118代 光格天皇 「尊王思想から維新への機運を創造した天皇」
在位期間 1780年~1817年 37年間 その後院政へ。
在位中年号 安永・天明・寛政・享和・文化
父 閑院宮典仁親王
光格天皇の功績は多い。
御所の隣の清荒神には、衣奈塚がある。
先代の後桃園天皇に皇子がいない事から、皇嗣の断絶の危機があった。そのような事を想定して、以前から新たな宮家を創設していた。その一つ閑院宮から迎えられ即位した。因みに、父の閑院宮には慶光天皇を諡号している。(ただ、認められたのは明治時代。正当な皇統には数えていない。)
現在の平成につながる皇統の直系の祖は、ここから始まる。このような危機感は、現在まさに必要な事だが・・・・・。
さて、最大の功績は、漢風諡号・天皇号を復活した事である。薨去した天皇をどう呼ぶか?単に天皇と言えばその時点では絶対おひとりなので呼び名は必要ない。「今上陛下・主上・お上など」である。
では、死後どう呼ぶか?
天皇、上皇、法皇、院、帝・・・・・。???上皇は「以前の天皇」だ。出家すれば「法皇」
我々は、当たり前のように、〇〇天皇というが実は、平安初期の光孝天皇以降、諡号・天皇号は途絶えていた。例外的に、崇徳天皇・安徳天皇・後鳥羽天皇・順徳天皇など一部を除いて諡号・天皇号は送られていない。これら例外の天皇はすべて不幸な亡くなり方をした方達であり、その為怨霊を恐れ「徳」の字を当てている。その諡号・天皇号を光格天皇が復活した。従って、その間は単に〇〇院と申し上げるのが正しい。
もちろん崇徳院とか後鳥羽院と言うのも正しい。
「院」は、「殿」と同じような意味かと思う。藤原道長を法住寺殿とか、源頼朝を鎌倉殿というのと同じだ。(値打ちは違うが・・・・。)
しかし、光格天皇以降、現在まで昭和院とか明治院とは言わない。諡号・天皇号は、在位中の功績や因縁により送られるが、どう決めるかなど、その考察は後日にする。
二つ目の功績は、現在の御所が、この時の大火事(天明大火)後再建されたものである事だ。京都検定的には、裏松固禅の「大内裏図考証」に基づき再建された事は必ず覚えなければならない。
因みに、その間天皇は聖護院に身を寄せていたことも知っておきたい。
さらなる功績は、天明の大飢饉のときに、御所の周囲を多くの避難人が取り囲んだ。「御所お千度参り」という。その時御所からは、上皇や高位貴族たち自ら、リンゴやお茶・握り飯を配った。これを知った光格天皇は、幕府にコメを1500俵放出させるなどした。このように皇室の動きが政治を動かした結果、尊王の機運が高まり、さらにまた、光格天皇が学問の習得に力を注ぎ、これらの事が幕末の尊王攘夷思想につながって行った事は最も重要な事だ。
中世から近代への歴史に重要な足跡を残し、69歳の長寿を生きた。泉涌寺 後月輪陵に葬られた。
次は、後桃園天皇