アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

312 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 ⑫ 江戸時代2人の女帝 父の衝動的譲位の犠牲者?

2018-03-12 12:50:23 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

109代 明正天皇 終生朝廷に身をささげる女帝

 

 

後水尾天皇 母は、徳川和子(東福門院)

l  在位中元号

l  寛永

l  生年・崩御

l  1624年1日9日~1796年12月4日

l  在位

l  1629年12月22日~1643年11月14日

l  朝廷

l  京都御所 土御門東洞院

配偶者

なし

l  皇子・皇女

l   

l  先代

l  後水尾天皇

l  次代

l  後光明天皇

l  陵墓

l  月輪陵

 『女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事』

冒頭の文章は、

後水尾天皇が突如(詳細は次回)退位する時、皇太子の用意がなかった為、娘の女一之宮である明正天皇に譲位する判断の際、母である中和門院に意向を訪ねた時の門院の答えだ。

中和門院は後陽成天皇の女御で、近衛家から豊臣秀吉の養女となりそこから宮中に入った激動の女性である。

要は、(女性の天皇は構わないが、そうであるならば男子誕生の時はすぐに譲位すべきかと思う。)

それは当然、徳川和子(東福門院)とのお子であるべきだろう。因みに、二人の間には男子は生まれなかった。

中継ぎの天皇、平安以降初の天皇である明正天皇を語るには、父後水尾天皇を語ることになる。なにせ登極時、5歳の幼児だったのだ。いかに父の衝動的な退位であったかがうかがえる。

「東福門院徳川和...」の画像検索結果徳川和子

元々、和子入内の背景には徳川家が、藤原摂関家の全盛期同様に「天皇の外祖父」の地位につくことを狙ったもので、実際このような形で外祖父になった訳だが、女帝であった為、女帝及び宮中行事には相当な制約を設けたようだ。

実際、明正天皇は天皇らしい務めは出来ず、文武百官を従えるものではなかったようだ。しかも、女帝は、我が子が天皇であった場合以外、男性関係も許されず生涯純潔であったはずだ。(孝謙天皇と道鏡については一旦忘れて)

異母弟の後光明天皇の10歳を待って、東福門院の養子にしてすぐに譲位した。

 

功績はないが、その後の宮廷文化の隆盛に貢献したと言う。72歳まで当時の長寿を全うした事でちょっとホットする。

 「元明」の画像検索結果「元正」の画像検索結果

明正の名は、奈良時代の女帝、元天皇、元天皇の一文字ずつ頂いたものだ。

次回は、いよいよ父後水尾天皇。主役登場の準備は万端整った。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

311 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 ⑪ 一人の女性のみ愛した 

2018-03-12 07:27:14 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

110代 後光明天皇  一人の女性のみ愛した天皇

 

後水尾天皇

l  在位中元号

l  寛永・正保・慶安・承応

l  生年・崩御

l  1633年4日20日~1754年10月30日

l  在位

l  1643年11月14日~1654年10月30日

l  朝廷

l  京都御所 土御門東洞院

女御

源秀子

l  皇女

l  1人

l  先代

l  明正天皇

l  次代

l  後西天皇

l  陵墓

l  月輪陵

 

父後水尾天皇の突然の譲位により後を継いだ姉明正天皇の、その後を継いだ男兄弟3名のお一人で、第4皇子。前回の後西天皇は第8皇子。霊元に至っては第18皇子である。子を多く作ることは素晴らしい。

さて、ほぼ長男の後光明天皇は、後世評価が分かれるところである。

即位時、父後水尾上皇から、「武家専権の世であるから、この時世にあっては心を慎むことが肝要である。」と戒めている。

あなたが言うか?と、言いたい・・・・。


武芸を好み、酒乱の気があったと言う。どうも天皇家は代々お酒が強いようだ。武芸については、幕府を刺激するとして、京都所司代から注意を受けた。やめなければ切腹すると脅された折り、何と天皇は、「武士の切腹を見たことが無いので見て見たい。」と言い放ったと伝えられる。京都所司代板倉重宗(勝重の子)は閉口したとなっているので、切腹はしなかったようだが。

また、源氏物語を淫乱の書と断じている。これは大いに賛同する。

また仏教嫌いで当時火葬される天皇も多い中で、土葬により葬られた。

「大酒の天皇」の画像検索結果昭和天皇もお酒を愛された。(適度に?)

酒についてもう一つ逸話。依然として大酒をやめない天皇に、側近徳大寺公信が諫めたところ、天皇は短剣を抜いて切ろうとした。対して、公信は、

「諫言さえお容れになるのなら、身命は惜しみません」と、その場に平伏した。

翌日、自らを恥じた天皇は、「昨夜の有様こそ返す返す恥ずかしく思う」と、その短剣を差し渡した。徳大寺公信はその場に嗚咽をもらすのみであったと言う。このように、後日伝わる逸話から見ても評価が分かれるところである。

因みに、庭田秀子(源秀子)、源典侍(みなもとのないしのすけ)という高位ではない女性のみを愛した。御子もおひとり内親王のみで、血統を繋ぐことは出来なかった。

「庭田秀子」の画像検索結果

仏教嫌いの天皇でも、源典侍の安産祈願をここ大蓮寺に命じた。

皇子であれば皇位継承の望みもあったはずだ。

ただ、

疱瘡によりにわかに崩御した。23歳の若さゆえ幕府による毒殺説が疑われている。

次は、姉明正天皇。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする