アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

362 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 72代 白河天皇 悪役?

2018-05-16 08:33:29 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

72代 白河天皇 院政の始まり

在位期間
1073年1月18日 - 1087年1月3日

元号

延久承保承暦永保応徳

先代

後三条天皇

次代

堀河天皇


誕生

天喜元年6月19日1053年7月7日

崩御

大治4年7月7日1129年7月24日

陵所

成菩提院陵

貞仁

別称

六条帝

父親

後三条天皇

母親

藤原茂子

中宮

藤原賢子

女御

藤原道子

子女

堀河天皇:・覚法法親王

媞子内親王(郁芳門院)・令子内親王

 

何事においても歴史上、偉人であっても最初に事を成した人の評判は悪い。摂関政治の最初は、藤原基経、良房は、数々の政変を仕掛けて他氏排斥を行った結果だった。最初に幕府を開いた頼朝も、弟義経を殺害したり、北条政子の存在もあり暗いイメージがある。そして天皇を無力化する「院政」の最初の例となる白河天皇もイメージは悪い。古来、絶対的支配者の天皇に次ぐ権力を持つためには、「外祖父」になるという手段がとられた。自分の娘を天皇に差し出しその子が天皇に即位すれば、外祖父といわれる。現代でも外孫、内孫というが、祖父から言えば娘側の内祖父、息子側の外祖父となる。子供は産まれると母親の元で育つので、外祖父と孫の関係は強い。現代でも娘の孫の方が近しい事が多い。それが天皇となれば話は複雑だ。爺さんが孫に影響力を発揮する事になる。この構図で藤原摂関家が生きてきのだ。

「頼朝」の画像検索結果伝頼朝像「基経」の画像検索結果基経関白の初見

しかし実の親なら最も力が発揮出来るのが、「院政」だ。天皇が早々に幼い息子に譲位し継続して権力を維持する。白河天皇の以前にも例はあるが、意図を持って、長期に渡り行ったのがこの時が最初なので、歴史上「院政の開始」としている。現代でも社長の引退後も会長や相談役となって権力を維持することを、「院政だ」と言われる。決して良いことに使われない言葉だ。この後、天皇よりも上皇が力を持ち、複数の上皇がいると、最も力を持っている上皇を、「治天の君」というようになる。権力の分散だ。新たな闘争の始まりとなる。その根本を作った白河上皇(天皇)を見ていこう。

「治天の君」の画像検索結果どうしても悪役になる。NHK大河より

まずは、神皇正統記から見て行く。まずこの天皇の代から「勝」の付く御願寺の建立が続く。法勝寺(白河)、尊勝寺(堀川)、最勝寺(鳥羽)、円勝寺(待賢門院)、成勝寺(崇徳)、延勝寺(近衛)と6つの寺が建てられた。特に、最初の法勝寺には100mを越える九重の大塔がそびえていたという。その為、各荘園への徴税などが過酷を極め、国司も建立の巧拙によって評価される為、不満が募っていた。

そして院政の開始についても批判的で、後三条天皇が、藤原道長、頼道時代の摂関家全盛期から政治の実権を取り戻し天下の事は、天皇の宣旨・官符で施行されていたものを、院宣や庁の御下文を重くし、天皇をないがしろにしたとして、神皇正統記では「世も末」と酷評している。

「城南宮」の画像検索結果城南宮

また、城南に鳥羽離宮を建てて、巨椋池周辺に大がかりな土木工事をさせたと、散々な記述になっている。

そして最後に、57年間世の中を治め「治天の君」と呼ばれるようになる。77歳で崩御するまで、世の中を思うがままにしたとし、「すごろくのサイコロ、鴨川の水、そして比叡の僧兵」を自分の意に通りにならないものと嘆き、それ以外は自らの思い通りにした。

その様な希代の天皇、白河天皇をさらに詳しく見て行こう。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする