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心から楽しまないとねえ。

熊野古道 海南の災難 2

2014年09月21日 21時48分07秒 | ウォーキング

一の鳥居を超えてすぐの神社である藤白神社は、



7世紀頃に斉明天皇により
白浜温泉行幸の際に社殿が営まれたと言われており、
熊野古道のまだこれから先にある
藤代、切目、 稲葉根、滝尻、近露の
「五体王子」のひとつとして
熊野詣の際の重要な役割を担っていました。

「後鳥羽院熊野御幸記」にはもちろん
「紀伊国名所図会」にも描かれ、
「万葉集」にも登場します。
また、この場所で催された歌会で
詠んだ歌を載せた
「熊野懐紙」も今に伝えられているくらいです。

海南の町からじわじわと登ってくる途中に
この神社があります。
門前に旅館があるのは、
詣でる人が多いということなんでしょうか。

先ずは藤白神社へのお詣り



といきたいところですが、
doironは現在は喪中の身であります。

鳥居をくぐれませんのでお詣りはせずに、
熊野古道紀伊路押印帳に
紀伊路和歌山エリア6つ目の
スタンプだけをもらうことにしました。



続いて、隣接する藤白王子権現社を見に行きました。



ここには、今年の5月に確か
天王寺の市立美術館の
「山の神仏」展でお会いした
終点熊野三所権現の本地仏である
熊野本宮の阿弥陀如来、
熊野速玉の薬師如来、
熊野那智の千手観音の面々が
坐しておられるはずです。
もうここに帰っておられるでしょう。

貴重な文化財ですので
一般人にはなかなか見れないんでしょうから、
心の中で手を合わせておきました。

あ、そうそうこの神社の入り口近くに
子守楠神社というのもありました。



ちなみに、以前ブログに書いた白浜に記念館のある
「南方熊楠」の名前は
熊野の”熊”とこの神社の”楠”から
つけられたそうです。
ああ、また歴史がつながりました。

そしてこの神社の一番南側にあるのが、
「有間皇子神社」です。



皇位継承の争いに巻き込まれ、
19歳の若さでこの地において
絞殺された悲劇の皇子です。

この有間皇子は孝徳天皇の皇子ということですから、
先日太子町で見てきた孝徳天皇陵と



ここでまたdoironの訪ねた先の歴史がつながりました。
あちこち歩いていると
関連が出てくるもんですね。
こうして関連付けられると
記憶にしっかり残ります。

万葉集に有間皇子の歌が二首あります。

「家にあらば けに盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」

「磐代の浜松枝をひきむすび 真幸くあらば また還り見む」

いずれも絶唱という名にふさわしい歌であります。

その皇子のお墓が、
藤白神社を出て熊野古道を

万葉集ゆかりの紫川を眺めながら



海南ICの脇をすり抜け



200mほど先に進んだところにあります。

ここ。





熊野古道の曲がり道、
藤白坂の入り口の
見晴らしの良い場所に、
すっきりと明るくしつらえてあるのは、
若い皇子の魂を少しでも鎮めてあげよう
という人々の配慮なのかもしれません。

とまあ、そんな具合に
熊野詣の五体王子のひとつである
藤白王子をしっかりと目と心に焼き付けた後は、
藤白坂の急な登りにさしかかります。



結構な急坂ですから、
高齢者にはちとしんどいかもしれません。

熊野御幸が盛んだったころは、
この坂には駕籠屋がいたというのもうなずけます。

そんなしんどい坂道を
ゆっくり上る人達の気持ちを紛らわし、
要所要所で力づけていた丁石地蔵が
この坂道の途中にあります。

1丁石はさっきの有間皇子の墓の横にありました。

もともとの丁石は全部で17体あったそうですが、
今から約30年前の調査では
4体しか残っていなかったそうです。

今は復元されていて、doironは
十二丁石だけ確認できなかったほかは
すべて確認しました。

順を追っていきましょう。

これが一丁石。



これは当時からあった石だそうで、
文化財的価値が高いとのことです。

二丁石のところには、



あの徳本上人の名号碑も立っていました。

山道にはツルボの花が咲いていました。



史前帰化植物のこの花は、
凶作年の救荒植物として
植えられていたそうですが、
アワ、ヒエなどに地位を奪われ
影が薄くなっていったとみえ、
万葉集にも一首も詠われていません。

そんな花に見とれながら坂道を登って行くと、

あわわわ~クモの巣に頭を突っ込んでしまいました。

これは人にもクモにも災難です。

クモの巣注意報が発令される中、
登り道はまだまだ続きます。


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