逆順でたどる平安京の天皇たち
109代 明正天皇 終生朝廷に身をささげる女帝
父 |
後水尾天皇 母は、徳川和子(東福門院) |
l 在位中元号 |
l 寛永 |
l 生年・崩御 |
l 1624年1日9日~1796年12月4日 |
l 在位 |
l 1629年12月22日~1643年11月14日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門東洞院 |
配偶者 |
なし |
l 皇子・皇女 |
l |
l 先代 |
l 後水尾天皇 |
l 次代 |
l 後光明天皇 |
l 陵墓 |
l 月輪陵 |
『女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事』
冒頭の文章は、
後水尾天皇が突如(詳細は次回)退位する時、皇太子の用意がなかった為、娘の女一之宮である明正天皇に譲位する判断の際、母である中和門院に意向を訪ねた時の門院の答えだ。
中和門院は後陽成天皇の女御で、近衛家から豊臣秀吉の養女となりそこから宮中に入った激動の女性である。
要は、(女性の天皇は構わないが、そうであるならば男子誕生の時はすぐに譲位すべきかと思う。)
それは当然、徳川和子(東福門院)とのお子であるべきだろう。因みに、二人の間には男子は生まれなかった。
中継ぎの天皇、平安以降初の天皇である明正天皇を語るには、父後水尾天皇を語ることになる。なにせ登極時、5歳の幼児だったのだ。いかに父の衝動的な退位であったかがうかがえる。
徳川和子
元々、和子入内の背景には徳川家が、藤原摂関家の全盛期同様に「天皇の外祖父」の地位につくことを狙ったもので、実際このような形で外祖父になった訳だが、女帝であった為、女帝及び宮中行事には相当な制約を設けたようだ。
実際、明正天皇は天皇らしい務めは出来ず、文武百官を従えるものではなかったようだ。しかも、女帝は、我が子が天皇であった場合以外、男性関係も許されず生涯純潔であったはずだ。(孝謙天皇と道鏡については一旦忘れて)
異母弟の後光明天皇の10歳を待って、東福門院の養子にしてすぐに譲位した。
功績はないが、その後の宮廷文化の隆盛に貢献したと言う。72歳まで当時の長寿を全うした事でちょっとホットする。
明正の名は、奈良時代の女帝、元正天皇、元明天皇の一文字ずつ頂いたものだ。
次回は、いよいよ父後水尾天皇。主役登場の準備は万端整った。