ある日、1つのメールが入りました。ラボ教育センターの言語教育総合研究所でお世話になった元事務局長の矢部顕さんからでした。
〔7月16日(土)20:00~20:50 NHKBS1スペシャル「将校は、砂漠に木を植えた―インドに渡った隼戦闘機隊員―」杉山龍丸さんのことが放映されます。杉山龍丸さんは、私たちが学生の頃お世話になった方です。生涯をかけて、インドの砂漠を緑にしようとした方で、インドでは、「独立の父はマハトマ・ガンジー。緑の父はタツマル・スギヤマ」と言われている方です。〕
この番組を録画しておいて、暫くして見てびっくりしました。主人公の杉山龍丸さんは、波瀾万丈の人生を送った素晴らしい人だったのです。私は再放送を期待しています。
■「将校は、砂漠に木を植えた~インドに渡った隼戦闘隊員~」(NHKのサイトより)
インドの不毛地帯を農地に変えた1人の日本人がいる。杉山龍丸(1919-1987)。元日本陸軍の技術将校だ。戦時中、フィリピンで隼戦闘機隊の整備を担当、壊れた機体を執念で修理して飛ばし、“幽霊部隊”を作り上げた人物だ。戦後インドに渡った杉山は、自らの私財を投げ打って緑化に身を捧げた。その裏にあった思いとはなにか?戦時中の整備日誌など、膨大に残された記録から、戦争の大義を見つめた杉山の足跡をたどる。
【出演】杉山満丸
私がラボ教育センターに関わるようになってからの大きな収穫は、元会長の松本輝夫さんや元事務局長の矢部顕さんに出会ったことでした。そのあたりの顛末については、拙著『実践的演劇教育論』に詳しいので、読んでくださると嬉しいです。
岡山在住の矢部さんとは今回のように時々メールの交換をする間柄です。
矢部さんは、同志社大学で鶴見俊輔さんに師事し、学生仲間と一緒に奈良市にライ回復者社会復帰セミナーセンター「交流(むすび)の家」を数年かけて作ります。その後谷川雁の影響でラボ教育センターに就職することになるのです。ラボでは竹内敏晴さんをワークショップ、鶴見俊輔さんを講演会に招いたのも矢部さんです。
竹内敏晴さんの講演が切っ掛けで呼ばれたラボ言語教育総合研究所の定例会の食事会後には、必ずコーヒーを一緒に飲むという間柄でした。
そして、一冊の私家版『Fの遺伝子』が送られてきました。〔矢部顕作文集、2006~2015〕
様々な機関誌紙などに寄稿した者を集めたものです。私共夫婦のミニコミ「啓」に寄せていただいた文章も再録されています。市販されていないのが残念です。(168頁)
●『Fの遺伝子』もくじ
Fの遺伝子
キイワードは不便
『あけぼの』コラム
演歌とは演説の歌
まぼろしの「ラボランドたかはし」
出雲と会津
霊峰熊山の石積遺跡
『「民際人」中浜万次郎の国際交流』の本が出来るまで
講演記録 もうひとつのアメリカ
谷川雁の物語論
ライとラボと谷川雁
「サークル主義」をめぐる雁と鶴
鶴見俊輔とラボ教育運動
40年ののちの覚書
再刊を願う人たちとの出会い
唐桑再訪
唐桑紀行
38年後の唐桑半島の風景
そして、 時々東京では視聴できない山陽放送のコピーがCD化されて送られてきます。矢部さんも登場されるシーンが多くありました。
先日も、久しぶりに新横浜駅で対面し、話が尽きることはありませんでした。、
*RSKイブニングニュース特集「交流の家の半世紀-ハンセン病回復者との絆」2013.12
*RSKイブニングニュース特集「ハンセン病療養所の高校 最後の同窓会」2014.7
*RSKイブニングニュース特集「象の消えた動物園、鶴見俊輔さんとハンセン病」2015.10*メッセージRSK地域スペシャル「隔離された法廷-ハンセン病 司法の人権侵害」2016.6
『Fの遺伝子』に掲載されている「講演記録 もうひとつのアメリカ」は矢部さんの博覧強記ぶりを遺憾なく示すものでした。その感動、共感を伝えたところ、下掲のようなメールが届きました。我々に突きつけられた大きな「問題提起」です。
■矢部顕さんからのメール
福田三津夫様
ワークキャンプに関わってきたひとつの理由
「メノナイト(+アーミッシュ)の兵役拒否の歴史と思想」をめぐって
福田さんにお読みいただきましたわたくしの講演記録「もうひとつのアメリカ—―メノナイト(+アーミッシュ)の兵役拒否の歴史と思想」は、於:京大会館と場所名は入れていますが、京大生に話したのではなく、京都の「自衛官人権ホットライン」というグループの集会での講演でした。このグループは鶴見俊輔さんがかかわってできたグループです。
このグループの機関紙に掲載するために、グループの方がテープ起こしをしてくださったものです。
●ワークキャンプという方法
