帰りの送迎のとき、それは起こりました。
無事、一日のデイサービスが終わって、
坂上さんの自宅の前に送迎車が到着しました。
私はすぐに運転席から降りて、
左のドアを開けました。
「坂上さん、お家に着きましたよ」
坂上さんは奥様の顔を見るやいなや
すぐに車から降りられました。
あとはまっすぐに玄関に入って行かれるのを見届けるだけです。
ですが、添乗していたスタッフが、
ここで坂上さんに声をかけてしまいました。
「坂上さん、今日はどうもありがとうございました」
坂上さんはうしろを振り返るやいなや
すぐに車に乗ろうとされました。
私はまだ3人の方々を送らなければなりませんでしたので、
ここで再び坂上さんを乗せるわけには行きませんでした。
ドアの前で右腕を伸ばして制止したので、
坂上さんは途端に怒り出し、
ガブっと、私の右腕(肩の下あたり)を
思いっきり噛みついてこられました。
「きゃ~~~!」
と奥様がとても驚いて叫び声をあげました。
私は冷静さを保ちつつ、
すぐ右腕に力をこめました。
すると坂上さんは腕を噛まれなくなって、
口を離してよたよたしながら家に入って行かれました。
私の右腕には出血はなかったものの
噛みついた歯形がくっきりと残っていました。
「大丈夫ですか。ごめんなさい。ごめんなさい」
と奥様は何度も私に謝られました。
「これぐらいのこと大丈夫です」
と言ってすぐに次の方のところへ車を走らせました。
全員が降りた後の帰り道、
スタッフに先ほどの坂上さんの降車のことを説明しました。
「坂上さんは送迎車を降りて奥さんと会った時点で、
もう車に乗っていたことを覚えていません。
だから後ろを振り向いたときは、
迎えに来てくれた車だと思ったのです。
だから乗り込もうとし、
それを阻止されてしまったので、
怒って噛みついたのです。
つまり声をかけるタイミングではなかったということ。
お礼を言うタイミングは降りる前の車内で言って、
降りたらもう声はかけないで、
奥さんと一緒に玄関に入るのを
静かに見守るだけでいいのです。
静か見守るのも大切なケアのひとつです」
腕の歯形は数日後には消えました。
次は玄関の柱にしがみついて、
「絶対行かない!」
と言っている人
を送迎車に乗っていただいたお話です。