アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

373 アチャコの京都観光日誌 逆順の天皇史 67代 三条天皇 藤原全盛期へ

2018-05-30 08:55:02 | 日記

 百人一首から

67代 三条天皇 藤原摂関家全盛時へ向かう

第67代天皇

在位期間
1011年7月16日 - 1016年3月10日

元号

寛弘長和

先代

一条天皇

次代

後一条天皇


誕生

976年2月5日

崩御

1017年6月5日

陵所

北山陵

居貞

父親

冷泉天皇

母親

藤原超子

皇后

藤原娍子

中宮

藤原妍子

子女

敦明親王(小一条院)敦儀親王・敦平親王・当子内親王禔子内親王性信入道親王禎子内親王(陽明門院)

 

ここから50代桓武天皇まで、一気に書いていく。

クリックすると新しいウィンドウで開きます

三条天皇は系図を見ればわかるように、村上天皇以降冷泉天皇系と、円融天皇系の天皇の両統並立の状態であった。なにか大覚寺統(南朝)持明院統(北朝) の前哨戦のようだ。しかし三条天皇以降この血統からは天皇は誕生しない。従って、三条天皇、兄の花山天皇、父冷泉天皇の歴史的評判は非常に厳しい。歴史は勝者の論理なのだ。

「三条天皇」の画像検索結果

三条天皇には、事実重大な持病があった。眼病である。

この時藤原家の総帥は、まだ道長の父兼家の時代だ。兼家は冷泉天皇にも円融天皇にも娘を送り込んでいるので両皇統を平等に扱っていた。従って花山天皇の後に一条天皇を即位させた時には、三条天皇に東宮を命じた。(わかりやすいように天皇名で書く)三条天皇の方が年上なので、「さかさの儲君」と呼ばれた。

しかし、一条天皇の世の間に、権力は兼家の息子の三兄弟、道隆、道兼、道長に移った。特に三男の道長には多くの娘が天皇の子を産んだ。かなりの近親相関の結果である。その結果、三条天皇即位時には、藤原家との関係は微妙になっていたのだ。

しかも2人の皇后の内、道長の娘からはなぜか男子誕生はなかった。天皇親政を目指す三条天皇は即位時36歳の大人であった事もあり二人の関係は決定的破談となる。

その様な時に、天皇の眼病が発病した。それを理由に道長からの退位のプレッシャーが来る。自分の子を皇太子にすることを条件に、後一条天皇に譲位する。しかし残念ながら、三条上皇の崩御後、その子は道長の報復を恐れて自ら皇太子を辞退する。

「道長」の画像検索結果「藤原道隆」の画像検索結果「藤原道兼」の画像検索結果藤原三兄弟

道長の盤石な政権基盤の完成だ。従って、冷泉天皇・花山天皇・三条天皇・その子敦明親王(廃太子)の4名は、勝者道長の正当性を主張する為にその評価はおとしめられた。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ならぬことはならぬ

2018-05-30 07:44:44 | 日記

「nitidai」の画像検索結果「nitidai」の画像検索結果

日大タックル問題は、集団リンチ状態だ。日本全国で日大の看板が撤去されたりしているらしい。昨日の学生連盟の処分は、マスコミの論調やネットを含む世論に流されていないか?当事者達の聞き取りは実施したのだろうか?(その後の報道で聞き取り調査実施が判明)日大の第三者機関の調査中にも関わらず問答無用と言わんばかりの処分は良かったのか?当事者の選手も一夜にしてヒーロー扱いだ。自ら罪を認めた潔さは日本人の感情に刺さった。惻陰の情だ。一方監督・コーチへのリンチは死人に鞭打つように果てしなく続く。実行者、行為者が第一の罪人であることは明確にすべきで、法律上指示した者の方がより重い罪人であると言うならば、慎重な判断が必要だ。会社においては企業犯罪の大半が会社の上司や社風によるプレッシャーが動機となっている。しかしほとんど行為者が処罰されている。さらに会社の存続も危うくなる。やってはならにいことはやってはならないのだ。「ならぬことはならぬ」会津藩の掟である。

「nitidai」の画像検索結果ここぞとばかり音声を変えて告発する人

それもどうか?

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする