逆順でたどる平安京の天皇たち
99代 後亀山天皇
筆者以上にマニアックな友人と昨夜痛飲した。「西郷どん」について2時間議論した後、(ただし内容はすっかり忘却した。)このシリーズを今後、南北朝のどちらにさかのぼるべきか聞いたら、友人は、「勝手にしろ。」と言うので、南朝を書くことにする。
先帝 |
長慶天皇 |
次帝 |
後小松天皇 |
生年~崩御 |
?~1424年5月10日 |
在位 |
1383年頃~1392年11月19日(南北朝合一) |
在位中年号 |
弘和・元中(南朝年号は廃止) |
御所 |
栄山寺行宮・吉野行宮 |
御陵 |
嵯峨小倉陵 |
父・母 |
父 後村上天皇 母 不明 |
後亀山天皇、・・・・・・いきなり筆先が止まる。まず生年月日が不明なのだ。いつも参考にする「歴代天皇総覧(中央新書)」には?~1424年となっている。ウィキペディアでは、1350年?となっている。生誕地も賀名生行宮と推定される。
次回出て来る兄の先帝の長慶天皇とは、不仲であったという。強硬派の長慶に対して後亀山は穏健派で、南北朝和睦も視野に入れていた。そこに前回書いた義満からの条件は、神器の譲渡と両党並列(交互即位)だった。これを信じ応じた。背景には長く吉野の地に隠棲状態であった南朝は経済的にはすでに破たんしていたのである。
これ以降書くが、室町幕府内の内紛「観応の騒乱」の時は、一時的に北朝が南朝に降伏する動きもあったが、世は義満登場で幕府の全盛期を迎えていた。唯一の忠臣楠木正成・正行はすでにこの世になく南朝の挽回は絶望的であった。
吉野から奈良興福寺、嵯峨大覚寺を経て天龍寺に入り、自分たちの存在意義である三種の神器を手放した。「明徳の和約」である。
しかし、しかしである。自分の血統に皇位が戻らない(騙された)ことを悟った後亀山上皇は、再び吉野に籠る。その後、何度か南朝復活を目論むが、神器もなくゲリラ的な動きでしかなかった。
因みに、その後しばらく続く南朝の動きは、「後南朝」という。
1350年生まれとすると72歳まで生きたことになる。過酷な人生であっただろう。
正式に99代天皇とされたのは、何と明治になってからであった。天皇の業績は、新続古今和歌集に3首載っているのみで何も記録されていない。
大覚寺に残る御真影は、天皇と言うより禅僧のような意志の強さがうかがえる。