1年前、大切な仲間の一人Mさんと、悲しいお別れをしました。
娘が小学校でPTA役員をしたときの同期で、本当に頼りになる兄のような存在でした。気さくで、人に優しくて、ユーモアもあって、物事を見る目や、それを表現する言葉は絶妙で、人間としてとても尊敬していました。
病気を知ったのはその数年後。風のうわさを気にしつつ、ある講演会で会ったときには、もうすでに車椅子でした。
奥様から病名を聞き、調べたときはショックでした。
「治療法はなく、余生を楽しく過ごすだけ」
友人として何かできないか・・・あれこれ考えたのですが、励ます会の企画も実現しないまま、別れは突然やってきました。
倒れられる数日前、珍しくMさんからメールがきました。年賀状の住所確認のメール。それと、婿養子であったMさんは、ご自分の姓にしていたのを、奥様の姓に変わりましたという連絡。
私は「元気にやってる?」と返信しました。
Mさんは「大丈夫」と、たぶん動かしづらい手で一生懸命パソコンで打ってくれたのだと思います。
「みんなで楽しくやっていたころが懐かしい」
「今は出かけるのには大変でね」
日にちを置いて、2度ほどのやりとりの後、私が出したメールにはもう返信はありませんでした。
昨日、Mさんを偲ぶ会がありました。久しぶりに会ったPTAの仲間と思い出を語り合いました。
そして、あのメールの翌日にMさんが倒れたと知りました。
Mさんの奥様は、私が病院の婦人科に勤めていた頃に、お腹に赤ちゃんがいての長期入院をしていた方です。毎日面会時間を過ぎてから面会に来る旦那さんとして有名でした。とってもステキなご夫婦だなと思っていました。それがMさんだと知ったときは納得がいったものです。
今、Mさんそっくりの大学生と高校生の息子さんが二人、お母様を支えています。奥様は言われました。
「息子たちは家にいる弱っていく父親を見て情けない印象を持っていました。でもこうしてたくさんの友人がいて、父親がどれだけ偉大な人だったかを知り、太く短い人生だったんだねと言ってくれました」
いい人生だったんだと受け止め、きっとお父様の遺志を受け継いでいくのだろうなと思いました。
Mさんは実際、サッカー界では有名な人だったそうです。仕事でも、奥様のお父様の会社を継ぎ(発病後)取締役社長として活躍もしていました。
そんな自慢もすることなく、仕事や家庭とも別に、自分自身の大切な場として、仲間とのたくさんの思い出を作っていきました。
仲間って本当に大事なんですね。
Mさんは歌がうまくて、よく歌ってくれたのが「君を忘れない」でした。
ずっと忘れないと思います。
(M.H)
兵庫県神戸市に来ています。
神戸は、昔からあこがれの街です。
ちょうどいい大きさの、都会的雰囲気と異国情緒を兼ね備えた街。
いろいろモノがそろっています。
小さいときに、折に触れ、
(神戸三宮と元町に行こう)と母親から誘われると、
小躍りして嬉しくなった日が今では懐かしいです。
劇場で観劇したり、ミュージカルを見たり、タップダンスには驚きました。
帰りに元町を散策して、風月堂のお菓子を買って、ファミ○アの子供服屋さんと神戸牛のステーキを食べてペコちゃんの箱入りお菓子を買ってもらって、神戸には発見が多かったし、上流の街というイメージさえ持ちました。
京都には京都の顔があり、大阪には大阪の香りがあります。
それぞれの特産や雰囲気で、街のイメージが違うのが面白いの。
関西の力強さはそのあたりにあるのかもしれない。
だから旅をすることがいいのかもしれないね。
私は関西生まれで兵庫県生まれを誇りに思っています。
故郷の風光明美を支えた多くの方々のお陰で、そう感じています。
故郷に戻ってくると、お陰さまで充電したようにエネルギーが貯まります。
みんな故郷に帰って、原点に戻り、パワーアップしましょう。
TTT