逆順でたどる平安京の天皇たち 番外
北朝5代を語る
北朝5代目 後円融天皇 義満との確執?
後円融院像(土佐光信筆、雲龍院蔵)天皇の百年聖忌に際して描かれたもの。
雲龍院は、泉涌寺の塔頭。
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
深草北陵 |
別称 |
光浄(法名) |
父親 |
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母親 |
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子女 |
幹仁親王(後小松天皇)・珪子内親王・道朝親王 |
皇居 |
父の後光厳上皇と、南朝に捕らわれ帰還した叔父の崇光上皇との確執の中、幕府の推薦で即位した後円融天皇は何かと幕府に守られながらも、若い3代将軍義満と対抗した。
仙洞御所(上皇となった後円融の御所)に訪問に来た義満に面談を許さなかったり、自らの中宮や妃に対して義満との密通を疑い、殴打したり出家させたりしている。
しかし、すぐに後悔した後円融上皇は持仏堂に籠り切腹事件を起こしている。切腹事件?「切腹するぞ!!」って、騒いだ程度か?
その結果、「治天の君」の権威を貶め、息子の後小松天皇の時代になって統一を果たし義満全盛の時代を迎える。
義満の皇位簒奪説は、この後円融との不仲から発すると言われている。「この方達には政治は任せられない。」と思ったのだろう。これをもって北朝5代が終焉する。滅んだのは南朝なのだが、北朝5代は歴代天皇の皇統に入っていないので、あえて書いた。
さて、ここまで書いてきて南北朝時代の最大のタブーを書く。先に申し上げるが、昭和天皇に戦後日本が、どれ程救われたかは言うまでもない。加えて筆者は今上天皇をこよなく尊敬している事、特に美智子皇后の人徳に我々は憧れを通り越して女神の存在を信じざるを得ない事を明記する。
明治政府が南朝方を正式皇統とした理由は、神国日本の皇国史感を確立するために、天皇を裏切った足利尊氏を逆賊に、楠木正成を忠臣にすることで、必然的に南朝を正式皇統とした。しかし室町幕府は困窮する南朝を京都の北朝へ吸収する形で統合した。三種の神器の奪還も本音だった。従って当たり前だが、北朝の血筋で天皇を繋いでいった。尊氏を論ずるだけで更迭された閣僚がいた時代と江戸以前とは全く認識が違う。説明するまでもなく今上陛下はその血筋である。
従って、維新後南朝の血筋と自称するものが次々登場する。熊沢天皇のように「自分が南朝の生き残りで、正統な天皇」と、活動するものまで出て来た。昭和35年の総選挙では、天皇制の廃止を訴える共産党を支持するなど特異な活動をしている。
お気づきか?今の天皇家は後醍醐天皇の南朝から皇位を奪った朝廷という事になる。逆賊尊氏とは、言えない。実際、明治政府がその説明に苦慮する様子が残っている。かくて今に至るまでタブーとなっている。
その為、天皇家が、歴史研究に興味を持つことがタブー視される。秋篠宮は鯰の研究とか、皇太子は古代ヨーロッパの水路の研究、確か昭和天皇は生物学者として相当な権威であったと記憶する。
このblogの読者の大半はそれがどうした、とおっしゃるだろう。筆者はにわか勉強しかしていないが、専門家の教えを受けたい。