アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

319 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 104代後柏原天皇 困窮の天皇

2018-03-20 17:23:18 | 日記

 

逆順でたどる平安京の天皇たち

 

 104代 後柏原天皇

 「後柏原」の画像検索結果

 

 

 

後土御門天皇 母 庭田朝子

l  在位中元号

l  明応・文亀・永正・大永・

l  生年・崩御

l  1464年11日19日~1526年5月18日

l  在位

l  1500年11月18日~1526年5月18日

l  朝廷

l  京都御所 土御門東洞院

 

 皇后の記載なし

l  皇子・皇女

l  計8名

l  先代

l  後土御門天皇

l  次代

l  後奈良天皇

l  陵墓

l  深草北御陵

 

 

 

さて、ここからさかのぼる数代の天皇は悲惨だ。

 

応仁の乱前後の天皇である。戦乱の中の皇室は大変だ。

しかし、保元・平治の乱や南北朝の騒乱などは皇室にも原因がある。自業自得な部分もある。

 

一方、応仁の乱から戦国の騒乱はあくまでも武家たちの覇権争いだった。

「応仁の乱」の画像検索結果洛中の大半が焼失

 

当然、戦火の中で、御所を始めとして洛中が焼失し上納金が集まらない。公家衆も戦火を避けて京都周辺に避難している。

 

そんな折の即位は、即位の礼を行うことが出来ないばかりか、先帝(後土御門天皇)の葬儀すら出来ない。時の権力者は、管領細川政元。「即位の礼に意味などない。」と、言い出す始末だ。

「後柏原」の画像検索結果後柏原 宸筆(綸旨)

 

永正の錯乱で、政元が息子に殺害された。応仁の乱後わずかな平穏もすぐに打ち破る同族争いだった。

その隙間に、幕府からわずかな献上金で即位の礼を行ったが、即位後22年が経っていた。すでに晩年であった。

 

足利義政が、銀閣寺をつくる贅沢が、わずか数十年前、そして後水尾天皇が修学院離宮を造営する破格の散財が、100年ほど後だ。後柏原は、過酷な天皇の入り口にいた。

しかし、やはりこの困窮の中でも「般若心経」の写経により、天皇は国民の幸福を祈った。それしか出来ない。いや、それが出来る唯一の存在が天皇であった時代

「後柏原」の画像検索結果

深草北御陵には、以上の12人の天皇が葬られている。

ご覧の通り、持明院統(北朝)の皇統にある天皇たちの御陵である。

ただし、後小松天皇以降は南北朝は統一された。

しかも後柏原天皇の時代になると、皇位を争うほどの魅力(権力)は、もうなかったのだ。

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