バイク(Buell)で、苫小牧経由で白老⇒大滝村⇒支笏湖と回ってきました。
仙台藩陣屋跡をぐるっと歩きましたが、バイク用ブーツで足が疲れた。
(カメラ:LumixGF2+LumixG14mmF2.5)写真クリックで拡大
ポロト湖畔、きもちいい!
向こう岸に見えるのは観光に復元されたアイヌ家屋。
北海道の自然とよくマッチしています。
仙台藩の陣屋があった場所が、史跡となっています。
ポロト湖から車で10分くらい。
かなり広い。
火薬庫跡とあるのに注目。チャンバラのイメージではない。
いつ頃造られた物か?
よく見えないので拡大、補正。
1856年に作られたもので、まさに幕末、1953年ペリーが浦賀に来て開国させられてから
たった3年後に造られた、いわば蝦夷地の軍事基地の拠点だったのですね。
ここに記されている、諸藩、奥羽諸藩は土方と榎本が薩長のクーデター軍に恭順しないように
説得して回り、のちに賊軍とされた諸藩です。
会津藩は京都守護職で京都の治安維持にあたり新撰組も加わって、長州、薩摩のテロリスト
取締りを行っていたことで有名ですが、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、
特に薩摩藩の乱暴狼藉を取り締まり、フランスの幕府軍事顧問ジュール・ブリュネの指導のもと
大砲をぶち込んで薩摩藩の江戸藩邸を焼き払った「薩摩江戸藩邸の焼き討ち」までやり、薩長
と対立したために「朝敵」(天皇やお公家さんらの朝廷に逆らった悪者)ととして新政府からの
攻撃対象とされて薩長のクーデター軍と戦ったことはあまり一般的に知られていないようです。
36歳でとても健康だった孝明天皇が突然死亡して、岩倉と薩長が手を組んだ辺りから
歴史は急展開していきます。不穏な空気が日本中に流れ始めていたにも関わらず
東北の諸藩はこのように律儀に北方ロシアの脅威から蝦夷地を守るための軍を
派遣していたのですね。「1868年の戊辰戦争の勃発によって撤収」というのが
非常におもしろい。たった12年で蝦夷軍事基地は日本国の内乱のために解散と
なってしまったということです。
歴史の真実は明治「維新」や「今一度日本を洗濯致し候」などの坂本竜馬伝説の
イメージとは違って、新式小銃の大量輸入を目論む武器商人の暗躍や権力争い
などのどろどろした陰謀に後押しされたものだったのでしょう。この後、日本は破壊
と殺戮に満ちた暗黒の時代へと舵を切っていったのはまぎれもない事実です。
長州出身の総理はそれを美化して「明治憲法」を復活させたい精神の持ち主のよう
だし、国民も「日本軍は欧米の植民地支配からアジアの国々を救い出したのだから
侵略戦争ではなかった」、「自虐史観に洗脳されている」などのもっともらしい話にすっかり
騙されているが、太平洋戦争での日本人だけでも死者数は300万人以上もいることは
事実で、今でも若い人でも、お祖父ちゃんやその兄弟、親戚の叔父さんなどなど
親類の誰か彼かは戦死しているのです。自国民がこんなに犠牲になってまで
アジアを欧米列強から救い出すなんて、まるでバカのすることです。
明治以降、専守防衛に徹して軍備の拡張をしていればこんな悲惨な結果にはなって
いなかったはずです。
陣屋入り口の門の横には高い土塁が築かれていて、アイヌのチャシのよう。
ここから基地に入ります。