「この神社の神主は世襲制じゃないんですよ」
社務所の辺りを掃除していた女性がそう話してくれました。
「由緒ある神社なんですが、
うちは他から来てここの神主をしているんです。」
という話からもこの人が
昔からここに住む
「鴨」の子孫ではないことがわかる。
そんな話をしていたら、
「由緒書があるのであげましょう」
と言って社務所から出してきてくれたのがこれ。
明治33年に作られた
図柄の入った由緒書でした。
漢字とカタカナで書かれた由緒を頑張って読むと、
洛北の賀茂明神を勧請しておかれたとあります。
建角身命のゆかりの地であるということからも、
ここが葛城の「鴨」によって
開かれた地であることが伺えます。
樹木が二列に並んだ参道の様子は、
あの「一言主神社」をほうふつさせる佇まいではないですか。
参道入り口には先ほど見た石の道標と
同じ形のものが立っていました。
「左 いがいせ道」とあることから、
ここも交通の要衝であったようです。
白い花をつけた梅の古木に別れを告げて、
集落の中の街道道を歩いていくと、
木津川の堤防に出ます。
川が大きすぎて、
河川敷の中に森があったりするので、
一見堤防には見えないのですが、
こんな石が立っているのですから
堤防に他なりません。
「木津川距離標31km」
と刻まれています。
淀川の三川合流地点からの距離のようです。
その先で右折し
川に架かる橋長285mの
「恭仁大橋」を渡ります。
渡りきったところの万葉歌碑のある公園で、
そろそろお昼にしましょう。
そうそう、今日は昨年買った
ショルダーバッグのデビューでした。
快適だったなあ。
今日は加茂駅前の思い出のローソンで買ったこれ。
ごちそうですね~。
お腹が膨れたら
さあ後半部分に進みましょう。
堤防沿いをしばらく歩いて、
田んぼの中の道に降り、
恭仁宮を目指します。
このあたりは農業者の結束が強いようで、
こんな時計のある集会小屋や
農事掲示板のある立派な集会小屋も
立っていました。
遠く北の方の山を見上げると
「海住山寺」も見えますが、
今日はそこにはいきません。
集落の中にある「恭仁宮跡」に向かいました。
そこは、一時都が置かれたのですが、
都としての形態が完成しないうちに
近江に遷都され、
そしてその後、
先日歩いた大阪城横の難波宮へと
変遷していったものです。
だからここ恭仁宮はうたかたの都であったと
言えるでしょう。
今も七重の塔の礎石や
大極殿の跡が残っています。
石碑のこけているのが、
この都のはかなさを
物語っているようで悲しい景色でした。
わざとこかしてあるのじゃないでしょうね
ここからまたのどかな道を歩きますと、
茶畑などが現れます。
そしてまるであぜ道のような道が続きます。
また神社が現れました。
恵美須神社です。
ここにはそのロケーションから
別名「河原恵美須」ともいわれています。
昔、木津川の氾濫で
この神社が流され、
西宮の戎神社まで流れて行ったという由来を持ち、
以後地域の人々が船で
御神体を迎えに行ったそうです。
木津川が、淀川を経て
大坂、京都と開運でつながっていたからこその、
昔の一大イベントですねえ。
恵美須様は商売の神様ですね。
クリエイター仕事の注文が殺到するよう
祈っておきましょう。
こんな六地蔵を見ながら
再び木津川の堤防に登ります。
今の季節は少し寒いけど、
春たけなわの頃は
きっと気持ちいい川風が吹いていることでしょう。
堤防をずんずんと歩いた後、
再度恭仁大橋を渡って、
加茂の商店街に向かいました。
折しも商店街こぞって
雛人形飾りのイベントをされているようで、
あちこちの店先に
こんな雛人形が飾られ、
たくさんの人達で
かなり賑わっておりました。
結局、二か所の神社で鴨族に思いをはせつつ、
のどかな田舎道を気持ちよく歩き、
最後までアンコの詰まった楽しい加茂歩行でした。
大仏鉄道という新しい廃線跡も知ったし、
歩いてよかったカモ~
ということで今回のシリーズ終わり。
追伸
先ほど、スーちゃんの四十九日が
無事終わりました。
たくさんのお見送りに感謝です。
合掌
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