法事も無事終わり
奥多摩町川井500 の 花あそび という食事処 ちなみに 前日までの予約のみです 小型バスも入れないところで送迎なしっぽいです。ついでに、個室(10畳)3部屋、中部屋(20畳)、大部屋(40畳)が各1部屋、税込で3,780円、5,180円、6,000円と法事(5千円から)(当日のパンフレットより)
すぐ下を青梅線が
入り口
大広間
食事
ゆかり となにかのご飯 どうもどこでもご飯が一番最後 ご飯だけは食べにくい(笑)
コーヒーゼリーに大納言にクリーム
法事も無事終わり
奥多摩町川井500 の 花あそび という食事処 ちなみに 前日までの予約のみです 小型バスも入れないところで送迎なしっぽいです。ついでに、個室(10畳)3部屋、中部屋(20畳)、大部屋(40畳)が各1部屋、税込で3,780円、5,180円、6,000円と法事(5千円から)(当日のパンフレットより)
すぐ下を青梅線が
入り口
大広間
食事
ゆかり となにかのご飯 どうもどこでもご飯が一番最後 ご飯だけは食べにくい(笑)
コーヒーゼリーに大納言にクリーム
久しぶりに中まで入りました。
法要の後でこっそり撮影(方丈さん黙認)
壁面に鏝絵
透かし彫り(一部です)
さすがに由緒あるお寺です
9月25日追記 鏝絵の1枚を再編集してUPします 左下(鬼?の下)あたりに、奉納した左官の名前があります。
伯母さんの三十三回忌法要に実家代表で出席
青梅発祥の地?になっている金剛寺
平将門が疲れた~って杖を差したら、根付いて梅が生ったということです。熟さないでいつまでも青いままだから、青梅と言う地名になったそうな
以下は、完全にコピペです(感謝) 意外と知られていない 青梅せんべい 歴史です。
ネタ本は「青梅再発見」(大倉)です。
市内の和菓子屋で、青梅せんべいの元祖を名乗っている店はありません。
青梅せんべいの発祥については、資料が残されておらず、様々な資料から類推するに・・・。
幕末から明治にかけて、一本啓左衛門という人物が、上総から青梅の仲町に来て「一本(いちもと)」という青梅せんべいを売る店を創業。田島家を名乗る。本町の目抜き通りに店を移し、幕末から明治にかけて繁栄を築く。特に二代目が大きな財産を築いたが、三代目になると後継ぎがおらず、ある日突然、弟子たちに製造機材を譲渡して、店をたたみ、どこかへ忽然と消えてしまった。ということです。
●瓦せんべい・・・小麦粉・タマゴ・ザラメ糖を使い、梅花の型で香ばしく焼く。
どれ程古い歴史があるかは不明 → 文書となった資料が無い
戦前…元来は、三輪の梅の花を重ねたデザイン
戦後…二輪の短縮型が考案
現在…各種味のバリエーション、小型のものも
●青梅市に元祖と呼ばれる確かな店がない
●本家争いも無い
各地の名所や観光地では本家や元祖を名乗る争いが多い。→青梅せんべいには無い!?
・昭和56年のとある店主の証言
各店の創業者にあたる先代や先々代は、同じ店で修業をしていた。
・修業先
青梅本町の「一本(いちもと)」
→なぜか店をたたんでいる。
○証言
証言1…
「一本の名入りばんじゅう(菓子箱)を親方から貰い受けて、長く商売に使っていた」
証言2…
「つい先頃まで、作業場に漆塗りの蒸籠(せいろ)があり、一本と書いてあった。祖父がもらった」
証言3…
「古いせんべいの焼き型は「一本」から預かったもの、預けた本人は、青梅を出たきり行方知れず」
● 明治の名鑑に「一本」
・市内上町の桑田商店に明治27年の「関東商業名鑑」。三多摩が東京府になり間もない頃。
・青梅町の部に銀行、鉄道、商店、材木商など40軒ほど。「一本」も記載。田島忠兵衛の名。
● 町方文書に「青梅百文」
・青梅市教育委員会の青梅町方文書(まちかたもんじょ)の調査
ある商家の古文書から。
「青梅百文」→青梅せんべい
「錬り一本百弐拾文」→ようかん
● 元祖は「一本」
・「青梅せんべい」を焼いていた菓子商の「一本」はどこへ消えたか?
・田島忠兵衛は、どのような人物だったのか?
