ダンスとノーベル賞
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あらっ。。。 デンマンさん。。。 2015年のノーベル賞授与式の後の晩餐会で 私とデンマンさんがダンスしているのですか?
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いけませんか?
私は12月10日に スウェーデンにあるストックホルムのコンサートホールに出向いたことはないのですけれど。。。
真由美ちゃん。。。 堅苦しいことは抜きですよ。。。 真由美ちゃんと僕で仲良くダンスしているではありませんかァ~!
また、デンマンさんのお得意のコラージュで、上の写真をでっち上げたのですわねぇ~。。。?
うへへへへへへ。。。 やっぱり、バレてしまいますねぇ~。。。
当然ですわ。。。 私は、まだスウェーデンに行ったことがないのですもの。。。
スウェーデンのストックホルムはきれいな街ですよ。。。 真由美ちゃんも休みが取れたらぜひ訪ねてみたらいいよ。。。
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デンマンさんはストックホルムへ行ったことがあるのですか?
仕事でジューンさんと一緒に出かけたことがありますよ。。。 僕はジューンさんのカバン持ちでしたけれど。。。 (微笑)
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。。。で、ノーベル賞の授与式に参列したのですか?
いや。。。 ノーベル賞とは全く関係ありません。
それなのに、どうして今日、ノーベル賞を取り上げるのですか?
あのねぇ~、3月28日に軽井沢タリアセン夫人の小百合さんと“愛の偶然と必然”について語り合ったのですよ。
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偶然と必然のあいだ
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19世紀の科学者達の多くは、精密科学の領域で得られた豊富な、そして確実な成果によって裏づけられた力学的な世界観の上に立って、あらゆる細部にわたる決定論を避け難いものと結論した。
彼等にとっては「偶然」とは結局人間の無知に基づくものであった。
ある日の午後、私が道を歩いている時に、偶然旧友に出遭ったとする。
私がこれを偶然と感じるのは、彼等の考えによれば、私が旧友の最近の動静を知らなかったからである。
もしも超人的な能力を持った、いわゆるラプラスの魔物がいて、私と旧友の行動に目をつけていたとするならば、その日の朝から二人の出会いを予知し得たであろう。
それどころではない。
この魔物がこの世界の状態をもっと広く、もっと詳細に調べていたならば、何千年、何万年も前に二人の出会いを推定し得たであろう。
私どもの視野が狭く、知識が足りないために、思いがけない事件が起こるように感じるのである。
この意味において偶然はすべて主観的なものであるといわれる。
【昭和22(1947)年8月号】
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
65-66ページ
『「文藝春秋」で読む戦後70年』
【第1巻】終戦から高度成長期まで
編集人: 石橋俊澄
平成27(2015)年7月21日 発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
あのねぇ~、これは日本で初めてノーベル賞をもらった湯川秀樹博士が書いたエッセイの一部なのですよ。 昭和24年11月3日の文化の日、コロンビア大学客員教授だった湯川秀樹博士が、日本人として初めてのノーベル賞を受賞した。。。 このエッセイはその2年前、プリンストン高等学術研究所に招かれて渡米するに際し、『文藝春秋』昭和22年8月号に掲載された科学エッセイなのですよ。。。
上の写真は湯川博士と娘さんがダンスをしている写真ですか?
違いますよ。 奥さんのスミさんと授賞式後のパーティーでダンスを踊っているときの写真です。
それで、上のエッセイのどこにデンマンさんは感銘を受けたのですか?
“もっと詳細に調べていたならば、何千年、何万年も前に二人の出会いを推定し得たであろう”と書かれているところですよ。
この部分に それ程の感銘を受けたのですか?
そうですよ。。。 実は、僕も小百合さんとの出会いをかなり以前に推定していたのです。。。 小百合さんと僕はカナダで偶然に出会ったわけではないのですよ。
信じられませんわ。
『愛の偶然と必然』より
(2016年3月28日)
あらっ。。。 小百合さんとデンマンさんの出会いは千年以上も前に推定できたというのですか?
うん。。。 そうなのだけれど、今日はその事について真由美ちゃんと語り合うのではないのですよ。。。 昨日改めて上の記事を読んでねぇ、ちょっと考え込んでしまったのですよ。
何がそれほどデンマンさんを考え込ませたのですか?
