67代 三条天皇 藤原摂関家全盛時へ向かう
元号 |
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先代 |
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次代 |
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誕生 |
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崩御 |
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陵所 |
北山陵 |
諱 |
居貞 |
父親 |
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母親 |
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皇后 |
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中宮 |
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子女 |
ここから50代桓武天皇まで、一気に書いていく。
三条天皇は系図を見ればわかるように、村上天皇以降冷泉天皇系と、円融天皇系の天皇の両統並立の状態であった。なにか大覚寺統(南朝)持明院統(北朝) の前哨戦のようだ。しかし三条天皇以降この血統からは天皇は誕生しない。従って、三条天皇、兄の花山天皇、父冷泉天皇の歴史的評判は非常に厳しい。歴史は勝者の論理なのだ。
三条天皇には、事実重大な持病があった。眼病である。
この時、藤原家の総帥は、まだ道長の父兼家の時代だ。兼家は冷泉天皇にも円融天皇にも娘を送り込んでいるので両皇統を平等に扱っていた。従って花山天皇の後に一条天皇を即位させた時には、三条天皇に東宮を命じた。(わかりやすいように天皇名で書く)三条天皇の方が年上なので、「さかさの儲君」と呼ばれた。
しかし、一条天皇の世の間に、権力は兼家の息子の三兄弟、道隆、道兼、道長に移った。特に三男の道長には多くの娘が天皇の子を産んだ。かなりの近親相関の結果である。その結果、三条天皇即位時には、藤原家との関係は微妙になっていたのだ。
しかも2人の皇后の内、道長の娘からはなぜか男子誕生はなかった。天皇親政を目指す三条天皇は即位時36歳の大人であった事もあり二人の関係は決定的破談となる。
その様な時に、天皇の眼病が発病した。それを理由に道長からの退位のプレッシャーが来る。自分の子を皇太子にすることを条件に、後一条天皇に譲位する。しかし残念ながら、三条上皇の崩御後、その子は道長の報復を恐れて自ら皇太子を辞退する。
藤原三兄弟
道長の盤石な政権基盤の完成だ。従って、冷泉天皇・花山天皇・三条天皇・その子敦明親王(廃太子)の4名は、勝者道長の正当性を主張する為にその評価はおとしめられた。