・幕末から明治にかけて「一本」を知る職人衆であれば、間違っても「青梅せんべい」の元祖とは言えない。
忠兵衛の後継者
○田島忠兵衛
・天保元年(1830年)4月16日生まれ。為造、権三郎の二人の息子。
・明治22年8月23日…59才で他界。
・明治25年3月11日…長男の為造(33歳の時)が、忠兵衛を襲名
・明治29年5月…弟の権三郎が他界(31才)
・弟の権三郎には子がない。
・また長男の為造も二度結婚、二度離婚。子宝に恵まれず。
● 明治の末年の旅立ち
・何年かは不明…「一本」伝来の菓子道具の全てを弟子達に託す。
→店をたたんで、二代目・長男の為造はどこかへ旅立つ。
○手がかり
・本町の町内文書に残る…父・忠衛門、二代目忠衛門。高額寄付者。
○天寧寺には…
・弟・権三郎の一周忌。先祖と弟の供養に納められた明治30年5月30日の位牌。
・願主は二代目・田島忠衛門。位牌は総高1尺5寸(約45cm)、淡い紫がかった漆の地。
・盛大な法要だったことがうかがわれる。
● 後継者・弟の死去
・明治29年5月…弟の権三郎が他界(31才)
・明治30年5月…一周忌法要。
・その後、二代目忠衛門は妻と離縁。
→店をたたむ決意を固めたのではないか?
・明治の末・・・親子三代、暖簾を維持してきた青梅の地を後にして、再び戻ってくることはなかった。
※一本 = 田島忠兵衛 だったので、結構ぐちゃぐちゃで文書として残っているものが少ないそうです。また、大きく財を成したので、青梅大祭の山車や、色々なことに寄付も相当したようです。突然現れて、財を成し、突然消えて行ってしまった田島忠兵衛のようですね。焼型をはじめ道具類を全部、職人に貸しあたえて去っていったとはすごいですね
※三輪の梅の花を模した青梅せんべいを覚えています。もしかして、当時の焼型????? 職人が焼いていました。
個人的評価ですが(あくまでも個人的評価です) ギネス認定できるんじゃないかとひそかに思っているのが、我が町の銘菓 青梅せんべい です。昔から作られてきています。梅味とかいろいろ工夫されているものもありますが、これは、たぶん昔からの製法で焼き上げているもの
ギネス認定対象は、世界一食べ飽きるせんべい部門 です。(あくまでも個人的な意見ですから)
ちなみにコピペ
醤油味のおせんべいではありません・・・小麦粉ベースで卵等を使った「瓦せんべい」です!、そして「梅のカタチ」をしている事が条件だと思います・・(「梅のカタチ」は青梅の地名に由来していますが、その説明は別途・・・・)
また一説によると鎌倉時代より食べられていたとか・・・・特定の店が特許を持っている訳ではなく、イロイロな和菓子店がそれぞれの青梅せんべいを発売しています!
私の意思とは無関係の貰い物ですので、とにかく消費しようと、最初は地道に食べていたのですが、やってみました。卵とじ(爆笑)
めんつゆ うすあじ に青梅せんべいを4枚浸す
たまねぎを半分、ハラペーニョを半分、ツナ缶ドバっと で、火を通して、卵2個、めんつゆで味付けして回しかけ
美味しそうです。とにかく失敗を防ぐためにも色々入れましたから(笑)
実食 美味しいです。これなら、残りの青梅せんべいも卵とじにしちゃおうっと
実食途中の
皿の盛ると洗い物が増えるので、パンからそのまま
お彼岸で隣のおばさん(おばあさん? 奥さん? )が、お彼岸でさっそく線香を上げに来てくれました。
昼に食べました おはぎ
自家製(もち米、あずき、餅)の御餅とおはぎです。
ラップを開けて
きなこの方を食べかけで 中にあんこでした
あんが、上手です。おいしい!
百姓の贅沢 大根の芽の間引き 間引いてすぐに軽く煮て、水で〆て保存
試食の為にハラペーニョを1個 紅い方が辛さは上らしいです。
20cmのフライパンにバター少々を溶かして、あとは、ドバッと上のものを投入 めんつゆで少し味付け
いい加減なとこで、多いかなと思ったけど卵を2個かきまぜ、めんつゆで味付けて、まわしがけ 蒸らしたり、祈ったりして 出来上がり
赤いのが、ハラペーニョ それほど辛くありませんでした。(火が通ってるから??)
卵が2個なので、半分だけ食べました。残りは後で!
第1回目の卵とじでした。
業務用のタラのほぐし身(骨なし)500g
500gもあるので(肉なら2人前以上)、3合の米を研いで水加減して、冷凍のタラを何とか釜に入れ、めんつゆドバっ!
炊きました
タラの独特の臭い⇒う~~(だめみたい)と思いつつも食べてみました。めんつゆが足らなかったか薄味でしが、意外といけます。
いつものように、解凍とかしてません、釜に入れて炊く!これで解凍と炊き込みが出来てます。
これで、冷蔵庫の中に炊き込みご飯にしたいネタが一掃されました。今度は卵とじシリーズやるぞ~!
作業し始めたとこで雨! あわてて片づけて
必要なものを買い物に量販店 ジョイフルホンダ へ はいはい!どうせくだらないもおですよ! はいはい!
昼時にかかったので イートインで迷った末に麻婆豆腐定食
失敗したかなと思ったが、反して!平均的??でした。