あのねぇ~、湯川博士がノーベル賞を受賞したのは昭和24年なのですよ。。。 まだ日本が敗戦の痛手から完全に抜け出していないときなのですよ。。。 上野駅の地下道では食うや食わずで戦争孤児がたむろしていた時代なのです。。。
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昭和24年頃までは、まだこういう悲惨な状況が日本の各地に残っていたのですよ。。。それにもかかわらず、湯川博士と奥さんがストックホルムの授与式に参加して、その後の晩餐会でダンスを踊ったのです。
つまり、湯川秀樹博士夫妻の豊かな生活をデンマンさんは非難するのですか?
いや。。。 別に非難するつもりはありません。。。 湯川博士だって日本に居る時には豊かな生活をしていたとは思えない。。。 当時の日本人は誰もが食うために一生懸命に仕事を見つけて働いていたのですよ。
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ただし、ここで考えさせられるのは、昭和24年当時、社交ダンスを踊れる人が いったい日本人にどれだけいたか?。。。当時の日本人は食うことに一生懸命で社交ダンスどころではなかったですからねぇ~。。。 ところで、真由美ちゃんは社交ダンスを踊れる?
いいえ。。。 お恥ずかしいのですけれど、私はこれまでにフォークダンスは女子高で習ったのですけれど、社交ダンスは正式に習ったことがないのですわァ。。。
フォークダンスが踊れるだけでもたいしたものですよ。。。 昭和24年には盆踊りを踊れる人は日本人にたくさんいただろうけれど、西洋のフォークダンスは踊れる人はまずいなかっただろうねぇ~。。。 もちろん、社交ダンスを踊れる日本人は、ごく少数だったと思いますよ。 女性では、外交官の奥さんか戦前の貴族の令嬢ぐらいだったと思うのですよ。
今でも、社交ダンスを踊れる人は日本ではそれほど多くないと思いますわ。
でもねぇ~、日本は明治維新を迎えて、文明開化の時代には、とにかく西洋文化を受け入れようと“鹿鳴館”という社交場を造って、毎晩のようにダンスパーティーを開いていた時期があったのですよ。
芥川龍之介 「舞踏会」
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(略) …が、鹿鳴館の中へはいると、間もなく彼女はその不安を忘れるような事件に遭遇した。
と云うは階段のちょうど中ほどまで来かかった時、二人は一足先に上って行く支那の大官に追いついた。
すると大官は肥満した体を開いて、二人を先へ通らせながら、呆れたような視線を明子へ投げた。
初々しい薔薇色の舞踏服、品好く頸へかけた水色のリボン、それから濃い髪に匂っているたった一輪の薔薇の花---実際その夜の明子の姿は、この長い辮髪(べんぱつ)を垂れた支那の大官を驚かすべく、開化の日本の少女の美を遺憾なく具えていたのであった。 (中略)
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二人が階段を上り切ると、二階の舞踏室の入口には、半白の頬髯(ほおひげ)を蓄えた主人役の伯爵が、胸間に幾つかの勲章を帯びて、路易(ルイ)15世式の装いを凝らした年上の伯爵夫人と一緒に、大様(おおよう)に客を迎えていた。
明子はこの伯爵でさえ、彼女の姿を見た時には、その老獪(ろうかい)らしい顔のどこかに、一瞬間無邪気な驚嘆の色が去来したのを見のがさなかった。
人の好(い)い明子の父親は、嬉しそうな微笑を浮かべながら、伯爵とその夫人とへ手短に娘を紹介した。
彼女は羞恥と得意とを交(かわ)る交(がわ)る味わった。
が、その暇にも権高(けんだか)な伯爵夫人の顔立ちに、一点下品な気があるのを感づくだけの余裕があった。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
72-74ページ
『日本人が忘れてしまった美しい日本語』
著者: 佐藤 勝
2002年8月19日 第1版発行
発行所: 株式会社 主婦と生活社
『美しい日本語再び』に掲載
(2015年3月11日)
芥川龍之介も『舞踏会』という作品で、こうして“鹿鳴館”を取り上げている。。。 でもねぇ~、“鹿鳴館”にやって来た外国人の目には日本人が社交ダンスを見よう見まねで踊る姿は“猿真似”と映っていた。
マジで。。。? その証拠でもあるのですか?
ちょと次の対話を読んでみてください。
それで、明子さんはその将校と忘れられない思い出があるのォ~?
いや。。。 その夜、鹿鳴館で会っただけですよ。 ただ、二人でバルコニーに出て「ほとんど悲しい気を起こさせるほどそれほど美し」い花火を見ながら言葉を交わすのです。
どのような。。。?
