9月1日調では北部憲兵隊司令部附、憲兵中尉)の戦後の証言によると、真崎大将は「お前達の気持ちはヨウッわかっとる。ヨウッーわかっとる」とは全然言っておらず、「国体明徴と統帥権干犯問題にて蹶起し、斎藤内府、岡田首相、高橋蔵相、鈴木侍従長、渡辺教育総監および牧野伸顕に天誅を加えました。牧野伸顕のところからは確報はありません。目下議事堂を中心に陸軍省、参謀本部などを占拠中であります」との言に対し、真崎大将は「馬鹿者! 何ということをやったか」と大喝し、「陸軍大臣に会わせろ」と言ったとしている。

また、終戦後に極東国際軍事裁判の被告となった真崎大将の担当係であったロビンソン検事の覚書きには「証拠の明白に示すところは真崎が二・二六事件の被害者であり、或はスケープゴートされたるものにして、該事件の関係者には非ざりしなり」と記されており、寺内寿一陸軍大臣が転出したあと裁判長に就任した磯村年大将は、「真崎は徹底的に調べたが、何も悪いところはなかった。だから当然無罪にした」と戦後に証言している。

真崎は好人物で誰の話でも親身になって聞くため、脈ありと誤解されて勝手に祭り上げられていただけの可能性が高い。




出典: 「二・二六事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



大事件だったのですわねぇ~。。。



この事件が起きたので、庶民も政治家も財界人も軍人に対して率直な意見を言うことができなくなってしまったと言われているのですよ。。。

つまり、軍人に反抗するような事を言ったら殺されるかも知れないと思って、怖くて面と軍人に向かってモノが言えなくなってしまったのですかァ~?

そういうことです。。。この事件を境にして、日本はますます軍国主義に傾いていったというのです。。。

。。。で、消された真実というのは。。。?

上の説明にも書いてあるけれど、二・二六事件の首謀者の一人であり事件後 死刑になった磯部浅一は、事件前に真崎甚三郎・大将を幾度か訪ねている。。。資金協力を要請すると、当時の500円を出してくれると言った。。。そういうわけで磯部はこれらの反応から、(真崎大将を含めた)陸軍上層部が蹶起に理解を示すと判断したのですよ。。。

つまり、真崎大将は青年将校たちの考えや行動に理解を示していたのですねぇ~。。。

そういうことですよ。。。事件の資金協力に応じたのだから、事件に無関係じゃないのですよ。。。ところが事件後の裁判では真崎大将は無罪だった。。。

つまり、その裁判で真実が消されたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。上のクリップでは、次のシーンが出てくる。。。

 


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昭和63年に、2.26事件の軍法会議の主席検察官の匂坂春平(さきさかしゅんぺい)の膨大な裁判資料(匂坂メモ)が見つかった。。。この資料に基づいて「消された真実」を追求したのがNHKが昭和63年に放映した「NHK特集 二・二六事件 消された真実 陸軍軍法会議秘録」の番組です。。。これまでの定説を覆すような真実が発見されたのです。。。それまで、軍法会議の資料は極秘とされて、ひた隠しに隠されてきたのですよ。。。



その定説を覆す真実とはどのよなものなのですか?

あのねぇ~、この裁判自体がおかしい! 1審のみで、弁護士なし、非公開、即決。。。これでは、事件の首謀者19名を死刑にして、なるべく早くこの事件を片付けて、臭いものに蓋をしたいという考えが見え見えなのですよ。。。

つまり、犯人を青年将校だけにとどめ、陸軍上層部に影響が及ぶのを避けようとしたのですねぇ~。。。

そういうことです。。。この番組には二・二六事件をライフワークにしている作家の澤地久枝さんが関わっており、彼女と秘書の二人で「匂坂メモ」を丸3ヶ月かけてデジタル化したのですよ。。。その一部が次の画像です。。。

 


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これを見ると、なんと被告として当時の陸軍大臣を含めて、錚々(そうそう)たる陸軍の上層部の大将、中将が主席検察官の匂坂春平により取り調べを受けているのですよ。。。



これは大変なことですねぇ~。。。

そうです。。。これほどまで事件を拡大して取り調べたなんて、僕はこれまでに聞いたことがありませんよ。。。前代未聞(ぜんだいみもん)! だから、陸軍のみならず、政府も一緒になって資料を極秘にしたのも頷(うなづ)けます。。。

。。。で、消された真実とは。。。?

 


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あのねぇ~、宮中で軍事参議官の大将たちが集まって善後策を決定する前に、戒厳司令部の長官である香椎中将が「陸軍大臣より」というメモ程度のものを「陸軍大臣告示」という強制力のあるものに書き換えてしまったというのです。。。この文章を起案した者が山下泰文少将だというのですよ。。。つまり、山下少将、香椎中将、真崎大将は青年将校が昭和維新を起こすことを予測していた。。。これを利用して、真崎大将を首班とする軍事内閣を立ち上げようという陰謀を企てたのですよ。。。この陸軍大臣告示を発令することにより、一気に事を進めて、青年将校たちを戒厳警備隊に組み入れ、その後、昭和天皇の裁可を受けて真崎内閣を組閣するという予定だった。。。



なせ、そのように事が運ばなかったのですか?

昭和天皇の心の内が読めなかった。。。天皇は激怒していたのですよ。。。

 


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昭和天皇は昭和維新を起こそうという青年将校を反乱軍と断定して、即刻、討伐するようにと命じた。。。



それで反乱軍は天皇の怒りを知って下士官たちを原隊に返し、自分たちは大人しく検挙されたのですか?

そういうことです。。。陸軍は天皇の勅許を得て、1審のみで、弁護士なし、非公開、即決の陸軍軍法会議を設置したのです。。。陸軍上層部の考えでは、自分たちの足元に火が及ぶ前に、事を穏便に片付けたいと思っていたけれど、主席検察官の匂坂春平は上層部の思惑とは全く別に、大将、中将と言えども被告人として取り調べることを厭(いと)わなかった。。。

それなのに、どういうわけで陸軍上層部の陰謀が暴(あば)けなかったのですか?

「匂坂メモ」には、香椎中将が「陸軍大臣告示」を捏造した事実を突き止めているのですよ。。。

それなのに、なぜ香椎中将や、山下少将、真崎大将を起訴できなかったのですか?

ちょっと次の図を見てください。。。

 


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建前(たてまえ)は「司法の独立」なのですよ。。。でもねぇ~、実際には陸軍軍法会議は陸軍大臣が長官として、司法部も検察部も彼の権力の下にある。。。この時の長官が寺内寿一大将だったのです。。。



寺内大将も陸軍大臣になる前に 取り調べを受けたのでしょう?

そうです。。。だから主席検察官の匂坂春平を快く思っているわけがない。。。しかも、翌年、昭和12年7月7日に日中戦争が勃発。。。

 


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もういい加減にしろ!ということで、取り調べは圧力がかかって取りやめ、寺内寿一大将は、北支那方面司令官として中国に出征。。。主席検察官の匂坂春平は満州に左遷させられてしまった。。。



まともに取り調べが進めば、陸軍の上層部は有罪判決が出たかもしれないのですわねぇ~。。。

そうですよ。。。そうなったら、陸軍は崩壊してしまったかもしれない。。。でもねぇ~、良識がある軍人も居たのですよ。。。と言うよりは、陸軍には、いわゆる皇道派と統制派の派閥争いがあった。。。だから、統制派の連中は、皇道派の陰謀を薄々気がついていた。。。この事件がきっかけで統制派は権力を握り、山下少将は満州に飛ばされ、その後中央に戻ってくることはなかった。。。香椎中将以上の皇道派の軍人たちは予備役にされて、中央から追われた。。。

要するに真崎大将を無罪になったのは、真実が消されたからなのですねぇ~。。。

そういうことです。。。これまでのことを知った上で真崎大将のウィキペディアの経歴と人となりを読んでみてください。。。

 



真崎甚三郎

 


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1876年(明治9年)11月27日 - 1956年(昭和31年)8月31日)

 

眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう)は、日本の陸軍軍人。
陸軍士官学校9期、陸軍大学校19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功四級。

荒木貞夫と共に皇道派の頭目の一人。
皇道派青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した


事件後に設けられた軍法会議においては無罪となった。
真崎の事件への関与の度合いについては意見が分かれている。

弟に海軍少将、衆議院議員の眞崎勝次。
長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹。

 

裁判

真崎は事件後の3月10日に、荒木貞夫、川島義之、阿部信行、林銑十郎と共に予備役となった

本庄繁、南次郎も4月22日に予備役入りしている。
この内、真崎、荒木、本庄の三名が皇道派であった。

これにより現役陸軍大将は寺内寿一、西義一、植田謙吉のみとなった

陸相官邸における行動、伏見官邸における工作、軍事参議官会議における大詔渙発、戒厳令施行の促進などが反乱者に対する利敵行為とみなされ、4月21日から東京憲兵隊本部の大谷敬二郎大尉らによる取調べを受けた。

真崎は、12月28日から断食を始め、翌1937年1月6日頃からは水も飲まず、息子〔秀樹?〕を2回呼び、遺言めいたことを言った。
1月12日頃、衛戍病院に入院し、阿部大将等が面会に行っても許可されなかった。

その後予審を経て陸軍軍法会議法ではなく緊急勅令(東京陸軍軍法会議ニ関スル件(昭和11年3月4日勅令第21号))によって設けられた東京陸軍軍法会議により1937年1月25日に起訴された。

裁判は第一師団軍法会議庁舎において6月1日から行われた。
裁判官は、上級判士が磯村年予備役大将、判士が松木直亮予備役大将、小川関治郎陸軍法務官(少将相当)が務めた。
7月15日の論告では、反乱者を利す罪で禁固13年が求刑された

しかし、真崎は9月25日の東京陸軍軍法会議の判決で無罪となった。

判決文の内容は意味不明なものとなった。具体的には


以上ノ事実ニ被告本人ニ於テ其ノ不利ナル点ニ付否認スル所アルモ、他ノ証拠ニ依リ之ヲ認ムルニ難カラズ、 然ルニ之ガ反乱者ヲ利セムトスル意思ヨリ出デタル行為ナリト認定スベキ証拠十分ナラズ


反乱部隊を利した行為は明らかであるが、これが反乱部隊を利せんとする意思に基づくものであるかは認定できなかった、というのが無罪の理由であった。

荒木が近衛文麿首相に無罪とするよう頼み込み、近衛は厳罰論に傾いていた杉山元陸相を説得し、これ以上の混乱を引き起こさぬように無罪とするように圧力をかけた

磯村の証言によると、最終的には大山文雄陸軍省法務局長が強硬派の小川を呼び円満解決を図るよう説得した

杉山陸相から判決文を奏呈された天皇はこれをその場で熟読し、手元に留め置いた。

小川関治郎陸軍法務官は、「判決理由書は有罪論を展開し、主文では無罪とした。誰が判決文を読んでも真崎が有罪であることがわかるようにした」と証言している。

荒木貞夫も、「判決理由は、ひとつひとつ、真崎の罪状をあげている。そして、とってつけたように主文は"無罪"。あんなおかしな判決文はない」と述べている。

証人として出廷した磯部は真崎の態度に幻滅し、『獄中日記』において真崎を呼び捨てにして激しく非難した

 

評価

『軍ファシズム運動史』を著した秦郁彦は、真崎については戦前戦後を通して「腹黒い野心家」、「陰険な策謀家」、「青年将校を裏切った卑怯者」との評価が定着しており、「その本質は強きを助け、弱きを虐げる小心翼翼とした官僚型野心家」だったのではと記している。

米国立公文書館に保管されていた東京裁判での国際検察局尋問調書を調査した粟屋憲太郎は真崎の「中学時代から親米主義者だった」との弁明や、同じく公文書館から発掘した徳川義親日記にある、二・二六事件取調中"返答に詰まると数珠を出して拝む"などの記録から、前出の秦郁彦の評価も引用して「これまで読んだ尋問調書のうち、真崎の調書は最も格調の低いものの一つであった」と評している。

田崎末松は、真崎の長男の真崎秀樹が戦後に昭和天皇の通訳を務めていることから、昭和天皇は、「風雪三十年の結果、二廻りも三廻りも人間的に成長され円熟され」、「禍根の張本人として消えていったものが実は無類の忠臣であった、というような価値評価の転換も行われていた」のではないかとしている。

真崎の自動車運転手を務めていた石黒幸平(陸軍自動車学校職工)は、真崎大将は情に厚く部下思いであると、陸軍部内はもちろん自動車運転手間にも信望があったと証言をしている。

石原莞爾は真崎のことを嫌悪していた
石原が満州から参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」と褒めちぎったが、真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。




出典: 「真崎甚三郎」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





初出: 2023年10月4日



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは、真崎甚三郎大将が青年将校たちを影で応援して事件を起こすように仕向けたと思いますかァ~?

ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」

あなたは、そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。 じゃあ、面白い動画をお目にかけますわァ。。。

ワンワンちゃんが人間の言葉をしゃべります!

 


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ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?

わかりましたわァ。。。

では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。

日本の古代史にも、興味深い不思議な、面白いお話がありますわァ。

次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。


天智天皇は暗殺された

定慧出生の秘密

藤原鎌足と長男・定慧

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?



ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

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ユダヤ人が紅海を渡った謎

2024-07-30 00:19:57 | 歴史四方山話


 

ユダヤ人が紅海を渡った謎

 


(redsea10.jpg)

 



 


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デンマンさん。。。、ユダヤ人が紅海を渡った謎というのは、あの有名なモーゼが神の助けを借りて、海の水を真っ二つに分けて通り道を作り、ユダヤ人と共にエジプトから対岸に逃げたというお話ですかァ?


(kato3.gif)

そうです。。。上のクリップで語られている通りです。。。

。。。で、何が謎なのですかァ~?

あのねぇ~、神の助けを借りたからと言って、海の水を真っ二つに分けで道を作れるはずがないでしょう! 小学生だって信じませんよう。

でも、敬虔なキリスト教徒は信じてますわァ~。。。とにかく、人間は猿から類人猿を経過して進化したのではない、神様がが神様に似せて人間をお作りになったのだと真面目に信じていますから。。。

ベティさんの友達にそういうキリスト教徒が居るのですか?

いますわァ~。。。

日本人には、まず、そういう人はいないと思いますよ。。。

でも、日本人だって神様を信じてないと言いながら、「神頼み」をする人が居るでしょう!?

 


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(goukaku10.jpg)

 



確かに、「神頼み」をする日本人はいますよ。。。でもねぇ~、それは神様が居て奇跡を起こすのだとは考えてないのですよ。。。「誰でもいいから大学に受かるように助けてぇ~」というのでは、カッコがつかないので、天神様(菅原道真)をお祀(まつ)りしている神社に行って、少しでも気持の上で頑張れるようになろうと、そういうわけで天神様を拝むのです。。。そうすれば、一生懸命になって勉強する意欲が湧いてくるだろうと、自分に催眠術をかけるのですよ。。。



デンマンさんもそうやって大学受験に臨(のぞ)んだのですかァ~?

そうですよ。。。だから、一生懸命に勉強して 僕は浪人しないで現役で受かったのです。。。「神頼み」は神様の問題じゃない! 自分の気持ちの問題ですよ。。。そういうわけで、日本人の多くは、ユダヤ人がモーゼの神頼みで紅海を渡ったなんて、はなからバカバカしい伝説だと思って信じてませんよ。。。

そんな事を言ったら、敬虔なキリスト教徒がテロリストになってデンマンさんを暗殺するかもしれませんわァ~。。。うふふふふふふ。。。

あのねぇ~、モーゼの時代は、今から3500年も前ですよ。。。迷信と妄想と世迷言(よまいごと)の時代ですよ。。。現在の科学の時代に、いくら敬虔なキリスト教徒でも、モーゼが神様の力を借りて、海の水を真っ二つに分けたなんて誰も信じてませんよ。。。神様がロケットを飛ばして人間が月に降りたと考えないのと同じことです。。。

でも、モーゼが神様の力を借りて、海の水を真っ二つに分けた話が、それほどバカバカしいことならば、どういうわけでデンマンさんは、こうして記事で取り上げるのですか?

あのねぇ~、「火のない所に煙は立たず」という諺が日本にはあるのですよ。。。つまり、モーゼの紅海の伝説には、その話をでっち上げただけの歴史的な事実があったに違いないのです。。。本当にバカバカしい話ならば、3500年も、この伝説が語り継がれてない。。。

つまり、モーゼの紅海の伝説を裏付けるような歴史的な事実があった、とデンマンさんは言うのですか?

そうです。。。でも、僕が言い始めたわけじゃない。。。たまたま、バンクーバー市立図書館で借りたDVD を観たら、モーゼの紅海の伝説を裏付けるような歴史的な事実を説明していたのですよ。。。

 


(lib23-06-04.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』


 



Albert Lin seeks out the truth behind a great story of the Bible.

Could real events lie behind the parting of the Red Sea?

To solve this mystery Albert will use satellites and space age technology to look beneath the earth's surface to reveal secrets that have been buried for thousands of years.




この記録映画のホスト役を務めるアルバート・リンさんがバイブルの偉大な物語に隠されている真実を探求する。

ユダヤ人が紅海を渡ったという物語には歴史的な事実があったのだろうか?

この謎を解き明かすためにリンさんは衛星画像を使い宇宙技術を駆使して、数千年の間 地表の下に眠っていた真実を探り出す。




カタログページの説明より (デンマン訳)


 



 



このドキュメンタリーの内容に触れる前に、ウィキペディアでは、「出エジプト物語」がどのように説明されているのか? それをここに書き出します。

 



Crossing the Red Sea

紅海を渡る


 


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(exo13.jpg)

 

紅海横断または紅海の別れ(ヘブライ語: קריעת ים סוף、ローマ字: Kriat Yam Suph、直訳すると「葦の海の別れ」または「世界の終わりの海の別れ」)
ヘブライ語聖書の出エジプト記の起源神話のエピソード。

出エジプト記で詳述されているように、モーゼに率いられたイスラエル人が追撃してくるエジプト人から逃れる様子が描かれている。
モーセが杖を差し出し、神はヤム・スフ川の水を分ける。
ヤム・スフ川は伝統的に紅海であると考えられているが、他の解釈もある

水が分散されたため、イスラエル人は乾いた地面を歩いて海を渡ることができた。
エジプト軍もそれに続いた。

イスラエル人が無事に渡ると、モーゼは杖を落として海を閉め、追ってきたエジプト人を溺死させた

 


(exo10.jpg)


(exo14.jpg)


(exo15.jpg)

 

聖書の物語

エジプトの疫病の後、ファラオはイスラエル人を解放することに同意し、イスラエル人は昼は雲の柱、夜は火の柱に導かれながら、ラムセスからスコト、そして砂漠の端にあるエタムまで旅した。

そこで神はモーゼに、引き返してバアル・ゼフォンの真向かい、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロトの海辺で野営するように命じる。

神はファラオに戦車でイスラエル人を追跡させ、ファラオはピハヒロトでイスラエル人を追い越す。
イスラエル人はエジプト軍を見て恐れるが、火の柱と雲がイスラエル人とエジプト人を隔てる。

神の命令で、モーゼが水の上に手をかざすと、一晩中強い東風が海を分け、イスラエル人は両側に水の壁がある乾いた土地を歩いた(出エジプト記14:21、22)。

エジプト人は彼らを追跡したが、夜明けに神が彼らの戦車の車輪を詰まらせてパニックに陥らせ、水が戻ってきたことでファラオとその軍隊全体が滅ぼされた。

イスラエル人は神の力を見て、神とモーゼに信仰を置き、海を渡り敵を滅ぼしたことを主に賛美の唄を歌った。(出エジプト記 15 章のこの歌は「海の歌」と呼ばれている)。

物語には少なくとも 3 つ、場合によっては4 つのバージョンが含まれている。

最初のバージョン(最も古いバージョン)では、神は強い東風で海を吹き返し、イスラエル人が乾いた陸地を渡れるようにした。

2番目では、モーゼが手を伸ばすと、水が2つの壁に分かれる。

第3のバージョンでは、神がエジプト人の戦車の車輪を詰まらせ、エジプト人は逃げる(このバージョンではエジプト人は水の中にも入らない)。

そして4番目の「海の歌」では、神はエジプト人をテホモット、海の深さ、または神話の深淵に投げ込む。

 

ヤム・スフとは「紅海」のことか?

イスラエル人の最初の旅はラムセスからスコトまで。
ラムセスは一般に、第 19 王朝の首都ペル ラムセスのあった現在のカンティールと同一視され、スコスは聖書のゴシェンの地であるワディ トゥミラットのテル エル マスクフタと同一視される。

イスラエル人はスコトから「砂漠の端」のエタムまで旅し、その後ミグドルと海の間に位置し、バアル・ゼフォンの真向かいに位置するピ・ハヒロトに引き返す。
これらはどれも確実に特定されてない。

広く支持されている理論の 1 つは、これらがティムサー湖の地域を総称して指すというもの。
スエズ湾の北にある塩湖で、ワディ トゥミラットの次に近い大きな水域である。
ティムサー湖はさまざまな時期に運河によってゲセムのピトムとつながっており、1 千年紀後半の文書ではミグドル バアル ゼフォンが運河の砦であると言及されている。

 


(delta10.jpg)


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   現在のティムサー湖

 

交差点の場所をヘブライ語でヤム・スフと言う。
これは伝統的に、アフリカとアラビア半島の間にある、英語では紅海として知られる塩水の入口を指すと考えられてきたが、これはギリシャ語七十人訳聖書からの誤訳であり、ヘブライ語のスフは決して「赤」を意味するものではない。

水域の特定には関係ないが、suphはヘブライ語のsuphah (「嵐」) とsoph (「終わり」)をもじったもので、出エジプトの出来事に言及している。

七十人訳学者がなぜヤム・スフ・エルトラ・タラッサを紅海と翻訳したのかは はっきりとはわかっていない。
一説によると、紀元前 3 世紀にエジプトのアレクサンドリアに住んでいたこれらの学者たちは、今日私たちが知っている紅海を具体的に特定したのは、ここが横断が行われた場所であると信じていたためである。

一般的な学者の見解では、出エジプト物語は多くの伝承を組み合わせたもので、そのうちの 1 つは「葦の海」 (ティムサー湖で、戦車の車輪が詰まってエジプト人が敗北した) でのもので、もう 1 つはさらに深い紅海でのもので、出来事をよりドラマチックに語っている。

塩水に強いアシは、スエズの北から地中海まで広がる一連の浅い湖に生い茂っている

ケネス・キッチンとジェームス・ホフマイヤーは、スエズ地峡沿いのこれらの葦の生い茂る湖沼は、ヤムイモ・スフの栽培に適していると述べている。
古代のヤムイモのスフは現代の紅海に限定されない

ホフマイヤーは、ヤムイモのスフを、ナイル川デルタ東部の湖を指すラムサイド時代のエジプト語pa-tjufy ( p3 twfyとも書かれる) と同一視している。

現代のテル・エル・バラムンと考えられているアムン島の文脈でテル・エル・バラムンはファラオ時代のエジプトの最北端の都市で、ダミエッタの南西約29km 、北緯31.2586、東経31.5714に位置していた。

 

歴史性

紅海横断を裏付ける考古学者が検証した証拠は見つかっていない。

エジプト考古学者で元エジプト考古学担当大臣のザヒ・ハワスは、イスラエル人がエジプトから脱出し、その後約束の地を求めて40年間砂漠をさまよった聖書の記述である出エジプト物語について次のように述べた。


正直に言えば、それは神話です...考古学者として、歴史的証拠がないため、それは決して起こらなかったと言わなければならない。


聖書の記述の証拠が不足していることを考慮して、聖書著者の物語にインスピレーションを与えたものについての説明を探したり、自然な説明を提供したりする人もいる。

1つの説明は、イスラエル人とエジプト人が、砂漠で一般的に発生する自然現象である蜃気楼を経験したという(蜃気楼自体は超自然的であると考えられていた可能性がある)。

各グループは相手が水に浸かったと信じていた可能性があり、その結果エジプト人はイスラエル人が溺れたと思い込み、追跡を中止した。

紅海の分断とエジプトの疫病は、ギリシャのサントリーニ島での大規模な火山噴火という単一の自然災害によって引き起こされた自然現象であると主張する人もいる。

紀元前16世紀に起きた陸路の形成は、別の提案では、東ナイルデルタで当時 吹いた強風によっ形成されたというものである。

上で述べたように、元のヘブライ語のヤム・スフを「紅海」と訳したのは依然として疑わしい




SOURCE: "Crossing the Red Sea" (デンマン訳)
Wikipedia : The Free Encyclopedia


 



上の説明を読んでも解るように「紅海」を渡ったのではなく、スエズ湾の北にある塩湖で、葦の茂った浅いティムサー湖だろというのが、現在広く支持されている場所なのですよ。。。

 


(timsah10.jpg)

   現在のティムサー湖

 



上のティムサー湖が陸路になったというのはどういうことですか?



僕が観たドキュメンタリーでは、ティムサー湖というのは、葦の茂った浅い湖で、当時、運河によって紅海につながっていた。。。それで潮の満ち引きによって周期的に浅い部分が陸路になったというのですよ。。。その時期にユダヤ人が差し掛かったので、その陸路を通って逃げたというわけです。。。

でも、エジプト軍が溺れ死んで、ほぼ全滅したというのはどういうことですか?

あのねぇ~、そもそもこの出エジプト物語は多くの伝承を組み合わせたものであると歴史家の間では考えられているのです。。。この物語が生まれた頃、つまり、3500年前にサントリーニ島(古代のセラ島)で火山が大爆発を起こしたのです。。。

 


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このサントリーニ島の大爆発は人類史上稀に見る大爆発で、ドキュメンタリーによると200万の原爆に匹敵するだけのエネルギーが放出されたというのです。。。そのために、火砕流が海に流れ出して巨大な津波を引き起こし、これが地中海を渡ってエジプトの海岸に押し寄せ、エジプト軍を始め民衆を飲み込んで溺れさせたというのです。。。この大爆発が「出エジプト物語」の時期に重なるのです。。。



つまり、サントリーニ島の大爆発の津波と、ティムサー湖の干上がってできた通路を渡ったという2つの物語が一つになって出来上がったのが「出エジプト物語」だと言うのですか?

そうです。。。

何だかこじつけのようですわねぇ~。。。

でもねぇ~、伝説というのは、そうやって出来上がるものなのですよ。。。全くバカバカしい話ならば3500年も伝説として伝わらない。。。でも、実際に似たような歴史的事実があったから伝説として伝わったのです。。。

 


(troy90.jpg)


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あの有名なトロイ戦争も、シュリーマンによってトロイの考古遺跡が発掘されるまでは歴史的事実ではないと長い間考えられていた。。。だから、僕のこの説明を信じてねぇ~。。。



分かりました。。。信じますわァ~。。。




初出: 2023年6月10日



【ジューンの独り言】


(bare02b.gif)

 

ですってぇ~。。。

あなたもデンマンさんの説明を聞いて納得がゆきましたかァ~?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、もっと他に面白いことを話せ!」

あなたは、そのような命令口調で わたしに面白いことを話せと言うのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

じゃあ、気分を変えるために面白い動画をお目にかけます。。。

 


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貴方は、上のワンちゃんが金魚を食べてしまうと思いましたか?

