先日、ある大学院で医療倫理の講義をしました。
この準備をしながら、今まで、ずっと疑問だったことが整理され、
ああ・・こういうことだったんだ・・と見えてきたことがありました。
重篤な状態の人が、医療下にある時、
今の日本では、その治療を中止すると、
時に殺人として問われることがあります。
この治療の中止。
法の立場の方は、可逆的な可能性がわずかでもあるなら
その治療の中止は殺人の可能性を含むと言います。
医の立場の者は、というか、少なくとも私は
この考えに心から賛成と言えなくて来ました。
3年前の日本緩和医療学会で、李啓充先生は、治療の中止とは、人の元来もっている寿命の線に戻すことに過ぎない。それを真摯に臨む患者さんに対して、自己決定を尊重することが重要であり、一律に治療の中止はできないとする今の日本の医療の体制はパターナリズムに他ならないと講演されました。
人の本来の寿命に戻す・・
胸にストンとこの言葉が入ってきました。
でも、法的な治療義務の限界ということが、
今も論点になります。
何故、同じ状況を見ていて、違いがあるのだろうか・・
溺れそうな人を助けないで立ち去ってしまうことは
有罪
では、寿命に戻すということは、これとどう違うのか・・
それで、イメージしたのが
素麺流しでした。
竹の中を流れる素麺。
これを箸で取ろうとするのですが、
取るに取れず、箸にひっかかりながら、
すくい上げることも出来ない状況が続いてしまう光景・・
法的な考え方は、すくい上げられる可能性を議論します。
でも、医療人は、すくい上げられるまでの過程の苦しみ方を身を削るように感じてしまう・・
ここが、一番の違いなのではないかと気がついたのです。
そのプロセスのQOLを下げてしまう状態と
わずかな可逆性を信じて苦しませてしまうことをの狭間で
医療人は苦しんでしまう・・
つまり、
すくい上げられることを前提に vs 流れてしまう
これに対し、
流れてしまうことは本来自然なこととしてこれを前提に、
すくい上げられる過程の苦痛の程度 vs すくい上げられる可能性
こんな違いを論じているので、すれ違ってしまうのではないかと気付いたのです。
加えて、連想したこと。
大岡越前の”本当の母親”の裁き・・
息子を前にして、自分の子だと2人の母親が名乗り出た時、
子の手を両方から引っ張らせ
勝つためにトコトン引っ張った女性と
子が痛がる姿を見、思わず手を離した女性
越前は、後者を母を認定したわけです。
僅かな可逆性があるならとことん医療を続けるべきだとする法律家と
その過程の苦しさから手を離すことをしてしまう医療人。
見ているところが違っていたんだなあと
改めて、いくつかの事例を読み返していて気がついたのでした・・
補足ですが。
もちろん、治療義務の限界だけが論点ではありません。
自己決定が何よりも重要です。
が・・自己決定が不確かな時の家族の代理人としての立場のとらえかたや
死を近くにした時の治療は、一定の見解はないのだから、
延命治療を中止してはいけないという理論は成り立たないとするアメリカの考え方は
今の日本とは逆からの発想で
色々と読むほどに、臨床現場の感覚に近いなあと思うのでした。
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こんにちは。
いつもarugaさんの思索の深さには感じ入ります。
私は無学な者で、人様の延命治療に何も言うことができませんが、こと自分に関してはきっぱりとお断りするつもりです。
ながながと家族に心配をかけるよりも、さっさと移植か献体に体を提供するほうがましと考えております。
一応、アイバンクに登録して臓器提供の意志を健康保険書に記載していますが、私のような癌で体がぼろぼろでも大丈夫でしょうか。
移植が無理なら、せめて献体でもとは思っています。
以前、骨髄バンクの登録に行ったら手術経験があるということで断られてしまいました。
今まで、何人かの癌の方がアイバンクに角膜提供をなさるのを見守りました。大半の方は大丈夫でした。
提供が難しかったのが、肝臓障害が悪化して、黄疸が出た方でした。皮膚も角膜も黄色くビリルビンが沈着してしまうため、角膜が濁ってしまわれたのです。
本当に医療は多くの方の命に支えられています。ありがたいことです。
おいそがしい中の回答、ありがとうございます。
私の体が、人様や医学に少しでもお役にたつのなら、幸いです。