「私は花火のことを考えていたのです。 我々の生(ヴィ)のような花火の事を」とフランス人の将校は言うのです。 花火は一瞬美しく輝いて永遠に真暗な闇の中に沈んでゆくので、そこにフランス人将校は「我々の生(ヴィ)」の象徴を見ていたと言いたかったのですよ。 つまり、人形のように美しい明子も、一瞬輝いて闇に消えてゆく。。。 美しさとはそのようなものと芥川は捉(とら)えていたのですよ、多分。。。 おそらく芥川がフランス人の口を借りて、そのように言わせたのですよ。
ただ、それだけのことですか?
そうです。 フランス人将校と明子さんとの間にそれ以上の発展はない。 ただ、物語を読んでゆくと僕はハッとしてある驚きを感じたのですよ。
どのような。。。?
明子さんの話を聞きながら、小説家は話の中の海軍将校がピーエル・ロティである事を知るのです。
あの『Madame Chrysanthème (お菊夫人)』を書いた作家ですか?
そうです。 芥川は短編の中で49歳の明子さんに次のように言わせているのですよ。
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存じて居りますとも。 Julien Viaud (ジュリアン・ヴィオ)と仰有る方でございました。
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あなたも御承知でいらっしゃいましょう。 これはあの『お菊夫人』を御書きになった、ピエール・ロティと仰有る方の御本名でございますから。。。
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「お菊」さんのモデルになった「オカネ」さん
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ケイトーにとってぇ、明子さんが鹿鳴館でピエール・ロティに出会ったということがそれほどの驚きなのォ~?
あのねぇ~、ピエール・ロティは1885年と1900~1901年の二度、日本へやって来ているのですよ。 鹿鳴館のパーティに出たのは1885年に日本へやって来た時なのです。 でもねぇ~、『お菊夫人』の中では芥川が『舞踏会』で書いているようなことは言ってないのですよ。
どのよなことを言ってるのですか?
鹿鳴館でダンスを踊る日本人を「しとやかに伏せた睫毛の下で左右に動かしている、巴旦杏(アーモンド)のようにつり上がった眼をした、大そうまるくて平べったい、小っぽけな顔」 「個性的な独創がなく、ただ自動人形のように踊るだけ」 「何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう!」と書いている。
あらっ。。。 ピエール・ロティは日本人に対して蔑視に近い念を抱いていたということじゃない!?
だから、そのように言う評論家も多いのですよ。 でもねぇ、もしピエール・ロティが『Madame Chrysanthème (お菊夫人)』を書かなかったら、ヨーロッパやアメリカでの日本女性の人気はなかったのですよ。
でも、「(鹿鳴館でダンスを踊る日本人は)何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう!」と書いているのでしょう?
でもねぇ~、そういう悪い事ばかりを書いているわけじゃない。 ヨーロッパ人やアメリカ人が読んだら、「日本へ行って、ぜひとも日本のきれいな女性とロマンスを味わいたい」というような夢を膨らませるようなことも書いている。
『美しい日本語再び』より
(2015年3月11日)
あらっ。。。 “オカネさん”というのは、あの有名なオペラ『蝶々夫人』のモデルになった人なのですか?
うん、うん、うん。。。 そうなのですよ。。。 でもねぇ~、今日は その事が問題じゃなくて、明治の鹿鳴館時代には、猿真似で日本人が社交ダンスを踊っていたのですよ。。。 でも、とにかく、日本は“文明開化”で西洋の文化を吸収した。 それで曲がりなりにも日本にも西洋の進んだ文化が根付くようになった。
つまり、昭和24(1949)年のノーベル賞授賞式の後の晩餐会で湯川秀樹博士夫妻が社交ダンスを踊れたのは、日本に西洋の文化が定着したことの証拠だとデンマンさんは見るのですか?
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そうですよ。。。 昭和24年といえば、一般の日本人は社交ダンスどころではなかった。。。 おそらく、日本人の90%が盆踊りは踊れても、食うために忙しくって、盆踊りどころではなかった。。。 だから、社交ダンスなどには見向きもしなかった時代だったでしょう!
それなのに、湯川秀樹博士夫妻がストックホルムの晩餐会で社交ダンスを踊ったことにデンマンさんは感銘を受けたのですか?
