緩和ケア医の日々所感

日常の中でがんや疾病を生きることを考えていきたいなあと思っています

がんの旅路:Journal of clinical oncologyから

2022年04月10日 | 医療
アメリカ臨床腫瘍学会 -私たちはASCO(アスコ)と呼んでいます- の学術誌はJournal of clinical oncology -JCO と呼ばれています。

ASCOの正会員になると年会費は600ドル程度で、日本の医学会は1万~1万5千円位であることに比較すると大変高い費用がかかります。

私はASCO会員なのですが、何とJCOの紙雑誌がアメリカから隔週で送られてくるのです。Web上で読めるので、郵送をやめてその分安くしてくれればよいのに・・と思いつつ、今なお紙雑誌を郵送する背景には、私が知りえない何かあるのだろうなあと思っています。



それはさておき・・・

臨床系の医学雑誌というと、臨床試験やメタアナリシスなどの論文がぎっしり詰まっていると思われるのですが、実は、JCOのようなインパクトファクターが44と超高いものでも、査読を通った「臨床的エッセイ(随筆)」を掲載している雑誌が少なくありません。

JCOでは、Art of oncology(腫瘍学のアート)というセクションで、時々のエッセイが掲載されています。




Navigating Difficult Waters: A Cancer Journey
(難しい海路をナビゲートする:がんの旅路)

64歳のマークは、希少がんの精巣ライディッヒ細胞腫と診断されました。
著効する治療の選択はなく、後腹膜リンパ節に転移があれば郭清する程度しかできないと言われ、診断的治療を兼ねて、手術をします。
その後、腹水、肝転移が判明し、局在した癌から進行癌へと変化し、治療医と共に緩和ケアが併診することになります。この頃、マークは死が差し迫っていると感じることがあり、自分の意思を完結させていくために、準備をしていくようになります。
ところが、骨転移が分かり放射線治療と化学療法を行ったところ、それが思いがけず著効し、癌の広がりを制御できた時間ができたことで、マークの精神状態はむしろ抑うつ的になってしまいます。
治療の効果で与えられた時間は、まるで、自分の人生をブロックしてしまったかのように持て余してしまい、むしろ死にたいと感じるようになってしまいます。

筆者は、癌治療の進歩は難問を生み出したと述べています。
疾病の進行と完解を繰り返し、終わりが見通せない不確実な時間が増え、にもかかわらず治癒する見込みはないという感情のジェットコースターを生み出してしまうような複雑な難問です。

このような難しい道のりにおいて、生と死の両方を認識すること、二重の気づきは乗り越えることに有益だと他の研究を引用して述べています。
死にゆく過程を意識すること、その一方で、生きることに専念すること、その間でバランスを取ろうとすることが支えになると言います。
今までは、ゆっくりと時間をかけて、死へのプロセスを受け入れていくという考えがむしろ多い傾向にありましたが、そうではなく、二重の意識をもつことが重要だと言っています。



メメント・モリというラテン語があります。
死を想う。
死を忘れるな。
それが、よく生きることに繋がるという意味です。
まさに、そういう感覚を述べているのだと感じながら、読みました。



さらに、このエッセイでは、middle knowledge(中間地点の認識) という言葉も用いています。
患者やケアに関わる人々が死に至ることを認め、死に至る中間でその準備をし、死に備えることで致命的なリスクにさらされていることを回避していくようなこととして説明されています。



生きること、死ぬことこの間での葛藤は、人間の本質的な葛藤であり、死への準備をしながらしっかりと生きるという生死という二重性の中でものごとを見つめることが、ジェットコースターのような治療効果と悪化・進行の間で上下する精神的な大波を乗り越えることに繋がるのだと思います。

今まで、早期から、診断時から緩和ケアチームがかかわることが日本でも推奨されてきました。これはどちらかというと、いざというときに、苦痛に早く対処できるとか、在宅医療や緩和ケア病棟にタイムリーにつながっていくことができるようにという意味合いでした。

今回、このエッセイを読み、治療医に緩和ケアが参加することが、この二重性(生と死、治癒と進行、縮小と拡大などなど)の気づきの促進になるのだということに気づきました。

緩和ケア外来に自ら受診される患者さんは、まさに、この二重性に気づき、その中でバランスをどのようにとればよいのだろうといった疑問を持って、来院されていました。ある意味、早い時期に緩和ケア外来を選択肢に入れた患者さんは、すでにその対処する力を潜在的に持っている方なのかもしれません。



このエッセイのマークのその後・・
イライラが募っていたマークに医療スタッフは、直球で質問します。
「残された時間を最大限活用するために、今何が必要ですか?」
マークは、単に医療的な説明や処置について話し合うのではなく、マークの葛藤に医療者が焦点を当てたことに落ち着きを取り戻し、率直に
「治療によって延長された残された時間が負担になっている」と伝えました。
医療者とマークとの間で、隠し事の無い率直な会話で、生と死について語り合いました。
治療においても自己決定ができ、治療自体にも深くかかわることができてきたことを改めて気づくことができました。
このプロセスでのキーワードはShared decision makingでした。
医療者は人生最終段階での仲間になったとも述べられています。
再度、ロードマップを更新し、延長された無駄な時間ではなく、時間は与えられたのだと感じるに至りました。
この過程をマークは、死ぬことを学ぶ(learning to die)と表現しています。



こうしたエッセイは、研究論文や症例報告にはない示唆を私たちに与えてくれます。
身の回りで同じ現象をみていたことに、生死や生活、人生とは多様な一方で、普遍的なものでもあることを感じさせてくれました。

ちょうど今、緩和ケア内科に6年生の学生さんが実習に回ってきているので、次のジャーナルクラブでは、この論文エッセイを紹介しようと思っています。

Angela Yuriko SmithによるPixabayからの画像

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