税金や社会保険など国民連帯のお金を何にかけるべきかという議論の土俵で話すべきことではないかもしれませんが、国民連帯のお金を苦しみながら延命する、される、ということについてかける仕組みの在り方を見直して、子どもや青年にもう少しかけられる仕組みづくりが、財政の問題としても必要なのではと感じております。
娘からは、尊厳死とは何か、1930年代、1970年代の動向、今日の変化についてテキストを読みあげられて、私の理解が大変不足していたなあと思いました。
とはいえ、経済学の問題として、何にお金をかけるべきか、という視点は、日本国内で、躊躇せずに、きっちり考えるべき問題だろうと思うことについてはかわりはありません。
aruga先生には、どう返答したら良いのか、難しいことを書いてしまったと思いつつ、私自身、最近(これまで病院にはご縁がなかったのですが)手術を受け、それがきっかけでaruga
先生のページに行き当たり、ファンになったものですから、書かせていただきました。
私自身が、仕事と家庭の両立に悩んできたのですが、先生のHPのメッセージに、本当に力づけられました。今後も先生のHPのメッセージを楽しみに拝読させていただきます。
命を次に繋ぎつつ、何よりも、今を幸せにお過ごしくださることを心から大切に願っています。
hanaさん
揺れ動くお気持ちをお書きくださり、本当にありがとう。
個々の生きざま、自己決定のあり方、他者を尊重するということ、生の意味・・色々なキーワードを挙げた時、共通するのは、well-being(健やかによく生きていること、心と体が満ち足りていること)です。
その追求の中の一つに、限界があるものをどう分配するかということも含まれます。
命と経済問題を天稟の対側というより、well-beingの探索フィールドとして、一つの容積の中に浮かんでいるものとして考えると、いずれも重要であることがわかります。
お書き下さったことは、とても、大切なことだと感じています。
高校生の娘さんがいらっしゃるのですね。
娘さんと、安楽死をめぐる歴史や考え方について、より深いところで共通の話題として話し合えたのではないでしょうか。
時を同じくして偶然ここに書かせて頂いたことが、hanaさん親子の会話に溶け込んでくれたかもしれないと思うと、書いた甲斐があったなあ・・って嬉しく思いました。
同じ世代(と推測しましたが・・もっとお若いかな?)を生きる女性の仲間として、これからも、宜しくお願いいたします。
ありがとうございます。
私は今、とても充実した忙しい毎日を送り幸せです。
月末からは、こちらの国立大学の公開講座を受講する予定です。
講座は、「シェイクスピア ロマンス劇の愉しみ」と「日本古代の四国と瀬戸内海」です。
再び、キャンパスライフが楽しめるかと思うとワクワクします。こんなことができるのも病気のおかげです。
私ももしかしたら同世代かなと思っていました。上に大学生もおります。私は子が幼いときにフルタイムの仕事に就きまして、幸運に(家族としては意外なことに)就いてしまったということなのですが、その後は、一人前に仕事をしなくてはと、とにかく忙しく過ごしてきました。
きっと先生はもっとお忙しいに違いないのに、着実に大切にしっかりと生をいきていらっしゃるご様子を拝読し、すばらしいと思って、迷える私の癒しの時間、と先生のブログを拝読していました。これからもよろしくお願いします。
こんなことができるのも病気と緩和ケアのおかげです。
に訂正させていただきたいと思います。
癌になってリタイアした後、痛みと不安で先行きがわからないでいたところ、緩和ケア診療と出会いました。受診によって痛みと不安が解消され、このような心境と行動ができるようになりました。
私は現在、療養型病床で看護師をしているものです。
入院されている方はほとんど後期高齢者の患者様です。
入院時、急変時(病状悪化時)総合病院への搬送希望の有無を伺い、それが無言の了解でイコールDNRシート(意思表示書)となっております。
予測不可能な急変時、心肺蘇生をどこまでするか、いつまで続けるかという迷いが生じ、混乱が起こることがあります。
そのため、今回、DNRシートの作成を行うこととなりました。
資料を探しているのですが、なかなか見つからず、途方にくれております。
お忙しいと思うですが、助言をいただけたらありがたいと思ったしだいであります。
よろしくお願いいたします。