逆順でたどる平安京の天皇たち
104代 後柏原天皇
父 |
後土御門天皇 母 庭田朝子 |
l 在位中元号 |
l 明応・文亀・永正・大永・ |
l 生年・崩御 |
l 1464年11日19日~1526年5月18日 |
l 在位 |
l 1500年11月18日~1526年5月18日 |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門東洞院 |
|
皇后の記載なし |
l 皇子・皇女 |
l 計8名 |
l 先代 |
l 後土御門天皇 |
l 次代 |
l 後奈良天皇 |
l 陵墓 |
l 深草北御陵 |
さて、ここからさかのぼる数代の天皇は悲惨だ。
応仁の乱前後の天皇である。戦乱の中の皇室は大変だ。
しかし、保元・平治の乱や南北朝の騒乱などは皇室にも原因がある。自業自得な部分もある。
一方、応仁の乱から戦国の騒乱はあくまでも武家たちの覇権争いだった。
洛中の大半が焼失
当然、戦火の中で、御所を始めとして洛中が焼失し上納金が集まらない。公家衆も戦火を避けて京都周辺に避難している。
そんな折の即位は、即位の礼を行うことが出来ないばかりか、先帝(後土御門天皇)の葬儀すら出来ない。時の権力者は、管領細川政元。「即位の礼に意味などない。」と、言い出す始末だ。
後柏原 宸筆(綸旨)
永正の錯乱で、政元が息子に殺害された。応仁の乱後わずかな平穏もすぐに打ち破る同族争いだった。
その隙間に、幕府からわずかな献上金で即位の礼を行ったが、即位後22年が経っていた。すでに晩年であった。
足利義政が、銀閣寺をつくる贅沢が、わずか数十年前、そして後水尾天皇が修学院離宮を造営する破格の散財が、100年ほど後だ。後柏原は、過酷な天皇の入り口にいた。
しかし、やはりこの困窮の中でも「般若心経」の写経により、天皇は国民の幸福を祈った。それしか出来ない。いや、それが出来る唯一の存在が天皇であった時代
深草北御陵には、以上の12人の天皇が葬られている。
ご覧の通り、持明院統(北朝)の皇統にある天皇たちの御陵である。
ただし、後小松天皇以降は南北朝は統一された。
しかも後柏原天皇の時代になると、皇位を争うほどの魅力(権力)は、もうなかったのだ。