逆順でたどる平安の天皇たち
116代 桃園天皇 宝暦事件の重大性
在位 1747~1762 15年間 崩御により退位 22歳
在位中年号 延享・寛延・宝暦
先代 父 桜町天皇
次代 姉 後桜町天皇
陵墓 月輪陵 (泉涌寺)
先代の桜町天皇もこの天皇も、先代の第一皇子であった事から考えると、皇位継承が安定的に平和に行われた時代であった。だたしいずれも30歳前後で薨去していて、新天皇は幼少で践祚している。
桃園天皇も、6歳で皇位についていて父桜町の院政のもとであった。
年表を確認するが大きな事件の記載はなく、山脇東洋の死体解剖の初見を見つける程度だ。世は田沼意次の時代で、世の中は百姓一揆が頻繁に起こっている幕末に向けて混乱の時代を予感する。
重要な事件は、何より桃園天皇自らに関わる「宝暦事件」である。
まず、当時の朝廷の政治を仕切る藤原摂関家は、関白一条道香。摂政・関白は、一条・近衛・鷹司・九条家の四家の内で回していたが、いずれも若輩で権勢の危機にあった。一方、天皇周辺にも、徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院などの若手公家たちが控えていた。
ここに、竹内式部なる国学者が登場。この尊王論者の学者の学説が流行し、遂には、天皇に向けて直接進講するに至った。これに危機感を持った摂関家が幕府に注進し、竹内式部及び若手公卿が追放された。
幕府の後ろ盾を頼りにする摂関家、尊王の思想に燃える若手公卿と天皇、政争を避けたい京都所司代の複雑な事情が背景にある事件だ。結局、幕府の権力が歴然と存在した時代なのだ。
自分の近習である若手公卿を失った桃園天皇は、摂関家と決定的に対立することになる。因みに、宝暦事件は多くの部分で冤罪であったとされる。
天皇親政を目指す尊王思想が、初めて弾圧された事件は、その後幕末の尊王攘夷思想につながると言う意味では重要な事件だ。
自らの片腕である摂関家と対決したまま、桃園天皇は22歳の若さで急逝し、自らの皇子が幼いため姉の後桜町天皇になる。
泉涌寺の月輪御陵に葬られた。自身の功績を残すまでもなく無念の若さだった。
次は、父桜町天皇。