逆順でたどる平安京の天皇たち
71代 後三条天皇 摂関家から離れて親政を行った
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
圓宗寺陵 |
諱 |
尊仁 |
別称 |
金剛行(法名)・延久帝 |
父親 |
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母親 |
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中宮 |
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女御 |
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夫人 |
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子女 |
後三条天皇を語る時、その頃の藤原摂関家の状況を書かねばならない。長く摂政・関白・太政大臣を藤原道長・頼通親子が就き、藤原北家の全盛期であった。しかし、頼道の政権の時代が長く勤務懈怠が目立ち始める。加えて、父道長の死後、弟の教通との確執が摂関家の弱体化につながる。決定的なのは二人とも天皇の祖父の地位にはなれなかった事だ。入内した娘に男子が恵まれなかったのだ。
頼通
三条天皇を祖父に持ち、道長を曾祖父に持つ後三条天皇は、長期政権に飽きた朝廷の政治の実権を取り戻す絶好の環境にあったのだ。そして遂に、 83歳の頼道が死に、80歳の教通が死ぬ。その前年、残念ながら40歳で後三条天皇は崩御しているのだが、その環境は後三条天皇が構築した。
後三条天皇は、姻戚関係のない頼通との確執の為、皇太子時代が20年間と長く苦労をしたが即位後、報復的な人事は一切せず善政を行った。延久の荘園整理令や、延久宣旨枡の制定など画期的な施策を断行し、皇室の経済基盤の拡大に努めた。
これは、摂関家にとっては大打撃であり、一方農民からは高く評価された。「延久の善政」と言われる政治体制に摂関家は完全に無力化にされたのだ。
神皇正統記にも、「有徳の君」とか、「延喜・天暦の治以来の業績」と称えている。白河天皇に譲位後、半年で崩御するが、これは院政を狙ったものではなく、病状の悪化が原因であった。
次回は、70代 後冷泉天皇。