逆順でたどる平安京の天皇たち
100代 後小松天皇 南北朝統一
とうとう、南北朝時代にまでさかのぼって来た。これより北朝の天皇をたどるか、正統の南朝をたどるか悩ましい。
さて、後小松天皇。
以前から小松天皇はいないのになぜ、後小松?って思っていたが、小松は、光孝天皇の異称であると分かった。光孝天皇はその子の宇多天皇そして醍醐天皇と続き、その追号は、自らの血統を長く続けたことでその尊敬と憧れの気持ちが込められていると推察する。
父 |
後円融天皇 母 三条厳子(因みに義満正室と姉妹) |
l 在位中元号 |
l 永徳・至徳・嘉慶・康応・明徳・応永・ |
l 生年・崩御 |
l 1377年8月1日 ~ 1433年12月1日 |
l 在位 |
1382年 5月24日~1392年11月19日(北朝) 1392年11月19日 ~1412年10月5日(合一後) |
l 朝廷 |
l 京都御所 土御門高倉殿 土御門殿 土御門東洞院 |
後宮 |
日野西資子 |
l 皇女・皇子 |
l 5名 |
l 先代 |
l 後円融天皇 |
l 次代 |
l 称光天皇 |
l 陵墓 |
l 深草北陵 |
即位は異例な事で、義満の室町御所(幕府)で行われた。すべての事が三代将軍義満の掌(たなごころ)のままであった。この天皇から「即位灌頂」という儀式が慣例となっている。「灌頂」というからには真言密教の儀式だ。決められた印を結びその後登極する(高御座に上がる)儀式で、神式の天皇家には異例だが、三種の神器が揃わないという異例なこの時期にそれに代わる天皇の権威付けをするためのものと言われる。
当時6歳の後小松は、院政の父後円融上皇の意のままで、その後円融上皇は義満の意のままであった。残念ながら南北朝統一も天皇の業績ではなく、義満の最後の政治課題であった為だ。
南朝に示した統一の条件は、①三種の神器を譲る事(国譲り)②大覚寺統、持明院統の交互即位、であった。①で明らかなのは南朝を正統としたことで、その事は大きい意味を持つ。南朝の後亀山天皇はそれを認めて天龍寺に入った。しかし、年号は、南朝の「元中」を廃止し、北朝の「明徳」が継続したので事実上の南朝滅亡である。しかも再び大覚寺統の天皇が即位する事は今日に至るまでない。
要は、騙されたのである。
時代は室町幕府の絶頂期と重なる。有名な、「明」の使者が日本国王としたのは足利義満だった。この事から義満が皇位簒奪を企てたと後世の歴史家は見ている。いずれにしても弓削道鏡以来の皇統の危機であった時代だ。
因みに、大徳寺住職一休宗純は、その御落胤とされている。その所縁のお寺「酬恩庵」には、菊の御紋章のついた御廟がある。
私は、晩年の、一休さんの性欲の強さから天皇家の血筋と確信している。
一休さんは70歳を超えてから「森女」という盲目の若い女性を愛した。その時の淫靡な漢詩を以前紹介したが、現代語訳するのもはばかれるほどすさまじい。
それは狂雲集という書物に書き残している。狂雲は、一休の号。とんち話は死後、「群書類従」で話題になったものである。
次は、南朝に行くか?北朝に行くか?一晩考える。