ええっ。。。「そんな事はどうでもいいから、他にもっと面白いことを話せ!」

あなたは、そのような強い口調で 更に わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。

デンマンさんが10年以上も前にアンケートを作りました。

 


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『拡大する』


『もう一度クリスマスのページ』

 

上のリンクをクリックすると、

左側のサイドコラムにたくさんの質問が出てきます。

ひとつひとつ見ながら ぜひアンケートに答えてみてください。

ええ。。。、「そんな暇ないよ!」

じゃあ、たまには、古代のお話も読んでみてくださいね。

意外に面白いですわよ。。。

あなたも古代の謎に挑んでくださいねぇ~。。。


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空白の150年

2024-07-28 03:02:47 | 歴史四方山話
 

空白の150年

 


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デンマンさん。。。 空白の150年 というのは いつの時代の150年のことなのでござ~ますかァ~?


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卑弥子さんの遠い、遠い、バカ遠い親戚の卑弥呼さんが亡くなってから西暦266年に中国への使者が貢(みつ)ぎ物を持って航海したのを最後に、それから150年間の日本の記録が中国の史書に書かれてないのですよ。。。

どうしてでござ~ますかァ~?

中国国内で戦乱があって、当時の日本のことを史書に書いているどころではなかったというのです。。。

でも。。。、でも。。。、ひねくれ者がいて、戦乱から逃れ洞窟にこもって、日本のことについて歴史書に書いていたかも知れないじゃありませんかァ!

あのねぇ~、戦乱から逃れ洞窟にこもっている者は歴史書など書いている場合じゃないのですよ。。。食べなければ死んでしまう。。。戦乱で作物は作れない。。。歴史書を書く前に、まず食べ物を探すことのほうが先決なんですよ。。。

つまり、戦乱で忙しくって、どうやって生き抜くか? 戦っていない者は、戦乱から逃げ惑い、食べて生きてゆくことだけで精一杯で、とても歴史書など書くという考えが浮かばないのでござ~ますかァ~?

そういうことですよ。。。

でも、どういうわけで、急に遠い昔の空白の150年 を取り上げるのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、調べることがあって、たまたまYouTubeのクリップを観ていたら、次のクリップに出くわしたのですよ。。。

 


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中国の歴史書には書いてなくとも日本の最古の歴史書「古事記」に、その空白の150年のことが書いてあるのではござ~ませんかァ?



いや。。。「古事記」にも、この150年の空白の間の出来事は全く書かれてない。。。古事記の編纂者も中国の史書を読んでいたに違いないのだけれど、全く触れてない。。。『魏志倭人伝』に卑弥呼の事が出てくるのだけれど、古事記の編纂者は、全く無視している。。。似たようなことが古事記に書かれているけれど、卑弥呼じゃなくて「神功皇后」が大陸に遠征したというようなことが書かれている。

 


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つまり、「古事記」の編纂者は、中国の史書を読んでいたにもかかわらず、そこに書かれている倭(当時の日本)のことを無視していたのでござ~ますかァ?



そうです。。。無視していたとしか考えられない! おそらく、当時の権力者にとって、卑弥呼のことも含めて 日本の「空白の150年」の事件は書きたくなかったに違いない。。。

いったい、「古事記」とは、そもそもどういう歴史書なのでござ~ますか?

 



古事記

 


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古事記は、現存する日本最古の書物で歴史書であるとされる。
その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。
上中下の3巻。内容は天地開闢から推古天皇までの記事である。

8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されることもあるが、『古事記』が出雲神話を重視するなど両書の内容には差異もある

和歌の母体である古代歌謡(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や、古代神話・伝説などの素材や記録を取り込んだ『古事記』は、日本文学の発生や源流を見る上でも重要な素材の宝庫となっている。

『古事記』の原本は現存せず、いくつかの写本が伝わる。
成立年代は、写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、8世紀初めと推定される。

内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの出来事が、神話や伝説などを含めて、紀伝体で記載される。
また、数多くの歌謡を含む。
「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である。

『古事記』は『日本書紀』とともに後世では「記紀」と総称される。
内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、


訓読文:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ。


と詔したと記載があるため、勅撰とも考えられる。
しかし史料の上では、序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。

『続日本紀』には『日本書紀』の記事があるのに対し、『古事記』にはそのような記述を欠いている。
稗田阿礼の実在性の低さ、序文の不自然さから、偽書説も唱えられている

『古事記』は歴史書であると共に文学的な価値も非常に高く評価され、また日本神話を伝える神典の一つとして、神道を中心に日本の宗教文化や精神文化に多大な影響を与えている。

『古事記』に現れる神々は、現在では多くの神社で祭神として祀られている。
一方文化的な側面は『日本書紀』よりも強く、創作物や伝承等で度々引用されるなど、世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。

 
編纂の経緯

中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。
この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。

『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない

天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅の連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。
その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。

壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた
その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた。

その後、元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』を完成させた。

 
成立

成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた上述の『帝皇日継』と『先代旧辞』を太安万侶が書き記し、編纂したものである。

かつて「誦習」は、単に「暗誦」することと考えられていたが、小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』15)らによって「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。

 
帝紀と旧辞

『古事記』は『帝紀』的部分と『旧辞』的部分とから成る。

『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名、治世年数、崩年干支・寿命、陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。
これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃書かれたものである。

武田祐吉や岡田精司、関根淳などは、『古事記』の本文が推古朝で完結していることから、『古事記』の元となった『帝紀』が推古朝で終わっていた=推古朝から遠くない時期に記されたと指摘している。
ただし、舒明天皇を「岡本宮に坐して天下を治らしめしし天皇」と記していることから、舒明朝段階の加筆はあったとされる。

なお、笹川尚紀は、舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝紀』と『旧辞』を改訂と編纂を行わせ、後に子である天武天皇に引き継がれてそれが『古事記』の元になったと推測している

 
構成

上つ巻(序・神話)
中つ巻(初代から十五代天皇まで)
下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。

 
特徴

『古事記』の系譜記事で特徴的なのは、収録している氏族系譜が多く統一性が高く、母系の系譜を重視している点が挙げられる。
『日本書紀』で記される登場する系譜は110氏族だが、『古事記』は201氏を数える。
加えて、一祖多氏型の系譜も多いとされる。

また、『日本書紀』で用明天皇の皇后について述べた部分は「穴穂部間人皇女を立てて皇后とす。
是に生ませる四の男、其一は厩戸皇子と曰ふ」と記し、その後に厩戸皇子やその親族について記した後に、「蘇我大臣稲目宿禰の女石寸名を立てて嬪とす。
是に田目皇子を生ませり」と記されているのに対し、

『古事記』では「稲目宿禰大臣の女意富芸多志比売を娶りて生ませる御子、多米王。また庶妹間人穴太部王を娶りて生ませる御子、上宮之厩戸豊聡耳命」となっており、蘇我氏が優先され、上宮王家についての記述が後になっている。

そして、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているとされる

7世紀後半から8世紀初頭にかけての『日本書紀』の編集作業では、聖徳太子を礼賛する思潮が見えるのに対し、同じ時期に成立した『古事記』ではそのような思潮が見られないどころか、その事績を無視している上に、蘇我馬子が主導した崇峻天皇の暗殺に関する記述も『古事記』には存在しない

『古事記』の皇女の記載方法には統一性がなく、「比売命」や「郎女」などが混在しており、「皇女」で統一されている『日本書紀』とは大きく異なっている。
しかし、『古事記』の欽明記・敏達記では皇子も皇女も「王」で統一されている。
これは、欽明王統と蘇我氏が結びついた政治形態が成立していたからであると考えられる。

加えて、『古事記』の通常の用字法では「葛木」と表記されるべきであるが、仁徳記・履中記では「葛城」と好字に改められている箇所があり、これは蘇我馬子が「葛城臣」を称したためであると考えられている。

また、『古事記』では孝元天皇-武内宿禰-蘇我石河-蘇我氏という系譜を記しているのに対して、『日本書紀』ではそれを記していない。
また、欠史八代の皇居と御陵は蘇我氏の勢力基盤である葛城・高市地域に集中している。
これは「欠史八代や武内宿禰の系譜が推古朝において蘇我氏の手によって形成されたからである」と考えられるが、推古朝の段階で蘇我氏の全ての系譜が確定していたのではなく、「蘇我石河宿禰」は蘇我倉山田石川麻呂によって創作されたものであると考えられる。




出典: 『古事記』
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



古事記は、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたのですわねぇ~。。。それに対して、日本書紀は8年後の養老4年(720年)に編纂され、両書ともに、神代から上古までを記した史書として、近代になって国家の聖典としてみられ、記紀と総称されているのでござますわねぇ~。。。



そういうことです。。。

でも、今から考えれば、ほぼ同じ時期に編纂されたのに、ずいぶんと違うでは ござ~ませんかァ! 例えば、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないため、『古事記』は聖徳太子の存在を蘇我氏より後退させたり、聖徳太子の歴史を無視しているのですわァ~。。。

そうなのですよ。。。そういうわけで、聖徳太子は実在しなかったのではないか? 今でも、そういう歴史家がいるほどです。。。

あたくしが不思議に思うのは、『古事記』があるのに、なぜ『日本書紀』をわざわざ書いたのか?…ということでござ~ますわァ~。。。

あのねぇ~、『古事記』は天武天皇が書くように命じたのですよ。。。それに対して『日本書紀』は持統天皇と藤原不比等が自分たちの政権の正当性を書くために書かせた。。。

でも。。。、でも。。。、ウィキペディアで調べても『日本書紀』には序文・上表文がないので、編纂の経緯はわからないと書いてあるのでござ~ますわァ~。。。

でもねぇ~、『古事記』には聖徳太子に関する記事が一切見えないのに、『日本書紀』には聖徳太子を礼賛する話が出てくる。。。これはなぜなのか?。。。ということを考えると、持統天皇が浮かび上がってくる。。。

どういうわけで持統天皇が浮かび上がってくるのでござ~ますか?

つい最近、僕は次の記事を書いたのですよ。。。

 



(wisgolf6.jpg+seisho05.gif)



 女帝誕生

 

讚良(さらら)

皇女が


皇位を継ぐ。


 

殺人鬼の父親の陰謀により祖父が自決。
祖母も祖父と共に自殺。
母親は二人の死が夫の陰謀だと知って
半狂乱になる。
その夫の子供を宿していたが、
建皇子(たけるのみこ)を出産すると
幼少の讚良皇女に我が子を託して
二人のあとを追うように自殺。

建皇子は家庭の暗い影の下で
唖者として生まれ
体も不自由だった。
8才の短い命を閉じた。

讚良皇女は女帝になったが、
その生い立ちは不幸の連続だった。

(mhead2.gif)


 





あらっ。。。 このような新聞が当時あるわけあらへん。。。 あんさんがデッチあげたのですやろう?



わてが劇的に書いてみたのやがなァ~、わてが当時生きており、しかも日本新聞の編集長やったら、このような新聞を出していたかもしれへん。 これは歴史家が誰も言うてないことやけど、わては讚良皇女、つまり 後の持統天皇が境界性人格障害者やったと信じてるねん。

でも。。。、当時、そのような病名はなかったのとちゃうん?

もちろん、なかったのや。 でもなァ~、わての話を聞けば、めれちゃんも納得すると思うのやァ~。。。

どないな話やのォ~?

あのなァ~、讚良皇女は4才の時に可愛がってくれたおじいさんとおばあさんが亡くなってしもうたのやがなァ~。。。 しかも、お母さんは半狂乱になって精神に異常を来たし、二人のあとを追うように自殺してしもうたァ。

マジで。。。?

このような悲惨な事件を満5才になるかならないかのうちに讚良皇女は経験したのやでぇ~。。。 この悲劇が幼少の頃の讚良皇女の心に与えたトラウマは、境界性人格障害となって後の彼女の性格形成に大きな影響を与えたのやァ。

ホンマかいなァ~。。。?

ホンマやでぇ~。。。 成長するにつれて父親(後の天智天皇)が行った非情な所業のことも讚良皇女は知るようになるねん。 この父親の生涯は、敵対する者や皇位継承のライバルを謀略でもって抹殺する歴史やったァ。 その手にかかって亡くなった相手には、次のような人たちがおるねん。

● 蘇我蝦夷

● 蘇我入鹿

● 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)

● 有間皇子

● 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)

  。。。

あらっ。。。 この人たちは中大兄皇子(後の天智天皇)によって命を奪われたのォ~?

そうやがなァ~。。。 ところで、讚良皇女は満12才の時に、姉の大田皇女(満13才)と共に(天智天皇の弟だと言われている)大海人皇子に嫁いだのやでぇ~。。。 もちろん、政略結婚やァ。 中大兄皇子(後の天智天皇)にとって一番のライバルは大海人皇子やった。 何とかして大海人皇子を自分の協力者にしたい。 言ってみれば、二人の娘を人質として大海人皇子に渡したようなものやァ。 それほどまでにして中大兄皇子は大海人皇子を懐柔しようとしたのやがなァ。

。。。で、大海人皇子は懐柔されはったん?

いや。。。、その甲斐もなく、やがて天智天皇は大海人皇子によって暗殺されてしまうねん。 目には目を歯には歯を! この当時の必然やったァ。

そのような話は歴史の時間に聞いたことがあらへん。

ここでは詳しく話をする時間があらへん。。。、めれちゃんも ぜひ次の記事を読んでみて欲しいのやァ。

 


(kamata02.jpg)

『天武天皇と天智天皇は同腹の兄弟ではなかった』

『天智天皇は暗殺された』

『天智天皇暗殺の謎』

 



頭の良い讚良皇女は、そのような事も充分に知っていた。 この皇女は父親を憎み恨みながらも、自分が父親の血を最も濃く受け継いでいる事も知っておった。 後に、讚良皇女が甥の大津皇子を死に追いやった事件では、正に天智天皇と同じやり方で抹殺してるねん。



あらっ。。。 讚良皇女は為政者として父親と同様に冷徹な非情さと冷酷さを持っていたのォ~?

そうなのやァ。。。 とにかく、讚良皇女、後の持統天皇は独占欲の強い人やった! それは、天武天皇の血を引く天皇後継者の息子たちがたくさん居たにもかかわらず、持統天皇は断固として、自分の血が流れていない者には皇位に就(つ)かせなかったことからも実に良く表れているねん。

 


(keizu03.gif)

 



上の系図を見て欲しい。 青枠で囲んであるのが持統天皇の血がつながった子孫やがなァ~。。。 この人たちに皇位が渡されてゆくねん。。。 それを藤原不比等が自分の娘を皇室に入れてサポートしたのやがなァ~。。。



つまり、この点で、この二人の権力独占志向の人間の気持ちがひとつになりはったん?

その通りやァ。。。 幼少の頃から、この二人は、信じることのできるものは“権力”しかないということを身にしみながら自分の目で見てきたのやがなァ。

 


讚良皇女の幼少の頃の事件を

もう一度振り返ると。。。


乙巳の変(いっしのへん)から4年後の649年3月、当時右大臣であった蘇我倉山田石川麻呂が謀反を企てていると、石川麻呂の弟の日向が中大兄皇子に告げ口したのが事件の始まりとなった。

石川麻呂は当時の孝徳天皇に身の証をして助けを求めたのだけれど、聞き入れてもらえなかった。
中大兄皇子と石川麻呂では政治的に意見が対立していたので中大兄皇子はさっそく兵を石川麻呂の邸宅に向かわせた。

危険を察した石川麻呂は飛鳥の自宅である山田寺にすでに逃げていた。
しかし、その山田寺もやがて包囲され、石川麻呂は観念して妻(讃良皇女にとってはおばあちゃん)とともに自害してしまう。

事件はそれだけではすまなかった。
やがて陰謀が夫の中大兄皇子のしわざと知った遠智娘(おちのいらつめ)は半狂乱の状態になってしまう。
無実の罪を着せられて、夫に父親を殺されたと思い込んでいる遠智娘は、身重な体を抱えながら心が晴れないままに日を送った。
“父親殺害者”の子を宿していたのだった。

その年の暮れに建皇子を生み、“この子を頼むわね”と満4才の讚良皇女に言い残して20代半ばの短い人生に終わりを告げて遠智娘は命を絶ってしまったのだった。
後に、中大兄皇子は義理の父である石川麻呂の忠誠の心を知り、死に追いやった事を後悔したという。

ところで、当時の結婚は“妻問い婚”が普通でした。
男性が女性宅を訪れ一夜の契りを結べばそれが結婚となり夫婦になるわけです。
男はその家にとどまることなく自由に女の家を出て自分の家に帰り、
女は男のまたの訪問を待ちます。

子供が生まれればその子は妻の家で養育し、父が子供に会うのは女性宅を訪れる時だけです。
その子供の養育費はすべて女性任せで、子供は女性の実家で養育される事になります。
当然の事ですが、子供はたまに会う父よりも、母方の祖父母への愛着が深くなります。

したがって、優しいおじいさんとおばあさんが一緒に亡くなり、そのあとを追うようにお母さんが亡くなってしまった。
満4才の童女は、当時そのことは知らなくとも、やがて自分の父親が祖父母と母の三人を“殺した”と知ることになります。

可愛がってくれていた3人が死んでしまった。しかも、父親の陰謀がその背景にあった。
その衝撃はトラウマになって、その後の讚良皇女の人格形成に大きな影響を与えた事は想像に難(かた)くありません。

しかも、この生まれてきた建皇子は唖者でした。つまり、生まれつき言葉が話せなかった。
体も不自由だったらしい。
母親が受けた精神的なショックで胎児にも悪い影響が出た事も充分に考えられますよね。
建皇子は、生まれながらの犠牲者でした。
おじいさんとおばあさんと母親の死。そして、弟をそんな悲劇に巻き込んだのは、ほかの誰でもない、父の中大兄皇子であると讚良皇女は知ることになります。

斉明天皇も、この不幸せな孫をずいぶんと可愛がったようです。
でも、建皇子は658年5月に亡くなっています。8年の短い命でした。

つまり、讃良皇女は、幼少の頃、次々と身近の人の悲劇にあったのです。
政略結婚で、姉大田皇女と共に大海人皇子に嫁いだ後、大田皇女も幼い子どもたちを残して亡くなっています。

大海人皇子にはたくさんの妻があり、大田皇女亡き後、身分は一番高くなったものの大海人皇子の心は
万葉集の歌を読んでも分かるように、
讃良皇女にあるのではなく、額田女王に向けられていたようですよね。
このことについては次の記事に書きました。

『日本で最も有名な三角関係』

つまり、讃良皇女は幼い頃から愛してくれる人、愛している人を奪われ続けてきたんですよね。
ある意味で“家庭崩壊”の中で生きてこなければならなかった。
そこに僕は境界性人格障害の病根を見るのですよ。

“愛”を奪われる人生だった。
幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基でが近親者が亡くなって行く。
その父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは子の草壁皇子だけだった。
この我が子の将来を脅かす存在になったのが姉から預かった子、大津皇子だった。

大津皇子は実力も人気もあり、草壁皇子の皇太子としての地位を脅かす最大の存在になっていた。
天武天皇亡き後、皇后として最初に行なったことが大津皇子を謀反の疑いで逮捕、刑死させることだった。

しかしその後、皮肉にも、あれ程皇位につかせたかった我が子の草壁皇子が病気で亡くなり、
讃良皇女が持統天皇として即位することになります。
高市皇子を補佐役にし、藤原京への遷都を進める。

持統天皇は在位中頻繁に吉野に行幸しました。
それは天武天皇とともに過ごした数少ない愛の日々を
思い出すためだったのでしょうか?

草壁皇子亡き後、期待をかけたのが草壁皇子の忘れ形見、軽(珂瑠)皇子でした。
そして、この孫を天皇につけたのです。文武天皇です。
持統はその名の通り、皇統にこだわった人だったのです。


 

聡明で非情である持統天皇が

なぜ怨霊を恐れるのか?


 



ここで持統天皇が詠んだ和歌をもう一度読んでみて欲しい。

 



(kaguyama2.jpg)

春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山


 



この有名な持統天皇の歌は、ただ単に四季の移り変わりに感興を催(もよお)して詠んだのではないねんでぇ~。。。



それやったら、何を感じて詠みはったん?

これまでの持統天皇の波乱に満ちた人生を考えたのやがなァ~。。。 愛する人を奪われ続けてきたこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えるとき、わては次のようにしか解釈できへん。

 


春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ~

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。


(iware01.jpg)

大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって

私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。


 



上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から香具山を見て詠んだやがなァ~。。。

 


(fujiwara3.gif)

 



この地図で見れば分かるように、香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるねん。 この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのやがなァ~。。。 現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は持統天皇の陰謀によって死なされたと見てるねん。



ホンマかいなァ~。。。?

わては次のように考えておるねん。


つまり、持統天皇は結果として自分と血のつながりがある甥の大津皇子と腹違いの妹を死に追いやったわけです。
この当時は怨霊ということがマジで信じられていた。

“怨霊の崇り”ということが現在でいえば“テポドンで攻撃を受ける”程度に怖いこととして考えられていた。

持統天皇だって、テポドンを宮殿に打ち込まれたくないので怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだ。
それが僕の解釈ですよ。うへへへへ。。。。
僕の知る限り、このような解釈をする人をこれまでに見た事がありません。

では、なぜ持統天皇はここまでする必要があったのか?
そしてなぜ、彼女は怨霊をそれほどまでに恐れねばならないのか?

天武天皇が亡くなれば皇太子が皇位を継承するのが順序であり、
皇后の実子である草壁皇太子が即位する事は約束されていた事です。
この時点で、大津皇子は皇位継承権第2位でした。
それにもかかわらず、皇后はこの甥である大津皇子を排除しようとした。

なぜか?

草壁皇子は病弱だったのです。
大津皇子と比べると歌においても人望においてもすべての面で劣っていたようです。
それが証拠に草壁皇子のことはたった1行『日本書紀』に記載があるのみです。

それに比べ、大津皇子については『万葉集』にも『懐風藻』にも記載があります。
それも、大津皇子の才能をほめたたえ、その人柄を偲んでいるような書き方になっています。
詳しくは次の記事を読んでください。

『性と愛の影に隠れて -- 万葉集の中の政治批判』

つまり、当時の誰が見ても大津皇子の方が天皇にふさわしいと見ていた事が実に良く表れているのです。
草壁皇子が即位すれば皇太子として草壁皇子の異母弟である大津皇子を立てなければなりません。
なぜなら、草壁皇子の長男の軽皇子(かるのみこ)は当時4歳で皇太子にするにはふさわしくない。

ところが、病弱な草壁には、いつ不測の事が起こるかも知れず、その時には大津皇子が皇位につくことになってしまう。
そうなると、皇統が大津皇子に移ってしまう。

つまり、讃良皇女の血を受け継いだ後継者が、そこで絶えてしまう。
独占欲の強い讃良皇女には、このことは絶対に容認できない事です。

この事は持統天皇として即位してから、自分の血に固執したこの女性の性(さが)と業(ごう)を考えれば、容易に察しがつきます。
上の系図を見れば、そのことが良く分かります。
この独占欲と権勢欲は讃良皇女の生い立ちを考えない限り理解できません。

しかも、この女性はその先例を父親の天智天皇と自分の夫である天武天皇との間に見ているのです。
つまり、この場合なら、草壁皇子が天智天皇にあたり、大津皇子が天武天皇にあたります。
天智天皇の皇太子になったのが大海人皇子(後の天武天皇)だったのです。

このような状況を許せば、大海人皇子が天智天皇を暗殺して、その子の大友皇子を亡き者にしたように
大津皇子が草壁皇子を暗殺して皇位につくかもしれない。

その“禍の芽”を摘み、取り除くために大津皇子を亡き者にしなければならなかったのです。

 

なぜ大津皇子の怨霊を恐れたのか?



(futakami2.jpg)

現身(うつそみ)の 

人なる吾(われ)や 

明日よりは 

二上山を 

弟背(いろせ)とわが見む 

(巻2-165)

 


この世に生き残った私は、

明日からは、

弟が葬られている

二上山を弟と思い見て、

慕い偲ぶことにしよう。



 

上の歌は大津皇子の死体を飛鳥の墓から掘り出して、葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移して葬った時に、大津皇子の実の姉である大伯皇女(おおくのひめみこ)が痛ましい思いに駆られて詠んだ歌です。

死体を掘り起こして他の場所に埋めなおす。
なぜそのような酷(むご)いことをしなければならないのか?
大伯皇女も、そう思って心が痛んだことでしょう。

つまり、大津皇子を偲んで大伯皇女が詠んだ歌を大伴家持が万葉集に取り上げた本音には、
この事実を後世に伝え“謀反”が持統天皇の“でっち上げ”であった事を暗に伝えるためだった。
僕はそう信じることができます。

大伯皇女は、大津皇子が自害した15年後、
大宝元年(701年)に独身のまま41歳で亡くなっています。
彼女は天武2年(673年)に父・天武天皇の指図に従って
伊勢神宮に奉仕する最初の斎王(いつきのみこ)となり、
伊勢の斎宮(いつきのみや)に移ってお勤めをするようになったのです。
しかし、大津皇子が自害した1ヶ月余りの後に、
弟の罪により斎王の任を解かれて飛鳥に戻ったのです。

平安時代の長和4年(1015年)に書かれた『薬師寺縁起』には次のように書かれています。

 


大津皇子の霊が龍となって崇りを起こしたため、

大津皇子の師であった僧の義淵(ぎえん)が

皇子の霊を祈祷によって鎮めた。


 

つまり、大津皇子は無実の罪を着せられて自害させられたのですね。
その罪を着せたのは誰あろう持統天皇なのです。
そして、大津皇子の死体を二上山に移して、
皇子の霊を飛鳥から15キロ離れた山の中に閉じ込めたのも持統天皇のしたことです。

持統天皇の心にも“後ろめたさ”があったのでしょうね。
だからこそ大津皇子の霊に恐れを感じた。

しかも、“大津皇子の霊が龍となって崇りを起こし”ていると言うもっぱらのうわさが流れている。
持統天皇が大津皇子の死体を掘り起こし
二上山にその怨霊と共に閉じ込める気持ちが分かるような気がします。

 


怨霊信仰


(dokuro3.gif)

 

非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。

原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。

『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。

しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。

その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」




SOURCE: 国史大辞典


 

持統天皇は怨霊信仰に基づいて大津皇子の霊を祈祷によって鎮めて、
後でまた崇りをしないようにと二上山に皇子の霊を閉じ込めたわけです。

つまり、これは持統天皇が無実の罪を着せて大津皇子を殺したことの何よりの証拠なんですよね。
大伴家持は大伯皇女を万葉集に取り上げることによって、
この事実を我々に伝えようとしたわけです。
僕はそう信じているんですよ。





『愛の擬人法再訪』より
(2022年10月4日)


 



中大兄皇子(後の天智天皇)は天皇になるために、当時の“皇太子”と思われていた 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) を殺したのですよ。。。そういうことを天智天皇の娘の持統天皇は十分に知っていた。。。「親の因果が子に報い」と信じられていたように、持統天皇は娘時代から、不幸な目にあってきた。。。



古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) は、皇太子だったのでござ~ますかァ~?

当時、次期天皇になる最も有力な候補者だと見られていた。。。しかも、人望ある聖徳太子の長男だった。。。中大兄皇子(後の天智天皇)が天皇になるには、目の上のたんこぶだった、ぜひとも、排除する必要がある人物だった。。。

それで、中大兄皇子(後の天智天皇)は古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) を殺してしまったのでござ~ますかァ~?

そうです。。。だから、持統天皇は、また怨霊に悩まされることになった。。。

つまり、聖徳太子の長男である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)の怨霊を慰めるために、『日本書紀』の中で聖徳太子を礼賛したのでござ~ますかァ~?

そうですよ。。。『古事記』には聖徳太子のことは一切出て来ない。。。つまり、持統天皇以外に、聖徳太子のことをあえて『日本書紀』に書く理由がないのですよ。。。

。。。で、空白の150年のことをなぜ書かなかったのでござ~ますかァ~?

