今日は大阪のあずまやさんの哲学してみる読書会ー論語と算盤ーにオンライン参加しました。この世は人と同じことをしないと排除する危険性が出ています。このコロナ禍でその様相がいっそう強くなっています。一人ひとりの考え方や生き方は皆違います。その違いをお互いに受け入れながら自分の生き方を振り返る機会も少なくなっています。その中での哲学してみる読書会は正に今一番必要とされているのでしょう。2020年の歴史的転換期に貴重な読書会でした。
昭和の動乱は、憲法の死文化にその原因があることは、日本の将来に対する大なる警告である。由来、国家の意思の存在する場所が不明瞭になったり、または国家意思が分裂することは、それが余り強く一ヶ所に集中せられる場合と同様、国家にとっては頗る危険である。国運の傾くのは古来かような場合が多い。
重光葵ー昭和の動乱ーより
歴史は繰り返され、歴史を学ばない権力は滅びます。さて令和の現代は⁉️
重光葵ー昭和の動乱ーより
歴史は繰り返され、歴史を学ばない権力は滅びます。さて令和の現代は⁉️
先の戦争からまだ百年も経っていません。あの悲惨な戦争がなかったかのように平和な日本になりましたけど、いつの時代も動乱を乗り越えて平和があることを歴史は教えてくれています。その動乱には様々な人々が動いていました。難しい局面をどう乗り越えてきたのか歴史から学ぶことはたくさんあります。今このコロナ禍でまた様々な人々が動いているのでしょう。
「武士道また称して士道というもの、吾人にすでに多くこれを聞けり。これぞ我が国民道徳の根底なり、礎石なり、柱梁なる。されど時代は推移し行きて、武士の品性を形成したる、その道なお存して、武士すでにあらず。この道は変化せる事態に新たに適応せられずんばあらず。この道は平民化せられずんばあらず。かつて社会の山巓山胸を照らせし日光は、今やその広大なる山麓に遍からざるべからず。士道は形を変じて、人民の道たる民道たるべし。教育の進歩とともに、戦を事とする貴族の武士は去りて、平和の民と称すべきかの平民は、陣頭に現われ来たらずんばあるべからず」(新渡戸稲造「随想録」より)
さて現代の平民道はー平和の民とは何かー今一人ひとりがあるべき姿の哲学的な思考と歴史的な思考を持つべきだと思います。
さて現代の平民道はー平和の民とは何かー今一人ひとりがあるべき姿の哲学的な思考と歴史的な思考を持つべきだと思います。
「お前が鰻飯も好き、牛肉も好き、豆腐も好きだけれども南瓜は嫌ひだ、茄子も好きではないと仮定して置て、その好きなもの計り食ふて嫌なものはいつさい排斥して食はないとすれば、これが余裕がないのだよ、その嫌ひな南瓜でも茄子でも、拵らい方によりては屹度食へるものだから、その拵らい方もなんにも考へずに、いちがいに嫌ひだとて打棄てるのは道理のない訳だよ。ツマリ余裕のない訳だよ、見なさい世の中のことはみんなこんなものだよ、よろしいか忘れてはならないよ」(勝海舟「氷川清話」より)
勝海舟らしい言葉ですね。余裕があれば何でも美味しくなるとー世の中もよく見えるとー今も正にこの勝海舟の見方が必要ですね。
勝海舟らしい言葉ですね。余裕があれば何でも美味しくなるとー世の中もよく見えるとー今も正にこの勝海舟の見方が必要ですね。