そうですよ。。。 つまり、ノーベル賞をもらえる人は専門馬鹿ではないのですよ。。。 やっぱり、湯川博士も奥さんも西洋文化の洗礼を受けていたということです。
私は違うと思いますわァ~。。。
ん。。。? 違う。。。? 何が違うのですか?
昭和24年11月3日の文化の日、コロンビア大学客員教授だった湯川秀樹博士が、日本人として初めてのノーベル賞を受賞したのですよね。
そうです。。。
デンマンさんが引用したエッセイは その2年前、つまり、昭和22年にプリンストン高等学術研究所に招かれて渡米する時に、『文藝春秋』昭和22年8月号に掲載された科学エッセイでしたよねぇ~!?
そういうことです。。。
つまり、湯川夫妻がアメリカに渡ってからノーベル賞を受賞するまでに2年の歳月があったのですわ。。。 だから、その間に湯川夫妻はアメリカで社交ダンスを習ったのだと思いますわ。
そうかなァ~。。。?
だってぇ、私も日本では社交ダンスは踊れませんでしたもの。。。 バンクーバーにやって来てから、デンマンさんに教わったのですわァ~。。。
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うん、うん、うん。。。 確かに、そうかもしれない。。。 でも、こればっかりは湯川夫婦に訊いてみないと分からないよねぇ~。。。
初出: 2016年4月16日
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【デンマンの独り言】
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真由美ちゃんは、現在ノース・バンクーバーでホームステーしながら
VCC (Vancouver Community College)にかよって
パン職人・ベーグル職人の勉強と実習に励んでいます。
先生やクラスメートとの英会話には、今でもまごつくことがあるそうです。
外国語というのは習得するのが実に大変です。
あなたは英会話を勉強してますか?
できれば、英語を話している国へ行って英会話を勉強するのが一番です。
でもねぇ~、英会話を勉強する方法に王道はありません。
人それぞれです。。。
自分に合った勉強法を見つけるのが、英会話の上達の早道だと僕は思いますね。
同じことを同じように勉強しても、人によって上達が違うのですよ。
僕の経験で言っても、人によって、語学の才能というのはまちまちです。
なかには、日本語を忘れてしまうほど、英語にどっぷりと浸かってしまう人もいます。
20年以上英語圏で英語を話してますけれど、
僕は、漢字を忘れることはあっても、日本語を忘れることはありません。
もちろん、今でも、英語を話すよりも日本語を話す方が楽に話せます。
僕自身は語学の才能があるとは思ってませんが、
僕が、カナダ人と笑いながら話しているのを聞いていると、
真由美ちゃんには さっぱり 何を話しているのか解らないと言うのですよね。
僕がペラペラと英語を話しているように見えるのだそうです。
早くデンマンさんのように 英語がしゃべれるようになりたい、と真由美ちゃんは言います。
しかし、僕は、常に、英語を日本語のように しゃべれたら いいなと思っているのですよ。
外国語を母国語のように話すのは、本当に難しいと思います。
いずれにしても、真由美ちゃんは小さい頃からの夢が叶ってぇバンクーバーにやって来たのです!
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現在、移住を目指して頑張っているところです。
ところで、あなたはバンクーバーに行ったことがありますか?
とっても素敵な街ですよ。
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世界で最も住みやすい街バンクーバー
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ビデオを見ても、なんだかワクワクしてくるでしょう?
卑弥子さんが バンクーバーにやって来たのは 2008年の元旦の2週間ほど前でした。
クリスマスをバンクバーで過ごして、それから元旦の“Polar Bear Swim (寒中水泳)”に参加したのです。
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上のビデオを見ると、まるで真夏のようでしょう?
ところが気温は確か2度ぐらいでした。
水の中の方が暖かかったのです。
とにかく、バンクーバーには面白い人たちがたくさん居ますゥ。
あなたも、お暇と お金の余裕があったらぜひ出かけてみてください。
では、また興味深い、面白い記事を書くつもりです。
だから、どうか、あなたも またやって来てくださいねぇ~~。
じゃあね。
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If you've got some time,
Please read one of the following artciles:
(biker302.jpg)
■『まんじゅう@富岡』
■『ん?トゥーランドット』
■『女の子の夢』
■『イヴォワールのレストラン』
■『151歳の誕生日』
■『お皿をぺろぺろ』
■『ポップス@蕎麦屋』
■『検便と回虫』
■『スコーンとプディング』
■『スコーン姉妹』
■『ピラミス 美術館』
■『明治屋 圧力ジャム』
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