邪馬台国のことを書くと、大和朝廷の正当性がなくなることを心配したのです。。。だから、『古事記』に書かれていたように、卑弥呼を天照大神として書き、大和朝廷の持統天皇まで、脈々として天皇の血筋が続いていることにしたのですよ。。。

つまり、あえて中国の史書を無視し、邪馬台国を倒して大和朝廷ができるまでの歴史を書き込まずに、持統天皇は、わざと空白の150年をそのまま『日本書紀』に持ち込んだのでござ~ますかァ~?

そういうことです。。。




初出: 2022年10月9日


 


(laugh16.gif)


【ジューンの独り言】


(june500.jpg)

 

ですってぇ~。。。

あなたも、持統天皇が女だてらに「日本史の150年の歴史を空白にしろ」と編纂者に命令したと思いますかァ~?

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


(sayuri5.gif)

 

あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


(suikyu9.jpg)

それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


(hand.gif)


メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)


■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(house22.jpg)

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に

別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




(zurose2.jpg)





軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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海の文明人

2024-07-24 01:49:09 | 歴史四方山話


 

海の文明人

 


(madol20.jpg)


(madol22.jpg)


(madol11.jpg)


(madol13.jpg)


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(sylvie500.jpg)




(sylviex.jpg)

ケイトー。。。どういうわけで 海の文明人 を取り上げるのォ~?


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実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次のドキュメンタリーを観たのですよ。。。海の古代文明人が出てくるのです。。。

 


(lib21-10-12.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』




ナンマトル


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ナンマトル(Nan Madol)は、ミクロネシア連邦のポンペイ州に残る人工島群の総称であり、その考古遺跡の規模はオセアニア最大とさえ言われる。

人工島が築かれ始めたのは西暦500年頃からだが、ポンペイ島全土を支配する王朝(シャウテレウル王朝)が成立した1000年頃から建設が本格化し、盛期を迎えた1200年頃から1500年(または1600年)頃までに多数の巨石記念物が作り上げられていった。

人工島は玄武岩の枠の内側をサンゴや砂で埋めて造ったもので、100以上とされる人工島は互いに水路で隔てられており、その景観は「太平洋のヴェニス」、「南海(南洋)のヴェニス」、「ミクロネシアのアンコールワット」などとも呼ばれる。

人工島の上に築かれた巨石記念物群は王や祭司者の住居のほか、墓所、儀式の場、工房など様々な役割をもっており、その大きさも様々である。
巨石記念物群は数トンから数十トンにもなる玄武岩柱を積み上げたもので、どのような技術を使ったのかは解明されていない。

レラ遺跡などのミクロネシア連邦の他の遺跡、さらには広くポリネシア等の遺跡との関連性についても研究が進められているが、明らかになっている点は限られる。
なお、超古代文明論ではムー帝国の首都の遺跡などとされることもあるが、考古学的な検証からは否定されている。

調査・保存などについて日本を含む国際的な協力も受けて、2016年には、UNESCOの世界遺産リストに登録されたが、マングローブの繁茂などといった遺跡保存への脅威から、危機遺産リストにも登録された。

日本ではナン・マドール、ナン・マタール、ナン・マトール等、複数の表記がなされる。

 

学術的検証


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人工島の建設開始は西暦500年頃のことだが、そのときの背景などは未解明である。
急拡大は西暦1000年頃からだったと考えられており、それが同時にシャウテレウル朝の成立期と考えられている。
その頃から1200年頃が首長制の確立期で、その首長制のもとでの儀式は、1200年から1300年頃に始められたと考えられている。

ナンマトルの遺跡群を構成する石材は、サイズによって差があるが5トン(メトリックトン)から25トンほどとも言われ、最も重いものでは推計90トンにもなる。
その石切り場は、遺跡から2 kmに位置するマトレニーム湾、十数 km 離れたチェムェン島の反対側などが挙がっており、21世紀に入ってからは、蛍光X線元素分析法を利用して産地やその変遷を特定する試みなども行われ始めている。

しかしながら、それらの場所から巨石をどう運んだのかについては、カヌーに吊り下げて運んだという説などがあるものの、詳しい方法は確定しておらず、運んだ巨石を人工島で積み上げていった手法も不明である。

少なくとも、彼らは金属器を持たず、水準器、滑車、車輪のいずれも利用していなかったらしい

シャウテレウル朝が最盛時に支配していた人口は、25,000人ほどであったと見積もられている。
そのうちのエリート層や司祭者がナンマトルに居住し、それがナンマトルの主要な機能であったが、人工島は農業生産力に乏しいため、食料はポンペイ島からの貢納に依存していた。

その貢納や、労役が過大になっていったことが、シャウテレウル朝の終焉に結びついたと推測されている。
シャウテレウル朝の終焉、すなわちイショケレケルの到来がいつなのかは、細かく絞り込まれてはいないが、1500年から1600年ごろのことであったと考えられており、巨石記念物群の建設もその頃に終息している。

シャウテレウル朝の滅亡後も、マトレニームの初期のナーンマルキはナンマトルに居住していたらしい。
しかし、19世紀にヨーロッパ人が本格的に到来した頃には、居住地としては使われなくなっていた。

口承では、7代目のナーンマルキの時に、台風に被災したことがきっかけで居住地を移したとされ、それは18世紀初頭の頃と考えられている。
もっとも、より現実的な理由として、ナンマトルでの居住が外部からの貢納を前提とするのに対し、シャウテレウル朝と違ってポンペイ全土を支配できなかったマトレニームのナーンマルキは、生活に十分な貢納を維持できなかったとする推測もある。




出典: 「ナンマトル」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




 



ミクロネシアの小さな島に巨石を積み上げて人工の島を作った古代文明人がいたのねぇ~。。。私がハイスクールに通っていた頃には、そう云う古代文明人がいたことなど学ばなかったわ。。。



僕も上のドキュメンタリーを見て初めて知ったのですよ。。。

。。。で、ケイトーは、何か気になったことがあったのォ~?

あのねぇ~、ナンマトルの遺跡群を構成する石材は、サイズによって差があるが5トン(メトリックトン)から25トンほどとも言われ、最も重いものでは推計90トンにもなる、というのですよ。。。しかも、巨石をどう運んだのかについては、カヌーに吊り下げて運んだという説などがあるものの、詳しい方法は確定しておらず、運んだ巨石を人工島で積み上げていった手法も不明なのですよ。。。

。。。で、ケイトーは、どう思うわけぇ~? どのように巨石を運んだのか? どのように巨石を積み上げたのか? その手法を突き止めたのォ~?

この地球上には、説明のつかない巨石文化の遺跡がたくさんあるのですよ。。。エジプトのギザのピラミッドもその一つです。。。また、オリャンタイタンボとイースター島の遺跡である砦の石組みは高度な技術を持つ古代文明人を想定しない限り不可能な構造物なのですよ。。。

 


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現代人が最新の技術を使っても、この構造物と同じ石組みを作るのはほとんど困難だということが専門家からも指摘されている。。。なぜなら、インカ文明というのは文字を持たない、車輪を持たない文明なのですよ。。。つまり、この石組みに見られるような高度な技術を持つのであれば、当然、文字を持ち、車輪を利用することができたに違いないと歴史研究家が考えるのも当然です。



つまり、インカ帝国の砦の遺跡だと言われているオリャンタイタンボの石組みは、インカ文明よりずっと前の文明の遺物だというわけぇ~?

そうです。。。インカ帝国は、古代の文明の遺跡を利用して砦を作ったわけです。。。

インカ帝国よりもずっと以前に、それほど素晴らしい技術を持つ文明が存在していた、とケイトーは考えるわけぇ~?

そうです。。。アンデス文明は約9,500年前(紀元前7500年)頃までに始まったと考えられているのですよ。。。

ずい分前から人が住んでいたのですわねぇ~。。。

いや。。。ヒトが住み始めたのはもっと前からですよ。。。南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、1万4000年前という年代測定値を示す遺跡が見られる。。。

あらっ。。。そんな前から人が住んでいたのォ~?

確実なのはクローヴィス文化に並行する1万1000年前の基部が魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である、と言われているのです。。。でも、僕は、もっと前から文明は存在していたと思うのですよ。。。

あらっ。。。それはどういうわけぇ~?

ちょっと次の小文を読んでみてください。。。

 





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デンマンさんもサントリーニ島が あの伝説の “アトランティス”だと考えているのですか?



いや。。。 無理にサントリーニ島と あの伝説の“アトランティス”を結びつける必要はないのですよ。 “アトランティス”は実際にあったと僕は思うのです。 でも それは、伝説のように大西洋の沖にあったのではなくて、地中海の底に 今でも遺跡として横たわっていると、僕は考えているのです。 つまり、地中海が干上がったことは何度かあった、と僕は仮定しているのですよ。 その何度目かに、高度に発達した文明が地中海の底近くにあった。

 


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地中海の底にあった“アトランティス”

 



ところが、やがて氷河が溶け出して大西洋の水位が上がって、閉まっていたジブラルタル海峡の上を乗り越えて海水が滝のように流れ込んだ。

 


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大洪水となって“アトランティス”の住民を押し流してゆく。

 


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そして、現在、“アトランティス”の遺跡は地中海の底にある。

 



(atlantis2.jpg+cleoani.gif)

 



この生き残った人たちの子孫が、あるグループはマルタ島に残って巨石文明を、他のグループはクレタ島に残ってミノア文明を、また エジプトに渡った人たちはピラミッドを作ったのですよ。 僕は、そう考えたのです。 これが僕の“マルタ島のロマン”ですよ。




『マルタ島のロマンだ』より
(2016年9月17日)


 



つまり、アトランティスで生き残った人たちの子孫が、あるグループはマルタ島に残って巨石文明を、他のグループはクレタ島に残ってミノア文明を、また エジプトに渡った人たちはピラミッドを作った。 また、あるグループは南米に渡ってオリャンタイタンボの石組みを作ったとケイトーは考えるのォ~?



そうです。。。

同様に、ナンマトルの巨石の遺跡もアトランティスで生き残った人たちの子孫が地中海から避難してナンマトルに渡ったというわけぇ~?

そうです。。。

でも。。。、でも。。。、その当時に、地中海からナンマトルや南米に航海することができたのかしら?

信じられませんかァ~? じゃあ、次のクリップを見てください。。。

 


(nanmadon80.jpg)



 



あのねぇ~、ナンマトルの遺跡には、カレドニアで見つかる遺跡とすっかり同じものがあるのです。。。上のクリップを見れば、その遺跡を見ることができます。。。つまり、古代人は、カレドニアからナンマトルまで航海できたのですよ。。。



古代人の航海技術は現在の我々には想像がつかないくらい優れていたわけぇ~?

そうです。。。だから、地中海からナンマトルに航海するのも問題はないのですよ。。。事実、南米に渡った最古の人類も、東南アジアから船に乗って渡ったという歴史研究家もいるほどです。。。

要するに、古代でも、地中海からナンマトルや南米に渡るだけの航海技術があった、とケイトーは思うわけぇ~?

そうです。。。

でも、ちょっと信じられないわねぇ~。。。

いづれ、それを証明する考古学者が出てきますよ。。。

ちなみに、高度な技術を持つという古代文明人は、90トンもある巨石をどうやって運び、どうやって積み上げたわけぇ~?

反重力(anti-gravity)を使ったのですよ。。。

 



反重力


(antig10.jpg)

 

反重力(英: anti-gravity)は、物質・物体に加わる重力を無効にしたり、調節したりする、とされる架空の技術である。
現実の物理学では一般に不可能と考えられてきたもので、多くはSF作品に宇宙航行の基礎技術として登場する。

一般相対性理論では重力は時空の幾何学的な歪みとして解釈される。
歪みのない平坦な時空は重力が存在しない時空であり、そこを基準とすると重力は時空の収縮を示す。

しかし、数学的には時空が膨張するような解を想定することも可能であり、物理学的にはそれを反重力(負の圧力)とみなすことが出来る
十分遠方から反重力場を観測すると重力場の時とは逆に、平坦な宇宙よりも空間が膨張し時間が加速しているように見える。

このような作用を生み出すエネルギーは負のエネルギー(直感的には負の質量と思ってよい)であり、有名なものとしてはワームホールの話題において登場するエキゾチック物質がある。

そのようなSFに近いものではなく多少現実味のある例としては、宇宙の膨張に関わる宇宙定数や真空のエネルギー(ダークエネルギー)が挙げられる。

いずれにせよこれらが示唆する「斥力として作用する重力場」は上手にとれば通常の重力場が作る時空の歪みをキャンセルすることが可能であり、事実上の反重力(厳密には「万有斥力」)として作用する。
これが現代物理学がおぼろげに描く「反重力」である。

また、現在も証拠の真贋を含めて議論が続いている現象として、ハチソン効果がある。

一方、SF作品に登場する反重力の設定は上記のみならず非常に多くの形態がある。

最も有名なタイプは磁力の反発からイメージされたもので、「反重力場」は単純に重力場に反発する場として設定される。

 


(antig11.jpg)




出典: 「反重力」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、アトランティスで生き残った人たちの子孫は、反重力を利用して巨石を持ち上げることができたわけぇ~?



僕は、そう思います。。。最も有名なタイプは磁力の反発からイメージされたもので、「反重力場」は単純に重力場に反発する場として設定されると書いてあるけれど、シルヴィーも磁石を使うと、引き付けるだけじゃなくて、逆に浮かせることもできるのを見たことがあるでしょう?

確かに、磁石に反発して遠のくこともあるわよねぇ~。。。でも、90トンもある巨石を磁石を使って浮き上がらせたとして、その磁石も90トンぐらいの大きさになるんじゃないのォ~?

だから、やがて優秀な科学者が登場して、小さな磁石でも巨石を浮かび上がらせることができることを証明してみせますよ。。。

ケイトーがやってみてよゥ。。。

今夜の夢の中でやってみます。。。(微笑)




初出: 2021年11月2日



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたは、デンマンさんが説明したように、90トンもある巨石を磁石を使って浮き上がらせることができたと思いますか?

ええっ。。。「そんなことはどうでもいいから、もっと楽しいことを話せよ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ~。。。

では、シルヴィーさんが出てくる面白い記事のことでも。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


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『サイバー戦争』

『エロくて、ごめんね』

『モバイル社会とガラケー』

『元老のアメリカ』

『ケネディ家の呪い』

『欧米を敵に回す』

『ソフィアからこんにちわ』

『ドイツが原爆をロンドンに』

『いまだに謎』

『さらば大前研一』


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『空飛ぶスパイ』

『愛情はふる星@ベトナム』

『ヒラリーと塩野七生』

『ケネディ夫人@インドネシア』

『究極の大前研一批判本』

『フェルメールの謎』

『女に文句を言う女』

『あなたの祖国』

『宮沢りえ@韓国』

『正しい戦争』

『ゴールデンシャワー』

『死刑廃止』


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『かまびすしい』

『今、新たな戦前』

『クレオパトラ@アラビア』

『政府は嘘をつく』

『犬と人間と戦争』

『未来予測』

『知られざる悲劇』

『量子活動家』

『アンネの運命』

『10次元の世界』

『ポーランドの犬』


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『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』


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『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』

『2000年前の光通信』

『習近平皇帝』

『プーチンの復讐』

『ペンタゴン・ペーパー』

『南米の富士山』

『ダンケルク』

『無実の罪』

『殺人光線』

『ロッキード事件すごい』

『注目の悲劇』

『核戦争』

『1910年の飛行レース』

『エンペラー習近平』

『暗殺@GOO』

『テロとの戦い』

『マリアのミイラ』

『パナマ文書』

『南京事件』

『古代文明人』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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(byebye.gif)
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美人スパイ

2024-07-23 00:46:06 | 歴史四方山話

 

美人スパイ

 


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デンマンさん、最近、美人スパイが出てくる映画にハマっているのですかァ~?


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美人スパイと言えば、ジェームズ・ボンドの007映画に出てくるけれど、僕は特に美人スパイに拘(こだわ)っているわけではありません。。。

じゃあ、どういうことを基準にして映画を選んでいるのですか?

あのねぇ~、僕はバンクーバー市立図書館のホーム・ページを開いて映画を観た人が感想を書き込んだページを見るのです。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



この上のページを見て、まだ観たことがない映画をすべて予約するのです。。。そういうわけで、僕は最高限度の50本の映画を常に予約しているのですよ。。。

 


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『拡大する』


 



50本ものDVDを予約しておいて、一度に50本の映画が届いたらどうするのですか?



一度に50本ものDVDが届くことはありません。。。感想を書き込む映画は、たいてい人気があるから、他のメンバーも予約しているのです。。。だから、予約してから1週間たっても、たいてい15本から20本のDVDが図書館の僕の専用の棚に届いているだけです。。。

15本から20本の映画を1週間で見るのですか?

ドラマは、1週間以内に見なければならないけれど、ドキュメンタリーは3週間以内に見ればいいのです。。。だから、1日3本の映画を見れば1週間に21本見ることができます。。。

あらっ。。。1日に3本の映画を観ているのですか?

そうです。。。平均して、1日に3本の映画を観ています。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



1本の映画が1時間半として、1日に4時間半も映画を観るのですか?



そうです。。。

デンマンさんは1日に2本の記事を毎日ブログに投稿してますよねぇ~。。。よく映画を観る時間がありますわねぇ~。。。

1日は24時間ありますから。。。映画を観る時間はありますよ。。。

つまり、睡眠時間はナポレオンのように1日に3時間ほどですかァ~?

そうです。。。

まさかァ~。。。!?

それは冗談です。。。つまらない映画は20分観たらやめます。。。毎日2本の記事を投稿しているけれど、そのうちの1本は かつて書いた記事を再投稿しているのですよ。。。だから、映画を観て、ブログの記事を書いても毎日少なくとも7時間は眠ることができます。。。

。。。で、美人スパイ というのは、上のどの映画に出てきたのですか?

赤枠で囲んだ 5422番の映画ですよ。。。

それにしても映画の観すぎですわねぇ~。。。5月15日現在で、5450本もの映画を観ているではありませんかァ!。。。映画中毒ですわァ~。。。うふふふふふ。。。

 


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『実際のページ』


 



『美しい名も知らぬ女(Beautiful Stranger)』というポーランドの映画ですわねぇ~。。。



そうです。。。この「美しい名も知らぬ女」というのが 美人スパイ なんですよ。。。

どういう話なのですか?

次のようなあらすじです。。。

 



A young Russian army lieutenant, in 1916 during World War I, is given the secret, dangerous mission of carrying documents from Saint Petersburg to Stockholm by train.

Love and duty conflict when the lieutenant finds out that a beautiful mature woman, with whom he falls in love, is a spy charged with capturing the documents he is guarding.




第一次世界大戦中の1916年、若いロシア陸軍中尉は、サンクトペテルブルクからストックホルムまで列車で書類を運ぶという秘密の危険な任務を与えられる。

中尉は、車中でたまたま出会った美しい熟女に恋してしまう。

彼女は、中尉が守っている文書を入手する任務を負ったスパイであることを知り、中尉は愛と使命を考えながら悩む。




カタログページの説明 (デンマン訳)


 



そもそも、この映画をどういうわけで取り上げたのですか?



ちょっと次のクリップを観てください。。。

 



 



この上のクリップで、次のような会話がかわされるのですよ。。。

 


(suzuki10.jpg)

What are thins coming to!

 



ここでジューンさんに問題です。。。この上の英語の訳文は、どういう意味ですか?



この英語は、なんだか変ですよねぇ~。。。thin というのは形容詞ですわ。。。辞書を引いても名詞はないはずです。。。あったとしても「細いもの」「薄いもの」に S を付けて複数形にする意味がありませんわ。。。それに定冠詞(the)が付いてないので、具体的に何を意味するのかが全く分かりません。。。この人物はポーランド語で話しているのです。。。おそらく、翻訳者の書き間違いだと思うのですわ。。。

なるほどォ~。。。僕も調べてみました。。。次の検索結果を見てください。。。

 


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『現時点での検索結果』


 



GOOGLEの自動翻訳は、よく間違えるのだけれど、この検索結果は訳文が可笑しい事を指摘していますよ。。。こういうこともあるのですよ。。。thins じゃなく、正しい単語 things を入れると次のように訳してます。。。

 


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つまり、「いったい何が起ころうというのか!」と言っているのですよ。。。そう思いませんか?



そうですわねぇ~。。。定冠詞が付いてないので漠然と何か不安なことが起ころうとしている、と嘆かわしく思っているのですわァ。。。何しろ第一次世界大戦中ですから。。。つまり、この事で わたしを呼ぼ出したのですか?

そうです。。。いけませんでしたか?

このようなことなら、卑弥子さんでも間に合っていたではありませんかァ~?

いや。。。「美人スパイ」を取り上げたのだから、やっぱりジューンさんじゃないとまずいのですよ。。。うへへへへへへ。。。

。。。で、その後の会話はどうなっているのですか?

あのねぇ~、ここで日本人のミス鈴木が出てくるのですよ。。。

 


(suzuki11.jpg)

Miss Suzuki

 



日本人の乳母(nanny)の役で出てくる このミス鈴木は、日本人にちょっとばかり容貌が似ているけれど、実は、ナタリヤ・アリンバサロヴァ(Natalya Arinbasarova)というカザフ人とポーランド人のハーフの女優です。。。

 


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Fine old British upbringings ...

古くからの素晴らしいイギリス流の

育て方を…


 


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What has upbringing got to do with it?

その育て方と、これから起ころうとしている

ことにどういう関係があると言うのォ~?


 


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Why do they drag the kids

along a Japanese nunny?

どういうわけで日本人の乳母といっしょに、

子どもたちと旅をしないといけないのよ?


 


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When is she supposed to bring them up?

ミス鈴木は、いつ仲間の日本人を

連れてくることになってるのだろう?


 


(suzuki16.jpg)

There are Japanese spies everywhere!

日本人のスパイがどこへ行っても

居るじゃないのォ~!


 



この会話の後でこの映画の主人公の「美人スパイ」が偶然のようにしてロシア陸軍の中尉のテーブルに歩いてゆき、「失礼ですが、ここにかけてもよろしいかしら?」と言うのですよ。。。

 


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(suzuki19.jpg)

 



つまり、上の会話を聴いたのでデンマンさんはこの映画を取り上げる気になったのですかァ~?



そうですよ。。。特に美人のスパイが気に入って取り上げたわけじゃないのです。。。旦那に不満を抱えている奥さんが「日本人のスパイがどこへ行っても居るじゃないのォ~!」という字幕が急に目の前に出てきたので、僕はちょっとビックリしたのですよ。。。どうして、こんな所に日本のスバイが、ウジャウジャと出てくるのか!?。。。これってぇ悪い冗談なのかァ~? それにしても、これはポーランドの俳優を使い、ポーランドの監督が作った映画なのですよ。。。それなのに、突拍子(とっぴょうし)もなく日本のスパイが会話に出てくる!

それで、調べてみたのですか?

そうなのですよ。。。僕は歴史に興味があったから、第一次世界大戦中だということで すぐに明石元二郎という人物が頭に浮かんだ。。。

 



明石元二郎

 


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生誕: 1864年9月1日(元治元年8月1日)
他界: 1919年(大正8年)10月26日

 

明石 元二郎(あかし もとじろう)は、明治・大正期の日本の陸軍軍人。
陸軍大将正三位勲一等功三級男爵。第7代台湾総督。福岡藩出身。
夫人は国子(郡保宗の二女)、後妻に黒田信子(黒田一葦の娘)。
明石泰二郎(陸士27期、陸軍少将)は甥。

 

生い立ち

福岡藩士・明石助九郎貞儀の次男として元治元年(1864年)に福岡藩・福岡城下の大名町に生まれる。
明石家の家格は「大組」(福岡藩黒田家の家中で、最上位の家格「中老」に次ぐ2番目の家格。)であり、1300石の大身であった。

1877年(明治10年)6月に陸軍士官学校幼年生徒となった。
1883年(明治16年)12月25日、陸軍士官学校(旧陸士6期)を卒業し、同日、歩兵少尉に任じられた。
更に1889年(明治22年)に陸軍大学校(5期)を卒業する。

ドイツ留学、仏印出張、米西戦争のマニラ観戦武官を経て、1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。
1902年(明治35年)にロシア帝国公使館付陸軍武官に転任、のちに首相となる田中義一陸軍武官から業務を引き継ぐ。
当時からロシア国内の情報を収集し、ロシアの反政府分子との接触を試みる工作活動が行われていた。

首都ペテルブルクのロシア公使館に着任後、日英同盟に基づいた情報協力により、イギリス秘密情報部のスパイであるシドニー・ライリーと知り合い、友人となった。

明石の依頼により、ライリーは1903年(明治36年)から建築用木材の貿易商に偽装して戦略的要衝である旅順に移住し材木会社を開業、ロシア軍司令部の信頼を得て、ロシア軍の動向に関する情報や、旅順要塞の図面などをイギリスおよび日本にもたらしている。

 

日露戦争での諜報活動

明治37年(1904年)、日露戦争が開戦すると駐ロシア公使館は中立国スウェーデンのストックホルムに移り、明石(当時の階級は大佐)は以後この地を本拠として活動する

開戦直前の1月、参謀本部次長児玉源太郎は開戦後もロシア国内の情況を把握するため、明石に対し「ペテルブルク、モスクワ、オデッサに非ロシア人の外国人を情報提供者として2名ずつ配置」するよう指令電報を発した。

さらに明石は日露開戦と同時に参謀本部直属のヨーロッパ駐在参謀という臨時職に就き、ストックホルムに移った際にも児玉から、「お前を信じているぞ」という趣旨の激励の電報が届いた。

明石はロシア支配下にある国や地域の反ロシア運動を支援し、またロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触した

例を挙げると、フィンランドの反ロシア抵抗運動指導者カストレーン、シリヤクス、スウェーデン陸軍将校アミノフ、ポーランド国民同盟ドモフスキ、バリツキ、社会革命党チャイコフスキー、グルジア党デカノージ、ポーランド社会党左右両派、他ロシア国内の社会主義政党指導者、民族独立運動指導者などである。

特に、当時革命運動の主導権を握っていたコンニ・シリヤクス (Konni Zilliacus)率いる フィンランド革命党などを通じ、様々な抵抗運動組織と連絡を取り、資金や銃火器を渡し、デモやストライキ、鉄道破壊工作などのサボタージュが展開されていった。

内、鉄道破壊工作などは失敗するものの、デモ・ストライキは先鋭化し、ロシア軍はその鎮圧のために一定の兵力を割かねばならず、極東へ派遣しにくい状況が作られた。

明石の工作の目的は、ロシア国内の反乱分子の糾合や、革命政党エスエル(社会革命党)を率いるエヴノ・アゼフなどへの資金援助を通じ、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとしたものであり、満州軍においては、欧州の明石工作をロシア将兵に檄文等で知らせて戦意を喪失させようと計ったり、また欧州情勢を受けてロシア軍の後方攪乱活動を盛んに行ったりした(満州義軍)。

また明治37年(1904年)5月、ポーランドの反ロシア民族主義者ロマン・ドモフスキが児玉源太郎と会談した。
満洲軍設置の折、激務であった児玉がわざわざ時間を割いたのは、明石から情報を得ており、連携が取れていた為である。

日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に貢献することを意図した明石の活動は、後に、明石自身が著した『落花流水』などを通じて巷にも日本陸軍最大の謀略戦と称えられるようになった。

参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている」と言って称えたと紹介する文献もある。

成果の度合いや後述するレーニンとの会見の有無については別にしても、これら明石の謀略活動の意図に関しては研究者の間でもほぼ見解は一致している。

なお、前述した『落花流水』や司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』において、以下のような粗筋がベースになって描かれている。

明治37年(1904年)、明石はジュネーヴにあったレーニン自宅で会談し、レーニンが率いる社会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出た。
レーニンは、当初これは祖国を裏切る行為であると言って拒否したが、明石は「タタール人の君がタタールを支配しているロシア人の大首長であるロマノフを倒すのに日本の力を借りたからといって何が裏切りなのだ」といって説き伏せ、レーニンをロシアに送り込むことに成功した。

その他にも内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキンの叛乱等に関与した。
これらの明石の工作が、後のロシア革命の成功へと繋がっていく。
後にレーニンは次のように語っている。「日本の明石大佐には本当に感謝している。感謝状を出したいほどである。」と。

この件は歴史家から疑念が示されている。
例えば、稲葉千晴が明石が拠点とした北欧の研究者と共同して行った明石の工作の検証作業では、レーニンと会談した事実や、レーニンが上記のような発言を行った事実は確認されず、現地でもそのような説は流布していないことが示された上、ロシア帝国の公安警察であるオフラナが明石の行動をチェックしており、明石が血の日曜日事件やポチョムキンの反乱に直接関与していた根拠は薄いとしている。

ただし一方で稲葉は、日露戦争において欧州での日本の情報活動が組織的になされていたこと、その中で明石の収集した情報が量と質で優れていたことについては評価している。

今井はレーニンと会談したという話を、日露戦争後に陸軍で傍流扱いされた明石の屈折した感情から出た言葉ではないかと推定している。
また西原和海も、著書において“レーニンは明石の申し出を断った”と記している。

日本国内においては、日露戦争での明石の活動が評価されているが、対戦国であったロシア側は、明石の活動がロシアの対日警戒、対日諜報活動を促したとしている。
ロシアの月刊誌『ロージナ(ロシア語版)』(Родина、『祖国』の意)は2004年の日露戦争特集号で、日本の参謀本部や外務省は満州において中国人やモンゴル人を使って強力な情報網を構築したが、このことがロシア(ソ連時代)の対日情報工作の強化(一部はゾルゲ事件のように明るみに出る)に繋がったこと、また日本自身の防諜体制の甘さをもあわせて指摘している。

日本側もフランス人記者を使ったロシアからの諜報工作に晒されていたのである。

日露戦争中、明石は一人で巨額の工作資金を消費した。
それは当時の国家予算約2億3,000万円の内、100万円(今の価値では400億円以上)程であったが、参謀総長山縣有朋、参謀次長長岡外史らの決断により参謀本部から支給され、ロシア革命支援工作などにも利用された。

この点について評論家西部邁は「日露戦争のときには、日本にも明石元二郎という立派なスパイがいました。彼が使った工作資金はいまの標準でいうと数百億円ですってね。一兆円という話も聞いたことがある。それで第一次ロシア革命を煽り立てるわけです。これにはさすがのツアーも参ってしまった。」と述べている。

 

エピソード

ほとんど歯を磨く習慣がなく、それが晩年まで続いた。

服装について無頓着であり、陸軍士官学校時代、制服のズボンが緩く、へそを出しながらズボンの裾を引きずって歩いていた。

整理整頓にも無頓着で、台湾総督時、官邸を一切掃除させず、身辺が荒れ放題となっていた。

絵葉書が好きで、玄関・応接間・寝室など家中に絵葉書を貼りつけた為、まるで7、8歳の子供部屋のようになっていた。

外国語と算術に長けていた。
あるパーティの席で、ドイツとロシアの士官がおり、ドイツの士官が明石にフランス語で「貴官はドイツ語ができますか」と聞いてきた。
元二郎は、「フランス語がやっとです」とわざと下手なフランス語で答えた。すると、そのドイツの士官は、元二郎を無視して、ドイツ語でロシアの士官と重要な機密について話し始めた。

しかし、元二郎は、ドイツ語は完璧に理解しており、その機密をすべて聞いてしまったという。
元二郎は、フランス語、ロシア語、英語も完璧に理解していた

製図書きにも優れており、ある外国人のパーティに出席した際、名刺を忘れた八代六郎の為にその場で器用に紙を裂き、まるで印刷してあったかのように文字を入れ、10枚ばかり即席の名刺を作成した。

製図の授業の際、明石は鼻水を垂らしながらもそれを手で拭い、なおかつその手でまた製図をいじっていたので、製図が真っ黒になってしまっていた。

陸軍幼年学校時代の明石は、お稲荷様にお供えされた赤飯の盗み食い常習犯であり、また夜中にボートに乗って転覆させたりなど悪戯を繰り返していたが、教師や先輩、友人などから嫌われたり憎まれたりすることはなかった。

陸軍士官学校時代も、周りの同僚や先輩などから好かれており、何かにつけ明石のもとに集まったり、噂の対象になっていたという。

陸大時代は下宿に猫を一匹飼っており、軍服に猫の毛が付いたまま講義に出席していたようである。

何かに熱中すると、ほかのことを完全に忘れてしまう性格でもあった。
上原勇作の手引きで山縣有朋と対談した時、どんどん話にのめりこんでゆき、しまいには小便を垂れ流していることに気がつかずそのまま熱弁を振るうに至ってしまった。
山縣もその熱意にほだされ、小便を気にしながら対談を続けざるを得なかったという。

協調性に欠けていて風采が上がらず、また運動音痴であったとされており、ロシア公使館付陸軍武官時代の上司にあたる駐露公使の栗野慎一郎でさえ、彼の能力を見抜けず、開戦の直前に外務省に「優秀な間諜が欲しい」と要請したほどであった。
栗野は、明石と同じ 修猷館出身である。

日清戦争後の参謀本部勤務中に勃発した米西戦争では、観戦武官としてフィリピンに赴いた。
この時、アメリカ軍は、陸戦においてはスペイン軍とは直接交戦せず、フィリピンの独立運動の指導者アギナルドの率いる市民軍に武器と資金を援助し、これを支援した。
アメリカ軍の支援を受けたアギナルド市民軍は、各地でスペイン軍を撃破し、これを駆逐した。
明石は、この戦いを観戦することで、後のロシア革命工作のヒント(敵の中の反対勢力を支援する)にしたと言われている。

明石の行ったロシア革命工作は、後に陸軍中野学校で諜報活動のモデルケースとして講義されている。

ロシアでの偽名は、アバズレーエフであった。

任務のため、スパイ活動や憲兵政治など社会の暗部で活躍したが、私生活では極めて清廉であった。
その一例として、革命工作資金の100万円のうち27万円が使い切れずに残ってしまった。
本来軍の機密に関する金であり、返済の必要はないのだが、明石は明細書を付けて参謀次長の長岡外史に全額返済した。
うち100ルーブル不足していたが、明石が列車のトイレで落としてしまった分であった。

ヨーロッパ赴任中、泥靴のまま公使館に入り、そのまま平気な顔をしていた。
日露戦争後高官となった後も、明石は薄汚い布団で犬を抱きながら寝ていた。

死因については、脳溢血説、肝硬変説などがある。生前、大酒飲みだったので、肝硬変説は特に有力視されているが、最近では当時世界的に流行していたスペイン風邪(インフルエンザの1種)ではなかったかと言われている。




出典: 「明石元二郎」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



上の映画には、この明石元二郎という人物は出てませんけれど、この映画は実際にあったことに基づいて作られたのですかァ~?



実は、上の映画はアレクセイ・トルストイが書いた歴史小説のエピソードを原案として作られたのです。。。

 



アレクセイ・トルストイ

 


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生誕: 1883年1月10日(ユリウス暦1882年12月29日)
他界:- 1945年2月23日

 

アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ(Алексей Николаевич Толстой、英語:Aleksey Nikolayevich Tolstoy)は、ロシア(ソ連)の小説家。
多くの分野で執筆活動を行なったが、専門はSFと歴史小説であった。
「伯爵同志」と渾名された。

 

生涯

アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイはニコラエフスク(現在のサラトフ州プガチョフ)で1882年、トルストイ伯爵家の貧乏な分家に生まれた

父は驃騎兵の任および地主の職から退いたニコライ・アレクサンドロヴィッチ・トルストイ伯爵であり、母は児童作家のアレクサンドラ・レオニエヴナ・ボストロム(トゥルゲネヴァ生まれ、通常アレクサンドラ・トルストイとして知られる)であった。

アレクセイは一家の第4子であった。母親は、妊娠2ヶ月だった時に情夫のアレクセイ・アポロノヴィッチ・ボストロムと駆け落ちした。
当時の離婚に関する法律に従って、有罪のアレクサンドラは再婚を禁じられた。
彼女が新生児を自分の手元に置いておく唯一の手段は、子供をボストロムの息子として登録することだった。

かくして、13歳になるまでアレクセイはアレクセイ・ボストロムとして育ち、自分の父親が義父だと疑うことはなかった。
1896年にトルストイ、ボストロム両家は官僚的な事務処理に大変な労力を費やして、アレクセイをトルストイ伯爵として登録し直した。

それでもなお、彼はアレクセイ・ボストロムを本当の父と見なしていて、ニコライ・トルストイや年上のきょうだい達と顔を合わせることはほとんどなかった。

1900年にニコライ・トルストイが死に、アレクセイには3万ルーブルと有名な家名が遺された。
のちに彼は、トルストイ家の遺産に対してかなりユーモラスな態度を身に付けた。

彼はアパートの壁を黒ずんだ肖像画で埋め尽くし、新来者にトルストイ家の祖先たちについて語ること(そうしてから全ての肖像画が近所の古道具屋で適当に買い集めたものであり、祖先の逸話は完全に作り話であると相手に明かす)で知られるようになった。

アレクセイ・N・トルストイ(以降A.N.トルストイと表記する)の初期の短編小説は、過度の自然主義と必然性のないエロティシズムにより、そしてミハイル・アルツィバーシェフ言うところの「味」が概して欠如していることにより、アレクサンドル・ブロークその他の有力な批評家に酷評された。

A.N.トルストイ名義で1900年代序盤に出版されたポルノグラフィ的作品には、本人の手によって封印されたものもあると言われる(しかし現在、大部分の批評家はA.N.トルストイがそれらの作者であるかどうか懐疑的である)。

A.N.トルストイはボリシェヴィキによる10月革命の最中、1917年にロシアを去って、初めはドイツへ、後にはフランスへ移住した。1923年、彼は本国に送還され、最も人気のある作家としてソヴィエト体制に受け容れられた

彼は終生、共産党の忠実な支持者となって、スターリンを賞賛する作品を書き、またマクシム・ゴーリキーと組んで悪名高い旅行記(白海・バルト海運河への旅行を題材としたもの)を書いた。

A.N.トルストイは2編の長大な歴史小説を発表した
ピョートル1世の政策をスターリンのそれになぞらえようと努めた『ピョートル一世』(1929年 - 1945年)、そしてロシア内戦を含む1914年から1919年までの時代を描いた『苦難の道』(1922年 - 1941年)である。
また数編の戯曲も書いた。

通常、A.N.トルストイはロシア語のSF小説としては最初の(そして最上の)作品を書いた業績で知られている。
火星への旅を扱った『アエリータ』(1923年)、そして『ガーリン技師の双曲線』は大衆から絶大な人気を得た。
前者は1924年に映画化された(SF映画の先駆けであった)。
『アエリータ:火星の女王』の他にも、トルストイの小説を基にした映画はソビエト連邦で数作、公開された。

またA.N.トルストイは『ニキータの幼年時代』を始めとする児童向けの本も数冊したためている。
『ニキータの幼年時代』は自身の幼年時代の回想録であるが、この本は時に息子ニキータに関するものだと誤解された。

実際には、彼はニキータという名前が好きだから使ったのであり、後年その名を自分の長子にも付けただけのことであった。
彼の児童書で最も著名なものは、イタリアの児童文学『ピノッキオ』を翻案した『ブラチーノの冒険、または黄金の鍵』(1936年)である。
その主要登場人物であるブラチーノは、ソヴィエトの人々の間ですぐに大人気となった。

 

代表的作品

Lirika (1907年) - 詩集。
The Ordeal (1918年)
Nikita's Childhood (1921年)
『ニキータの少年時代』上脇進訳 佐藤忠良絵 岩波少年文庫 1957
『ニキータ物語』田中泰子訳 理論社 1986
苦難の路(苦悩の中をゆく) (1921年 - 1940年) 3部作。1943年にスターリン賞。
『苦悩の中を行く』富永順太郎訳 文化学会出版部 1926
『苦難の路』原久一郎訳 改造文庫 1932
『苦悩の中をゆく 小説』昇曙夢,富永順太郎共訳 民主評論社 1950
『苦悩の中をゆく』原卓也訳 新潮文庫 1957
『苦悩の中をゆく』小沼文彦訳 角川文庫 1957




出典: 「アレクセイ・ニコラエヴィッチ・トルストイ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



この歴史小説家のアレクセイは、あの有名な『戦争と平和』を書いたレフ・トルストイと関係があるのですか?



レフ・トルストイは本家の生まれで、アレクセイは貧乏な分家の生まれです。。。

つまり、上の映画は、歴史小説家のアレクセイが書いた話に基づいて作られたので、空想の物語ではないのですわねぇ~。。。

ある程度、当時の歴史的事実に基づいて作られたのですよ。。。だから、映画に出てきたミス・スズキという女性が明石元二郎に雇われた女スパイだったということも充分に考えられるのです。。。

つまり、ウィキペディアの説明にも書いてあるように、明石元二郎は ロシア国内の反政府勢力と連絡を取ってロシアを内側から揺さぶる為、様々な人物と接触したのですわねぇ~。。。

そうです。。。おそらく、明石元二郎はミス・スズキを始めとして、多くのスパイを雇ってスパイ網を構築していたのですよ。。。

そのことが上の映画に出てきたとデンマンさんは思うのですか?

そうです。。。この映画の美人スパイも、明石元二郎に雇われた女スパイかもしれないのですよ。。。「火のない所に煙は立たず」と昔の人は言いましたからねぇ~。。。僕は改めて、当時の日本のスパイ活動は想像を超えたものだったのだと、この映画を観て改めて感嘆したのですよ。。。当時の日本が日露戦争に勝てたのが納得ゆきます。。。Information is power!(情報はパワーだ!)なのですよ。。。

つまり、明石元二郎のスパイ活動でロシア革命を支援したことが日露戦争の勝利に繋がったのですわねぇ~。。。

もちろん、東郷平八郎の指揮で日本海海戦で勝ったとか、そういう勝因もあるけれど、ロシア革命が起きたので、ロシア帝国は日本と戦争をやっているどころではなかった。

それで停戦したのですわねぇ~。。。

そうです。。。ロシアは、負けたとは思ってないのだから。。。

でも、世界は、小国の日本が大国のロシアに勝てた、と驚いたのですわねぇ~。。。

そういうことです。。。経済戦争も情報戦ですよ。。。だから、第2次大戦後、日本は経済大国になったけれど、CIAのスパイ活動で、日本は経済大国から 転げ落ちて経済小国になってしまったのですよ。。。

 


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『CIAの経済戦略』




初出: 2023年5月19日



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マグダラのマリアの真実

2024-07-22 01:26:42 | 歴史四方山話


 

マグダラのマリアの真実

 


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ケイトー。。。 どういうわけでマグダラのマリアを取り上げる気になったのォ~?


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たまたまバンクーバーの市立図書館で借りたDVDを借りて映画を観ていたらマグダラのマリアが出てきたのですよ。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



 





 

デンマンのコメント

 

This DVD has three episodes. One of those is the real Mary Magdalene---the so-called most famous prostitute in the history.

She came from the town called Magdala.

Her name means "The tower of salted fish". The bible doesn't say that Magdalene is a prostitute.

She lived a harsh life. She'd never married.

The Nag Hammadi book found in 1945 gives scholars a new insight about Mary Magdalene.

Eye-opening and intriguing!




このDVDには3つのエピソードが含まれている。 その一つは、歴史上最も有名な娼婦だと言われているマグダラのマリアだ。。。本当はどのような女だったのか?ということを追求する話である。

彼女はマグダラという町からやって来た。

彼女の名前は「塩漬けにした魚を保存する塔」という意味だ。 聖書にはマグダラのマリアが娼婦だったという記述はない。

マリアは厳しい人生を歩み、一生結婚しなかった。

1945年にナグ・ハマディで見つかった古文書を学者が研究した結果マグダラのマリアについて新しい事実が解った

この映画は興味深く、これまで知らなかったことを教えてくれる。



 



なるほどォ~。。。上のドキュメンタリーを観て何か発見したことでもあったのォ~?



いろいろとマグダラのマリアについて面白い話をしていました。。。シルヴィーは一応キリスト教徒だよねぇ~。。。マグダラのマリアのことを教会ではどのように教えたァ~?

マグダラのマリアは、お金持ちの家に育ったのよ。。。でも、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、身を落として罪深い女、つまり娼婦になったのよ。。。後で、イエスに出会い悔悛したというの。。。そういう話だったわ。。。。

僕も、だいたい同じような話を聞いてましたよ。。。映画を観ると、ほとんどの映画はマグダラのマリアを娼婦として扱ってました。。。念の為に、マグダラのマリアのことを調べたら、ウィキペデアには次のように書いてありました。。。

 



マグダラのマリア

 


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マグダラのマリア(ラテン語: Maria Magdalena)は、新約聖書中の福音書に登場する、イエスに従った女性である。
マリヤ・マグダレナとも音訳される。

正教会・カトリック教会・聖公会の聖人で、正教会では「携香女(けいこうじょ)」「亜使徒」の称号を持つ。
この「携香女」の称号と、上の写真のイコンに描かれるアラバスターの香油壷を持った姿は、磔刑後のイエスの遺体に塗るための香油を持って墓を訪れたとの聖書の記述に由来している。

共観福音書では、マグダラのマリアは「イエス・キリストが十字架にかけられるのを見守り、イエスが埋葬されるのを見、そして墓の方を向いて座っていた婦人たちの中で、最も重要な人物」とされる。

西方教会において娼婦をも意味する「罪深い女」とされるため、ニコス・カザンザキスの『最後の誘惑』やダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』のような現代小説をはじめとして、イエスとの結婚を伝える種々の伝承があるが、歴史的根拠は見出されていない。

 


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西方教会では男性原理を重視し組織形成していたため、マグダラのマリアを「イエスの死と復活を見届ける証人」であるとともに、教義上「悔悛した罪深い女」とした。

東方教会(正教会)ではこのような「罪深い女」との同一視はしていない。
これについては多くの解釈があり、真実ははっきりしていない。

したがって娼婦をも意味する「罪深い女」とマグダラのマリアを関連付ける伝承は、西欧・西方教会(ことにカトリック教会)独自のものである

 

四福音書中の記述

マグダラのマリアについて四福音書がはっきり語っているのは、イエスによって七つの悪霊を追い出されたこと、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたこと、そしてイエスの復活に最初に立ち会い、「すがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」とイエスに窘められたことである。

『マタイによる福音書』などによれば、彼女は復活の訪れを弟子(使徒)たちに告げるため遣わされた。
このため彼女は初期キリスト教父たちから「使徒たちへの使徒」と呼ばれ、正教会での彼女の称号「亜使徒」はこの事績に由来する。

マグダラのマリアともう一人のマリアは、安息日が終わって、週の初めの日の明け方にイエスの納められている墓に向かった。
その時、大地震が起こり、墓の入り口を塞いでいた大きな石が転がり、墓の入り口が開いた。
『マタイによる福音書』によればそれは天使の仕業であり、墓の中にはイエスの遺体はなかった。

 

外典の記述

20世紀になって『(マグダラの)マリアによる福音書』(断片のみ)、『トマスによる福音書』(ナグ・ハマディ写本から)、『フィリポによる福音書』などが発見された。

これら外典の中でマグダラのマリアは、イエスとの親密な様子や、男性たちと並ぶイエスの弟子として記述されている。

『トマスによる福音書』では、ペトロが「この女性(マグダラのマリア)は私達の下から去ったほうがいい」と、マグダラのマリアを排斥すべきと、イエスに進言したのに対し、イエスは「私は彼女を天国に導くだろう」と応える。

そして「私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男性たちに似る生ける霊になるために」と、謎めいた理由を言う。

これら最新の聖書研究は、イエス宣教の旅での女性たちの役割や、マグダラのマリアの地位を見直させることとなった。

 

伝説

マグダラのマリアは古来より東方教会・西方教会いずれの教会でも崇敬されてきたが、ことにカトリックでは特有の多くの伝説で彩られている。

マグダラのマリアとベタニアのマリアは同一人物であり(第二バチカン公会議以後は別人とされることが多い)、マグダラのマリアは晩年にイエスの母マリア、使徒ヨハネとともにエフェソに暮らしてそこで没し、後にコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に移葬されたとされている。

伝説中のマグダラのマリアは、たとえばヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』などによれば、金持ちの出自であって、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悔悛したという。

そのため、娼婦をも意味する「罪深い女」との異名を与えられたり、ルネサンス以降「マグダラのマリアの悔悛」を主題とする絵画、彫刻が多く制作された。
このイメージはカトリック教会の作為が関与していると指摘されている

 


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洞窟のマグダラのマリア
(ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル)


 

イエス昇天後、兄弟ラザロ、マルタ(マリアの姉)らとともに南仏マルセイユ(あるいはサント=マリー=ド=ラ=メール)に着き、晩年はサント=ボームの洞窟で隠士生活を送ってその一生を終え、遺骸はいったんエクス=アン=プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボームに葬られたと信じられた。

ヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂はその遺骸(頭蓋骨)を移葬したと主張している。
しかし、サン=マクシマン側はいまも遺骸を保持していると主張しており、一部はパリのマドレーヌ寺院にも分骨されている。

 

娼婦だったか?

『ルカによる福音書』が紹介するマグダラのマリアの記述は、次のものだけである(ルカ8:1-3, 23:55)。

イエスに七つの悪霊を追い出された
マグダラの女と呼ばれるマリア
そのほか多くの婦人たちと一緒に
自分の持ち物を出し合って
一行に奉仕していた
ガリラヤから付き従ってきた

カトリック教会では、『ルカによる福音書』(7:36-50)に登場する「罪深い女」と彼女が同一人物とされた。

この女性がどのような罪を犯したのかは記載されていないが、性的不品行と説明されてきたようであり、それが娼婦とされていた原因かもしれない。
彼女は(悔悛した)娼婦の守護聖人でもある。

いっぽうでカトリック信仰の強い国々を中心に、娘を名付けるにあたってこの聖女の名が好んで使われている。
諸文学で彼女の娼婦的な過去を扱うものが多いが、職業的娼婦であったとするものはあまり見受けられない

しかし、キリストを描いた映画の多くが、彼女がかつて娼婦であったとの設定で登場させている
2018年公開の『マグダラのマリア』はマグダラのマリアをイエス・キリストの使徒のひとり(復活の証人)として初めて描いた映画となった。

 

イエスと結婚していた?

さきの『最後の誘惑』では、十字架上のイエスがマグダラのマリアとの結婚生活を夢想する。
また、1982年に英国で刊行されたノンフィクション“Holy Blood, Holy Grail”(日本語版:『レンヌ=ル=シャトーの謎』)で著者らは、イエスとマグダラのマリアが結婚しており、子供をもうけたという仮説を示した。

マーガレット・スターバードもこれに追随し、1993年『マグダラのマリアと聖杯』で、イエスとマリアとの間の娘をサラとした。
2003年の小説『ダ・ヴィンチ・コード』がそれをストーリー中に使っている。

シンハ・ヤコボビッチとバリー・ウィルソンも、2014年出版の“The Lost Gospel: Decoding the Ancient Text that Reveals Jesus' Marriage to Mary the Magdalene” (日本語版『失われた福音-「ダ・ヴィンチ・コード」を裏付ける衝撃の暗号解読』2016年)の中で、2人の聖なる婚礼や交わり、子供を二人もうけたことなどを詳細に記録した古代シリア語文書を解読している。

結婚していたとする論では、あちこちに暗喩や象徴の形で残っていると主張している。
西洋美術には、作品の中にシンボルとしての形や色を配し、暗示的に表現する手法がある。

古くから、主流の宗派以外の主張は異端として迫害されたり、証拠品を焼き払われたりしてきた歴史があるため、迫害の対象となるような表現について芸術家達はその暗示的手法を用いてきた。

明示的なものでは、2-3世紀ごろの著作と見られる『フィリポによる福音書』の記述がある。
国を治める者によって宗教内容の統制が行われ、統率者の意向にそぐわない教義は隠蔽や書き換え、迫害が行われてきたことから、この結婚という内容もその隠蔽の1つであるとみられている。
イエスの結婚を巡っては、近年さまざまな研究書、追跡書などが出ている。

20世紀の半ばに、ナグ・ハマディ写本の発見などにより、これまで異端の書として隠されていた書物がその姿を現してきた。
エレーヌ・ペイゲルス (Elaine Pagels) は、娼婦を否定し妻とするのは「同じ見方の裏と表」であると指摘した。

ペイゲルスによれば、「男たちは、マグダラのマリアにイエスの弟子でも、リーダーでもなく、性的な役割だけを与えようとして、このようなファンタジーを作っているのではないかとさえ思える」と主張している。

しかし史実の対象となる古書の中に、イエスが結婚をしていなかったという具体的な表現もなく、太古の時代に地球上のあらゆる文化でリーダーとしての女神崇拝があったことの名残でもあるマグダラのマリアの存在に恐れを感じた組織が、「性的」や「ファンタジー」という言葉によって、逆に貶めているとも考えられる。




出典:「マグダラのマリア」
From Wikipedia, the free encyclopedia


 



1945年にナグ・ハマディで見つかった古文書を学者が研究した結果マグダラのマリアについて新しい事実が解った」とケイトーはコメントに書いていたけれど、それって どういう古文書なのォ~?



次のような古文書ですよ。。。

 



ナグ・ハマディ写本

 


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ナグ・ハマディ写本(The Nag Hammadi Codices)あるいはナグ・ハマディ文書とは1945年に上エジプト・ケナ県のナグ・ハマディ(より正確には、ナグゥ・アル=ハムマーディ)村の近くで見つかった初期キリスト教文書のことである。

ナグ・ハマディ写本は、二十世紀最大の考古学的発見に数えられており、事実、初期キリスト教の研究を飛躍的に進展させた。
ナグ・ハマディ写本は、古代キリスト教を知るための原資料としては死海写本につぐ重要性を持つと見なされている。

写本は、農夫ムハマンド・アリー・アッサーマン (Muhammad ʽAlī al-Sammān) が偶然土中から掘り出したことで発見された。
発見時、文書は壷におさめられ、羊の皮でカバーされたコーデックス(冊子状の写本)の状態であった。

ナグ・ハマディ写本は全部で13冊からなっている。
より正確に言うと、12冊の写本と8枚の断片からなっており、後者は13冊目の写本から破られたものと6冊目の裏表紙に挟まれていたものである。
写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。

ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・M・ロビンソン(James M. Robinson) による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、本写本はエジプトの修道士パコミオスがはじめた修道士共同体(後世の修道院に相当する)に所蔵されていたのかもしれないという。

写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。

写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。

調査によって、ナグ・ハマディ写本に含まれるイエスの語録が1898年に発見されたオクシリンコス・パピルスの内容と共通することがわかっている。

そして、このイエスの語録は初期キリスト教においてさかんに引用されたものと同じであるとみなされる。

写本が作られた時期に関してはほとんど議論の余地がなく、西暦350年から400年の間と推定されている。
この年代は、カートナージやコプト語の字体から決定できる。
写本が土中に埋められたのは4世紀よりも以前である。

一方、写本に収録された各編の原本の成立時期については異論があり確定できていない。

ナグ・ハマディ文書そのものはカイロのコプト博物館に所蔵されている。

ナグ・ハマディ写本の発見以前、少数の例外を除くとキリスト教グノーシス派由来の直接的な文献はほとんど発見されていなかった。

そのため、グノーシス派に関する研究は、反異端の立場からグノーシス派を非難した古代の正統教会の教父たちが残した文献に頼らざるを得なかった

ナグ・ハマディ写本は古代キリスト教の異端としては最初で最大の勢力だったキリスト教グノーシス派の原資料にあたり、キリスト教グノーシス派の教理・神話論などを正統教会の偏見を通さずに知ることが出来ることから重要な写本である。




出典:「ナグ・ハマディ写本」
From Wikipedia, the free encyclopedia


 



このナグ・ハマディ写本が見つかって、改めて脚光を浴びたのが『マリアによる福音書』なのです。。。

 



マリアによる福音書

 


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マリアによる福音書は、グノーシス主義の福音書文書の1つである。

初期キリスト教の『新約聖書』の外典としてこの名の書籍の存在が伝わっていたとされるが、不明点が多く、全容は知られていなかった。
しかし19世紀に偶然に発見され、内容から外典とされていた『マリアによる福音書』であることが確認された。

『ナグ・ハマディ写本』から発見された諸文書とともに、グノーシス主義の原典資料として貴重であるだけでなく、初期キリスト教や当時の地中海世界の宗教状況の研究にも重要な文書である。

この文書において登場人物の名前はマリハムと表記されている。
マリハムは、マリア(マリヤ)と訳されている。

一般的には、イエスの母マリアではなくマグダラのマリアと考えられている。
そのため、本文書は『マグダラのマリアによる福音書』とも呼ばれる。

 

研究史

『マリアによる福音書』は、3世紀頃の初期キリスト教の教父文書などに言及が見られたが、原本は伝存しておらず実体が不明であった。
ギリシア語の断片が2つほど見つかっている。

エジプトで発掘され、後にベルリンに運ばれたパピルスの冊子、いわゆる『ベルリン写本』の冒頭部分が『マリアによる福音書』の写本であることが1896年に判明した。
十分な長さを持ったまとまった文書は、この写本から見つかったものが唯一のものである。

ただし、諸般の事情があって公刊が遅れ、『ナグ・ハマディ写本』の発見後1955年になってようやくテキスト全体が公刊された

『ベルリン写本』は『ナグ・ハマディ文書』とは別個の写本であるが、同様にサヒディック方言のコプト語で書かれており、ギリシア語原書より翻訳されたものと考えられている

前半および中ほど数頁に欠損があり、残っている部分にも欠落が多く、現存している写本は本来の文書のおそらく半分程度と思われる。

 



 

内容

前半では、復活した救い主(イエス・キリスト)が弟子たちの質問に答えて啓示を述べ与える対話と、それを受けた弟子たちの間の反応が記されている。

マリアは文書後半部分に登場する。
写本では「マリハム」と記されているが、この登場人物はキリスト教の『新約聖書』中に登場するマグダラのマリアのことであると考えられている。
後半部分の概要は次のようになっている。

救い主から福音の宣教を託された弟子たち(使徒)は怯むが、マリアは使徒たちを励ます。

ペトロがマグダラのマリアに対し、「救い主(イエス)が他の女性たちにまさってあなたを愛したことを、私たちは知っています。」として、彼女が救い主(イエス)から授かった秘伝を他の人々にも話すよう求める。

マリアは幻の内に見た救い主の啓示について話す。
アンデレ、ペトロはその内容を信じない。マリアは泣いて抗弁する
レビがペトロをたしなめ、使徒たちは宣教に出発する。

 

前半から後半を通して全体を見ると

以下のようにまとめることができる。


 

これまで、救い主は、聞く耳のあるもの(これはマリアらを指しているようだ)に対して、聞いたこともないような話をしていた。

そして、それらのことをいまだによく理解できていなかった弟子が、「世の罪とは何ですか」という、世の罪(イエスを刑死させた罪)と人の原罪とを暗にほのめかすような質問をした。(マリア福音書7)。

そうしたところ、それに対してイエスは、「罪というものはない」という答えをした。
そして、(罪よりの救済に関連した福音ではなく)人の内部にいる「人の子の王国の福音」を宣べ伝えよという命令を下した。

しかし、イエスの与える平安からは遠かった弟子たちは、「あの方を容赦しなかった世間の人がわれわれを容赦しないはずがない」といって恐怖した。

どうしていいかわからなかった弟子たちの中にあって、マリアは、イエスへの信を失わないでいた。
そのマリアに対して、ペテロは、「私たちのまだ聞いていない話を聞かせてください」といった。

マリアは、人の中から出てくるものがその人を汚すという言葉と関連したと思われる啓示が、イエスから啓示されたときの話をした。
心の中から出てくる欲望や怒りから、人は自由になれるという話である。

しかし、話を聞きたがったペテロは、その彼女の話を否定し、彼女の受けた啓示を否定した

それに加えて、「われわれに隠れてイエスが一人の女性とそのような話をしたのだろうか」、という推察を皆に述べた。

それは、弟子を対象としたイエスの教えの、自力救済的な悪に関する啓示の多くを否定する結果となった。
そして、弟子たちは、それぞれの考える「王国の福音」を宣べ伝えるために解散した。

 

キリスト教的グノーシス主義について

罪というものは存在しないという思想や、心魂が怒りや欲望から解放されると心の境地が上昇してゆくとする思想は、他宗教にも共通して見出されるものである。

これらの思想は特にキリスト教に依存しているとは思われないとされている。

しかし、この書は西方系のキリスト教グノーシス主義であると位置づけられている。
また、グノーシス主義はどこにも存在しなかったと主張する研究者もいる。

イエスは、大衆に対してはたとえ話を多く用い、弟子たちには、人のいないときにすべてを解き明かしていたとされている。
マリアの受けたとされるイエスの啓示は、人のいないときにイエスが弟子に対してすべてを解き明かした教えである可能性がある。
イエスの教えの中には、元々、心の中の悪に対しての認識を深めることが要求されていたことがあげられる。

人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別などがあげられている。

こうした、心の中から汚れが出てくるという思想について、四福音書では、ペトロがこれを全く理解できなかったことになっている。

それと同じような意味合いを持つマリアの話が理解できなかったから、ペトロはこれを否定した、と解釈することができる。

また、それと関連したこととして、不浄なものや、穢れたものをペトロがただの一度も口に入れたことがないとしたのは、かなり後になってからである。

 

異端排斥について

この書の成立年代を特定することはできないとされているので、可能性としては、1世紀に成立したということも考えられる。

367年にアタナシウスはエジプトにある諸教会に宛てて、現行新約のみを聖典として、その他の外典を排除するようにとの書簡を出している。

このことと、ナグ・ハマディ写本が地下に埋められたこととは関係があると推察されている[。

この書に見られる、マリアとペトロの対立は、異端型キリスト教と正統派型キリスト教の対立の始まりであると解釈する見解もある。

これは、もともとのイエスの思想には、たとえを用いて大衆に神の愛を説くという面と、自己を見つめ、怒りや欲望から解放されると心の境地が上昇し、悟りにいたるという自力救済的な面とがあったことから、発生したと見ることができる。

ペトロは、部分的にしかイエスの教えが理解できなかったと言えるようである。

この書は、弟子集団における女性指導者としての好ましいマリア像を提供しているとする見解がある。
また、マリアの福音書にある初期の教会の描写は、歴史的に正確であるとする見解もある。

マリアはイエスの最も信頼されていた弟子の一人だとする見解がある。

イエスが刑死したときに、十字架のそばに男性の弟子がいたとは考えづらいこともあり、イエスにとっては、女性の弟子も弟子であるとしていたようである。

しかし、ペトロにとっては弟子は男性のみという観念があったようである。




出典:「マリアによる福音書」
From Wikipedia, the free encyclopedia


 



僕が観た映画でも、だいたい、上のような資料を元にして話を進めているのですよ。。。現在のキリスト教、特に、西方系のキリスト教では、マグダラのマリアは娼婦も意味する「罪深い女」として必要以上に貶(おとし)められている。。。



どういうわけで。。。?

マリアとペトロの対立があったのですよ。。。異端型キリスト教と正統派型キリスト教の対立の始まりですよ。。。

どういうことよ?

あのねぇ~、上の資料を読んだだけでも、キリストは、ペトロ(ピーター)よりもマリアの方が理解力があると見ていたのです。。。当時は、当然、男尊女卑の傾向があったから、ペトロにすれば、キリストがマリアを優遇しているようで面白くない。。。

つまり、ジェラシー(嫉妬)ねぇ~。。。

そういうことですよ。。。ペトロはバチカンの聖ペテロの大聖堂があることからも解るように、キリスト教を広め大宗教にした後継者・指導者ですよ。。。でも、当時としたら、キリストの目には、マリアこそキリスト教の指導者にふさわしいと映ったに違いない。。。なぜなら、マリアは、重要な場面(処刑場、墓で死体に香油を塗る場、復活の場)全てに立ち会っていたことから、この事は明らかです。。。

つまり、弟子たちの間に権力闘争があったのねぇ~。。。

そういうことです。。。弟子たちには圧倒的に男が多かったから、当然の事のようにペトロがリーダーになったわけです。。。だから、つい最近まで、教会の司教はすべて男ですよ。。。ローマ法王が女であったことはこれまでに一度としてない! ペトロがマリア排除、女性排除に懸命になったのですよ。。。権力者というのは、常に、そういう事をするものです。。。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、プーチン、習近平、。。。邪魔者は排除するのです。。。

じゃあ,マグダラのマリアは、娼婦などではなく、キリストに愛されるような優れた頭脳を持った女性だったのねぇ~。。。

そうです。。。美人ではなかったと思うけれど、頭脳明晰でキリストとはツーカーの間柄だったと思いますよ。。。

じゃあ、もしかして、結婚していたかも知れないわねぇ~。。。

キリストも男ですからねぇ~、二人の間に子供がいたとしてもおかしくないですよ。。。

 


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初出: 2023年6月15日



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたもキリストとマリアの間に子供がいたと思いますかァ~?

ええっ。。。 「そんなことは、どうでもいいから、他に、もっと楽しいことを話せ!」

あなたは、そのように強い口調で私にご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。

シルヴィーさんが出てくる面白い記事は たくさんあります。。。

次の記事の中から面白そうなものを選んで読んでください。

 


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『空飛ぶスパイ』

『愛情はふる星@ベトナム』

『ヒラリーと塩野七生』

『ケネディ夫人@インドネシア』

『究極の大前研一批判本』

『フェルメールの謎』

『女に文句を言う女』

『あなたの祖国』

『宮沢りえ@韓国』

『正しい戦争』

『ゴールデンシャワー』

『死刑廃止』


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『かまびすしい』

『今、新たな戦前』

『クレオパトラ@アラビア』

『政府は嘘をつく』

『犬と人間と戦争』

『未来予測』

『知られざる悲劇』

『量子活動家』

『アンネの運命』

『10次元の世界』

『ポーランドの犬』


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『熟女ヌード@デンマン』

『ロッキード事件の真相』

『政府と役人と嘘』

『ジュンガル』

『地球温暖化は避けられない』

『国際平和連合』

『鬼島』

『悪徳サイト』


(sunwind2.gif)

『あげつらう』

『過ちを犯す』

『三島由紀夫の謎』

『ヒラリートランプ現象』

『ノーパン@CIA』

『未開人と文明人』

『オセロの失敗』

『サン・ラザールの裏路』

『「夜と霧」を観た?』


(banana82e.jpg)

『虫酸が走る』

『大空に乾杯』

『ターバンを巻いた少女』

『美しい日本語を探して』

『アダムとイブのバナナ』

『宮沢りえ@サンタフェ』


(cleopara2.jpg)

『ネットの主要言語』

『中国人がアメリカを発見した』

『2000年前の光通信』

『習近平皇帝』

『習近平@フランス』

『チャールズとダイアナ』


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とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。 バーィ。


(hand.gif)



(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

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Jagel - Soft Japanese Bagel
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『センスあるランジェリー』

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七つの顔を持つ女

2024-07-20 01:15:40 | 歴史四方山話

 

七つの顔を持つ女

 


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デンマンさん。。。、七つの顔を持つ女と知り合いになったのですかァ〜?


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知り合ったと言うよりも、そういう女がいたことを知ったのですよ。。。

あらっ。。。七つの顔を持つ女が居たのですか? どこに?

日本にいたのですよ。。。

あらっ。。。マジで。。。? そういう話を聞いたことがありませんわァ〜。。。

多分、多くの日本人も知らないと思いますよ。。。

どのようにして知ったのですか?

僕がユーチューブに自作のクリップをアップロードしていた時に、サイドコラムに次の動画が出てきたのですよ。。。

 



 



福田和子


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(1948年1月2日 - 2005年3月10日)

 

福田 和子は、1982年(昭和57年)8月19日に発生した松山ホステス殺害事件の犯人である。
犯行後、時効直前の1997年(平成9年)7月29日に逮捕されるまで約15年にわたり逃亡したことで広く知られている。

1948年(昭和23年)1月2日、愛媛県松山市に生まれる。

幼くして両親が離婚、母親に引き取られ愛媛県川之江市(現:四国中央市)に移る。
母親は自宅で売春宿を経営していた。
その後母は漁師と再婚、来島に移るが島の排他性に耐え切れず、母子で今治市に移る。
愛媛県内の高校に入学するものの、処女を捧げた交際中の同級生が事故死し、自暴自棄になり3年生の1学期に退学する。

17歳のとき、同棲していた男性と高松市の国税局長の家に強盗に入った罪で松山刑務所に服役。
その服役中の1966年(当時18歳)、第1次松山抗争で逮捕された郷田会の関係者が看守を買収し、女性受刑者を強姦するという松山刑務所事件が起き、福田はこの事件で看守からの強姦被害者となった。

さらに移監された高松刑務所でも同様の被害に遭っているが、いずれも被害届を出すことが認められなかったため、公訴時効により事件の責任追及は行われなかった。

出所後の福田はキャバレーのホステスとして働いていたが、1982年に松山市内で同僚のホステス(当時31歳)の首を絞めて殺害する松山ホステス殺害事件を起こし、逃亡する(後に夫はこの事件での死体遺棄罪で有罪となった)。

逃亡中は幾度となく偽名を使ったり美容整形を繰り返すなどして、全国のキャバレーを転々とする生活をしており、美容整形をしていたことが判明した際には「7つの顔を持つ女」と呼ばれた。

愛媛県警察が懸賞金をかけた指名手配捜査を行い、公訴時効が成立する21日前である1997年7月29日、福井市内で逮捕された

逃亡生活は5,459日間にも及んだ。
逮捕のきっかけは公訴時効成立が近づくにつれてワイドショーやゴールデンタイムの公開捜査番組で何度となく取り上げられ、社会的関心が高まり、福田が行き付けのおでん店の常連客に見破られたためである。

逮捕された福田は、福井駅から岡山駅まで鉄道、岡山駅からは愛媛県警察のワゴン車で松山東警察署に移送された。
岡山駅までの道中は、女性捜査員と福田が乗車した特急サンダーバードや山陽新幹線にテレビや雑誌などの報道陣が同乗し、福田の周囲を取り囲み大騒ぎとなった。
松山東警察署で取調べを受けた後の1997年8月18日に殺人罪で起訴された。
公訴時効成立まで11時間前の起訴であった

1999年5月31日、松山地方裁判所にて無期懲役の判決が下され控訴するも、2000年12月13日、高松高等裁判所にて控訴棄却。
拘置先の松山刑務所から高松刑務所に移され、収監。
福田は最高裁判所へ上告したが2003年11月、上告棄却。
無期懲役の刑が確定し、和歌山県和歌山市の和歌山刑務所に収監された。

2005年2月に刑務所内の工場の作業中に、くも膜下出血のため緊急入院。
意識の回復のないまま3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて脳梗塞により死去。
57歳没。

 

事件発生から逮捕までのエピソード

逮捕までの15年近くの5459日間、日本各地を転々としていた福田だが、潜伏生活の中で最も大胆だったのは石川県能美郡根上町(現・能美市)の和菓子屋の後妻(入籍はしておらず、事実上の内縁関係)の座に納まっていたことである。

その店には、家が近所で当時小学生だった松井秀喜も客としてよく菓子を買いに来ており、松井は福田逮捕後のインタビューで「とても綺麗で優しいおばさんという印象だった」と語っている

金沢市のスナックで働いていた福田は、その店の客だった和菓子屋の主人に見初められて同棲するようになり、店も手伝う。
そして息子を愛媛県松山市の実家から呼び出し、甥だと偽ってその和菓子屋に見習いとして住み込みで働かせた。

福田は和菓子屋の主人や両親には京都嵯峨野にある旅館の令嬢と名乗り、息子に連絡する際は警察の逆探知捜査を逆手に取り、京都や大阪など関西へ出向き公衆電話から連絡を取り捜査を撹乱した(公開捜査番組等で録音テープに「逆探知されたら困る。危ない、危ない」という福田の肉声が公開されている)。

そのため警察は福田が関西方面に潜伏していると誤認し、和菓子屋がある石川県まで逃げているとの認識はなかった。
しかも福田は非常によく働き、接客も得意だったことから、店はたちまち評判となり、新しく改装するほどの繁盛店となった。

和菓子屋の主人は福田をたいそう気に入り、正式に結婚を申し込むが、福田は正体がバレるのを恐れて2年以上も結婚を渋った。
なかなか籍を入れない福田の態度に不審を抱いた親戚が、福田の甥だという息子の荷物を調べ、その中から運転免許証を偶然発見して確認したところ、福田の生まれ育った愛媛県松山市が書かれていたことに驚いて石川県警察に通報し、警察は福田の逮捕に向かう。

しかし当日、近所の葬式の手伝いに出掛けていた福田は警察の行動を素早く察知し、とっさの判断で近くにあった自転車に乗り逃走、これにより逮捕は失敗する。
このとき、警察は福田が整形手術を行っていたことを初めて知り、この事実は当時の週刊誌でも取り上げられた。

その後は愛知県内でモーテルの客室清掃員などもしていたとの情報もあったが、詳しい足取りは不明なままである。
逮捕後の供述では、近畿地方・中国地方・北陸地方などの料理店などを転々としていたことを明かした。

1997年、刻一刻と時効が迫る中で、テレビのワイドショーやゴールデンタイムの公開捜査番組で、福田の事件と逃亡が頻繁に取り上げられ、肉声も繰り返し放送された。

福田が行きつけだった福井市内のおでん屋の店主と常連客は、声が似ている女性客(福田)を怪しむようになったという。
結局、おでん店の店主から提供されたビール瓶とマラカスから採取された指紋が決め手となり、福田は逮捕された。

その後、福田の逃亡劇は、報道番組の特集のみならず、小説、テレビドラマ、映画化され、多数の女性俳優が福田を演じた。
また本人も逮捕後より半生記の著書を出版している。

逮捕成功につながった情報の提供者は懸賞金を受け取ったが、その後慈善団体に寄付した。
逮捕の現場となったおでん屋は、その後も移転して細々と営業していたが、2019年3月31日をもって閉店した。




出典: 「福田和子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



あらっ。。。人を殺して整形手術を受けながら7回も顔を変えて逃げ切ろうとしたのですわねぇ〜。。。



そうなのですよ。。。必死で逃げ切ろうとしたのですよ。。。でもねぇ〜、人間は誰でも完璧ではないですからねぇ〜、顔を変えても声までは変えられない。。。

つまり、声を知っている人が、福田和子の肉声を聞いて警察に通報したのですか?

そうなのですよ。。。逃げ切ろうと思いながら公訴時効が成立する21日前である1997年7月29日、福井市内で逮捕された

本人は残念だったでしょうねぇ〜。。。

次も女性なのですよ。。。9年間逃亡生活を続けた末に、共犯者であり愛人である男が死刑が確定したので、一人で逃亡するのが虚しくなって自首したのです。。。

 


(masuda-chie.jpg)

 

動画を観る

 



福岡・偽装心中殺人事件

 

1990年12月28日、福岡県田川郡赤池町の総合運動公園駐車場で、全焼した車の中から無理心中とみられる男女2人の遺体がみつかった。

しかし、遺体には刺された痕があり、さらに女性には1億円の保険金がかけられていたことから、警察は保険金殺人と断定。

女性が勤務する会社の経営者・小田義勝(当時42歳)と雇われ社長の益田千栄(当時20歳)が逮捕された。

犠牲になった2人に面識はなく、男性はテレフォンクラブを通じて益田に呼び出されていた。

主犯の小田は裁判で死刑が確定、従犯の益田は無期懲役だった。




出典:福岡・赤池町保険金殺人事件


 



次は男で、この殺人事件は日本を騒がせた。。。なぜなら被害者は美人のイギリス人で市橋達也・受刑者は英語を教えてほしいと頼み、授業料を払うからと自宅に誘い、そこで無理やりセックスしたあとで殺してしまった。。。それから961日間逃亡を続け、一時は沖縄沖の無人島で生活したほどで、結局、大阪に出てきたところで捕まってしまった。

 



 



リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件

 

リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件は、2007年(平成19年)3月26日に千葉県市川市において、英会話学校講師リンゼイ・アン・ホーカー(Lindsay Ann Hawker・英国籍・当時22歳)が市橋 達也(当時28歳)によって殺害された殺人事件。
なお、千葉県警察による正式な事件名は「市川市福栄における英国人女性殺人・死体遺棄事件」である。

事件当日の2007年3月26日、被害者と同居していた女性から行方不明の相談を受けた千葉県船橋警察署の警察官が被害者宅を捜索。
市橋達也の電話番号・メールアドレスと被害者の似顔絵を描いたと思われるメモを発見し、市橋達也宅の家宅捜索に急行した。

同日21時40分ごろ、千葉県市川市福栄二丁目の市橋宅(マンション4階)に、千葉県船橋警察署生活安全課・刑事課の署員数人が到着した。
市橋は部屋から出てきてマンションの共用廊下で応対しようとした。

捜査員が部屋に入ろうとすると、市橋は非常階段を駆け下りて同マンション裏の駐車場を経て東京メトロ東西線行徳駅方面に逃走した。
予め逃走を防ぐ為に非常階段などにも捜査員が配置されていたが、取り逃がす結果となった。

千葉県警察本部刑事部捜査第一課は3月27日、千葉県行徳警察署に捜査本部を設置し、市橋について死体遺棄容疑で逮捕状を取って公開指名手配した。
同日22時ごろ、市橋宅のベランダに置かれていた浴槽の内部で、全裸様の前傾座位で土に完全に埋められた被害者の遺体が発見された。

逃走後の市橋はしばらく近隣の住宅地の物陰に潜んでおり、そこで探索中の捜査員に発見されて一旦羽交い締めにされるが、ここでも逃走することに成功している。

 

被害者の家族の活動

被害者の家族は、単独あるいはイギリスのマスコミと一緒に何度も訪日し、事件現場へ慰霊に通ったり、駅でのビラ配りを行い市橋逮捕への協力を訴えた。

2007年6月27日には専用サイトを立ち上げ、市橋の顔を印刷したTシャツをネット販売するとともに、事件の風化を防ぐため繰り返しマスコミへの出演を行った。

捜査協力はあらゆる方面に及び、イギリスのメディア『Mail Online』は、被害者の父親が日本のマフィア、つまりヤクザにも接触し、市橋探しの捜査を依頼していたと報道した。

当時のグレアム・フライ駐日英大使も2007年4月1日、東京都内で記者会見を行い、市橋逮捕への協力を求め、家族の活動を支援した。

テレビ朝日『奇跡の扉 TVのチカラ』(2007年6月30日放送)において特別番組が編成され、来日中の被害者両親も出演して、日本国内に広く情報提供を求めた。

 

加害者の逃避行

市橋は逃走開始直後に靴と靴下、上着を紛失したが、ゴミ捨て場からサンダルと上着を入手した。
所持金は5万円程度であった。
自家用車を所有する当時交際中であった女性に公衆電話から連絡を取り、共に逃亡すべく依頼を試みるが、女性が通話中だったため実現しなかった。

逃走初日のうちに放置自転車や電車を利用して、市川市の自宅から上野経由で秋葉原まで移動し、途中立ち寄った東京大学医学部附属病院の障害者用トイレで、人相を変えるために鼻翼を左右から縫い縮める自己整形手術を行っている。
後に自らカッターナイフでほくろを切り落とし、下唇を小さくするためにハサミで切っている


その後は埼玉県・群馬県・茨城県などの北関東周辺を放浪し、静岡県熱海市を経て駿河湾付近まで南下した後に青森県まで北上することを決める。
事件前に福岡県の知人宛てに近々遊びに行く旨のメールを送信しており、パソコンの記録解析によって南方への逃亡が察知される危険性を考えた行動であった。

東京から新潟県を経て青森まで移動したが、青森駅前公園で1週間ほどの寝泊りを経て青森の経済状況が芳しくないと感じ、働いて生活するために大阪市西成区の公共職業安定所を訪れた。
ここでは職に就くことはなく、すぐに岡山県を経由して四国に移動した。

四国では香川県高松市から徳島県~高知県~愛媛県と遍路道を歩いた。
これには贖罪の意味があったとしている。

一方で「逮捕されればさらしものになる」「指名手配されると、自首しても刑は軽減されない」として、自主的な出頭は考えていなかった。
お遍路の先々では手配写真が掲載されており、このままでは逮捕まで時間の問題と考え、無人島での生活を考え始める。

高知の図書館で無人島について調べ、滞在地として沖縄県のオーハ島を選択した
お遍路を途中で止め、松山港からフェリーで別府港に移動し、その後鹿児島県を経て沖縄に渡った。

初回のオーハ島渡航は準備不足により1週間ほどで頓挫した。
資金が尽きた市橋は、沖縄本島の建設現場で偽名で働き金を稼いだ。

この沖縄での経験で、市橋はオーハ島と大阪での住み込み労働を繰り返す生活スタイルを考案した。
住み込みでの仕事は解体現場や建設場を選んだ。

他にも船に乗る仕事や風俗に女性を派遣する仕事などをしないかと誘われたが市橋は断っている。
勤務態度は良好であったが、宿舎付近で警察らしき車両を発見すると、身近に捜査が及んでいるのではと疑い、所持物を部屋に残したまま逃げ出すことを繰り返した。

2008年春には自宅の近隣に所在し、卒業論文のテーマであった東京ディズニーランドを訪れている。
住み込み労働で得た貯金で、2009年10月23日・24日に名古屋の形成外科にて眉間の形成手術を受けた。
この手術がのちに逮捕に繋がることになる。

 

逮捕

2009年(平成21年)11月10日、神戸市東灘区の六甲船客ターミナルにおいて、同社従業員が、沖縄行き航路に搭乗途中の乗客の中に、市橋に似た不審な男性を発見した。
当日は、神戸発・沖縄行きの航路は欠航であったため、同日も同航路に就航していた大阪南港発の沖縄行き便を案内すると、市橋と思われる人物が乗船のため大阪南港に向かう旨の発言をしたことから、不審に思った同港担当者は警察当局ならびに大阪南港担当者に通報。

大阪南港フェリーターミナルに先回りし待機していた警察官により身柄を確保される。
移送された大阪府住之江警察署において同事件容疑で逮捕、さらに東海道新幹線を経由して千葉県行徳警察署に移送された。

