アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

353 354 合併 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 78代 二条天皇 79代 六条天皇

2018-05-02 09:25:06 | 日記

逆順でたどる平安京の天皇たち

78代 二条天皇 79代 六条天皇

「六条天皇」の画像検索結果左二条天皇 右六条天皇

元号 保元
平治
永暦
応保
長寛
永万
先代 後白河天皇
次代 六条天皇

誕生 1143年7月31日
崩御 1165年9月5日
陵所 香隆寺陵
守仁
父親 後白河天皇
母親 源懿子
中宮 姝子内親王
藤原育子
子女  
元号 永万
仁安
先代 二条天皇
次代 高倉天皇

誕生 1164年12月28日
崩御 1176年8月23日
陵所 清閑寺陵
順仁
父親 二条天皇
母親 伊岐致遠


平安京の天皇を、孝明天皇から桓武天皇まで歴史の時間を逆にたどって来た。桓武天皇が50代なのであと30人、

6月中に終了する事を目指し頑張ろう。

この後は、逆順に、後白河・近衛・崇徳・鳥羽・堀川・白河と大物が目白押しだ。良きにつけ悪しきにつけ天皇・上皇がしっかりと国政を握っていた。従って、皇位を争う派閥抗争の連続であった。そこに源氏・平家の武将が絡んで複雑怪奇に展開する。

「後白河天皇」の画像検索結果「鳥羽天皇」の画像検索結果「白河天皇」の画像検索結果

筆者も勉強しながら、しかも逆順でたどるという至難の試みを続ける。

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二条天皇と六条天皇を同時に取り上げる。この親子は、父二条は15歳で即位、23歳で崩御。子の六条は、2歳で即位、13歳で元服もせず崩御している。このお二人を書くにあたって「平治の乱」に触れざるを得ない。

「義朝」の画像検索結果義朝

保元・平治の乱は、もともと複雑怪奇ではあるが特に平治の乱は、結局源義朝VS平清盛という事になるのだが、途中は誠に難しい。

きっかけは、二条天皇VS後白河上皇から始まる。実の親子ではあるが、仲が良くなかった。理由は、早くに実母を無くした二条天皇は鳥羽天皇の寵姫、美福門院のもとで育てられた。

「鳥羽天皇」の画像検索結果鳥羽天皇「美福門院」の画像検索結果美福門院

従って、鳥羽・美福門院のお二人は、その二条天皇の即位を強く望んでいた。今様など遊びばかりの放蕩息子の後白河に愛情はわかなかった。いきなり孫への譲位はあり得ず、仕方なくつなぎに後白河天皇が誕生した。

この瞬間、次期天皇が約束されている二条天皇派閥と、そうは言っても今上天皇の後白河派閥に分かれて争った。(諡号は亡くなってからの名前だが分かりにくいので後白河・二条など後世の名前で統一する)

「後白河天皇」の画像検索結果後白河天皇

二条天皇即位、従って後白河上皇院政時代になり一層複雑な構図を生む。藤原信西入道の台頭だ。身分は低いものの有能な信西への反発も強く。

「信西」の画像検索結果信西入道

彼を排除するために、一時的に二条天皇派閥と後白河派閥が手を組む。藤原信頼と源義朝の登場だ。ここから戦闘が始まるが、よく分からない。信西を地中に埋めてのこぎり引きにする。上皇・天皇を軟禁するなどと言う暴挙に出る。

「信西」の画像検索結果

この時清盛は熊野詣の道中にいた為に、翌日報告を受けて京に戻る。しかし、御所内には上皇・天皇共々確保されているので手が出せない。兵力に勝る平家と、御所に立てこもるけど兵力に劣る信頼・義朝との対立関係に・・・・・。

「清盛」の画像検索結果清盛

ここに、藤原惟方・経宗が登場する。二条天皇派の二人は清盛と手を組み二条天皇を救う。同時に後白河上皇も脱出に成功し、万事窮す。義朝と信頼は朝敵となった。結果、六波羅に二条天皇をお迎えした清盛の大勝利となり、平家の時代がやって来る。

その為、熊野詣では陰謀だったとする説がある。歴史を後から見て一番得した人間の策略と言いたいのだが、この時点では、清盛の政権基盤が盤石とは言えず、薄氷を踏む思いで京都に戻ったと思う。秀吉が中国大返しした時に似ている。

話を二条天皇に戻す。

このような経緯で天皇親政を目指すが、後白河上皇の政治手腕は凄まじく二条天皇に出番はなかった。 

病弱の天皇は、病に倒れすぐに幼少の六条天皇に譲位をさせられ崩御。子の六条天皇も平家に近い高倉天皇にすぐ譲位させられ、史上最年少の上皇となる。

遂に、お二人の血統はつなげられず断絶することに・・・・。

何とも悲しい結末だ。「神皇正統記」にも、お二人の功績に関する記載はなく。平治の乱の解説に終始している。

写真は、NHK大河ドラマより

次回は、歴史上最大級の天皇、後白河を数回に分けて書く。

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