福田さんに詳しくお話したことはないかもしれませんが、わたくしは学生時代から今日までフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)という名称のワーク(労働)キャンプ団体にかかわってきました。このワークキャンプ運動にこだわってきたのは、いくつか理由がありますが、ひとつには、ヨーロッパやアメリカにおいては「良心的兵役拒否」者の受け皿としてワークキャンプが機能していたということを知って感激したからです。
徴兵拒否が法的に認められている国では、徴兵の期間と同じ期間軍事的な仕事ではない仕事に従事する。その仕事とはワークキャンプに参加して平和的な建設的な労働に従事するのです。
ワークキャンプの起こりは第1次世界大戦の直後にフランスのベルダン地方で戦争で破壊された町の復興のワークキャンプが最初です。クエーカーのピエール・セレゾールという人が、集団の力を戦争という破壊的な行為ではなく平和の建設のために使おうと、敵国同士だったヨーロッパの各国の青年たちに呼びかけたのが始まりです。
日本には第2次大戦後、やはりクエーカーのアメリカフレンズ奉仕団(America Friends Service Committee・AFSC)が敗戦の復興支援としてワークキャンプという方法を持ち込みました。AFSCのワークキャンプに参加した日本の青年たちが、AFSCから分離独立してFIWCをつくりました。このころのリーダーに早稲田の学生だった筑紫哲也さんがいます。
●私の学生時代
私たちの学生時代はベトナム戦争の時代で、世界的にベトナム戦争反対の運動が盛り上がった時代でした。日本でも「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を中心として反戦平和運動がとても活発な時代でした。
日本の米軍基地からベトナムに戦争に行く兵士たちに、脱走を呼びかけるチラシを撒いたグループがありました。ほんとうに米軍基地から脱走してきた兵士があらわれたのです。そこで、米軍と日本の警察に見つからないようにして脱走兵を別の国に逃がすことを主とした活動とする脱走兵支援グループができました。このグループの名前はJATEC(ジャテック・Japan Technical Committee for Assistance to U.S Anti―War Deserters=反戦脱走米兵援助日本技術委員会)といってべ平連の裏組織的なグループでした。
『となりに脱走兵がいた時代―ジャテック、ある市民運動の記録』(思想の科学社、644頁、1998年5月初版)が発行されて、30年の年月を経て活動の全貌の一部が公になりました。
この支援組織にかかわって彼らを匿って逃走の手助けをして私と同年代のアメリカ兵に接したとき、「私だったらどうするのか?」を問わざるをえませんでした。
良心的兵役拒否の思想に興味を持ったのは、これがきっかけでした。ヨーロッパやアメリカには良心的兵役拒否の長い歴史があることを私は初めて知ったのです。
ところで、米軍基地から脱走してきたアメリカ兵は徴兵制(当時アメリカには徴兵制があった)によって軍隊に加わったのですが、彼らはアメリカには良心的兵役拒否を法的に認める制度があることなど全く知りませんでした。
●今の時代
安保法案成立や憲法改正論議の今、私たちの学生時代よりも、今のほうが日本において徴兵制の実現性が高いような気がします。兵役拒否の伝統が無い我が国ですが、クエーカーやメノナイトの歴史に学ぶべきだと思うのです。日本の人たちは、クエーカーやメノナイトの300年にわたる兵役拒否の長い歴史を知らなすぎます。
ラボ国際交流でラボっ子のホームステイを受け入れてくれているグループにペンシルバニア州のメノナイトがありますが、ラボ事務局もラボ・テューターもメノナイトについて知らなすぎます。
中国支部広島地区のテューターからの要望で、「メノナイトとは何か?」という講演をしたことがあります。その時のレジュメを添付します。A4で開いてください。
広島在住のテューターのみなさんへの話ですので、戦後、広島の復興に尽くしたクエーカーの話をまず最初にしました。そして、クエーカーと同じような絶対平和主義の思想をもつメノナイトについて話したのです。レジュメですから、内容は想像していただくしかないのですが、今回、京都での講演記録をお読みいただいていますのでレジュメでも理解できると思います。
以前お渡しした冊子『筑紫島に吹く風プラス』のほうには、わたくしの4回のペンシルバニア・メノナイト訪問についての印象記というかエッセイを収録していますので、すでにお読みいただいたことがあると思います。思想や信仰の自由を求めて新大陸アメリカに渡ってきた歴史をもっている彼らが、いま、どのような日常の生活をしているかを私が出会った人々をとうして描いたエッセイです。
