逆順でたどる平安京の天皇たち
北朝初代 光厳天皇 96代とも言う。?
ここで一旦順序を戻し、書き落とした天皇を書く。
うっかりしたのではない、北朝の天皇たちだ。現在の皇統は南朝を正式皇統としたので歴代を遡ると北朝5代は抜け落ちる。
なお、この5代は都合上順序に従い書く事にしたい。読者は頭を切り替えてもらいたい。(筆者の頭はやや混乱しているが、)
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
山国陵 |
別称 |
勝光智(法名)、無範和尚 |
父親 |
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母親 |
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子女 |
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皇居 |
筆者は、この天皇が歴代天皇に数えられていないのは理不尽と考える。明治維新後、神国日本の国づくりを推し進めるあまり、極端な皇国史観から逆賊足利尊氏、英雄楠木正成の構図を作り上げる過程で光厳天皇の存在が薄められた。
光厳天皇は、後醍醐天皇から正式に三種の神器を譲り受け即位している。後に「あれは偽物であった。」と、後醍醐天皇に言われたが、そんなことは関係ない。時の天皇が保持している物が「神器」なのである。
後醍醐天皇
1331年鎌倉倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が隠岐に流される前に、幕府の推挙により即位した。しかし、1333年隠岐を脱出した後醍醐の詔により廃された。その時後醍醐天皇は、
「朕の皇太子の地位を退き、皇位には就かなかったが、特に上皇の待遇を与える」とし、何と即位そのものを否定した。
これをもって光厳上皇という。北朝2代の弟光明天皇の即位までの3年間をどう考えるか?
依然として、光厳天皇の時代とも言える。後醍醐天皇の重祚と考えるか、隠岐の間も天皇であったと考えるか。
いずれにしても後醍醐天皇に続き、97代天皇とすべきであろうと筆者は考える。しかし明治維新の時代は、それを許さなかった。
帝国議会で足利尊氏についてコメントするだけで更迭された国会議員もいたくらいの時代だったのだ。
光厳天皇は長い上皇時代に、「観応の擾乱」による一時的南朝方の権力回復により、吉野に幽閉されている。
その様に誠に理不尽な人生であった光厳上皇は、晩年夢想疎石を師とし禅僧として、京都の奥深い山國の御陵(現在の常照皇寺)に眠った。
因みに、この天皇の里内裏「土御門殿」が今日の京都御所である。当初の平安宮の荒廃からやっと今の場所に落ち着く。しかし皇統の落ち着きはまだまだ先だ。
なお、ここに一つのドラマを紹介する。
光厳天皇の後、弟光明天皇になるがその時、皇太子に直仁親王が宣下される。系図上は叔父花園天皇の皇子となっているが、光厳天皇の実子であった。これは「置き文」という後日になって開封し真実を示す為の文章かと思うが、崇光天皇即位時に明らかにされたもので、「光厳上皇宸翰置文」(鳩居堂蔵)に残されている。
置き文は、血判によって誠を誓うものであろう。
叔父である花園天皇のお后との密通の上できた子であった。甥と叔母の不倫だ。花園天皇は知っていたと筆者は想像する。そこで光明天皇は一代限りでその後は直仁親王の血統に継ぐように書かれている。勝手な言い分だが、大恩ある花園天皇への恩返しでもあったと思われる。ちょっとしたドラマだ。