ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

東海道、亀山宿から関宿へ1

2019年11月14日 21時00分00秒 | ウォーキング

今夜は当初の計画では
石垣牛を食べに行ってるはずです。
安いお店を探し、予約しておいた店です。
こんなに遠くのお店を
予約したのは初めてです。
果たして味はどうだったのか。
結果はまた後日ブログで。
今日から先日歩いた亀山から関の
ブログをはじめます。

ーーーーーーー

今年に入ってから三重県の方に
よく出かけています。

津や鈴鹿、桑名、四日市、
松阪なんかをかなり歩いてきましたねえ。
三重県の町の方にはかなり詳しくなったぞ
と思いつつも、実はもう一ヵ所だけ
とても気になる場所がありました。

それが亀山市です。

たしか以前、亀山城って出かけたことがあり、
それをブログにしたような
変な感触があるのですが、
違いましたね。

あれは京都の亀岡でしたねえ。
亀岡にあるのに亀山城って
おかしいなって思って
調べたことがありましたね。

それはなぜかといいますと、
その亀岡のあたりも旧名は
「亀山」と呼んでいたそうです。
でも、東海道の宿でもある
三重県の亀山市とややこしい
ということで「亀岡」と
名前を変えたんだそうです。

だったら城の名前も亀岡城と
するところでしょうが、
その改名も明治に入ってからの
事だったので、江戸時代には
亀山城と呼ばれていたのです。

そうつまり亀山城は
京都と三重に二つあったわけです。
なので当時それを知っている人は
「伊賀の亀山城」と「丹波の亀山城」
と区別していたといわれています。

でもややこしいですねえ。
亀山城へ行けと言われて、
出張先を間違えた武士も
いたのでは、と思ったら
ほんとに、とても驚くような
話が残っています。

昔、丹波亀山城の天守を
取り壊せと命ぜられた堀尾忠晴氏が
間違えて伊賀の亀山城の
天守を取り壊したというのです。

ウヒャーすごい間違いですねえ。
珍百景の百倍くらい驚く話です。

実際取り壊されたので、
以後、伊賀の亀山城の天守は
再建もされていません。

そんな驚く事件があったのと、
東海道五十三次の宿である
亀山ですから、これはもう
必ず行っておかないといけない
という場所なわけです。

で、もう世間がすっかり
秋になってきたころに
友達便があるというので、
出かけていくことにしたのです。

行きは朝早くに友達の仕事車に
乗せていただいて、出かけていき、
途中の亀山で下ろしてもらいます。

帰りは申し訳ないので
自力での電車帰宅となるわけです。
では出発しましょう。

津へ向かう友達の車に、
ちょっと寄り道してもらって
JRの亀山駅を目指します。



ここは以前18切符で
岐阜へ行った時に、
帰り道電車の乗り継ぎで
立ち寄った駅ですねえ。



確か駅前に大きな鳥居が
あった場所でしたねえ。



降りていきますと、
ありましたよ。
これが駅前の大鳥居。

能褒野神社一の鳥居と
書かれています。
残念ながら、今回はこの
能褒野神社は通りません。

古事記や日本書紀では
日本武尊(ヤマトタケル)は
能褒野で亡くなったとされています。
しかし、その能褒野墓は
後世に所在不明となりました。
亀山のこの辺りには
その墓と思われる古墳が
いくつかあったが、
どうやらそのうちのひとつが
内務省によって「能褒野墓」に
治定されたということがありました。

その墓の周りに作られた神社が
能褒野神社だ。
この駅前の鳥居の本体です。



フムフム、結構由緒正しい墓なのだ。

この駅前の一の鳥居は、
道路工事によってここに移動され
そびえることになったそうだ。
もう電車を降りたところから、
歩きの楽しさを
予感させてくれるように
なっているわけですね。

駅の中のパンフレット置き場の中から、
歩きの地図を探して手に入れ、
それをもとに歩いていくことにしました。



今回の目的は、東海道五十三次の
四十六番目の亀山宿から
四十七番目の関宿まで
歩いていくことになります。



それでは歩き始めましょう。
まずは、伊賀の亀山城の方に
向かって行きます。

道はそちらに向かって
登っていくような感じで
続いています。

駅からすぐのところに
県道565号線が通っていますが、
これが旧の国道1号です。
これを歩行者は越えて



どんどんと山の方へと登っていきます。

続く



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