三光神社を出て北に向かうと
こちらの参道入り口には
戦災で倒れた鳥居の片柱が残されていました。
梅田のお初天神の鳥居や
玉造駅前のガード下にも機銃掃射の跡があったように、
終戦直前の頃はこのあたりは
ハゲシク攻撃されていたようです。
ちなみにこの近辺の大阪城の石垣にも
機銃掃射の跡が残っているそうです。
国道308号を横切り、
旧岡山町あたりに
玉造公園がありました。
子ども連れのお母さん方がたむろしておりました。
その入り口に、こんな貼り紙が・・・
「おじちゃんをさがしています」
だって。
思わず「ここにいるで~」と言いそうになりました。
違う違う。
最近はこういう徘徊人が社会問題になっていますね~。
その先を左折すると、
あの歴史道であることを示す
導き石に沿って歩きますと
立派な大聖堂が現れます。
聖マリア大聖堂です。
この建物の前に立つのが、
「細川ガラシア」像と
「高山右近」像です。
ともにキリスト教に帰依した
歴史上の人物です。
この二人について書きますと
長くなりそうなので、
写真の紹介だけにしておきましょう。
宗教的なことは、ちょっとデリケートですしね。
どういう人だったのかは、
また別の機会に。
再び右折して北に向かうと、
右に「越中公園」があります。
そこにあるのが、
「青刻昆布発祥の地」の石碑です。
昆布を糸状に細かく刻み、
野菜と煮たりする製品で、
大阪が発祥だそうです。
先日、家で昆布を食べていて
そのパッケージを見てビックリしたことがあります。
そこに描かれていた絵が、
先日歩いた堂島川に架かる
田蓑橋のたもとにあった「蛸の松」の絵だったのです。
古くから大阪で昆布が作られていたことと、
ここが発祥の地だったことを伺わせる話でしょ。
ところでこの公園の名前ですが、
なぜ、「越中公園」なのでしょうか。
越中と言えば「富山」。
その地名がなぜ公園名になっているか
と言いますと、このあたりに
越中守と名乗った細川忠興の屋敷があったからです。
近くにはその屋敷の井戸であった
「越中井」も残っています。
(変換をミスると「えっ注意」になります)
その忠興の夫人が細川ガラシアで、
そんな彼女の辞世の句
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ」
が刻まれた句碑も立てられてありました。
なんと力強い辞世の句なんでしょう。
ちなみに、このあたりの旧町名も「越中町」というそうです。
その越中井の横の坂を上り、
少し西に歩くと道の向こうに
大阪城がようやく見えてきました。
そこから中央大通りの歩道を西に歩くと、
「難波宮跡」にさしかかります。
7世紀中ごろと、8世紀初めに
日本の首都として機能していた場所です。
近くには、もしかしたら「大阪都」になるかもしれない
政治の中心地の建物群も見えています。
大阪のど真ん中、都会の一等地に
これだけ大きな旧跡を残しているのですから驚きですねえ。
解説板を読んで、
宮殿や大極殿の跡を見ながら
広い公園を他に何かありゃしないかと歩き回りました。
ここが八角堂の跡地だそうで
これは巨大藤棚でしょうか。
その後、交差点を渡って、
立派な大阪歴史博物館へと向かいました。
その建物は大河ドラマ「真田なんだな」
(正式には「真田丸」)
を制作しているNHKの巨大な建物と
隣接というか、一体化して建てられ、
その前の広場は難波宮跡公園として整備されています。
お、ここは「緑の一里塚」としても整備されています。
昨秋、法隆寺周辺を歩いた際に見つけたのは
「緑の道標」でしたよねえ。
新たな取組でしょうか。
調べてみたら「緑の一里塚」整備は
竹内街道、横大路活性プロジェクトとして
大阪府、奈良県、沿線市町村が一体となって
取り組んでいるとのこと。
これから増えてくるかもしれませんね。
ここには、当時の高床式の倉庫も再現されていました。
結局、歴史博物館には入らず、
このあと、大阪府庁に寄って
竹内街道の「街道マップ」をいただき、
帰路についたdoironでした。
この続きの大阪城公園内散策は
梅の季節にあわせてやろうと思っています。
このシリーズひとまず終わり。
最新の画像[もっと見る]
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
- 龍田古道を歩いてきた8 4年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます