ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

もっともっと田原本 3

2018年03月08日 21時34分16秒 | ウォーキング

宮前橋に戻ってきました。



この橋のところから上流を見てみますと
何やら石が立っていますよ。



そこが「面塚」といわれるところです。



観阿弥・世阿弥が「結崎座」と
称して芸道に精進した
本拠地の跡なんだそうです。

当時の能の演題から来ているのかなあ
「翁の面とねぎの種」が
天から降ってきた場所で、
観世発祥の地といわれています。

たしか、以前の京田辺を歩いた時に
一休寺の近くで
「能楽発祥の碑」を見ましたねえ。



観世発祥の地というのは
能楽の1流派発祥の地
ということなんでしょうか。

う~ん、能楽のことはよくわかりません。
道楽のことならよくわかるんですけど

まあいろいろ調べていると
「結崎座」というのはよく出てきますから、
由緒ある地域なんでしょうねえ。

その石碑の横には
「結崎面塚公園」というのが
作られていますので、
ここで少し休憩していきましょう。



この日は本当に風もなくて
気持ちいい日でしたねえ。

平日にこんな奈良の歴史深い町を
歩き回るのんて贅沢ですねえ。

時間的にはお昼なんですが、
まあもう少し歩いていきましょう。

この辺りはもう南部の
三宅町との町境ですねえ。

少し歩いていくと、



川西町と三宅町の組合立の
中学校がありました。



へえこんな教育施設もあるんですねえ。

教育委員さん何かは
どうなっているのかなあ。
教科書選びもむつかしいねえ。

各町の意向と組合の意向など
教育委員会も大変でしょうねえ。

その中学校のすぐ先に、
白山神社と屏風杵築神社が
道を隔てて並んでいます。

まずは白山神社。



飛鳥と法隆寺を通われた道を
「太子道」というのですが、



この前の道がそれで、
ここには太子道を往く
聖徳太子の銅像があります。



そしてこれが太子が腰かけた
という石です。



え~っと、ここではdoironが、
三角点ではなく聖徳太子に
ターッチですねえ。



お金が入ってきますように・・・

年金暮らしですからね。

あ、でも今はお札に聖徳太子はいないかあ。

で、案内には駒つなぎの柳も
残っているとのことでしたが、
それはどれだかわかりません。
鳥居の後ろのこれですかねえ。



そしてその前の屏風杵築神社を
のぞいてみましょう。

おっとその前に、
この神社の名前にある
「屏風」なんですが、
これは何とこの地域の名前なんです。

昔々、太子がこの道を往くときに、
風の強い日にはこの地域の人たちが
屏風を立てたのでこんな名前に
なってるそうです。

さっきの古墳のところの
「唐院」といい、ここもまた
面白い地名になっているんですねえ。

その神社には小さな溝を
渡る橋がかけられており、
それを渡って入っていきます。





ん?鳥居のすぐ横に鉢が置いてあるぞ。
そこの案内を読むとこれが
どうやら「アザサ」という
名前の花なんだそうです。



万葉集で「三宅の原」の花と
読まれているそうです。

まだ花の時期ではないですけどね。
こんな花をつける絶滅危惧種だ
そうです。



きっと奈良の万葉植物園にも
植わっているんでしょう。

境内に入っていくと、
ここが太子が弓で穿ったという
「屏風の清水」が残っています。

これ。



でもなぜこの石がそうなのか
よくわかりません。
そして拝殿の中には
昔の絵馬が飾られています。





「宇治川渡河」、
「聖徳太子 駒休み」といった
古いものや150年くらい前の



おかげ参り絵馬などが
かけられてありましたねえ。

古い奴は痛みが強そうですねえ。
ぼちぼちきれいな展示館なんかに
移設してもいいかもねえ。

さあ、ではこの辺りから
さらにどんどんと「太子道」を
歩いていきましょう。



あ、これが三宅町のマンふたですね。

町のホームページに
中身のことが書かれてありました。

「三宅町の町花である八重桜・あざさと、
町の木であるキンモクセイと、
歴史ある町三宅町をイメージして
神社の鳥居や白山神社(屏風)の
腰掛石をデザインしたもの」

だそうです。ふむふむと続く