市橋が到着した東京駅は一時騒然となった。
市橋が逮捕された2009年11月10日は、俳優森繁久彌逝去と報道日時が重なったこともあり、当日夜のニュース番組の視聴率は軒並み20%を超えた。

 

起訴

2009年(平成21年)12月2日、千葉地方検察庁は死体遺棄罪で市橋を起訴。
同年12月3日、現場に残された精液が市橋のDNAと一致したことから、行徳警察署は、殺人ならびに強姦致死容疑で再逮捕し、同年12月4日付、千葉地検に送致した。

 

逃亡記録手記の出版

市橋は、逃亡生活の様子や心境などをまとめた手記「逮捕されるまで―空白の2年7カ月の記録」を、2011年(平成23年)1月26日に幻冬舎から出版し、手記による収入はすべて遺族への弁済に充てるとした。

接見はできないため、間接的な原稿のやりとりだったが、編集担当者は「(被告の)観察眼、感性の豊かさを感じた」と話しているが、英国の遺族は「裁判の前に、こうした本を書くことが許されるのか。強い嫌悪感を抱いており、傷つけられた。私たちが求めているのは公正な処罰だけだ」と話した。

2011年7月までに印税は1100万円となり、市橋は税引き後の912万円を遺族に渡したいとしたが、被害者の両親は「娘を殺したことをネタに金儲けをしている」として、1銭たりとも受け取らない立場を千葉地裁で明らかにした。
手記には遺族が受け取らない場合は、印税を公益に代えるように記載されている。

 

裁判

千葉地方裁判所における初公判は2011年7月4日。起訴状の公訴事実は、殺人罪・強姦致死罪・死体遺棄罪。
被害者の両親と姉妹の計4人が被害者参加制度を利用して裁判に参加した。

検察側は市橋が事件の発覚を恐れて殺害に至ったとしたのに対し、弁護側は強姦と監禁、死に至らせた事実は認めたものの、殺意については否認し、殺人罪と強姦致死罪ではなく、傷害致死罪と強姦罪だと主張した。

検察側は、市橋は非常に強い力で3分以上に頚部を絞めており殺意は明らかで、蘇生措置をしたというのは被害者の肋骨に損傷がないことから信用できないと主張した。
千葉地検は「市橋には前科がなく、犠牲者が1人のことから死刑は躊躇せざるを得ない」として、同年7月12日に無期懲役を求刑した。




出典: 「リンゼイ・アン・ホーカー殺害事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



ちょっとひどすぎますよねぇ〜。。。



確かにひどい事件ですよ。。、こういう男のせいで日本人の男が、潜在的な性加害者だと見られてしまうのですよ。。。世界的には日本人の男の評判を貶めるヤバイ行為です。。。次は、なんと50年にも及ぶ逃亡生活を続け、胃癌になって倒れたのが逮捕のきっかけになった、というちょっと信じられないような逃避行です。。。

 



 



桐島聡


1954年1月9日[1] - 2024年1月29日)

 

桐島 聡(きりしま さとし)は、1970年代の日本の新左翼過激派集団である東アジア反日武装戦線のメンバー

1975年に同派による連続企業爆破事件の被疑者として全国に指名手配されたが、逃亡から約49年後の2024年1月25日に入院中の病院で自身の名前を名乗り、その4日後に死亡した

広島県深安郡神辺町(現在の福山市)出身。
広島県立尾道北高等学校卒業。
明治学院大学在学中に黒川芳正や宇賀神寿一と出会い、東アジア反日武装戦線に「さそり」班として参加し、20歳から21歳の間に連続企業爆破事件の複数のテロ事件に関与した

 

連続企業爆破事件への関与

1975年4月18日、東京の銀座の韓国産業経済研究所の入口に手製の時限信管付爆弾を仕掛け翌日に爆発させた。
これによってビルの一部が損壊した。

警視庁は本事件を中央区内連続企業爆破事件とも呼んでいる。
爆弾は同グループが地下出版した腹腹時計に掲載したもので、同グループで薬剤師資格を持つ大道寺あや子が勤務先から横領した薬品などを使って製造したものが使われた。
現在指名手配されている直接の容疑は、このオリエンタルメタル社・韓産研爆破事件における爆発物取締罰則違反である。

逃亡

1975年5月19日、東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人が逮捕されたのを契機に逃亡。
黒川が所持していた桐島の家の鍵からまだ警察が把握していなかった桐島の存在が明らかとなり、桐島は警視庁公安部に爆発物取締罰則違反で全国一斉指名手配された。

東京都新宿区歌舞伎町の大衆料理店で、逃走直前までアルバイトをしていたとされるが、同年5月20日に渋谷区内の銀行で現金を下ろした後、同31日に広島県の実家に電話をかけ、「岡山に女と3人でいる。金を準備してくれ。国外へ逃亡することも考えている」などと父親に伝えたのを最後に足取りが途絶えた。

1989年と1990年、警察庁は過激派の爆弾犯、誘拐犯ら10人を指定の公開手配とした中の1人に桐島を挙げた。
1987年だけで警視庁は桐島を含めた10名を掲載した手配チラシを700万枚印刷し全国に配布した。

半世紀近くも生死を含め行方がわからず、東アジア反日武装戦線のメンバーの中で、一度も逮捕されていない唯一のメンバーであった。
また東アジア反日武装戦線の中で、前科がないただ一人の人物でもあった。

 

公訴時効について

間組本社ビル等爆破事件に関しては、共犯者の佐々木規夫と大道寺あや子が起訴後にそれぞれクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件により国外逃亡したため、刑事訴訟法254条2項により共犯者の公判が継続中という扱いで公訴時効が停止したままである。

また、佐々木・大道寺が関わっていないオリエンタルメタル社・韓産研爆破事件では、共犯者の浴田由紀子が同じ経緯で国外逃亡した後、身柄拘束されて2004年8月に判決が確定し、そこから桐島の公訴時効が再開されることとなった(当時の爆発物取締罰則1条での公訴時効は15年)。

しかし、2010年の法改正によって、桐島の公訴時効は、犯行時から起算して、1975年6月10日に浴田が起訴されて2004年8月に判決が確定するまでの期間を除いた上で、25年になった(刑事訴訟法250条2項)。
そのため、公訴時効の完成は2029年と見られる。

 

身柄確保

2024年1月25日、末期の胃癌の治療のために「ウチダヒロシ」として神奈川県鎌倉市の病院に入院していた男が、自らを桐島聡と名乗ったため職員が警察に通報した。

警視庁公安部は男の身柄を確保し、男の特定作業を開始した。
男は事情聴取に対して、事件の関係者しか知り得ない当時の状況などについて話したため、警視庁公安部は男が桐島である可能性が高いとしてDNA型鑑定を進めた。

その後、容体が悪化して危篤状態となり、1月29日午前7時33分、男は入院先の病院で死亡が確認された。
親族は遺体を引き取ることを拒否し、警視庁は複数の親族からDNA型の提供を受け、死亡した男性が桐島本人かどうか特定作業が進められた。

2月2日、桐島聡と見られる男のDNA型鑑定の結果、桐島の親族と「親族関係矛盾なし」という結果が出た。
2月7日、男の遺体は藤沢警察署から鎌倉市に引き渡され、逗子市内の火葬場で火葬された。
今後、引き取り手がない場合は無縁仏として合葬することになる。

2月27日、警視庁公安部はDNA型鑑定の結果などから、死亡した男は桐島本人と特定した。
これを受けて、警察庁刑事局は同日付で指名手配を解除したため、全国各地の警察署では重要指名手配犯のポスターに掲載されている桐島の顔写真に「手配を解除しました」とのシールを貼り付ける作業が行われた。

同日、警視庁公安部は指名手配容疑事件を含む計5事件に関与したとして、容疑者死亡のまま爆発物取締罰則違反と殺人未遂の容疑で書類送検した。

2024年3月21日、東京地方検察庁は容疑者死亡のため、桐島を不起訴処分とした。

 

身柄確保後の捜査

桐島聡は、数十年前からは「内田洋(ウチダヒロシ)」という偽名を使って神奈川県藤沢市内の工務店で住み込みで働き、勤務先に近い古い木造2階建ての6畳の寮で一人暮らしをしていたことが判った。

また、周囲には「岡山県出身」と話しており、免許証や保険証や金融機関の口座など身分証明するものは一切持っていなかったため、給料は現金で受け取っていた。

事件についての聞き取りでは、連続企業爆破事件の内指名手配となった「韓国産業経済研究所爆破事件」への関与を否定し、それとは別の「間組爆破事件」のみ関与したと話した。

また、桐島聡が事件後の海外への渡航歴は確認されてないが、逃亡中は海外にも滞在していたことをほのめかした。

内田洋として

当時、警視庁の鑑識官として複数の現場を捜査した戸島国雄は、証拠を残さない慎重さがあったため、半世紀にわたって逃亡できたのではないかと分析した。

1960 - 1970年代のブルースやロックなどの音楽好きで知られ、ジェームス・ブラウンやカルロス・サンタナを好み、月1回程度、音楽好きが集まる藤沢市内のバーに顔を出していた。

藤沢市内の別のバーでは「うーやん」と呼ばれており、週1 - 2回来店しては赤ワインを愛飲していた。
また、健康保険証などの身分証明書は一切持っておらず、歯医者も行けないためか、ほとんど歯もない状態だった。
20歳年下の女性とも交際していたことがあり、結婚も視野に入れていたという。




出典: 「桐島 聡」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



50年近い逃亡生活のために、寿命を縮めてしまったのでしょうねぇ〜。。。



警察の捜査を警戒するために、極度に神経を使っていただろうから、胃癌になるのも無理のないことですよ。。。

まともに保険証を持っていたら、もっと長生きしていたでしょうねぇ〜。。。

やっぱり、逃亡生活は健康に良くないのですよ。。。次は、あの悪名高いオウムのサリン事件に関わった犯人の平田信・受刑者。。。16年間逃亡生活を続けたあとで自首した。。。

 



 



最後は、ひき逃げしてから25年経っているのに未だに捕まってない小暮洋史容疑者の逃亡生活。。。

 



 



驚いたことに、犯罪を犯して、逃亡を続け、まだ捕まってない犯罪者が680人もいるというのですよ。。。

 


(wanted10.jpg)

 



あらっ。。。もしかすると、私や、この記事を読んでいるネット市民の方のそばに、顔を整形したり、変装したりしてひっそりと暮らしている犯罪者がいるかも知れないのですわねぇ〜。。。



そうですよ。。。上の動画を、もう一度じっくりと観て、周りの人間の顔を思い浮かべながら、比べてみてください。。。もしかすると懸賞金がゲットできるかも。。。

懸賞金のために、犯罪逃亡者を探すなんて不謹慎ではありませんかァ〜?

いや。。。お金の問題じゃないですよ。。。逃げ延びることができると信じて逃亡している者こそ憎むべきことなのですよ。。。



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、最後の動画をもう一度じっくりと観て、重要指名手配の写真と あなたの周りの人間の顔を思い浮かべながら、比べてみてください。。。

 


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拡大する

 

もしかすると懸賞金がゲットできるかも。。。

ええっ。。。「そんなことは、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような激しい口調で、わたしに ご命令なさるのですかァ〜?

分かりましたわァ〜。。。

デンマンさんが立ち上げたピンタレストには 400以上のボード(カテゴリ)があります。。。

あなたが興味を持っているカテゴリがかならず見つかるはずです。。。

 


(bikini24-05-10.jpg)


『拡大する』

『実際のページ』

『ホームページ』


 

ぜひ覗いてみてください。

ええっ。。。「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」

あなたは、更に、そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。

じゃあ、ホログラムを使った面白い動画をお見せしますわァ~。。。

 



 

「面白いけれど、それだけじゃつまらん。他に何か面白いことを話せ!」

貴方が 更に そう言うのでしたら、ワンワンちゃんの面白い動画をお目にかけますわ。。。

ワンワンちゃんが人間の言葉をしゃべります!

 


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ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたなは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?

わかりましたわァ。。。

では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。

日本の古代史にも、興味深い不思議な、面白いお話がありますわァ。

次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。


天智天皇は暗殺された

定慧出生の秘密

藤原鎌足と長男・定慧

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?



ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

興味のある方は次の記事も読んでみてくださいね。

 


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『オックスフォードの奇人』

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『記憶を変える』

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『ピンタレスト花盛り』

『余暇を楽しんでる?』

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とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 


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ィ~ハァ~♪~!

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インドの神聖娼婦

2024-07-18 02:12:49 | 歴史四方山話

 

インドの神聖娼婦

 


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デンマンさん。。。 インドまで出かけて神聖娼婦と一夜を共に過ごしたのでござ〜ますかァ~?


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どうして僕がインドまで出かけて神聖娼婦と一夜を共に過ごさなければならないのですかァ〜?

だってぇ〜、インドまで出かけて神聖娼婦と一夜を共に過ごしたので上のような思わせぶりなタイトルを書いたのでしょう?

別に、卑弥子さんがエロい空想をするようにと思いながら上のタイトルを書いたのではありませんよゥ。。。

じゃあ、どうしてエロい空想をさせるようなタイトルを書いたのでござ〜ますかァ〜?

ちょっと次のメモを見てください。。。

 


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『拡大する』

『アンバパーリー』


 



これはライブドアの僕の「徒然ブログ」の日本時間で7月9日のアクセス者のメモです。。。 緑の枠で囲んだ箇所に注目してください。。。



どうして、いつものようにアクセス解析のリストを貼り出さないのでござ〜ますか?

リストをソフトカメラで撮って保存しておくのを忘れてしまったのですよ。。。でも、メモには7月18日に卑弥子さんと語り合おうと思って ちゃんとコピペしておいたのです。。。

メモには忘れずに、その時にひらめいたことを書いておくのですかァ〜?

そうです。。。こういう時に役に立ちますからねぇ〜。。。

。。。で、どなたがインドまで神聖娼婦と一夜を共にするために出かけたのでござ〜ますかァ〜?

卑弥子さんは、すぐにエロい妄想をふくらませるけど、アンバパーリー を読んだネット市民はインドまで出かけたわけじゃないのですよ。。。実は、宇都宮に住んでいる神村早苗(かみむら さなえ)さんが読んだのですよ。。。

 


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神村早苗さんは宇都宮市で何をしているのでござ〜ますかァ〜?



地元にある宇都宮大学の国際学部国際学科で国際人になるために勉強しているのですよ。。。

 


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あらっ。。。国際人になるためにインドの神聖娼婦に会いにゆくのでござ〜ますかァ〜?



神村早苗さんはインドまで神聖娼婦に会いにゆくわけではないのですよ。。。インドに「神聖娼婦」という女たちが居ることを知り、「なぜ娼婦が神聖なのだろうか?」。。。不思議に思ってネットで調べ始めたのですよ。。。

調べているうちに出くわしたのがアンバパーリー という記事だったのでござ〜ますかァ?

そういうことです。。。X(旧ツイッター)で次の写真を見て興味を覚えてツイートのリンクをクリックして記事を読んだのです。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』

『アンバパーリー』


 



上のツイートの指でさしているリンクにマウスのポインターをかざすと、左下にメモのリファラに出てくる短縮URL (https://t.co/EFfzJ2SfAN) が表示されます。。



「神聖娼婦」のことをインドでは「アンバパーリ」と呼ぶのですかァ〜?

違いますよゥ。。。卑弥子さんは忘れてしまったのですねぇ〜。。。思い出してください。。。

 


釈迦の入滅

釈迦はマガダ国の首都ラージャガハ郊外の鷲の峰を下りて北に向かい、ガンジス河の南岸パータリ村に行った。

そこでマガタ国が新しい都を建設しているのを見学してから河を渡り、ベーサーリに着く。

ここで釈迦は財産のある娼婦アンバパーリーの招待を受けてからベールヴァ村に行き、そこで雨季を過ごす。


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そのとき肉体の苦痛を感じ、入滅の近いことを覚悟する。

釈迦は自分の亡きあとの教団のあり方を弟子のアーナンダ(阿難)に告げた。

「自分の亡きあと、よく自らを灯りとなし、自らをよりどころとなし、他人をよりどころとせず、法を灯りとなし、法をよりどころとなして、他をよりどころとすることなかれ」

雨季が終わって北上し、パーヴァー村でチュンダという鍛冶屋から食事の招待を受け、それが原因で釈迦は食中毒を起こす。

その後クシナーラーに着き、郊外のサーラ樹のもとで弟子たちに寝床を用意させて横たわる。

そして老年の修行者スバッダを教化して最後の弟子とし、付き添いの弟子たちに見守られながら、「もろもろの現象は移り行く、汝ら怠らず努力せよ」ということばを残して入滅する。


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




75-76 ページ
『お経の基本がわかる小事典』
著者: 松濤弘道
2004年11月1日 第1刷発行
発行所: PHP研究所

『仏陀とキリストと娼婦』に掲載
(2016年4月2日)


 


アンバパーリー


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アンバパーリーは、釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の1人。

ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。
ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリーすなわちマンゴー林の番人の子といわれるようになった。

アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた

釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した。

『長老尼偈註』(ThigA.206-7)によれば、出家し高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる。

仏典における言及

『テーリーガーター』1020では、彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いている。

『大般涅槃経』では、リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈迦仏を招待している。
公子らがその招待を譲り受けんと乞うも彼女は譲らなかったという。

その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。
後の天竺五精舎の1つ菴羅樹園精舎である。
この件は諸文献に通じるエピソードである。

 


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     祇園精舎の鐘



 

南伝『マハーヴァッガ』では、彼女の美貌によりますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという。

『雑阿含経』24.20、及び『長部註』(DA.ii.545)によると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈迦仏は弟子集にその美貌で心が揺れないように四念処を説いたとある。

『㮈女祇域因縁経』では、彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって15歳の時に7人の王が求婚したがすべて断った。
Sumanā(須漫)、Padumā(波曇)の二女も彼女と同じように各々樹華より生まれたという。
彼女と二女は共に500人の女性を率いていたが、釈迦仏の説法を聞いて出家し悟りを得たという。




出典: 「アンバパーリー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



思い出しましたわァ〜。。。そうでした。。。お釈迦様はマガダ国の首都ラージャガハ郊外の鷲の峰を下りて北に向かい、ガンジス河の南岸パータリ村に行ったのでしたわ。。。そこでマガタ国が新しい都を建設しているのを見学してから河を渡り、ベーサーリに着いたのです。。。ここでお釈迦様は財産のある娼婦アンバパーリーの招待を受けてからベールヴァ村に行き、雨季を過ごしました。。。そのとき肉体の苦痛を感じ、死期が近いことを悟ったのでござ〜ます。。。



さすがは京都女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・教授です。。。いったん思い出すと、立て板に水のごとく喋りだすのですねぇ〜。。。

誂(からか)わないでくださいましなァ〜。。。でも、アンバパーリーは神聖娼婦ではなく、日本で言えば平安時代の「白拍子」のような女性だったのですわねぇ〜。。。

 



白拍子

 


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白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人。

主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。

素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す。

複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている。

また「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説している。

 

歴史

白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かった。

古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。
神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。

日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという。

このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった。

白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす(時代が下ると色つきの衣装を着ることも多かった)という男装で歌や舞を披露した。
伴奏には鼓、時には笛などを用いた。

後に、猿楽などへと変貌していった。
後に早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなった。
また延年にも取り入れられ、室町時代初期まで残った。

 

歴史上の白拍子

白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子も多い。

また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。

 

事例

仏御前を例にとると、14歳のとき上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となり、その後京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛の屋敷に詰め寄る。

その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより清盛の前で即興で今様を詠み、それを自分で歌いながら舞を見せ、一気に寵愛を集めた。

このとき詠んだ今様は、以下のようなものである。

 





 

君を始めて見るをりは 

千代も経ぬべし姫小松 

御前の池なる亀岡に 

鶴こそ群れ居て遊ぶめれ






出典: 「白拍子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



さすがは京都女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・教授ですねぇ〜。。。アンバパーリを「白拍子」に例えるなんて卑弥子さんじゃないと、なかなか言えませんよゥ。。。



そのようにおだてないでくださいましなァ〜。。。うふふふふふ。。。

(卑弥子さんが、まるで乙女のように恥じらってます)


 


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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

卑弥子さんは、今でも純潔を守って独身なのですわァ〜。。。

それで、まるで乙女のように恥じらうのです。。。

ええっ。。。「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」

あなたは、そのような強い口調で あたくしに ご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわァ。。。。

では、あなたもビックリするような

忠臣蔵のとっても古い映画をご覧くださいまし。。。

なんと。。。昭和3年(1928年)制作の『忠臣蔵』ですわよう!

無声映画ですけれど、弁士の方がなかなかうまい説明をしてくださいますわ。。。

つい、引き込まれて観てしまうのですわ。。。

浅野内匠頭がどうしてヘマをしでかしたのか?

そのへんのところが詳しく映像に残っております。

観るだけの値打ちがありますわ。。。

では、どうぞ。。。

 



 

ところで、どうして小百合さんが

「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれるのか?

 


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あなたは ご存知ですかァ?

実は簡単な事なのですわよう。

小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。

小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。

分からない事ではござ~ませんわァ。

そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。

現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。


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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。

そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。

軽井沢・雲場池の紅葉



軽井沢のイルミネーション



秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩



とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。


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(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』


(costa04b.jpg)

『朝妻船』

『阿修羅を探して』

『羅漢と良寛』

『源氏エロ』

『元寇船』

『ハマガソ』

『歴史ロマン@バンコク』

『平安のキス』

『大久保独裁政権』

『愛情ゲットの呪術』

『源氏物語とおばさん』

『たこつぼ探し』

『光源氏の弟』

『勝負服』

『大伴家持の野心』

『そこが天才の偉いとこか?』


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『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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アンバパーリー

2024-07-18 01:57:29 | 歴史四方山話

 

アンバパーリー

 


(hooker16.jpg)


(hooker12.jpg)




(himiko22b.gif)

デンマンさん。。。 “アンバパーリー”というのはカナダ特有の料理のことでござ~ますかァ~?


(kato3.gif)

あれっ。。。 卑弥子さんは忘れてしまったのですか?

“アンバパーリー”というカナダ特有の料理を デンマンさんはあたくしに ご馳走したことがあったのでござ~ますかァ~。。。

卑弥子さんは、知らない言葉を見ると なんでも食べ物のことだと思うのですねぇ~。。。

あらっ。。。 “アンバパーリー”というのは食べ物ではないのですか?

違いますよ。。。 冒頭にきれいな女性の写真が2枚も貼り出してあるのです。。。 食べ物のことだったら、食べ物の写真が貼り出してあるはずでしょう!?

つまり、“アンバパーリー”というのは、上の女性の名前なのでござ~ますか?

卑弥子さんは、完全に忘れてしまったのですねぇ~。。。

だから、あたくしが何を忘れたのですか?

分かりました。。。 卑弥子さんが何を忘れたかをバラす前に、まず次のリストを見てください。。。

 


(wp70824a.png)

『拡大する』

 



これは僕の Denman Blog の8月24日の「リファラ (リンク元URL)」のリストです。。。 赤枠で囲んだリファラに注目して欲しい。



上の赤枠で囲んだリファラをクリックすると、どのようなページが表示されるのでござ~ますか?

次のページが出てくるのです。。。

 


(jw70825a.png)


『拡大する』

『仏陀とキリストと娼婦』

『現時点での検索結果』


 



あらっ。。。 検索エンジンのページですわねぇ~。。。 「アンバパーリー 画像」と入れて検索したネット市民が居たのですわねぇ~。。。



そうです。。。 札幌に住んでいる 商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君が赤枠で囲んだ記事を読んだのですよ。。。

 


(wp70824d.png)

『拡大する』

 



上のリストは8月24日の「人気記事リスト」です。。。



あらっ。。。 相変わらず『床上手な女の7つの見分け方』がダントツで読まれているのですわねぇ~。。。

 


(kiss007.gif)

『床上手な女の7つの見分け方』

 



卑弥子さんも上の記事を読みましたか?



あたくしは、もう10年ほど前に読みましたわァ~。。。 で、商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君が読んだとIPアドレスを調べて突き止めたのですか?

そうです。。。

 


(ip84253b.png)

『拡大する』

 



卑弥子さんは、この正太郎君に見覚えがあるでしょう!?



あたくしは、このような出歯亀(でばがめ)男と お付き合いをした覚えはござ~ませんわァ。

あのねぇ~、卑弥子さんは最近忘れっぽくなったでしょう!?

あたくしは、まだ、まだ認知症を患うような年ではござ~ませんわァ~。。。 失礼しちゃうわあああァ~。。。

卑弥子さんとは、かつて正太郎君のことで話したことがあるのですよ。。。 次の記事ですよ。。。

 




(liv70404b.png)


『拡大する』

『仏陀とキリストと娼婦』


 



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の 4月1日から4日までの4日間の「リンク元URL」のリストです。。。 赤枠で囲んだ 17番に注目してください。。。



あらっ。。。 ドコモで検索して『仏陀とキリストと娼婦』を読んだのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。

でも。。。、でも。。。、『仏陀とキリストと娼婦』と“神聖娼婦 マリア”が関係あるのでござ~ますか?

もちろん関係ありますよ。。。 関係なかったら、端(はな)から“神聖娼婦 マリア”というタイトルを書きませんよ。。。

それで、どのように関係あるのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、赤枠で囲んであるリンクをクリックすると次の検索結果が出てくるのですよゥ。。。

 


(doc70405a.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



あらっ。。。 ドコモで検索したネット市民は「神聖娼婦 マリア」と入れて検索したのでござ~ますわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 つまり、「マリア様は神聖娼婦だと言う人が居るけれど、それは本当のことなのだろうか?」。。。 札幌に住んでいる商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君は、それをネットで確かめるために検索したのですよ。

あらっ。。。 検索した人物が商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君だと、どのようにしてゲットしたのでござ~ますかァ?

次のリストを見てください。

 


(liv70402a.png)


『拡大する』

『仏陀とキリストと娼婦』


 



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で4月2日の午後3時9分から3時28分までの「生ログ」ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目してください。



あらっ。。。 4月2日の午後3時28分に『仏陀とキリストと娼婦』にアクセスして記事を読んだのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことですよ。。。

でも。。。、でも。。。、札幌に住んでいる商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君がアクセスしたとはどこにも書いてないではござ~ませんかァ!

それはIPアドレスを調べたのですよ。。。

 


(ip84253b.png)

『拡大する』

 



あらっ。。。 商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君のイラストまで描いてありますわねぇ~。。。 でも。。。、でも。。。、プロバイダーのアクセスポイントまでは確定できても、プライバシーを守るためにアクセス者の名前までは確定できないのでござ~ますわァ~。。。



卑弥子さんは、見かけによらずネットに詳しいのですねぇ~。。。

その程度のことはネットの常識でござ~ますわァ。。。

とにかく、堅い事は抜きにして、本題に入りましょう。。。 僕だってアクセスした人物のプライバシーを守るために、商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君というのは仮名ですよ。。。 だから、卑弥子さんもガタガタ僕に突っ込みを入れないでくださいねぇ~。。。

分かりましたわァ。。。 それで、商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君は、間違いなく『仏陀とキリストと娼婦』を読んだのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。

。。。で、デンマンさんは記事の中でマリア様は神聖な娼婦だったと断定なさったのでござ~ますかァ~?

僕が断定するはずないでしょう!

