逆順でたどる平安京の天皇たち
78代 二条天皇 79代 六条天皇
元号 | 保元 平治 永暦 応保 長寛 永万 |
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先代 | 後白河天皇 |
次代 | 六条天皇 |
誕生 | 1143年7月31日 |
崩御 | 1165年9月5日 |
陵所 | 香隆寺陵 |
諱 | 守仁 |
父親 | 後白河天皇 |
母親 | 源懿子 |
中宮 | 姝子内親王 藤原育子 |
子女 |
元号 | 永万 仁安 |
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先代 | 二条天皇 |
次代 | 高倉天皇 |
誕生 | 1164年12月28日 |
崩御 | 1176年8月23日 |
陵所 | 清閑寺陵 |
諱 | 順仁 |
父親 | 二条天皇 |
母親 | 伊岐致遠女 |
平安京の天皇を、孝明天皇から桓武天皇まで歴史の時間を逆にたどって来た。桓武天皇が50代なのであと30人、
6月中に終了する事を目指し頑張ろう。
この後は、逆順に、後白河・近衛・崇徳・鳥羽・堀川・白河と大物が目白押しだ。良きにつけ悪しきにつけ天皇・上皇がしっかりと国政を握っていた。従って、皇位を争う派閥抗争の連続であった。そこに源氏・平家の武将が絡んで複雑怪奇に展開する。
筆者も勉強しながら、しかも逆順でたどるという至難の試みを続ける。
二条天皇と六条天皇を同時に取り上げる。この親子は、父二条は15歳で即位、23歳で崩御。子の六条は、2歳で即位、13歳で元服もせず崩御している。このお二人を書くにあたって「平治の乱」に触れざるを得ない。
義朝
保元・平治の乱は、もともと複雑怪奇ではあるが特に平治の乱は、結局源義朝VS平清盛という事になるのだが、途中は誠に難しい。
きっかけは、二条天皇VS後白河上皇から始まる。実の親子ではあるが、仲が良くなかった。理由は、早くに実母を無くした二条天皇は鳥羽天皇の寵姫、美福門院のもとで育てられた。
鳥羽天皇美福門院
従って、鳥羽・美福門院のお二人は、その二条天皇の即位を強く望んでいた。今様など遊びばかりの放蕩息子の後白河に愛情はわかなかった。いきなり孫への譲位はあり得ず、仕方なくつなぎに後白河天皇が誕生した。
この瞬間、次期天皇が約束されている二条天皇派閥と、そうは言っても今上天皇の後白河派閥に分かれて争った。(諡号は亡くなってからの名前だが分かりにくいので後白河・二条など後世の名前で統一する)
後白河天皇
二条天皇即位、従って後白河上皇院政時代になり一層複雑な構図を生む。藤原信西入道の台頭だ。身分は低いものの有能な信西への反発も強く。
信西入道
彼を排除するために、一時的に二条天皇派閥と後白河派閥が手を組む。藤原信頼と源義朝の登場だ。ここから戦闘が始まるが、よく分からない。信西を地中に埋めてのこぎり引きにする。上皇・天皇を軟禁するなどと言う暴挙に出る。
この時清盛は熊野詣の道中にいた為に、翌日報告を受けて京に戻る。しかし、御所内には上皇・天皇共々確保されているので手が出せない。兵力に勝る平家と、御所に立てこもるけど兵力に劣る信頼・義朝との対立関係に・・・・・。
清盛
ここに、藤原惟方・経宗が登場する。二条天皇派の二人は清盛と手を組み二条天皇を救う。同時に後白河上皇も脱出に成功し、万事窮す。義朝と信頼は朝敵となった。結果、六波羅に二条天皇をお迎えした清盛の大勝利となり、平家の時代がやって来る。
その為、熊野詣では陰謀だったとする説がある。歴史を後から見て一番得した人間の策略と言いたいのだが、この時点では、清盛の政権基盤が盤石とは言えず、薄氷を踏む思いで京都に戻ったと思う。秀吉が中国大返しした時に似ている。
話を二条天皇に戻す。
このような経緯で天皇親政を目指すが、後白河上皇の政治手腕は凄まじく二条天皇に出番はなかった。
病弱の天皇は、病に倒れすぐに幼少の六条天皇に譲位をさせられ崩御。子の六条天皇も平家に近い高倉天皇にすぐ譲位させられ、史上最年少の上皇となる。
遂に、お二人の血統はつなげられず断絶することに・・・・。
何とも悲しい結末だ。「神皇正統記」にも、お二人の功績に関する記載はなく。平治の乱の解説に終始している。
写真は、NHK大河ドラマより
次回は、歴史上最大級の天皇、後白河を数回に分けて書く。