逆順でたどる平安京の天皇たち
68代 後一条天皇 藤原氏全盛へ
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
菩提樹院陵 |
諱 |
敦成 |
父親 |
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母親 |
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中宮 |
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子女 |
上記ご覧の通り後一条天皇は、生まれながらにして藤原摂関家に囲まれている。
父一条天皇の皇后(即ち実母)は、道長の長女である。28歳上の父、20歳上の母は現代でも違和感はない。しかし、皇后は、道長の三女威子、叔母との結婚であり、8歳上の相手との結婚である。因みに弟の後朱雀天皇の皇后も、同じく道長の6女の嬉子でありやはり叔母と甥の結婚である。政略結婚そのものであるが、この時点で、道長の絶頂を迎える。
ここで一つの悲劇を紹介する。ここまで天皇の継承は、63代冷泉天皇と64代円融天皇の両系統の交互即位を守って来た。後の大覚寺統と持明院統の両統交互継承と同じだ。従って、円融天皇直系の後一条天皇の皇太子には、冷泉天皇系の三条天皇の皇子敦明親王が立太子することになった。
しかし道長との血縁関係が薄い敦明親王には一向にその手続きがなされない。
敦明親王
これは、62代の村上天皇の第一皇子の広平親王が天皇になれず、弟君の冷泉天皇が即位した。これは、広平親王の父藤原元方と、冷泉天皇の父藤原師輔との政治的対立の結果であるが、その後の冷泉、花山、三条と心身の異常や病弱の天皇が続き、それは定方の怨霊の仕業と言われた。勿論、道長の政権独占の為の謀略だが、敦明親王は身の保全のため自ら引退し小一条院と申した。結果、今後の皇統は円融帝の血統に限られる事になる。
道長の思惑通りすぐに後一条天皇の皇太子に弟の後朱雀天皇に決定した。このように道長とその子頼通に翻弄されただけの人生であった。
この時代には珍しく他の妃を持たなかったが、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子には恵まれぬまま、29歳で崩御した。『栄花物語』によると飲水と痩身の症状の記載があり、糖尿病によるものと考えられている。これも何かの怨霊の仕業か?