でも。。。、でも。。。、デンマンさんの記事を検索して読んだのですから、正太郎君は何らかの情報をゲットしたはずですわァ。

あのねぇ~、検索して『仏陀とキリストと娼婦』を読んだ正太郎君は次の箇所を読んだのですよ。。。

 


神聖娼婦


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神聖娼婦は宗教上の儀式として神聖な売春を行った者である。
その儀式を神聖売春または神殿売春という。

古代近東地域における神聖娼婦

イナンナもしくはイシュタルは女神官の儀式用髪飾りを付けて表される
チグリス川とユーフラテス川に沿った古代近東にはバビロンのイシュタルの神殿をはじめとした多くの聖地や神殿、「神の家」が存在しており、ヘロドトスは『歴史』の中で神殿売春の慣習を伝えているが、多分に誤解を含んでいるという主張もある。

サミュエル・ノア・クレーマーの聖婚:古代シュメールの信仰・神話・儀礼によると、後期シュメールおよびアッカドの王サルゴンは、アキトゥと呼ばれる新年祭の10日目に神殿で行われる王と女神の結合の儀式に神聖娼婦を参加させることで、その正当性を確立させたとされる。
西暦4世紀にキリスト教を奉じるローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が女神の神殿を破壊し、キリスト教化したことによって、神聖娼婦の習慣は終了した。

メソポタミア

古代メソポタミアの巫女は、寄進を受けた者に神の活力を授けるために性交渉を行う風習があった。

『ギルガメッシュ叙事詩』でもギルガメッシュの友エンキドゥの獣性を鎮めるために、娼婦を派遣して性交渉を行ったとの記録があり、当時は売春行為は、現在とはかなり違い神聖な儀礼であった事をうかがい知る事ができる。


(hooker15.jpg)

また、古代メソポタミアのイシュタルや古代ギリシアのアフロディーテ、北欧神話のフレイヤなど、多くの神話では愛と美を司る女神は性に奔放な姿で描かれているのも、こうした神殿娼婦の影響によるものと考えられている。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは古代メソポタミアにおいて神殿売春が行われていたと初めて言及した人物である。

アジア

デウキ(英語版)とは、古にされた契約を果たして宗教的な利益を得るために少女が地元のヒンズー教の寺院に捧げられる、ネパール西部の古い習慣である。

少女は売春婦として寺院に奉仕し、それはインドのデーヴァダーシーの習慣と類似している。


(indogals.jpg)

この習慣は無くなりつつあるが、少女はまだ捧げられている。

日本

日本における金精様などの生殖器崇拝の起源も、農作物の豊穣祈願である。
交接を伴う祭祀も多く見られ、各地の闇祭のほとんどが性交の儀礼を伴なっていた。
筑波山にはカガイと称する性の解放祭があり、宇治には闇祭(別名:種もらい祭)という露骨な性の取引があったという。

また白拍子や加賀女等の遊女が主役の祭りも多く、中山太郎は「巫女が日本における遊女、遊郭の起源である」と書いている。
祇園八坂神社の「神輿迎え」、沖縄の尾類馬、遊女供養の下関の赤間宮の先帝祭などでは遊女が舞いを奏し、播磨の鎮守賀茂神の祭りや摂津の住吉大社では遊女が祭りの主役であり「この地こそ神功皇后の勅許以来日本最初の遊郭であった」と唱えられているという。

ゆえに各地方の遊郭は神社を中心に発達した。
伊勢の古市に遊郭が整備されたのは決して近年の話ではなく、「大昔から全国に渡り『夫婦連れての伊勢参宮したのでは御利益がない』という諺が行われている裏面には、道者は必ず古市で遊ばなければならぬように仕向けられていたのである」と述べている。




出典: 「神聖娼婦」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



神聖娼婦は宗教上の儀式として神聖な売春を行った者であると書いてあるのですよ。。。



でも、西暦4世紀にキリスト教を奉じるローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が女神の神殿を破壊し、キリスト教化したことによって、神聖娼婦の習慣は終了したとも書いてありますわァ。。。

卑弥子さんは目の付け所が鋭いですねぇ~。。。 確かに、西暦4世紀に、神聖娼婦の習慣は終了したのでしょう。。。 でもねぇ、正太郎君は、次の小文も読んだのですよ。。。

 



マグダラのマリア


(christ06.jpg)

マグダラのマリアは、新約聖書中の福音書に登場する、イエスに従った女性である。

マリヤ・マグダレナとも転写される。

正教会・カトリック教会・聖公会で聖人。

伝説中のマグダラのマリア、たとえばヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』 (Golden_Legend)などによれば、マグダラのマリアは金持ちの出自であって、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悔悛したという。

娼婦をも意味する「罪の女」(the Sinner)との異名を与えられたり、ルネサンス以降「マグダラのマリアの悔悛」(The Penitent Mary Magdalene)を主題とする絵画、彫刻が多く制作される。


(magda01.jpg)

このイメージはカトリック教会の作為が関与していると指摘されている。

イエス昇天後、兄弟ラザロ、マルタ (マリアの姉) らとともに南仏マルセイユ(あるいはサント=マリー=ド=ラ=メール)に着き、晩年はサント=ボームの洞窟で隠士生活を送ったのちにその一生を終え、遺骸はいったんエクス=アン=プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボームに葬られたと信じられた。

ヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂はその遺骸(頭蓋骨)を移葬したものと主張している。

しかし、サン=マクシマン側はいまも遺骸を保持していると主張しており、一部はパリのマドレーヌ寺院にも分骨されている。




出典: 「マグダラのマリア」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



マグダラのマリアは、娼婦をも意味する「罪の女」(the Sinner)との異名を与えられたのですよ。。。



つまり、正太郎君はこの上の部分を読んでマグダラのマリアが神聖娼婦だと思い込んでしまったのですかァ~?

たぶん、そうだと思うのですよ。。。

でも、それはデンマンさんの憶測でしょう?

あのねぇ~、本人に尋ねてみないことには、誰も断定できないですよ。。。 もし、正太郎君がこの記事を目にすれば、コメントを書いてくれると思います。

そのつもりで、あたくしを呼び出してこの記事を書いたのでござ~ますか?

そうです。。。 いけませんでしたかァ~?




『神聖娼婦 マリア』より
(2017年4月7日)


 



つまり、正太郎君は“神聖娼婦”にハマッているのですわねぇ~。。。



“神聖娼婦”にハマッているかどうかは知らないけれど、とにかく、正太郎君は“神聖娼婦”に関心があるのですよ。。。

分かりましたわ。。。 “アンバパーリー”というのは、“神聖娼婦”という意味ですわねぇ~。。。

違います。

これだけ長々と上の記事を引用してヒントを与えてくれたのだとしたら、“アンバパーリー”というのは、“神聖娼婦”という意味だとしか考えられないではありませんかァ!

卑弥子さんは、まだ思い出せないのですね?

いったい、あたくしが何を忘れているとデンマンさんは言うのですかァ~?

あのねぇ~、正太郎君は、今回 ダントツで読まれている『床上手な女の7つの見分け方』じゃなく、わざわざ『仏陀とキリストと娼婦』を読んだのです。。。 この記事の中で僕と卑弥子さんが仏陀とキリストと娼婦について語り合ったのですよ。。。 そして、この記事の中に“アンバパーリー”が出てくるのです。。。

だったら、初めから『仏陀とキリストと娼婦』のその部分を出せばいいではありませんかァ!

いや。。。 出したくなかったのです。。。 なぜなら、卑弥子さんが果たして どの程度記憶しているのだろうか?。。。 僕は、その事が気にかかっていたのですよ。。。

あたくしは、これまでにデンマンさんと いろいろな話題について語り合っているのですわ。。。 いちいち細々とした事を覚えてられませんわァ~。。。 じらさないで、その部分を書き出してくださいなァ~。。。

分かりました。。。 次の部分です。。。

 


釈迦の入滅

釈迦はマガダ国の首都ラージャガハ郊外の鷲の峰を下りて北に向かい、ガンジス河の南岸パータリ村に行った。

そこでマガタ国が新しい都を建設しているのを見学してから河を渡り、ベーサーリに着く。

ここで釈迦は財産のある娼婦アンバパーリーの招待を受けてからベールヴァ村に行き、そこで雨季を過ごす。


(hooker16.jpg)

そのとき肉体の苦痛を感じ、入滅の近いことを覚悟する。

釈迦は自分の亡きあとの教団のあり方を弟子のアーナンダ(阿難)に告げた。

「自分の亡きあと、よく自らを灯りとなし、自らをよりどころとなし、他人をよりどころとせず、法を灯りとなし、法をよりどころとなして、他をよりどころとすることなかれ」

雨季が終わって北上し、パーヴァー村でチュンダという鍛冶屋から食事の招待を受け、それが原因で釈迦は食中毒を起こす。

その後クシナーラーに着き、郊外のサーラ樹のもとで弟子たちに寝床を用意させて横たわる。

そして老年の修行者スバッダを教化して最後の弟子とし、付き添いの弟子たちに見守られながら、「もろもろの現象は移り行く、汝ら怠らず努力せよ」ということばを残して入滅する。


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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




75-76 ページ
『お経の基本がわかる小事典』
著者: 松濤弘道
2004年11月1日 第1刷発行
発行所: PHP研究所

『仏陀とキリストと娼婦』に掲載
(2016年4月2日)


 



財産のある娼婦アンバパーリーという女性は、そもそもどのような人物なのでござ~ますか?



次のような女性です。

 


アンバパーリー


(mango03.jpg)

 

アンバパーリーは、釈迦仏の女性の弟子(比丘尼)の1人。

ヴェーサーリー(毘舎離)の人でヴァイシャ出身。
ヴェーサーリー城外のマンゴー林に捨てられ、その番人に育てられたので、アンバパーリーすなわちマンゴー林の番人の子といわれるようになった。

アンバパーリーは、遠くの町にまで名声が伝わっていた遊女で、美貌と容姿、魅力に恵まれ、他にも踊りや歌、音楽も巧み、当然言い寄る客が引けを取らずとなって舞台等で莫大な稼ぎを得ていた。

釈迦仏に帰依し、その所有していた林を僧団に献納した。

『長老尼偈註』(ThigA.206-7)によれば、出家し高名な長老となった自分の息子ヴィマラ・コンダンニャの説法をきき、みずからも出家、比丘尼となり、阿羅漢果を得たとされる。

仏典における言及

『テーリーガーター』1020では、彼女の美貌に心を奪われた比丘衆に阿難が誡めのために偈を説いている。

『大般涅槃経』では、リッチャヴィ(離車)族の公子らに先んじて釈迦仏を招待している。
公子らがその招待を譲り受けんと乞うも彼女は譲らなかったという。

その所有していた菴摩羅樹苑(マンゴー樹園)を僧団に寄進した。
後の天竺五精舎の1つ菴羅樹園精舎である。
この件は諸文献に通じるエピソードである。

 


(mango03.jpg)

     祇園精舎の鐘



 

南伝『マハーヴァッガ』では、彼女の美貌によりますます多くの人々が街に引き寄せられてヴェーサーリーが潤ったという。

『雑阿含経』24.20、及び『長部註』(DA.ii.545)によると、菴摩羅樹苑にて、彼女が来るのを見て、釈迦仏は弟子集にその美貌で心が揺れないように四念処を説いたとある。

『㮈女祇域因縁経』では、彼女はヴェーサーリーのバラモンの㮈樹の肉瘤(にくこぶ)から生まれたとし、美人なるをもって15歳の時に7人の王が求婚したがすべて断った。
Sumanā(須漫)、Padumā(波曇)の二女も彼女と同じように各々樹華より生まれたという。
彼女と二女は共に500人の女性を率いていたが、釈迦仏の説法を聞いて出家し悟りを得たという。




出典: 「アンバパーリー」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



つまり、この事をあたくしに教えるために、わざわざ長々と、遠回りに、いろいろな記事を引用なさったのですか?



そうですよ。。。 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を教えている橘卑弥子・准教授にとっても、極めて参考になる話だと思ったのですよ。。。

マジで、そう思ったのでござ~ますかァ?

もちろんです。。。 いけませんでしたかァ?




初出: 2017年8月27日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。

アンバパーリーさんは捨て子だったのですわねぇ~。。。

でも、お釈迦様の説法を聞いて悟りを開いたのですから、

知的な女性だったのでしょうねぇ~。。。

ちょうど あたくしのように。。。 おほほほほ。。。

あなただってぇ、そう思うでしょう!?

ところで、話は変わりますけれど、古代のインドのお話も面白いですけれど、

日本の平安時代、あるいは古代には あなたの知らない雄大な、あるいはミステリアスな面白いお話があるのですわよう。。。

あなたのために平安史、古代史の興味深い記事を用意しましたわァ。

ぜひ お読みくださいねぇ~。。。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。

だから、あなたも、また読みに戻ってきてください。

じゃあ、またねぇ~。。。


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(hiroy2.png+betty5d.gif)
『HIRO 中野 せどり スパマー』

 


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ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。




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『熟女下着』ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
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■ 『さらに軽井沢ブーム』

■ 『バンクーバーの生活』

■ 『別れの朝に』

■ 『思い出の天の川』

■ 『隠し子』

■ 『ウィーンの空』

■ 『ハルヴァ@軽井沢』

『キャドバリーチョコ』軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
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■ 『二人の母親』

■ 『アダルトダメよ』

■ 『月の男』

■ 『アダルト駄目』

■ 『ホロドモール』

■ 『ワンダフルライフ』

■ 『上原良司の自由主義』

■ 『季節外れのハロウィーン』

■ 『アダルトと成人』

■ 『やらしい夢』


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■ 『ハロウィーンと火祭り』

■ 『火祭り』

■ 『火祭りのあとで』

■ 『人気の外人ヌード』

■ 『ひごずいきの装着』

■ 『軽井沢夫人@韓国』

■ 『トランプ悪大統領』

■ 『トランプ大統領@注目』

■ 『味もめん再び』


(sayuri201.jpg)

■ 『宮沢りえ@ツイッター』

■ 『宮沢りえファン』

■ 『行田中央総合病院』

■ 『怖い話が好き』

■ 『夢の軽井沢』

■ 『タリアセン夫人とツイッター』



軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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日本初のヌードショー

2024-07-13 00:37:44 | 歴史四方山話

 

日本初のヌードショー

 


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デンマンさん。。。 つい先日、9月27日に“Playboy”の創刊者のヒュー・ヘフナー(Hugh Hefner)さんが91歳で亡くなりましたわねぇ~。。。


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あれっ。。。 ジュンコさんはよく知ってますねぇ~。。。

だってぇ、ニュースが世界を駆け巡りましたわァ~。。。

 


(playboy3.jpg)



 



そうなのですよ。。。 僕もちょっと驚きました。。。 しぶとく100歳を超えるまで生き抜くのじゃないかと思ってましたからねぇ~。。。



。。。で、ヒュー・ヘフナーさんを追悼するために“日本初のヌードショー”というタイトルにしたのですかァ~?

それも理由の一つだけれど、実は、バンクーバー市立図書館で借りていた本を読んでいたら次の箇所に出くわしたのですよ。。。

 


日本初のヌードショー


(teitoza04.jpg)

 

昭和22年になりますと、1月15日に日本初のヌードショーが行われました。 (略)

新宿の今の伊勢丹の前にあった映画館「帝都座」の5階に小さな劇場がありまして、そこでいわゆるストリップがはじまったのです。

そうは言ってもタイトルは「名画アルバム」。

 

“ヴィーナス誕生”と銘打って、カーテンが上がると女の人が額縁を背景に大きな帽子を持って舞台に立ったまま動かないのです。

下半身は帽子で隠されているけれど、たしかにハダカなんです。

まあそれでも男どもは押し寄せまして、固唾(かたず)をのんで舞台の上にはじめての女性のヌードを見たんですね。

 

この時のヌード第一号が甲斐美春(かい みはる)さんという若い女性だそうですが、彼女は間もなく親父さんに怒られてやめてしまい、その後に出てきたのがヒロセ元美さんという非常に有名なストリッパーです。


(teitoza05b.jpg)


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彼女は「立っているだけじゃつまらない」と自ら動き出し、見事な裸踊りを披露して場内は大変沸きました。

これを警察が取り締まることもなく、ストリップは一気に盛んになったんですね。

 

ちなみに、この年の夏くらいから、浅草の大都(だいと)劇場やロック座でも華々しいストリップがはじまりまして、昭和23年に長岡から東京に出てきた私もよく通わせていただきました。

 

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)




207-208ページ 『昭和史 戦後篇 1945-1989』
著者: 半藤一利
2009年7月27日 第4刷発行
発行所: 株式会社 平凡社


 



確かに、昭和22年を契機にヌードショー、つまり ストリップが日本全国に広まったらしいですよ。。。



デンマンさんも、ストリップを見に日本全国を駆け回ったのですか?

僕は、まだヨチヨチ歩きだったので、母親の乳房につかまりっきりでしたよ。。。 (モナリザの微笑)

それほど、ストリップがはやったのですか?

あのねぇ~、中学生になってから黒澤監督が作った映画『生きる』を観たのだけれど、市役所の万年課長で退職する主人公を演じる志村喬が、“生きがい”を見出すために参考のためにストリップを見に行くのですよ。。。

 


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上の写真の中央に写っているのが退職してから“生きがい”を探している主人公ですよ。。。



つまり、ストリップに“生きがい”を見いだしたのですか?

やだなあああァ~。。。 いくら何でも“ストリップ”に“生きがい”を見いだして、主人公が 毎晩、毎晩ストリップを見に行ったら、黒澤監督の映画にならないでしょう!

つまり、ヌードショーもストリップも“生きがい”にはならない事を言うために、この記事を書く気になったのですか?

いや。。。 そればかりではありません。。。 半藤一利さんは、上の本で昭和22年に“日本初のヌードショー”が出現したと書いているけれど、もっと大昔に“ヌードショー”があったのですよ。。。

マジで。。。?

僕は、このような真面目な話をしている時にウソとジュンコさんの尻は突きません。。。

。。。で、大昔っていつ頃の事ですか?

ちょっと次の記事を読んでみてください。。。

 


アメノウズメ


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アメノウズメは、日本神話に登場する神。
「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。

一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。
大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもある

『古事記』では天宇受賣命、『日本書紀』では天鈿女命と表記する。
神名の「ウズメ」の解釈には諸説あり、「強女(オズメ)」の意とする『古語拾遺』説や、「髻華(ウズ)」を結った女性(巫女の装束)の意とする『稜威道別』(イツノチワキ)説、折口信夫が『若水の話』で出した、「マナを指すヲチの音便で、魂をヲチふらせる意」説などがある。

 

神話での記述

岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。
思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。

『古事記』では次のように記述されている。

「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」
つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。


(iwato02b.jpg)

その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。

天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。
アメノウズメはアマテラスと高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。

この時のアメノウズメは『日本書紀』では次のように記述されている。

「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」

つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら向かって言ったとある。
その後、名を問い質すと、その神は国津神の猿田彦と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。

アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、石凝姥命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人としてニニギに随伴して天降りした。
アメノウズメはサルタヒコの名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。
一説にはサルタヒコの妻となったとされる。

アメノウズメは大小の魚を集めて天孫(ニニギ)に仕えるかどうか尋ねた。
みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。
それでナマコの口は裂けているのである。




出典: 「アメノウズメ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



これは、もう古代のストリップショーなのですよ。。。



でも。。。、でも。。。、これは神話ではありませんかァ~!

あのねぇ~、確かに、神話には違いないのだけれど、このような事がなかったと言い切ることはできない!

デンマンさんは、実際に、このような珍事があったと断言するのですか?

そうです。。。 でも、この事は僕だけが言っているわではないのですよ。。。 実は、この神話の起源には“日食”が関係していると言われている。。。

“日食”ってぇ、月が太陽の前を通り過ぎるときに、地球から見て太陽をすっかり隠してしまうので、一時的に夜のように暗くなるという、あのことですか?

その通りです。。。

それが古代のストリップショート関係あるのですか?

ちょっと考えてみてください。。。 天照大神が岩戸の中に隠れてしまったというのは、ちょうど月が太陽を隠してしまったので、夜のように暗くなったということなのですよ。。。 その時、当時の縄文人はビックリしてしまった。。。 それで、この世はもう終わりだという人たちが、酒を飲んで歌えや踊れやの乱痴気騒ぎをしたわけです。。。 中には酒を飲みすぎて酔っ払った女が、裸になって踊りだす。。。

つまり、それが古代のストリップショーとなって神話になったとデンマンさんは言うのですか?

だから、僕だけが、そう言っているわけじゃないのですよ。。。

他にどなたが、そう言ってるのですか?

あの映画俳優で、監督のメル・ギブソンが、すごい映画を作ったのですよ。。。 その映画の中に“日食”が出てくる。。。

 


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『実際のカタログページ』



 



あらっ。。。 デンマンさんはバンクーバー市立図書館でDVDを借りて上の映画を観たのですか?



そうです。。。 歴史に興味がある人にとっては見逃せない映画ですよ。。。

。。。で、どのような内容なのですか?

日本語版の『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように書いてあります。

 


アポカリプト


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『アポカリプト』(原題: Apocalypto)は、2006年のアメリカ映画。

監督はメル・ギブソン。

 

概要

スペイン人侵略直前のユカタン半島を舞台に、生贄にされそうになった捕虜の脱走と生き残りを掛けた逃走を描く。全編通じて、マヤ語を使った映画となっている。

宣伝の際には「マヤ文明の衰退を描く作品」として宣伝されていたが、マヤ文明自体の衰退は描かれておらず、作品は終始逃走活劇である。

米国では、激しい暴力シーンが続くことからR指定作品となった。

 

評価

非英語作品、出演俳優は無名揃い、レイティングがR指定、そして公開前に監督のメル・ギブソンの逮捕とユダヤ人蔑視発言などの騒動も起こったが、それにも関わらず全米で、公開初週の週末(2006年12月8日 - 10日)の興行収入は初登場1位を記録した。

前述した監督の不祥事事件がプラスになったのではとも言われている(事件についてはメディアによって連日報道されていた)。

しかし、スタートの週末に稼ぎ出した興行収入(約1500万ドル)は監督の前作『パッション』と比べると、低調である。

実在したマヤ文明との相違を議論される作品である。

第一に、マヤ人に劇中にあるような虐殺行為があったかどうかであるが、マヤ文明はトルテカ文明と交流を深めた結果、末期になり盛んに生け贄を捧げる行為を行っていたとされる。

これは入植者であるスペイン人の記録(マヤ人による書物の大半はスペイン人により焼却された)によるものである為、自らを正当化する詭弁という意見もあるが、それらを差し引いても、当事のヨーロッパは未開地への侵略を容認していたことから、生け贄を捧げていたこと自体は事実であるようだ。

映画評論家の町山智浩は「この作品のストーリー構成や演出は、コーネル・ワイルド監督が66年に発表した映画『裸のジャングル』(原題: The naked prey)の影響が顕著であり、重要なシーンは完全に盗作と言ってよいほど似通っている」と評論している。




出典: 「アポカリプト」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



。。。で、この映画にもストリップが出てくるのですか?



この当時の人たちは、ほぼ裸に近い生活をしているから、特に“ストリップ”が強調されてるわけじゃないけれど、僕が注目したのは“日食”の部分が出てくるのですよ。。。 要するに、科学的なマインド持っていない人々にとっては、“日食”はかなりショッキングな現象ですよ。。。 だから、縄文人にとっても、この衝撃的な現象が神話の『天岩戸』伝説を生むことになった。

それで、上の映画では、どのような伝説を生むのですか?

上の話は西暦1511年当時のユカタン半島を舞台にくりひろげられるのです。。。 生贄にされそうになった捕虜が、ちょうど“日食”が出現して、その超自然現象に“神秘性”を感じて、“王”がその捕虜を殺さずに生かすことにするのです。。。 つまり、そのときのエピソードが伝説化され、現代になって映画化されたというわけです。。。

。。。で、ストリップは。。。?

だから、日本の縄文人にとっては“日食”とストリップが結びついたのだけれど、ユカタン半島は熱い国だから、日常の生活の中で“ストリップ”は珍しいことではなかった。。。 それで、伝説は“日食”と“サバイバル”が結びついたわけです。。。

つまり、縄文人は寒い国に住んでいたので、ショッキングな現象が“ストリップ”と結びついたけれど、熱い国では“日食”は“サバイバル”と結びついたということを言うために、わざわざ“日本初のヌードショー”を持ち出してきたのですか?

そうです。。。 いけませんか?




初出: 2017年10月2日



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あなたも、もしお暇だったら、近くの図書館でDVDを借りて『アポカリプト』を観てください。

日本語版があるはずですわ。。。。

日本語吹き替えでは次のようになってますわァ。

•ジャガー - ルディ・ヤングブラッド(高橋広樹)

•セブン - ダリア・エルナンデス(甲斐田裕子)

•ミドル・アイ - ヘラルド・タラセーナ(東地宏樹)

•ゼロ・ウルフ - ラオウル・トルヒーヨ(飯塚昭三)

図書館でDVDを借りることができない人は

わたしがハマッている“愛と性の美学のロック”のクリップでも観てください。。。

では、じっくりと味わってくださいねぇ~。。。


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ところで“アメノウズメ”のお話も面白いですけれど、

日本の古代史には、他にも興味深い不思議なお話がたくさんあります。

たまには、日本の古代の話も読んでください。。。

では次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。


天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?



ところで、他にも面白い記事がたくさんあります。

興味のある方は次の記事も読んでみてくださいね。

 


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『宮澤理恵@Macao(2013年2月28日)』

『チョコレートと軍産複合体』

『チョコレートと甘い権力』

『CIAの黒い糸』

『美しい日本語再び』

『宮沢りえブーム?』

『また、宮沢りえ?』

『浅間山噴火とフランス革命』

『なぜアクセスが急増したの?』

『気になる検索ワード』

『なぜ塩野七生批判』

『その検査、ムカつく!』


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『宮沢りえと床上手な女』

『MH370ミステリー』

『なぜ死刑廃止?』

『真犯人はそこにいる』

『MH370ミステリー裏話』

『お裁きを信じますから』

『ジャルパックと国際化』

『古代ローマのセックス』


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『CIAとノーパン』

『エロいローマ再び』

『エロいけれどためになる話』

『えろあくにめ温泉』

『エロいけれどためになる』

『地球上のネット普及率』

『原発はダメだったのに』


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『スカートをはいた兵隊』

『行田シンドローム』

『幻の暴走機関車』

『CIA@NOパンツ』

『エリュトゥラー海案内記』

『伊藤若冲 ランブータン』

『知的快楽』


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『シャフリ・ソフタ』

『閨房でのあしらい』

『漱石とグレン・グールド』

『女性の性欲@ラオス』

『美学de愛と性』

『女の本音』

『にほん村からの常連さん』


とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。


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『スパマー HIRO 中野 悪徳業者』

 


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ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事



平成の紫式部、橘卑弥子でござ~ます
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『卑弥子の源氏物語』

『平成の紫式部』

■ めれんげさんの『即興の詩』

■ めれんげさんの『極私的詩集』

Jagel - Soft Japanese Bagel
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■ "JAGEL - Soft Japanese Bagel"


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■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


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■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』




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カウチポテト

2024-07-11 00:52:38 | 歴史四方山話

 

カウチポテト

Couch potato


 


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デンマンさん。。。どうして「カウチポテト」を取り上げたのですか?


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あのねぇ~、夕べ、バンクーバー図書館で借りた『暮らしの年表 流行語100年』という本を読んだのですよ。

 


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上のリストの中の赤枠で囲んだ本ですか?



