勧修寺は醍醐天皇を生んだ、
玉の輿といわれる
タカ狩りの一夜に生まれたという
藤原胤子の菩提寺として
創建した寺です。
そんな寺の周りに
様々な鎮守社や施設のある
この辺り一帯から抜けて、
さあでは醍醐寺の方へと
抜けていく道に向かいましょう。
醍醐寺と言えば、そうあの三方院の
庭にあった藤戸石ですね。
庭の中で眼前とその姿を表現していました。
あの石がとれたという
倉敷の現場まで見に行きましたねえ。
とっても存在感のある石でした。
山科川を越えて歩いていきますと、
前方から高校生の大集団が歩いてきます。
これはやはり醍醐寺に行った帰りかなあ。
それにしてもこれだけの集団が、
お寺に行くってどうなんかねえ。
醍醐山の聖域に拡がる密教の聖域に
学習的な価値が、やっぱりあるんですかねえ。
狭い歩道を覆うようにして
大量の学生が前方から歩いてきます。
まあこっちが普通に歩いていれば
よけるだろうと思っているのに、
スマホをしている学生なんかもいて、
こちらも移動が一苦労です。
そんな集団が落ち着いて
ようやくほっと一息です。
それにしてもこの辺りまで来ると、
先程から後頭部にそそいでいた陽光が
とてもきつく感じます。
これからはこれを前に受けて
歩かなければならないので大変です。
まだまだ暑い中、
体調を崩してもいけませんね。
今日はこの先に見えてきた
「隋心院」を訪ねて、ここから
地下鉄東西線で電車に乗って
六地蔵まで引き返すことにしましょう。
片道歩きになりましたねえ。
では最後に随心院です。
仁海を開祖とする真言宗善通寺派の大本山です。
仁海とは弘法大師八代目の弟子です。
ここは平安の女流歌人「小野小町」が
住んでいた邸宅に建てられた寺です。
この小野小町は、あの六地蔵で
地蔵を彫った「小野篁」の孫か
あるいは娘といわれる絶世の美女。
隋心院の中にはその小町に関連する
遺跡があるといいます。
まずは「小野小町化粧の井戸」です。
小町はここの井戸を愛し、
この水で顔を整えていた
といわれています。
古今集のこの歌
「花の色は移りにけりな
いたづらに我が身世にふる
ながめせし間に」は有名で、
その石碑も建てられています。
日本国中を見回すと「小野」と
名前のついた場所がたくさんあり、
なかには小野小町の生まれたところ
といわれていますが、
真実はどうかわかりませんし、
彼女の墓も各地にあって
どこでなくなったのかも
明らかではないようです。
でもまあ絶世の美女としての
名声はどこも変わらずあるようです。
資料によるとこの隋心院のあたりに
そば処があるようになっているのですが、
探したけれども見つかりません。
もうやっていないのかなあ。
時刻もお昼を少し回っていますので、
地下鉄の駅の方に降りていって
昼飯を探しましょう。
もう頭の中がそば一色に
なっていますので、
蕎麦屋さんを探していると
一件ありました。
ざるそばのついたこんな昼定食が
あったのでいただきましょう。
おいしかったなあ。
いつも歩きつつ食べる昼食は
とても幸せなひと時です。
食後はそこから歩いて
地下鉄の駅に向かいます。
駅の名前もなんと「小野駅」。
小野小町に由来しているんでしょう。
六地蔵はそこから続く
地下鉄の終点駅です。
半分うとうとしながら
向かいました。
まあなので次回来る時は
「小野駅」まで来て、
そこから「醍醐寺」や
「一言寺」「法界寺」などを
目指して歩いていくことになりますね。
スーパーの駐車場で
車に乗って帰宅した、
doironだったのでした。
また近々後半に続きます。
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