2016.8.15矢部 顕
〔7月16日(土)20:00~20:50 NHKBS1スペシャル「将校は、砂漠に木を植えた―インドに渡った隼戦闘機隊員―」杉山龍丸さんのことが放映されます。杉山龍丸さんは、私たちが学生の頃お世話になった方です。生涯をかけて、インドの砂漠を緑にしようとした方で、インドでは、「独立の父はマハトマ・ガンジー。緑の父はタツマル・スギヤマ」と言われている方です。〕
この番組を録画しておいて、暫くして見てびっくりしました。主人公の杉山龍丸さんは、波瀾万丈の人生を送った素晴らしい人だったのです。私は再放送を期待しています。
■「将校は、砂漠に木を植えた~インドに渡った隼戦闘隊員~」(NHKのサイトより)
インドの不毛地帯を農地に変えた1人の日本人がいる。杉山龍丸(1919-1987)。元日本陸軍の技術将校だ。戦時中、フィリピンで隼戦闘機隊の整備を担当、壊れた機体を執念で修理して飛ばし、“幽霊部隊”を作り上げた人物だ。戦後インドに渡った杉山は、自らの私財を投げ打って緑化に身を捧げた。その裏にあった思いとはなにか?戦時中の整備日誌など、膨大に残された記録から、戦争の大義を見つめた杉山の足跡をたどる。
【出演】杉山満丸
私がラボ教育センターに関わるようになってからの大きな収穫は、元会長の松本輝夫さんや元事務局長の矢部顕さんに出会ったことでした。そのあたりの顛末については、拙著『実践的演劇教育論』に詳しいので、読んでくださると嬉しいです。
岡山在住の矢部さんとは今回のように時々メールの交換をする間柄です。
矢部さんは、同志社大学で鶴見俊輔さんに師事し、学生仲間と一緒に奈良市にライ回復者社会復帰セミナーセンター「交流(むすび)の家」を数年かけて作ります。その後谷川雁の影響でラボ教育センターに就職することになるのです。ラボでは竹内敏晴さんをワークショップ、鶴見俊輔さんを講演会に招いたのも矢部さんです。
竹内敏晴さんの講演が切っ掛けで呼ばれたラボ言語教育総合研究所の定例会の食事会後には、必ずコーヒーを一緒に飲むという間柄でした。
そして、一冊の私家版『Fの遺伝子』が送られてきました。〔矢部顕作文集、2006~2015〕
様々な機関誌紙などに寄稿した者を集めたものです。私共夫婦のミニコミ「啓」に寄せていただいた文章も再録されています。市販されていないのが残念です。(168頁)
●『Fの遺伝子』もくじ
Fの遺伝子
キイワードは不便
『あけぼの』コラム
演歌とは演説の歌
まぼろしの「ラボランドたかはし」
出雲と会津
霊峰熊山の石積遺跡
『「民際人」中浜万次郎の国際交流』の本が出来るまで
講演記録 もうひとつのアメリカ
谷川雁の物語論
ライとラボと谷川雁
「サークル主義」をめぐる雁と鶴
鶴見俊輔とラボ教育運動
40年ののちの覚書
再刊を願う人たちとの出会い
唐桑再訪
唐桑紀行
38年後の唐桑半島の風景
そして、 時々東京では視聴できない山陽放送のコピーがCD化されて送られてきます。矢部さんも登場されるシーンが多くありました。
先日も、久しぶりに新横浜駅で対面し、話が尽きることはありませんでした。、
*RSKイブニングニュース特集「交流の家の半世紀-ハンセン病回復者との絆」2013.12
*RSKイブニングニュース特集「ハンセン病療養所の高校 最後の同窓会」2014.7
*RSKイブニングニュース特集「象の消えた動物園、鶴見俊輔さんとハンセン病」2015.10*メッセージRSK地域スペシャル「隔離された法廷-ハンセン病 司法の人権侵害」2016.6
『Fの遺伝子』に掲載されている「講演記録 もうひとつのアメリカ」は矢部さんの博覧強記ぶりを遺憾なく示すものでした。その感動、共感を伝えたところ、下掲のようなメールが届きました。我々に突きつけられた大きな「問題提起」です。
■矢部顕さんからのメール
福田三津夫様
ワークキャンプに関わってきたひとつの理由
「メノナイト(+アーミッシュ)の兵役拒否の歴史と思想」をめぐって
福田さんにお読みいただきましたわたくしの講演記録「もうひとつのアメリカ—―メノナイト(+アーミッシュ)の兵役拒否の歴史と思想」は、於:京大会館と場所名は入れていますが、京大生に話したのではなく、京都の「自衛官人権ホットライン」というグループの集会での講演でした。このグループは鶴見俊輔さんがかかわってできたグループです。
このグループの機関紙に掲載するために、グループの方がテープ起こしをしてくださったものです。
●ワークキャンプという方法