そうです。 その本の中で次のような箇所に出くわしたのですよ。

 


1988年 昭和63年

この年「カウチポテト族」のことばがはやる。
アメリカのイラストレーターが、カウチ(ソファーより低く、肘掛がひとつの長いす)に寝ころんでポテトチップを食べながらテレビを見る若者を指して言った。


(couch23.jpg)

赤字はデンマンが強調のため。
写真はデンマン・ライブラリーより)




182ページ 『暮らしの年表 流行語100年』
講談社編 2011年5月19日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社


 



あらっ。。。 「カウチ」の説明がちょっと変ですわね。



そうなのですよ。 このページの担当者は明らかにアメリカやカナダで暮らしたことがないのですよ。

そうですわね。

 


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ソファーより低く、肘掛がひとつの長いすも確かに「カウチ」と呼ぶ人もいますけれど、GOOGLEでcouch(カウチ)を入れて検索すれば分かるように圧倒的に「肘掛が二つの長いす」の方が多いのですよね。

 


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そうなのですよ。 こういうところで実際に本場で暮らしたことがあるか?ないか?がすぐに分かってしまうのですよ。 だからと言って僕は、この担当者を責めるつもりはないけれど、この担当者以外にも校正係が読んでいるはずなのに気づかなかったのだろうかと思ってね。。。



校正係の人もアメリカやカナダで暮らしたことがないのですわよ。

たぶんね。 僕のように人生の半分以上を欧米で暮らしている人間ならば、すぐに変だと気づくのだけれど。。。

それで、こうして「カウチポテト」をタイトルにしたのですか?

そうなのですよ。 カウチ(ソファーより低く、肘掛がひとつの長いす)に寝ころんでポテトチップを食べながらテレビを見る若者を「カウチポテト族」と呼ぶ、というのを目にした時に、「日本人は家庭では一人一人が箱膳で食事をします」と言う文章を目にしたぐらいに僕は変だと思ったのですよ。

 


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確かに北米で「カウチ」と言えば、上のお父さんが寝そべっているような長いすのことを呼ぶのが一般的ですわ。 ところで、日本では家庭で一人一人が箱膳で食事をしていた頃があったのですか?



あのねぇ~、実は『暮らしの年表 流行語100年』の中にも、それについて次のように書いてあった。

 


銘々膳からちゃぶ台へ

日本女子大学・北陸大学非常勤講師 東四柳祥子

「一家団欒」の象徴とされるちゃぶ台は近世までの銘々膳(めいめいぜん)による配膳形式とは異なり、空間を共有するもの同士が囲む四本脚の共同膳である。
日本における共同膳の歴史は、奈良・平安時代の貴族たちに享受されていた「大饗料理」になかのぼることができる。
その後、武家社会における師従関係の成立により、身分に基づき整列することで、銘々膳によって食事をする形式が定着を見せた。
そして江戸時代を迎え、鎖国化でも交流が許された中国から一つのテーブルを囲み、大皿に盛られた料理を分かち合う「卓袱(しっぽく)料理」が出島に伝来する。
まさにこの形式こそが、ちゃぶ台のルーツともされ、やがては都市部での酒宴形式として人気を誇るようになる。
しかし、根強い儒教的観念に縛られた日常生活の中では、家長を中心に、銘々膳での食事形式が従来どおり踏襲され、しつけの場の重要な空間としての意味も持ち合わせていた。


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しかし、幕末の開国以後、流入した西洋文化の影響は、家族の食事風景を大きく変えることになる。
新たに導入された西洋料理は、中国料理同様、テーブルを囲むといった食事形式を呈しており、共同膳で食事をする習慣が上流階級の間から徐々に定着をみせた。 (略)
やがて昭和期になると、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』などといった国民的な漫画のなかで、ちゃぶ台は家族をつなぐ大切な装置として描かれ、その空間で共有される話題や珍事が、微笑ましい家族関係の理想形を印象づける効果を発揮し始めるようになる。

しかし、昨今の食の課題には、個食や孤食、外食や中食(なかしょく)にたよるといった食の外部化・簡略化への依存などがあり、家族仲良くちゃぶ台を囲むという機会の形骸化も拭えない事実である。
いま私たちは、昭和期を通して形成された家族で共有する時間のあたたかさを、再認識する時代に来ているといえるのではなかろうか。
ちゃぶ台が、人間関係の構築・再生の場であった昭和の風景に学び、守るべき遺産であるという意識も高めていきたいものである。


(table90.jpg)

赤字はデンマンが強調のため。
読み易いように改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)




139ページ 『暮らしの年表 流行語100年』
講談社編 2011年5月19日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社


 



デンマンさんが子供の頃はどうだったのですか?



もちろんちゃぶ台ですよ。 僕が住んでいた埼玉県行田市の下町(しもまち)で銘々膳で食事をしている家は僕の知る限り一軒もありませんでした。 それに小学校でも中学校でも友達の家に遊びに行って銘々膳で食事をしている光景を見たことは全くありませんでしたよ。

つまり、デンマンさんが生まれ育った太平洋戦争後では、ほとんどすべての家でちゃぶ台で食事をしていたのですか?

少なくとも僕の身の回りではそうだった。 ところが僕が子供の頃に南河原村(2006年1月1日、行田市に吸収合併)という母親の実家に行った時の食事風景を見たら銘々膳で食事をしていたので、まるで江戸時代の武家の食事風景だと思ってビックリしたのですよ。


(table94.jpg)



あらっ。。。 囲炉裏(いろり)を囲んで一人一人が箱膳を前にして食事をしていたのですか?



囲炉裏(いろり)はなかったけれど、一人一人が箱膳を前にして食事をしていたのですよ。

。。。で、デンマンさんも箱膳を持ってその中に加わったのですか?

そうですよ。 祖母が僕の箱膳を用意してくれました。 そのような食事風景はチャンバラ映画の中で見ただけだったから、なんとなく可笑しかったのを覚えてますよ。 でもねぇ、1970年代、80年代になって日本が経済大国になり始めると、僕の母親の実家もガラッと近代化されて、新しい家を建て、食事風景もアメリカ型のダイニング・キッチンでテーブルを囲んで食事するようになりました。 その代わり様にもビックリしたものですよ。 まるで魔法がかかったように急に近代化したものです。

でも、かつて日本の狭くて粗末な住宅は「うさぎ小屋」だと言われた事がありますよね。

そうですよ。

上の本の中にも書いてありますよ。


うさぎ小屋


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EC事務局がEC委員会に提出した「対日経済戦略報告書」の秘密文書のなかに「日本人は、西洋人からみると、うさぎ小屋とさして変わらない住宅に住む仕事中毒者」とあったことがわかり、話題となった。
対日貿易赤字が増大していたECの対日感情のあらわれといえた。
自嘲をこめて日本でも流行語化した。

赤字はデンマンが強調のため。
読み易いように改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)




161ページ 『暮らしの年表 流行語100年』
講談社編 2011年5月19日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社


 



分かるような気がしますわ。 日本が急速に経済大国になったので、ヨーロッパの人たちは半(なか)ばビックリし、半ばやっかみ半分で悪い冗談を言いたくなったのでしょうね。



うん、うん、うん。。。 そういう事ってよくあることですからね。 針小棒大にしてムカつくのは大人気ないことかも知れませんよ。 でもねぇ、「うさぎ小屋」と言われてマジでムカついた日本人も結構居たのですよ。 すくなくとも2ちゃんねるでは話題になったものです。 実は、僕も「うさぎ小屋」について記事を書いたことがあるのですよ。 ちょっと読んでみてください。

 


(rabbit2.jpg)

『ウサギ小屋』

(2007年9月7日)


 



この上の記事の中でも取り上げたけれど、「うさぎ小屋」というのは誤訳だと次のようにコメントした人が居るのですよ。

 


これはただの誤訳だそうです。
「世界のGOOD日本&BAD日本」という番組でやってましたが、
高度経済成長期に建てられ始めた日本の団地をフランスメディアが
[cage a lapins](画一的な狭いアパルトマンの多くから成る建物)と報じました。

これを見たある日本人が、cage(小屋)lapins(うさぎ)と直訳してしまったそうです。


(rabbit2.jpg)

それを伝え聞いた日本メディアが、海外で『日本人はうさぎ小屋に住んでいる』と報じられていると記事にしてしまい、
その記事が欧州に逆輸入されて「ウサギ小屋」というイメージが定着してしまったそうです。


 



フランス語の cage a lapins を日本語に訳せば「うさぎ小屋」になると思いますわ。 「画一的な狭いアパルトマンの多くから成る建物」と訳されるのは建築雑誌のアパートという文脈の中での特殊な意訳だとわたしは思いますわ。



でもねぇ~、確かに「うさぎ小屋」と思われるような物が日本には存在したのですよ。

マジで。。。?

「カプセルホテル」というものです。

 


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これなどは、まさに「うさぎ小屋」という感じですよ。 『暮らしの年表 流行語100年』の中には「カプセルホテル」は出てませんでした。 ビジネスホテルと同様に、都市の繁華街でよく見かけたものです。 1979年、ニュージャパン観光が大阪府大阪市梅田に「カプセルホテル・イン大阪」を開業したのが最初だと言われています。 最近でも人気があるようです。

 





 



あらっ。。。 羽田空港のカプセルホテルは素晴らしいではありませんか! わたしも、これなら泊まりたいですわ。 デンマンさんも、カプセルホテルに泊まったことがあるのですか?



僕は1980年代に日本に帰省した時、話の種にと思って上野で泊まろうとしたことがあるのですよ。 電話帳で調べて、片っ端から、その日の予約を入れようとしたのだけれど 10件ぐらいのカプセルホテルに電話したのに、どれも空きがなくて体験宿泊できませんでした。 それほど需要がありましたよ。

どうして、そんなに人気があったのですか?

安い所では1500円から2000円で泊まれたからですよ。 映画を観る値段だったのです。

あらっ。。。 映画を観る値段で泊まれたのですか?

そうなのです。

2ドルか3ドルで泊まれるようになればバンクーバーでも流行(はや)るかもしれませんわね?

そんな安いカプセルホテルでは採算が合わないと思いますよ。




初出: 2013年1月9日



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【卑弥子の独り言】


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ですってぇ~。。。
あたくしの母はカプセルホテルに泊まった経験はありませんですけれど、高度成長時代を経験しておりますわ。
その頃日本人は「エコノミックアニマル」と呼ばれたそうでござ~♪~ますう。

経済上の利潤追求を第一に活動する動物ということですってぇ。。。
すさまじい言葉ですわ。
それほど日本人は汗水流して猛烈に働いたということでしょうね。

高度成長を通して短期間で経済大国にのし上がった日本人を揶揄(やゆ)する言葉として1969(昭和44)年頃に広まったそうですわ。

後に、「イエローヤンキー」、「エコノミックインベーダー(経済侵略者)」、「エコノミックパラサイト(経済寄生虫)」という言葉も派生したのですってぇ。。。
なんだか、やらしい響きでござ~ますわ。

もともとは1965(昭和40)年にパキスタンのブット外相が「日本人はなかなかしっかりしている。 エコノミックアニマルみたいだ」と褒めた言葉だと言われています。

ところで、ジューンさんの面白いお話は次のリンクをクリックして読んでくださいましね。




(june501.jpg)

『国際感覚ダントツ』

『国際化と英語』

『肥後ずいきと国際化』

『おばさんパンツを旅する』


とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、また。。。


(hand.gif)



(ski22.jpg)


(surfin2.gif)

ィ~ハァ~♪~!

メチャ面白い、

ためになる関連記事




(linger65.gif)

■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』

■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』


(snowboard.jpg)

■ 『軽井沢タリアセン夫人 - 小百合物語』

■ 『今すぐに役立つホットな情報』


(snowhous2.jpg)

『タイタニック@スリランカ』

『蜂@泣きっ面』

『外人が知っている美しい日本』

『腰使い 熟女』

『熟女の下着姿』

『腰を使う熟女』

『ブログランキング』

『曇ってきた@英語』

『出会い系より腰を使う熟女』

『ブリスベンの従妹』

『アヒルが行く』

『英語ペラペラ勉強法』

『ブラウザとOS』

『二千二夜物語』

『大晦日のおばさんパンツ』

『下着の人類学』

『万夜一夜@ロンドン』

『ヒトラーとトランプ』




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こんにちは。ジューンです。

スパムメールが相変わらず多いですわよね。

あなたのメールボックスにも、

ジャンクメールがいっぱい入っているでしょう!?

スパムメールを飛ばしているのは

いったい、どういう人たちなのでしょうか?

出会い系サイトのオーナーたちが多いそうですわ。

彼らは会員を集めるためにスパムメールをばら撒きます。

そのためにメールアドレスのリストを購入しています。

では、そのようなリストを販売している人は

どうやってメールアドレスを集めているのでしょうか?

ロボット(自動巡回プログラム)によって

自動収集させているのです。

ところで、サーチエンジンの自動巡回ロボットは

毎日世界中のサイトを訪問し、

その内容をデータベースに書き込んでいます。

同じように、このメールアドレス収集巡回ロボットも、

HTMLソースを分析し、

メールアドレスらしきものをどんどん記録してゆきます。

でも、使っていないメールアドレスが

たくさんあるのですよね。

あなたの使っているメールアドレスのことを

考えてください。

あなたはメールアドレスをいくつ持っていますか?

一つだけではないでしょう?

10以上持っているのではありませんか?

多分、ほとんどのメールアドレスは使ってないでしょう?

そのために、現在実際に使っている

メールアドレスを集めるために、

怪しい人物が使用度の高いメールアドレスを

集めているのですわよ。

だから、あなたもむやみに信用できない人に対して

返信しないようにしてくださいね。

詳しいことはデンマンさんが次の記事で書いています。

『コメント魔』

(2012年4月3日)



(himiko92.jpg)

ところで、卑弥子さんが面白いサイトを

やっています。

興味があったら、ぜひ次のリンクをクリックして

覗いてみてください。


(sylvie122.jpg)

『あなたのための笑って幸せになれるサイト』

とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょう。

じゃあね。バーィ



(juneswim.jpg)


(byebye.gif)
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神聖娼婦 マリア

2024-07-10 00:49:38 | 歴史四方山話

 

神聖娼婦 マリア

 


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デンマンさん。。。 “神聖娼婦 マリア”なんてタイトルを掲げて大丈夫でござ~♪~ますか?


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何か僕がいけないことをしましたか?

しましたかじゃないでしょう! 敬虔なキリスト教徒の皆様に見つかったら、八つ裂きにされてしまいますわァ~。。。

あのねぇ~、タイトルには確かに“神聖娼婦 マリア”と書いてあるけれど、これは僕が言い出したわけではないのですよ。。。

じゃあ、どなたが言い出したのでござ~ますかァ~?

昔から、こういう事を言う人はいたのですよ。。。 でも、それでは証拠にならないから、まず次のリストを見てください。

 


(liv70404b.png)


『拡大する』

『仏陀とキリストと娼婦』


 



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の 4月1日から4日までの4日間の「リンク元URL」のリストです。。。 赤枠で囲んだ 17番に注目してください。。。



あらっ。。。 ドコモで検索して『仏陀とキリストと娼婦』を読んだのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。

でも。。。、でも。。。、『仏陀とキリストと娼婦』と“神聖娼婦 マリア”が関係あるのでござ~ますか?

もちろん関係ありますよ。。。 関係なかったら、端(はな)から“神聖娼婦 マリア”というタイトルを書きませんよ。。。

それで、どのように関係あるのでござ~ますかァ~?

あのねぇ~、赤枠で囲んであるリンクをクリックすると次の検索結果が出てくるのですよゥ。。。

 


(doc70405a.png)


『拡大する』

『現時点での検索結果』


 



あらっ。。。 ドコモで検索したネット市民は「神聖娼婦 マリア」と入れて検索したのでござ~ますわねぇ~。。。



そうなのですよ。。。 つまり、「マリア様は神聖娼婦だと言う人が居るけれど、それは本当のことなのだろうか?」。。。 札幌に住んでいる商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君は、それをネットで確かめるために検索したのですよ。

あらっ。。。 検索した人物が商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君だと、どのようにしてゲットしたのでござ~ますかァ?

次のリストを見てください。

 


(liv70402a.png)


『拡大する』

『仏陀とキリストと娼婦』


 



これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の日本時間で4月2日の午後3時9分から3時28分までの「生ログ」ですよ。。。 赤枠で囲んだ箇所に注目してください。



あらっ。。。 4月2日の午後3時28分に『仏陀とキリストと娼婦』にアクセスして記事を読んだのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことですよ。。。

でも。。。、でも。。。、札幌に住んでいる商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君がアクセスしたとはどこにも書いてないではござ~ませんかァ!

それはIPアドレスを調べたのですよ。。。

 


(ip84253b.png)

『拡大する』

 



あらっ。。。 商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君のイラストまで描いてありますわねぇ~。。。 でも。。。、でも。。。、プロバイダーのアクセスポイントまでは確定できても、プライバシーを守るためにアクセス者の名前までは確定できないのでござ~ますわァ~。。。



卑弥子さんは、見かけによらずネットに詳しいのですねぇ~。。。

その程度のことはネットの常識でござ~ますわァ。。。

とにかく、堅い事は抜きにして、本題に入りましょう。。。 僕だってアクセスした人物のプライバシーを守るために、商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君というのは仮名ですよ。。。 だから、卑弥子さんもガタガタ僕に突っ込みを入れないでくださいねぇ~。。。

分かりましたわァ。。。 それで、商府 正太郎(しょうふ しょうたろう)君は、間違いなく『仏陀とキリストと娼婦』を読んだのでござ~ますわねぇ~。。。

そういうことです。。。

。。。で、デンマンさんは記事の中でマリア様は神聖な娼婦だったと断定なさったのでござ~ますかァ~?

僕が断定するはずないでしょう!

でも。。。、でも。。。、デンマンさんの記事を検索して読んだのですから、正太郎君は何らかの情報をゲットしたはずですわァ。

あのねぇ~、検索して『仏陀とキリストと娼婦』を読んだ正太郎君は次の箇所を読んだのですよ。。。

 


神聖娼婦

 


(hooker11.jpg)

 

神聖娼婦は宗教上の儀式として神聖な売春を行った者である。
その儀式を神聖売春または神殿売春という。

古代近東地域における神聖娼婦

イナンナもしくはイシュタルは女神官の儀式用髪飾りを付けて表される
チグリス川とユーフラテス川に沿った古代近東にはバビロンのイシュタルの神殿をはじめとした多くの聖地や神殿、「神の家」が存在しており、ヘロドトスは『歴史』の中で神殿売春の慣習を伝えているが、多分に誤解を含んでいるという主張もある。

サミュエル・ノア・クレーマーの聖婚:古代シュメールの信仰・神話・儀礼によると、後期シュメールおよびアッカドの王サルゴンは、アキトゥと呼ばれる新年祭の10日目に神殿で行われる王と女神の結合の儀式に神聖娼婦を参加させることで、その正当性を確立させたとされる。
西暦4世紀にキリスト教を奉じるローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が女神の神殿を破壊し、キリスト教化したことによって、神聖娼婦の習慣は終了した。

メソポタミア

古代メソポタミアの巫女は、寄進を受けた者に神の活力を授けるために性交渉を行う風習があった。

『ギルガメッシュ叙事詩』でもギルガメッシュの友エンキドゥの獣性を鎮めるために、娼婦を派遣して性交渉を行ったとの記録があり、当時は売春行為は、現在とはかなり違い神聖な儀礼であった事をうかがい知る事ができる。


(hooker15.jpg)

また、古代メソポタミアのイシュタルや古代ギリシアのアフロディーテ、北欧神話のフレイヤなど、多くの神話では愛と美を司る女神は性に奔放な姿で描かれているのも、こうした神殿娼婦の影響によるものと考えられている。

古代ギリシャの歴史家ヘロドトスは古代メソポタミアにおいて神殿売春が行われていたと初めて言及した人物である。

アジア

デウキ(英語版)とは、古にされた契約を果たして宗教的な利益を得るために少女が地元のヒンズー教の寺院に捧げられる、ネパール西部の古い習慣である。

少女は売春婦として寺院に奉仕し、それはインドのデーヴァダーシーの習慣と類似している。


(indogals.jpg)

この習慣は無くなりつつあるが、少女はまだ捧げられている。

日本

日本における金精様などの生殖器崇拝の起源も、農作物の豊穣祈願である。
交接を伴う祭祀も多く見られ、各地の闇祭のほとんどが性交の儀礼を伴なっていた。
筑波山にはカガイと称する性の解放祭があり、宇治には闇祭(別名:種もらい祭)という露骨な性の取引があったという。

また白拍子や加賀女等の遊女が主役の祭りも多く、中山太郎は「巫女が日本における遊女、遊郭の起源である」と書いている。
祇園八坂神社の「神輿迎え」、沖縄の尾類馬、遊女供養の下関の赤間宮の先帝祭などでは遊女が舞いを奏し、播磨の鎮守賀茂神の祭りや摂津の住吉大社では遊女が祭りの主役であり「この地こそ神功皇后の勅許以来日本最初の遊郭であった」と唱えられているという。

ゆえに各地方の遊郭は神社を中心に発達した。
伊勢の古市に遊郭が整備されたのは決して近年の話ではなく、「大昔から全国に渡り『夫婦連れての伊勢参宮したのでは御利益がない』という諺が行われている裏面には、道者は必ず古市で遊ばなければならぬように仕向けられていたのである」と述べている。




出典: 「神聖娼婦」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



神聖娼婦は宗教上の儀式として神聖な売春を行った者であると書いてあるのですよ。。。



でも、西暦4世紀にキリスト教を奉じるローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が女神の神殿を破壊し、キリスト教化したことによって、神聖娼婦の習慣は終了したとも書いてありますわァ。。。

卑弥子さんは目の付け所が鋭いですねぇ~。。。 確かに、西暦4世紀に、神聖娼婦の習慣は終了したのでしょう。。。 でもねぇ、正太郎君は、次の小文も読んだのですよ。。。

 


マグダラのマリア

 


(christ06.jpg)

 

マグダラのマリアは、新約聖書中の福音書に登場する、イエスに従った女性である。

マリヤ・マグダレナとも転写される。

正教会・カトリック教会・聖公会で聖人。

伝説中のマグダラのマリア、たとえばヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』 (Golden_Legend)などによれば、マグダラのマリアは金持ちの出自であって、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悔悛したという。

娼婦をも意味する「罪の女」(the Sinner)との異名を与えられたり、ルネサンス以降「マグダラのマリアの悔悛」(The Penitent Mary Magdalene)を主題とする絵画、彫刻が多く制作される。


(magda01.jpg)

このイメージはカトリック教会の作為が関与していると指摘されている。

イエス昇天後、兄弟ラザロ、マルタ (マリアの姉) らとともに南仏マルセイユ(あるいはサント=マリー=ド=ラ=メール)に着き、晩年はサント=ボームの洞窟で隠士生活を送ったのちにその一生を終え、遺骸はいったんエクス=アン=プロヴァンス郊外のサン=マクシマン=ラ=サント=ボームに葬られたと信じられた。

ヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂はその遺骸(頭蓋骨)を移葬したものと主張している。

しかし、サン=マクシマン側はいまも遺骸を保持していると主張しており、一部はパリのマドレーヌ寺院にも分骨されている。




出典: 「マグダラのマリア」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



マグダラのマリアは、娼婦をも意味する「罪の女」(the Sinner)との異名を与えられたのですよ。。。



つまり、正太郎君はこの上の部分を読んでマグダラのマリアが神聖娼婦だと思い込んでしまったのですかァ~?

たぶん、そうだと思うのですよ。。。

でも、それはデンマンさんの憶測でしょう?

あのねぇ~、本人に尋ねてみないことには、誰も断定できないですよ。。。 もし、正太郎君がこの記事を目にすれば、コメントを書いてくれると思います。

そのつもりで、あたくしを呼び出してこの記事を書いたのでござ~ますか?

そうです。。。 いけませんでしたかァ~?




初出: 2017年4月7日



(laugh16.gif)


【卑弥子の独り言】


(himiko22.gif) 

ですってぇ~。。。

あたくしは、正太郎君は「聖母マリア様が“神聖娼婦”だと示唆するような記事はけしからん!」と思いながら『仏陀とキリストと娼婦』を読んだと思うのですわァ。

そしたら、聖母マリアのことではなく、マグダラのマリアのことを言ったのか。。。

そう思って安心したのだと思うのですわァ~。。。

あなたは、どう思いますか?

実は、聖母マリアとマグダラのマリアは同一人物だった、と言う人たちもいるのでござ~ますわァ。。。

そのことを扱ったYouTubeのクリップがあります。


(maria611.jpg)



上のクリップを観てあなたはどう思いましたか?

話は変わりますけれど、あたくしは“平成の紫式部”と呼ばれているのでござ~ますわァ。

うふふふふふふ。。。

ええっ。。。 信じられないってぇ~。。。?

じゃあ、『卑弥子の源氏物語』を お読みくださいませぇ~。。。


(genjiero4.jpg)

『卑弥子の源氏物語』

どうですか? あたくしが “平成の紫式部”だと納得がゆきましたか?

ええっ。。。 ちょっと納得がゆかないのでござ~ますかァ?

でも こう見えても 一応 京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義しているのでござ~ますわァ。

ただし、なかなか あたくしの魅力を認めてもらえないのでござ~ますう。

つまり、結婚相手が 現れないのですわァ。

この際 高望みはいたしません。

“寅さん”のような人でもいいですわ。

旅に出ていることが多いので 手がかからないと思うのでござ~ますう。

ついでだから、寅さんの映画でも見て、希望をつなごうと思います。

“袖触れ合うも他生の縁”と申します。

あなたも 一緒に寅さんのYouTubeでも見てくださいねぇ~。。。

 


(tora019.jpg)



 

ちなみに、紫式部のお話も面白いですけれど、古代のお話も心にしみますわァ。

たまには、日本の古代史の記事も読んでくださいませぇ。

そういうわけで あなたのために平安史、古代史の記事を用意しました。

ぜひ 覗いてみてくださいね。

天武天皇と天智天皇は

同腹の兄弟ではなかった。
 

天智天皇は暗殺された 

定慧出生の秘密 

藤原鎌足と長男・定慧 

渡来人とアイヌ人の連合王国

なぜ、蝦夷という名前なの?

平和を愛したアイヌ人

藤原鎌足と六韜

古事記より古い書物が

どうして残っていないの?


今、日本に住んでいる人は

日本人でないの?


マキアベリもビックリ、

藤原氏のバイブルとは?


とにかく、次回も興味深い記事が続きます。
だから、あなたも、また読みに戻ってきてくださいね。
じゃあ、またねぇ~。。。


(hand.gif)


ジューンさんの熟女下着 June Adams 下着美人
(30june.jpg)

『センスあるランジェリー』



(surfing9.gif)



(sayuri5.gif)

ところで、平成の紫式部こと、卑弥子さんは見かけによらず、京都の女子大学で腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授という肩書きを持っています。

卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。



(hama10.jpg)

『女帝の平和』

『アタマにくる一言』

『悪女レオタード@昌原市』

『スウィートビーン』

『ガチで浦島太郎やし』

『ご苦労さま』

『デンマンのはなし』

『卑弥呼の墓』

『室生犀星と人間学』

『松平春嶽ダントツ』

『英語は3語で伝わる』

『くだらない物』

『漢字で体操』

『面白い漢字テスト』


(hama10.jpg)

『日本のエロい文化』

『女のオナラ』

『紫式部と宮本武蔵』

『頼朝の死の謎』

『パンツと戦争』

『海外美女 新着記事』

『日本語を作った男』

『江戸の敵を長崎で』

『芸術は尻だ』

『尻の芸術』

『左翼的な下着』

『エロい源氏』

『ネット市民は見ている』




軽井沢タリアセン夫人の小百合さんが扮するゴディバ夫人 Sayuri
(godiva05.jpg)


(byebye.gif)
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