福田さんに詳しくお話したことはないかもしれませんが、わたくしは学生時代から今日までフレンズ国際労働キャンプ(FIWC)という名称のワーク(労働)キャンプ団体にかかわってきました。このワークキャンプ運動にこだわってきたのは、いくつか理由がありますが、ひとつには、ヨーロッパやアメリカにおいては「良心的兵役拒否」者の受け皿としてワークキャンプが機能していたということを知って感激したからです。
徴兵拒否が法的に認められている国では、徴兵の期間と同じ期間軍事的な仕事ではない仕事に従事する。その仕事とはワークキャンプに参加して平和的な建設的な労働に従事するのです。
ワークキャンプの起こりは第1次世界大戦の直後にフランスのベルダン地方で戦争で破壊された町の復興のワークキャンプが最初です。クエーカーのピエール・セレゾールという人が、集団の力を戦争という破壊的な行為ではなく平和の建設のために使おうと、敵国同士だったヨーロッパの各国の青年たちに呼びかけたのが始まりです。
日本には第2次大戦後、やはりクエーカーのアメリカフレンズ奉仕団(America Friends Service Committee・AFSC)が敗戦の復興支援としてワークキャンプという方法を持ち込みました。AFSCのワークキャンプに参加した日本の青年たちが、AFSCから分離独立してFIWCをつくりました。このころのリーダーに早稲田の学生だった筑紫哲也さんがいます。
●私の学生時代
私たちの学生時代はベトナム戦争の時代で、世界的にベトナム戦争反対の運動が盛り上がった時代でした。日本でも「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を中心として反戦平和運動がとても活発な時代でした。
日本の米軍基地からベトナムに戦争に行く兵士たちに、脱走を呼びかけるチラシを撒いたグループがありました。ほんとうに米軍基地から脱走してきた兵士があらわれたのです。そこで、米軍と日本の警察に見つからないようにして脱走兵を別の国に逃がすことを主とした活動とする脱走兵支援グループができました。このグループの名前はJATEC(ジャテック・Japan Technical Committee for Assistance to U.S Anti―War Deserters=反戦脱走米兵援助日本技術委員会)といってべ平連の裏組織的なグループでした。
『となりに脱走兵がいた時代―ジャテック、ある市民運動の記録』(思想の科学社、644頁、1998年5月初版)が発行されて、30年の年月を経て活動の全貌の一部が公になりました。
この支援組織にかかわって彼らを匿って逃走の手助けをして私と同年代のアメリカ兵に接したとき、「私だったらどうするのか?」を問わざるをえませんでした。
良心的兵役拒否の思想に興味を持ったのは、これがきっかけでした。ヨーロッパやアメリカには良心的兵役拒否の長い歴史があることを私は初めて知ったのです。
ところで、米軍基地から脱走してきたアメリカ兵は徴兵制(当時アメリカには徴兵制があった)によって軍隊に加わったのですが、彼らはアメリカには良心的兵役拒否を法的に認める制度があることなど全く知りませんでした。
●今の時代
安保法案成立や憲法改正論議の今、私たちの学生時代よりも、今のほうが日本において徴兵制の実現性が高いような気がします。兵役拒否の伝統が無い我が国ですが、クエーカーやメノナイトの歴史に学ぶべきだと思うのです。日本の人たちは、クエーカーやメノナイトの300年にわたる兵役拒否の長い歴史を知らなすぎます。
ラボ国際交流でラボっ子のホームステイを受け入れてくれているグループにペンシルバニア州のメノナイトがありますが、ラボ事務局もラボ・テューターもメノナイトについて知らなすぎます。
中国支部広島地区のテューターからの要望で、「メノナイトとは何か?」という講演をしたことがあります。その時のレジュメを添付します。A4で開いてください。
広島在住のテューターのみなさんへの話ですので、戦後、広島の復興に尽くしたクエーカーの話をまず最初にしました。そして、クエーカーと同じような絶対平和主義の思想をもつメノナイトについて話したのです。レジュメですから、内容は想像していただくしかないのですが、今回、京都での講演記録をお読みいただいていますのでレジュメでも理解できると思います。
以前お渡しした冊子『筑紫島に吹く風プラス』のほうには、わたくしの4回のペンシルバニア・メノナイト訪問についての印象記というかエッセイを収録していますので、すでにお読みいただいたことがあると思います。思想や信仰の自由を求めて新大陸アメリカに渡ってきた歴史をもっている彼らが、いま、どのような日常の生活をしているかを私が出会った人々をとうして描いたエッセイです。
2016.8.15矢部 顕